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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第四章 戻れぬ橋
135/161

四十三 立身国四十竹宿・真境名燎 化け物

 水月(すいげつ)十三日の早朝、立天隊士(りってんたいし)を中心とする鷹啄(たかはし)寅三郎(とらさぶろう)討伐隊が鉢呂(はちろ)砦を進発した。

 真境名(まきな)(りょう)率いる一団は立州(りっしゅう)西部地域の本街道である立州街道へ。

 由解(ゆげ)虎嗣(とらつぐ)率いる一団は西寄りの脇街道へ。

 伊勢木(いせき)正信(まさのぶ)ら第五隊の手練(てだ)れをそろえた一団は東寄りの裏街道へ。

 三隊は鉢呂山の麓に広がる射手矢(いてや)(ごう)の出口でいったん別れ、それぞれ街道沿いに南下しながら捜索を開始した。七草(さえくさ)郷を目指していると思われる寅三郎は、よほどのことがないかぎりこの三本の街道のいずれかを進んでいるはずだ。発見に至れば、すぐさまほかの隊にその旨を伝達し、(あらかじ)め取り決めておいた宿場で合流して追跡を続行する手はずとなっていた。

 寅三郎がつけ狙っている六車(むぐるま)兵庫(ひょうご)本人は、石動(いするぎ)博武(ひろたけ)の指示ですでに七草へ先回りしている。討伐隊が追いついて倒すならそれでよし、万が一取り逃がしたとしても、たどり着いた七草で兵庫が迎え撃って必ず仕留めるだろう。

 真境名燎は志願者の中から屈強な〈隼人(はやと)〉四人と砦の番士二人を自ら選び抜き、その六人を引き連れて立州街道を下った。虎嗣らとの協議の末に決めたことなので文句を言うつもりはないが、内心では本街道の担当になったのは〝外れ〟だと思っている。砦を襲撃して逃亡中の寅三郎が、歩きやすいが目立ちやすく、関所の数も多い本街道をのんびり行くとは考えづらい。とはいえ、裏をかいてくる可能性も考慮する必要がある。

 燎は宿場から宿場へせっせと馬を走らせ、関所や人の多い場所では聞き込みを行って寅三郎の行方を捜した。六尺半を超える大男で容貌醜怪(しゅうかい)、おまけに片耳が欠損しているとくれば、目にした者は必ず記憶しているはずだ。だが出発から三日のあいだ、目撃情報はひとつも得られなかった。

 やはりこの道ではなかったか――とあきらめが混じり始めた四日目。捜索は一気に進展を見せることとなる。寅三郎は多くの予想を裏切り、大胆にも本街道を進んでいた。そして南へ向かう道筋に、見落としようのない無数の血手形をべっとりと(なす)りつけていた。


 薬効のある温泉で知られる寶井(たからい)宿(しゅく)は、立州(りっしゅう)街道の北の起点である瀨楽(せら)宿から数えて十一番目の宿場町だ。早朝に前の宿を出発した討伐隊は昼九つごろに寶井宿へ入り、鷹啄(たかはし)寅三郎(とらさぶろう)が二日前にそこで五人を斬殺したと知らされた。

 天下の往来で、白昼堂々の凶行。

 それは何の前触れもなく始まり、周りが驚きの声を上げるよりも早く終わってしまったという。

 寅三郎は斬るだけ斬って風のように姿を消し、あとには無惨な遺体だけが残された。旅姿をした若い男のふたり連れと、使いに出ていた宿場の飯盛女(めしもりおんな)がひとり。散歩中の五歳の幼児がひとり。その幼児の祖父だという、古手(ふるて)屋を営む老人がひとり。誰も剣士でも侍でもなく、帯刀すらしておらず、ただ道を歩いていて、たまたま寅三郎とすれ違っただけの人々だった。

 彼としては兵庫(ひょうご)に自分を追わせる手がかりを残しただけのことで、おそらく殺す相手は誰でもよかったのだろう。だからといって幼い子供や女までも躊躇なく手にかけるなど、非道を通り越して狂っているとしか思えない。

 (りょう)は別の道を行く二隊に向けて宿場から急使を出し、自身は配下の者たちと共に馬を先へ急がせた。比較的距離の近い裏街道にいる伊勢木(いせき)正信(まさのぶ)らは、二日もすれば本街道へやって来て追いつくだろう。脇街道の由解(ゆげ)虎嗣(とらつぐ)は、さらに一日ほど後れて到着するはずだ。できれば彼らと合流予定の四十竹(あいたけ)宿(しゅく)に着く前に、寅三郎を捕捉して追い詰めたかった。この手で()っ首を刈り取ってやったら、さぞかし胸がすっとするに違いない。

 だが半日走ってたどり着いた(あい)宿(しゅく)に寅三郎の姿はなく、またしても凶報に出迎えられた。旅の中年夫婦が、道沿いの蕎麦屋から出てきたところで出会い頭に斬り殺されたという。今回犠牲者の数がふたりだけと少ないのは、宿泊施設のない小規模な宿なので、単に人通りがなかったからだろう。

 この調子で、七草(さえくさ)に着くまで人を殺し続けるつもりか――。

 沸々(ふつふつ)と怒りを(たぎ)らせながら、燎は配下の者たちと計らってすぐさま次の宿場を目指すことを決めた。寅三郎が間の宿を通ったのは昨日とのことなので、このまま夜を徹して駆ければ翌日には追いつけるかもしれない。みな疲れを感じてはいたが、それを上回る激情と切迫感に突き動かされていた。


 翌十七日。

 (りょう)たちは朝まだ暗いうちに、十二番目の宿場町鉾田(むた)宿(しゅく)に到着した。街道が分岐する咲間(さくま)追分(おいわけ)の手前にある大きな宿(しゅく)で、豪壮な旅籠(はたご)や遊興施設が多く、人の出入りも激しい。

 もしや大量の犠牲者が出ているのでは――と身がまえながら木戸をくぐったが、予想に反して寅三郎(とらさぶろう)は何もせずに鉾田宿を通り抜けていたことがわかった。問屋場(といやば)で話を聞いた地元衆によると、異様に大柄な男が前日の夕暮れ前にやって来たが、半刻ほどで宿を出ていったという。

「その男なら、湯屋におりましたよ」

 問屋場にいた若い馬方が証言した。

「湯船に長いこといて、そのあと二階で休んでるのを見かけました。陰気な(つら)の、なんだか薄気味悪い目つきをした野郎だったんで、みんななるべく近寄らねえようにしてやしたね」

 どうやら寅三郎は、ここでは軽い休憩を取っただけのようだ。うまくすれば宿場の中で捕まえられるかと期待していただけに、討伐隊の落胆も大きかった。だが、いつまでもがっかりしてはいられない。

「ここで我々も、しばし体を休めよう」

 燎は気持ちを切り替え、連れの者たちに指示を出した。

「旅籠に部屋を取るから、各々(おのおの)少し眠って英気を養ってくれ。飲み食いしておくのも忘れぬようにな。三刻後に(うまや)で馬を引き取り、南の木戸口に集合して出発する」

 解散後すぐに諸々の手配をすませておき、燎は旅籠に無理を言って空けてもらった続き部屋のひとつで前後不覚の眠りをむさぼった。目覚めたのは二刻ほどしてからで、日はすでに高く昇っており、窓障子を通してもれ聞こえる外の喧噪から人通りの多さが窺えた。昼時になって混み合う前に、適当な飯屋でも見つけて腹を満たしておいたほうが良さそうだ。

 燎は同じ部屋の隅に丸まって寝ていた〈隼人(はやと)〉の釘宮(くぎみや)早紀(さき)を起こして連れ出し、旅籠の筋向かいにある煮売り屋で一日ぶりにまともな食事をした。冬瓜(とうがん)と茄子と南瓜(かぼちゃ)の炊き合わせと、よく肥えたイワナの甘露煮。五目煮豆。そして飯椀に山盛りの玄米飯。質素な構えの見世(みせ)だが味は絶品で、店内の賑わいもそれを裏づけている。

「一杯やりたいな」

 出汁のしみた冬瓜に舌鼓を打ってつぶやくと、小上がりの向かいで黙々と食べていた早紀がちらりと目を上げた。

「周りでみな飲んでいるから、酒の香りについ誘われる」

 燎のその言葉で初めて周囲を意識したように、早紀は大柄な体をゆすって視線を店内にめぐらせた。客の大半は楽そうな身形(みなり)をした男衆で、ほとんどの者が二、三品の肴と共に酒を楽しんでいる。

「まだ(ひる)前だというのに」彼女は生真面目な表情を浮かべ、眉をひそめながらぼそりと言った。「午後の仕事に差し障りはないのでしょうか」

「夜番を終えてこれから寝に帰る者や、今日はこの宿(しゅく)に逗留する予定の旅人なのかもしれないぞ」

「なるほど……」

 得心したようにうなずき、彼女はあらためてあたりを見回した。

「わたしはどうも、頭が固くていけません」

 恥ずかしそうに言うのを聞きながら、燎は思わず笑みをもらした。

 第一隊に所属する釘宮早紀は、三年前に隼人になった二十歳(はたち)の女武者だ。黒葛(つづら)家支族の真栄城(まえしろ)家に所縁(ゆかり)ある小身武家の出身で、両親は若いうちにどこか親戚筋へでも縁づかせたいと考えていたが、本人の(たっ)ての希望で天翔隊(てんしょうたい)に入隊することとなったらしい。

 燎も女としてはかなりの長身だが、早紀はそれをさらに上回って、身の丈六尺あまり。砦にいる同輩の男たちの大半を見下ろす大きさだ。幼いころから武芸の修練で鍛え上げたというその体は分厚くしなやかな筋肉にくまなく(よろ)われており、腕は棍棒、脚は丸太のようで、揺るぎない立ち姿は大地に深く根を張った大樹を思わせる。

 燎が彼女を連れて来たのは、自分を含めて四人しかいない女隼人のひとりだからではなく、討伐隊への参加を志願した者たちの中でもっとも腕の立つ隊士だからだった。

 立天隊の隼人はみな腕ききだが、砦で行われる訓練や演習の際に早紀に圧勝できる者はあまり多くない。太い両腕に全身の力を乗せて打ち下ろす初太刀はいつもすさまじい威力で、たいていの者はそれを受け止めきれずに吹っ飛ばされてしまう。しかも力だけに頼っているわけではなく、彼女は変幻自在の剣さばきをも身につけていた。たとえ一の大刀をかわしても、さらに苛烈な二の太刀が襲ってくる。それに対抗できるのは彼女に匹敵する膂力(りょりょく)を持ち、かつ技の巧みさで上回っている一部の剣士だけだ。

 その域まで自らを高めた早紀の、長年にわたる努力と研鑚を燎は大いに評価していた。生まれながらに体格に恵まれていたとはいっても、並大抵の苦労ではなかっただろう。

「早紀、ここまでの足取りをたどってみて、鷹啄(たかはし)寅三郎(とらさぶろう)をどう思う」

 食後の茶をすすりながら問うと、早紀は眉根を寄せて険しい面持ちになった。

「悪鬼のごとし――と思います。足跡を残すという本来の目的を大きく踏み違えて、気まぐれに無駄な殺戮(さつりく)を繰り返している」

「だが強いな」

「はい、強いでしょう。(あい)宿(しゅく)で殺された夫婦者の夫のほうなどは、ひと太刀で体を斜めに両断されていました。あんな真似は、いくら力があっても簡単にはできません」

六車(むぐるま)兵庫(ひょうご)は若いころに立ち合って、かなり苦戦させられたと言っていた」

 兵庫の名が出ると、早紀の頬にほんのり赤みが差した。彼ではなく、彼にいつもくっついている刀祢(とね)匡七郎(きょうしちろう)のことをふと思い浮かべたのだろう。剣では大胆だが色恋には奥手なこの娘は、女顔をした色白の新参隊士に近ごろ熱を上げているふしがある。

 早紀は飯椀を置き、心の揺れを隠そうとするように顎を引き締めた。

「兵庫さまが手こずらされたほどの使い手なら、間違いなく我々も困難な戦いを強いられるでしょうね」

 燎は軽く鼻を鳴らした。

「わたしとおまえがいるし、由解(ゆげ)虎嗣(とらつぐ)もじきにやって来る。第五隊の伊勢木(いせき)正信(まさのぶ)らも精強だ。やつを発見したら全員で押し包んで、一気に片をつけてしまえばいい」

 早紀の目がわずかに陰る。忠順で礼儀正しいが一本気すぎるところのある彼女には、ひとりに大勢で当たるというのは何か道に外れているように思えるのだろう。

 お世辞にも美人とは言えないが、高貴さと聡明さが感じられる早紀の顔をじっと見つめて、燎は重々しく言った。

「差しで勝負をしようなどとは思うな。これは仕合ではなく討伐だ。総がかりで誅戮(ちゅうりく)の刃を突き立て、寅三郎にこれまでにしたことのつけを払わせるぞ」


 鉾田(むた)宿(しゅく)を発った真境名(まきな)(りょう)の一行は、咲間(さくま)追分(おいわけ)から本街道をさらに南へと下っていった。もうかなり鷹啄(たかはし)寅三郎(とらさぶろう)に近づいていると思われるが、鉾田宿を最後にその足取りはふっつりと途切れている。いくつかの集落や(あい)宿(しゅく)を通り過ぎたが、そこでは寅三郎の目撃情報すらも得られなかった。

 もしや道を変えたのか――。

 不安を感じながらも、燎はそれを押し殺して先へ進むことに集中した。

 明けて十八日早朝。

 宇都見(うつみ)川の手前に設置された関所と、そこからほど近い〝立場(たてば)〟と呼ばれる休息場で、燎たちは再び寅三郎の残した痕跡を立て続けに見いだすこととなった。彼は前夜のうちに関所を破り、渡河してから最初に行き着いた立場をも襲ったらしい。

 関所は冠木(かぶき)門脇の防柵が破壊されており、遅くまで面番所に残って仕事を片づけていたとおぼしき役人ひとりと番士ふたり、雑務をする足軽ふたり、女の旅人を取り調べる改め婆ひとりが敷地内のあちらこちらで斬殺されていた。夜のことで邪魔がなかったため、寅三郎は時間をかけてひとりずつ追い詰め、なぶり殺しにしていったようだ。

 立場では、茶屋の奧の住居部分で一家が皆殺しにされていた。深夜に眠っていたところを急襲されて、逃げ出す暇もなかったのだろう。主人とおぼしき壮年の男は両腕を肩口で落とされた姿で絶命しており、その妻と娘らしき少女は凌辱(りょうじょく)された上に激しい暴行を受けて息絶えていた。

「やり口がどんどんひどくなるな」

 燎は狭い部屋に横たわる三つの遺体を見下ろし、立ちこめる血のにおいに顔をしかめながらつぶやいた。戦場(いくさば)で行われる野蛮な行為を見慣れているので少々のことでは動じないつもりだったが、この惨状には思わず目を覆いたくなってしまう。

「ろくに手向かいもできぬ者たちに対して、何もここまでせずともよかろうに。いったい、どういうつもりなのだろう」

鉢呂(はちろ)砦でも、行く手に立ちはだかったわけでもない傷病者を含め、十人を手当たり次第に殺しています」

 佇む燎の背後で釘宮(くぎみや)早紀(さき)が言った。何かを(はばか)るように声をひそめている。

「楽しんで……いるのかもしれません。こういうことを好む(しょう)なのでしょう」

「胸が悪くなる」

 燎は吐き捨てるように言って屋外へ出た。朝から蒸し暑い日で、霧のように細かい雨が降っている。見上げた曇天は紫がかった淡い灰色をしていて、その柔らかな色合いを見ていると少し心が落ち着くように思えた。こんなことはさっさと全部終わらせて、早くあの自由で美しい空へ帰りたいものだ。

「あとのことは番所の者に任せて、我々は先を急ごう」

 そう言って振り向くと、早紀が暗い目をして立っていた。

「鷹啄寅三郎は――」彼女は視線を落としたまま、低い声で言った。「人並み外れて大きな体をした、おそろしく醜い男だそうですね」

「そう聞いている」

「そのせいで人に(うと)まれたり、(さげす)まれたりしてきたのではないでしょうか。他者に受け入れられなかった長い年月のあいだに、少しずつ心にひずみが生じた結果、今のようになったということは」

「さあ、どうだろうな」

「わたしも……見た目がこんなふうですから、小さいころから男女どちらにもうまく仲間入りできず、疎外感をおぼえることがよくありました。立天隊(りってんたい)に入ることができて救われましたが、そうでなければ今ごろは彼のようにゆがんでしまっていたかもしれません」

「それを言うなら、わたしだって同じだ。もし隼人(はやと)になれていなかったら、力の使いどころを見いだせずに(すさ)んで冷酷な城主になり、領民を苦しめていたやもしれん。だが、そうはならなかった」

 燎はきっぱりと言い、湿った地面をひと蹴りして馬にまたがった。

「あの男に共感などするな。恵まれた生い立ちだったが、もともとゆがんでいたのかもしれないだろう」

 早紀の表情が少し晴れた。

「そうですね」

「出発だ」

 燎は号令をかけ、先頭に立って街道を駆けた。入り口から出口まで半町にも満たない小さな立場(たてば)が、またたく間に背後に遠ざかっていく。

 次に目指す四十竹(あいたけ)宿(しゅく)は、立州(りっしゅう)街道最大の宿場町だ。東西から延びるふたつの街道との交差点であり、平旅籠(ひらはたご)飯盛(めしもり)旅籠が合わせて百軒以上、水茶屋が五十軒も建ち並んでいる。宿場のちょうど中間あたりから街道がゆるやかに隆起しているため、土地の者たちは低い側を〈下宿(しもしゅく)〉、坂の登り口から先を〈上宿(かみしゅく)〉と呼び習わしていた。

 そこまで行けば、七草(さえくさ)へは最短で二日の行程を残すばかりとなる。四十竹宿で捕らえられなければ、寅三郎に逃げ切られてしまうかもしれない。

 その思いに急かされながら、燎たちは半日以上も強行軍を続け、夜が更けて木戸が閉まる直前に何とか四十竹宿へ駆け込むことができた。雨上がりの宿場の中には賑やかに灯が(とも)り、道は夜の遊戯に興じようと宿を繰り出した旅人たちでごった返している。

 馬を下りた燎は真っ先に問屋場(といやば)へ向かい、その入り口前で思いがけず第五隊の伊勢木(いせき)正信(まさのぶ)に出くわした。彼は六車(むぐるま)兵庫(ひょうご)と一緒に立天隊に入隊した雇い兵で、砦の仲間からは腕の立つ男として一目置かれている。

「正信、もう着いていたのか。ずいぶん早かったな」

 彼女が少し驚きながら言うと、筋骨たくましく(いか)つい風貌をした男が少年のようににっこりした。

「知らせを受けてから、かなり急ぎましたよ。今日のうちにそちらと合流できるだろうと思ったので、今夜の宿は手配しておきました。いま、所の者に聞き込みを」

「何かわかったか」

「木戸の番太は寅三郎が通るのを見ておりませんでしたが、それらしい風体の男を見かけたという者を下宿(しもしゅく)で何人か見つけました。最後に話を聞いた湯屋の番台は、尋ね人に人相が合致する、鴨居にぶつかるほどの大男が入って来て洗い場を使い、そのあとたっぷり一刻近くも二階にいたと。それが、ほんの小半刻ほど前の話だそうです」

 正信を取り囲んで話を聞いていた討伐隊の面々が、ぎらりと目を光らせた。

「では、寅三郎はまだ宿場の中に――」

「いると思われます」正信が燎の言葉を受けて言い、人通りの多い道に視線をやった。「立場(たてば)(あい)宿(しゅく)の規模なら、住民と旅人をことごとく避難させてからじっくり狩り出すところですが、これほど大きな宿場ではさすがにそんな真似はできません」

「そうだな。兇賊が入り込んだなどと触れ回り、数千人が恐慌をきたしでもしたら手に負えなくなる。地元の協力を仰ぎながら、静かにそっと探すのが上策だろう」

「隊士五人を捜索に出していますが、発見の報は今のところはまだ」

「よし、我々も加わろう」

 意気込む燎を、正信がやんわりと押し留める。

「燎さまは宿へ入り、そこで指揮をお執りください」

「わたしをのけ者扱いするのか」

 不満げに言ってやると、正信は悪びれた様子もなく微笑んで見せた。

「全体の動きを見て指図する人がいたほうが、諸々うまくいくと思います。問屋場で番衆の手助けを頼んでおいたので、そこからの報告も随時入ってきますから」

 有能な男だ。すでに何もかも抜かりなく手配しているらしい。

「では、そうする。だが途中でおぬしと交代するぞ」

「はい。そのように」

 宿でじっとしていられる心境ではなかったが、たしかに指揮役は定位置にいたほうがいい。

 燎は配下の者たちにふたりひと組での捜索を命じ、正信が話をつけてあった〈稲見(いなみ)屋〉という旅籠の奥座敷に陣取った。下宿(しもしゅく)上宿(かみしゅく)に分かれる境目あたりの街道筋に建つ大きな宿屋で、一階の最奥にある奥座敷と奧次(おくつぎ)の間には裏庭から入側(いりかわ)を通って上がることができる。

 宿の主人に用意させた宿内絵図を見ながら戦略を練っていると、宿場の代表者である問屋(といや)役の辰政(たつまさ)という男が訪ねて来た。正信に頼まれた見張り役の人足を二十人、旅籠の外に集めてあると言う。南北の木戸周辺と二か所ある交差点、上宿の中ほどで街道を横切っている水路の周辺に配置するための人員だ。半分は地元のやくざ者だという話だが、荒っぽいことには慣れているだろうからむしろ都合がいい。とはいえ、燎は彼らに寅三郎と戦わせるつもりはまったくなかった。

「発見しても自ら立ち向かわず、すぐに呼び子を吹いて隊士を呼ぶよう言ってくれ。そのあと刺股(さすまた)など使ってしばし足止めできるならありがたいが、決して無理はしないでもらいたい。非常に危険な男だからな」

 この五日間に、(くだん)の人物は街道筋の宿場や立場(たてば)で十六人を惨殺したのだ。そう話してやると、辰政は青い顔をしながら下がっていった。すっかり肝を冷やした問屋役は、地元衆から犠牲者を出さないため、人足たちに念を入れて訓示することだろう。

 燎は再び考察に戻り、宿内絵図を睨みながら寅三郎の動きを考えた。木戸が閉じる刻限寸前まで湯屋などでぐずぐずしていたということは、ついに疲労が限界にきて、ここでしばし足を止めることにしたものと思われる。彼は鉢呂(はちろ)砦から逃れて以来、おそらくまともに眠っていないはずだ。

 しかし追っ手からの急襲を警戒すべき身で、宿を取ってひと晩ゆっくり休むとは考えづらい。どこか宿場の死角に潜んで休息を取り、頃合いを見てまた街道へ戻るつもりだろう。

 燎は、寅三郎は夜が明けきる前に動き出し、南の木戸を破って出ようとするに違いないと推測した。自分の腕に自信を持っている彼は脇道からこそこそ逃げ出すよりも、刀に物を言わせて押し通るほうを選ぶはずだ。

「暁八つ半を過ぎたら南の木戸口の人員を増やし、わたしもそこに詰めようと思う」

 途中で報告に戻ってきた正信に、彼女は自分の考えを話して聞かせた。

「それまでは全戸捜索を続けるのが最善だろうな。すでに空き家か、人の少ない建物を見つけて立てこもっているやもしれん」

「わたしもそう思います。民家も含めると五百戸近いので、なかなか手がかかりますが」

 正信は燎の方針に同意し、また捜索に戻っていった。彼も疲れていないはずはないが、まだ精力体力ともに充分といった様子に見える。

 その後も報告のために隊士が入れ替わり立ち替わり顔を出したが、捜索は難航しているようだった。三更(さんこう)刻鐘(こくしょう)が鳴るころには下宿(しもしゅく)(たな)と民家への立ち入りをほぼ終えていたものの、まだ寅三郎の気配すらつかめていないという。

 燎はそこで正信と交代して、残る上宿(かみしゅく)の捜索に加わった。相方は自分が討伐隊に入れて連れて来た、源四郎(げんしろう)という名の鉢呂砦の番士だ。彼は砦が襲われた夜に同輩の親友を亡くしており、寅三郎に対して並々ならぬ復讐心を燃やしている。

 受け持ちである西区画の南端へ着くと、燎は二軒の空き家を含む二十戸を次々に捜索して回った。戸を閉ざして眠っていた住人たちには不機嫌顔をされたが、そんなことに気を使っている場合ではない。

「存外、見つからぬものだな。どこへ潜り込んでいるのだろう」

 彼女が人通りの絶えた暗い夜道を歩きながらつぶやくと、横を行く源四郎が声を殺しながら言った。

「身を隠すなら建物の中と決めつけてそればかり調べていましたが、もしや……夜陰に紛れて屋外にいるのではないでしょうか」

 はっとなって足を止め、燎は懐に入れていた宿内絵図を取り出した。

「身を寄せる木陰ぐらいは欲しいところだろうが、宿場内に雑木林のようなものはない。だが――」

 何も書き込まれていないので、これまで注目していなかった広い空白地帯が絵図に三か所ある。

「この河岸の堤防沿いにある白地、広場か何かだろうか」

 源四郎が提灯を差し上げ、照らしながら覗き込む。

火除(ひよ)け地では?」

「なるほど。しかし、それなら何もないだろうな」

見世物(みせもの)の露店や、余剰資材を仮置きする小屋が建てられていたりすることがありますよ。そういうものは作って壊してを繰り返すので、絵図には書き込ま――」

 彼が最後まで言い終える前に、鋭い笛の音が夜気を()いて鳴り渡った。短く二度。近い。

「川のほうだ。行くぞ」

 今まさに絵図で見ていたあたりだと思いながら、燎は鞘を押さえて走り出した。なぜ、もっと早くあの場所に目をつけなかったのか。

 また呼び子が鳴った。さらに近づいているが、音が弱い。それはだんだんとか細くなっていき、やがて尻切れにふっと途切れてしまった。

「どこだ」

 荒い息で訊くと、すぐうしろを走る源四郎が燎の腕を引いて右手を指差した。

「あちらに何か見えます」

 狭い路地を抜けて裏手の河岸に走り出ると、目の前がぱっと(ひら)けた。絵図でもっとも大きな空白地帯だったところだ。そこは手入れされた草地で、いかにも火除け地らしく見えた。本来ならただの空き地のはずだが、奧の堤防沿いに切り出したままの原木、その右手に礫岩が積まれて大きな山になっている。どうやら土地の一部を仮の木場や石場として活用しているらしい。

 広場の手前端のほうに、源四郎と同じ番士の直則(なおのり)が仰向けで倒れ、呼び子をくわえたまま息絶えていた。最後の呼吸が尽きるまで、必死に笛を吹き続けたのだろう。体にはふた大刀受けており、右の肩がひしゃげたようになっている。

 直則は、たしか早紀(さき)と組んでいたはず――。

 燎はあわてて周囲を見回した。だが目の届く範囲に彼女の姿はない。

釘宮(くぎみや)早紀を捜せ。近くにいるはずだ」彼女は源四郎にそう命じるなり、先に立って駆け出した。「寅三郎と交戦中かもしれん」

 直感的に、資材が置かれているあたりを目指した。人の背丈よりも少し高いぐらいの木石の山が合わせて十ばかり、等間隔の通路を間に設けて整然と並べられている。

 いつでも鯉口を切れるよう身がまえながら、燎は慎重に通路へ入っていった。左右どちらにも見通しが利かず、ひとつの山を回り込んでみるまで、その向こうに何があるのかわからないのが厄介だ。木石に遮られて周囲の音があまり聞こえず、草の地面を踏む自分の足音だけがやけに耳に響く。

 あせらないよう己を戒めながら、だが一度も立ち止まることなく六つの山の周囲を確認して回り、次に足を向けた七つ目の山の陰で燎は早紀の遺体を発見した。

 体格からすぐに彼女と知れたが、顔だけでは(にわか)には判別できなかっただろう。それほどまでに顔全体が無惨に腫れ上がり、別人のような面相になっていた。特に激しく殴られたらしい両の目は完全に浮腫に埋もれて、もはやただの切り込みも同然だ。痣だらけの皮膚の下で、骨は粉々になっているに違いない。

 燎はゆっくり屈み込み、月明かりの中で目を凝らした。

 早紀の頭の右側が、ぞっとするほど大きくへこんでいる。何か硬いもので殴られたのかもしれない。山の陰に隠れていた寅三郎に不意を突かれ、おそらくは頭部へのその最初の一撃で決定的な痛手を受けて昏倒したのだろう。そのあとはなすすべもなく、絶命するまで殴打され続けた。

 これほどの剣士が、ただの一合も斬り結ぶことなく――。

 唇を噛みながら視線を横へやると、今まで気づかずにいたものが見えた。

 早紀の馬乗り袴が足首まで引き下ろされている。小袖の裾もはだけられて、おびただしい血にまみれた下半身が剥き出しになっていた。

(はずか)められたのか……」

 愕然としながらつぶやいたその時、「燎さま」と呼ぶ源四郎の声が聞こえた。足音が近づいてくる。

 燎は咄嗟(とっさ)に袍を脱ぎ、早紀の体にかけて蛮行の跡を人目から隠した。

「ここにいる。早紀を見つけた」

 声を上げると、それを頼りに源四郎が山を回り込んできた。豪腕で知られた女隊士の亡骸(なきがら)にすぐ気づき、ぎょっとなって足を止める。

「やつを捜すぞ」

 燎は決然と言って立ち上がり、刀の鞘を払った。戦いは冷静にが信条だが、今は少し頭に血が上っていて、体の芯が燃えているように熱い。

「仲間が来るまで呼び子を吹き続けろ」

 言い置いて歩き出そうとした瞬間、正面にある原木の山の脇に巨大な人影がぬっと現れ、背後から源四郎の胸に白刃を突き入れた。番士が口から血を噴き、手に持った提灯を取り落としてその場に崩れる。

「なんだ、また女か」

 鷹啄寅三郎は倒れた源四郎の体をまたぎ、燎に近寄りながらあきれたように言った。

「立天隊の大将は、おまえらみたいな男女(おとこおんな)の隊士ばっかり集めてるのか? (ねや)で大将を楽しませる時は、どっちが女房役をやるんだ」

 からかい言葉を無視して、燎は脇構えを取りながら間合いを計った。かつて対峙したことのない大きさの相手で、狙いを絞りにくい。

 寅三郎はにやつきながら、ずかずかと前に出てきた。大刀を右手だけで、燎のほうへ突きつけるように構えている。負傷を隠そうとでもしているのか、体の左側はまったく見せない。

六車(むぐるま)兵庫(ひょうご)はどこにいる」

 問いかける彼の声が、ふいに真剣な響きを帯びた。

「おれは、あの男と()り合いたいんだ。関係のない弱いやつらは引っ込んでろ」

「弱い者を痛めつけるのが好きだろう」

 燎は低い声で言い、誘うように一歩退()いた。寅三郎の口角が、きゅうっと嬉しそうに吊り上がる。

 来る、と思った時には、もう彼は目の前にいた。巨体に似合わぬ素早さだ。

 片手の打ち込みが斜め上から襲ってきた。それを左にかわし、大きく踏み込んで逆袈裟に斬り上げる。寅三郎は燎の剣先を()()って避けると、崩れた体勢のままで横殴りに剣を振ってきた。相変わらず片手持ちで、しかも腕が異様に長いため刃圏が広い。腰を引いて避けたつもりだったが、思いがけず深く入った切っ先に左脇腹を斬り裂かれた。

 強い――。

 傷口を押さえた指の隙間から血が流れ出すのを感じながら、燎はうしろに跳んで距離を取った。寅三郎はかまわず追ってくる。

 跳んだ先で地面に両足を踏ん張り、彼の打ち込みに剣を合わせて正面から当たった。片手だけでの一撃とは思えない重さを受け止めながら、しなやかに腰を反り返らせて勢いを逃がす。そこから、支点の左足と腹筋に力を入れて強引に押し返すと、寅三郎が初めて驚きの表情を浮かべた。鍔迫(つばぜ)り合いで拮抗された経験はあまりないのだろう。

 自ら剣を引いた彼に、今度はこちらが迫っていく。裂帛(れっぱく)の気合いと共に二度突き入れ、二度目の刺突(しとつ)で寅三郎の右肩に剣尖を沈めた。鎖骨の下に深く入り、一気に背中まで突き抜ける。しかし、いささかきれいに抜けすぎた。そのあたりにあるはずの、裂いていれば致命的な損傷になったはずの太い血脈には触れなかったようだ。

 わずかに焦りを見せながら退()こうとした寅三郎の足下で、出し抜けに呼び子が鳴った。瀕死の源四郎が命尽きる寸前に意識を取り戻し、どこか近くまで来ているはずの仲間の加勢を求めて笛を吹いたのだ。

 さすがに虚を()かれ、寅三郎の視線がふっと下に流れる。その一瞬を逃さず、燎は渾身の斬撃を繰り出した。狙いは腹。ちょうど斬りやすい位置にある。

 寅三郎はそれを察知し、本能的に身をよじって逃れた。だが燎は深く間合いを詰めている。踏み込んで放った斬撃は、彼の左下腹に入ってまっすぐ右へ抜け、派手に鮮血をほとばしらせた。

 手応えはあったが、(はらわた)にまで届いた感触はない。すかさず次の一撃を繰り出そうと、燎はさらに前へ出ながら右八双に構えた。寅三郎は腹をかばうように上体を屈め、右半身をこちらにさらしている。

 そこを目がけて袈裟に斬り下ろそうとした時、だしぬけに彼が(たい)を開き、これまで一度も使おうとしなかった左腕を水平に振り回した。殴られたのか何なのか、わけもわからないまま燎の体が横ざまに吹っ飛び、地面にしたたか打ちつけられる。

 腕を斬り落とされた――と、真っ先に思ったのはそれだった。やつは二刀持ちだったのか。

 ひやりとしながら目をやると、斬られてなくなっていると思った右腕はまだついていた。しかし肘の上で奇妙な角度に折れ曲がっている。

 左手を突いて起き上がろうとしたが、その前に寅三郎の巨体が降ってきて組み敷かれた。腰に馬乗りをして押さえつけられ、ぴくりとも動けない。恐ろしいほどの重さだ。

「おまえ、女にしてはなかなかやるな」

 彼はそう言いながら、ゆっくりとのしかかってきた。ようやくまともに顔を見たが、聞きしにまさる醜い男だ。

「斬られたと思っただろう」

 にやりとして、彼は左手に握っている短く太い棍棒を見せつけた。

 くそ、早紀のやられ方を見ていたから、予測できたはずなのに――。燎は無念の(ほぞ)を噛みながら、男を振り落とそうと全身をのたうたせた。

「おお、()きがいいな」

 寅三郎がからからと笑い、厚い舌で下唇をべろりと舐める。

「まだまだ楽しめそうだ」

 彼は棍棒を放り捨てると、その巨大な左手で燎の首を絞め上げた。長い指が後ろ首にまで回って食い込んでおり、一瞬で呼吸の余地がまったくなくなってしまう。燎は傷めていないほうの手で必死に抗ったが、腕の長さがまるで違うので相手の体にも顔にもかすりもしない。

 そのまま絞め殺されるのかと思ったが、寅三郎は手の力をふと弱めた。もっといたぶって、楽しみを長引かせようとでもいうのだろうか。

 喘ぎながら空気をむさぼっている燎を見下ろし、彼はだしぬけに乳房を鷲掴みにした。

「姿も戦い方も男だが、体はいちおう女じゃないか」

 その双眸に貪欲な光が宿っている。

 燎は怖気(おぞけ)を震いながらも、反撃に備えて心を引き締めた。

 よし、やれるものならやってみろ。獣の顎門(あぎと)とも知らず、わたしの中に一物(いちもつ)を突き入れてくるがいい。腰に脚を絡めて完全に捕らえたら、この指で目玉を()き出してやる。

 そんな彼女の思考を読んだかのように、寅三郎が急に不機嫌になった。

「生意気な顔つきだ。気に入らんな」

 彼の手がさっと動き、燎の顔面に冷たい痛みが走った。斬られたと思う間もなく、生温かい血が肌の上にあふれ出す。

 寅三郎は満足げな鼻息をもらすと、腕を高く上げて燎の顔に拳を振り下ろした。岩塊がまともに当たったような衝撃が走り、目の中で小さな光が明滅する。

 初めのうちは痛かったが、二度、三度と殴られるうちに頭がぼんやりして、だんだん何も感じなくなった。体がしびれて力が入らず、まぶたすらも持ち上がらない。しばらくして気づくと、鼻で呼吸ができなくなっていた。息を吸うために細く開けた口の中が、たちまち錆くさい血の味で満たされる。

 これほどの暴力にさらされるのは、生まれて初めての経験だった。

 死ぬのか、このまま――。

 ふとそんな考えが頭をよぎる。

 いや、駄目だ。こんなところで、こんな男に殺されてたまるか。

 うっすら目を開けると、薄暗く濁った視界の半分を寅三郎のゆがんだ笑みが占めていた。そのうしろ、遠いところに小さく何かが見える気がする。人の顔だろうか。

 鬼瓦――。

 眉を(いか)らせて両目を()き、眉間に深く皺を寄せた、見覚えのあるその相貌。極度に物事に集中している時、〝彼〟はいつも無意識にそういう表情をしていて、昔から周りの者たちに「まるで鬼瓦だ」と揶揄(やゆ)されていた。

 由解(ゆげ)虎嗣(とらつぐ)……?

 まさかと思いながらまばたきをすると、その顔はさらに近づいた。間違いなく虎嗣だ。抜き身を引っ提げ、飛ぶような速さでこちらへ駆け寄ってくる。

 再びまぶたが落ち、意識が途切れる寸前の彼女の目に映ったのは、寅三郎のすぐうしろで大上段に振りかぶる虎嗣の姿だった。


 どことなく不安をかきたてる、切れ切れの不穏な夢をいくつも見ていたように思える。だが目を覚ますと、そのどれもまったく覚えていなかった。ただ漠然とした不安感だけが残っている。

 暗い――最初に頭に浮かんだ言葉はそれだった。

 目覚めたはずなのに視界が真っ暗で何も見えない。ほんとうは、まだ眠りの中にいるのだろうか。

 その時、すぐ近くで声がした。

「やっと起きたか」

 石動(いするぎ)博武(ひろたけ)だ。姿が見えなくとも、彼の声ならいつどこで聞いてもすぐにわかる。

「待て、動くな」彼は(りょう)が体を起こそうとしていることに気づくと、肩をそっと押さえて制した。「わからぬかもしれんが、けっこうひどい状態だぞ」

 どうひどいのか訊こうとしたが、口を開いてもうまく声が出せなかった。

「水を飲め」

 吸い飲みを口元に宛がわれ、促されるまま細口から注がれる水を少しずつ飲んだ。嚥下(えんげ)するたびに、(いばら)の枝を呑んだかと錯覚するほど喉が痛む。

「痛いだろう」

 燎の考えを読んだように博武が言った。

「喉の内側が傷ついていると療師(りょうじ)が話していた。傷はいずれ治るし、首についた圧迫痕もきれいに消えるが、のちのち声が少し変わるかもしれないそうだ。それに右腕と鼻と肋骨(あばらぼね)が二本折れていて、左の脇腹には深い切創がある」

 なるほどひどい状態のようだが、そんなことはどうでもいい。

「目が――」今度は声を出せた。恐ろしく低い、老人のような(しゃが)れ声だ。「見えないのです」

 言葉にすると、ぐらりと世界が(かし)いだように感じた。訊くのは怖いが、訊かないわけにはいかない。

「やつに顔を斬られたのを覚えています。わたしの目は……つぶれたのですか」

 だとしても片眼だけのはずだ。なぜ両方見えないのだろう。

「目は無事だ」

 博武が即座に答え、安心させるように彼女の腕をぽんぽんと叩いた。

「左のまぶたは切れているが、刃は眼球を傷つけなかった。見えないのは、傷が開かぬよう厚く布を巻いているからだ」

「では右目は」

「何ともないが、顔が腫れているせいで開かないのだろう」

 そう言われて無理に力を入れると、ほんのわずかに隙間が空いて、こちらを覗き込む博武の顔をまぶしい光の中に一瞬だけ見ることができた。少し気づかわしげだが、彼はいつもと同じ明るく澄んだ目をしている。ただそれだけで、胸に温かい安堵感が広がった。

「ほかに訊きたいことは」

「ここは四十竹(あいたけ)宿(しゅく)ですよね。あなたは、いつこちらへ。そもそも今日は何日ですか」

「今日は二十二日だ。戦いから四日経っている。おれは昨夜遅くに知らせを受けてすぐ砦を()ち、朝方に――一刻半ほど前に着いたばかりだ。近くの津戸(つど)山まで(とり)で来て、そこからは馬を飛ばした」

「ご自身で禽を操ったのですか」

 ちょっと驚いた。彼が最後に操禽(そうきん)したのは、もう八年近くも前のはずだ。

鷹啄(たかはし)寅三郎(とらさぶろう)はどうなりました。あの化け物は」

「やつは逃げた」

 ぎくりとして体が強張(こわば)った。

「まさか、あの局面から――逃れたと」

「そうだ。加勢の隊士が駆けつけたのを見て不利と悟り、行く手を阻む者を蹴散らしながら猛烈な勢いで逃げていったそうだ。兵庫も前に勝負をした時、劣勢に追い込んだら逃げたと言っていたな」

 あれほど使える男が、なぜ何度も平気で戦いを投げ出し、敵に背を向けることができるのだろう。剣士としての矜持はないのだろうか。

「強かったか」

 博武の問いは率直だった。

「ええ」左手が無意識に拳を形作る。「強く、容赦なく、下劣でした。わたしはあの男の信じがたいほどの粗暴さを()の当たりにして、少し呑まれてしまった……ように思います」

 口惜しいが、事実から目を逸らしてはならない。

「あの時、助けが来なければ死んでいたかもしれません。彼が――」

 一瞬、名前が出てこなかった。

「彼――虎嗣(とらつぐ)が」

 思い出すと、急に気になり始めた。意識を失う直前、彼が背後から寅三郎に斬りかかろうとしているのを見たが、あそこから何がどうなって逃げられてしまったのだろうか。

「虎嗣はどうしています。やつを追っているのですか」

由解(ゆげ)虎嗣は死んだ」

 囁くように言った博武の言葉が、鋭い刃となって胸を刺し貫いた。

「虎嗣たちの一隊は、ちょうど峠越えを終えたところでおぬしからの急報を受けたそうだ。同じ道を戻るのは難儀なので先へ進み、阿刀(あとう)追分(おいわけ)から立州(りっしゅう)街道へ入って北上した」

 彼らは暁八つを過ぎたころに四十竹宿に到着し、南の木戸から入ったところで呼び子が鳴るのを聴いたという。源四郎(げんしろう)が事切れる前に吹いた、あの最後の笛の()だ。

 着いたばかりの彼らは状況を掴めていなかったが、寅三郎の潜伏場所についての先入観もなかったので、呼び子が鳴らされた河岸の火除(ひよ)け地にまっすぐ向かうことができた。ひとりだけまだ下馬していなかった虎嗣が、すぐさま馬に鞭をくれて真っ先に駆け出し、連れの者たちはやや後れる形になったらしい。

「みなが駆けつけると、虎嗣はすでに寅三郎と斬り合っている最中だった。すぐに包囲陣を形成しようとしたが、その前に決着がついてしまったそうだ」

 話を聞いているうちに頭の中が真っ白になり、それからゆっくりと虎嗣の面影が脳裏に蘇ってきた。ごく親しい者にしか見せなかった、子供のように純な笑顔。〝鬼瓦〟ではなく。

「虎嗣は――」つぶやく声が涙でくぐもった。「あなたを別にすれば、彼はわたしにとって……鉢呂(はちろ)砦でできた初めての友人でした」

 最初は女だということで(うと)まれていたが、虎嗣はすぐに燎の実力を認めて尊重してくれるようになり、部隊での相方にと望んでくれさえした。真境名(まきな)家の嫡女である自分にとっては、個人の幸せよりも家を守り立てることが第一なのだと打ち明けた時には、ひとりで寂しい人生を歩むことになるのではと気づかい、心を分かち合える相手を得られるよう願ってくれた。

 彼はまっすぐな心根を持った、誰よりも誠実で優しい男だった――。

 燎の顔に巻かれた布が止め()なく流れる涙で濡れ、その下で傷がちくちく痛んだ。物心ついてからはついぞ人前で泣いたことなどなかったが、今はつまらぬ意地や体面など気にもならない。

 敷布を握り締めている彼女の左手に、博武がそっと手を重ねた。その肌から、同じ温度をした彼の悲しみが伝わってくる。

 そのあとしばらく無言で手を触れ合わせたまま、ふたりは亡き友への惜別の情を静かに分かち合っていた。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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[良い点] おおおおお……涙。 読者としても、初期からずっと一緒に歩いてきた方々が、ここでまた一人……。 やはり因縁の決着はつけねばならぬのか。責務を負わせるようで心苦しいですが、どうか兵庫さん……勝…
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