十二 御守国御山・街風一眞 名家の息子
天門神教の総本山である御山が開かれたのは、干戈時代の初めごろとされている。聖地となるべきその場所は、当時十六歳だった若き信徒退紅に〈神告〉としてもらたされた。天啓を得た彼女は御守国南部に聳える高峻な山の頂上に、人々の信仰の拠り所となることを願って祭堂を建立し、初代祭主となって終生信徒たちを神の道に導き続けたという。
現在その聖域に建てられているのは、国内最大の規模と壮麗さを誇る大祭堂だ。建物自体は初代祭堂とは比較にならないほど巨大かつ荘厳になったが、〈闢神〉と〈闔神〉の二体の神像を祀る祭壇の位置は、千数百年前に退紅が定めた場所から一寸たりとも動かされていない。
御山の登り口は東西南に三か所あり、それぞれに大門が築かれている。どこから入っても最後には必ず大祭堂へ行き着くが、信徒のあいだでは南ノ大門から入る参道がもっとも人気が高かった。大祭堂の正面入り口に向かって登る道だからだ。
山上へと至るまでには大門のほかに八つの門があり、それをひとつ過ぎるごとに参道は山腹を水平に半周する上弦道と交差している。その道沿いには神祠や小祭堂、宿、店、わずかながら民家なども建ち並んでいた。参拝者はその小さな集落を利用して休息や食事を取りながら、頂上の大祭堂を目指して階段状の参道をゆっくりと登っていく。若く壮健な者で二刻半、そうでない者は三刻半ほどかかる道のりで、途中で一泊する者も少なくない。
四ノ門を過ぎると集落は姿を消し、そこから先は神に仕える奉職者たちの世界となる。彼らが暮らし、働くための寮。〈行堂〉と呼ばれる修行場。参拝者の宿泊所として運営している宿房。そして頂上の聖域に建つ大祭堂と、祭主の住まう宮殿。
御山への奉職を志願する者たちは、昇山するとまず五から七ノ門のあいだにある計五か所の行堂のいずれかに入堂する。そこで百五十日間にわたって修行と労働の日々を送り、奉職者としての心構えを学ぶよう定められていた。
水月九日、街風一眞は最初の修行期間を勤め上げ、正式な御山の奉職者となる資格を得た。このあとは〈祭宜〉〈唱士〉〈衛士〉の三つの祭職からいずれかを選んで就き、各職寮の行堂で役儀に特化した修行をさらに四百日間続けていくこととなる。
腕に覚えのある一眞は、御山を守護する実戦部隊の衛士となることを選んだ。ほかの祭職よりは自分に合っているだろう。
彼は朝のうちに転堂の手続きを済ませると、少しばかりの身の回りの品と前期修行を終えたことを証明する証札を携えて、午前に七ノ門をくぐった。
衛士たちが働きながら住み暮らす衛士寮は七ノ上弦道の東側、修行者たちの行堂は西側にある。寮も行堂もそれぞれ学堂、食堂、宿堂の三つの堂舎から成り、この構成はほかの祭職の行堂にも共通していた。唯一違うのは、衛士寮では堂舎以外に馬場や射場も備えているということだ。
上弦道を西へ歩いていくと、古参とおぼしき衛士が学堂の前で一眞を待ち構えていた。
歳はおそらく二十代半ば。腫れぼったい目蓋の陰険な目つき。不満げに突き出した厚い唇。ひと癖ありそうな風貌のその男は、入り口の階段上に仁王立ちして「饗庭左近だ」と名乗り、履き物についた馬の糞でも見るように一眞を睥睨した。差し出した証札をもったいぶった手つきで受け取り、不備があるだろうと言わんばかりに片眼を眇めて長々と検分している。
「武家の部屋住み」たっぷり間を置いてから話し出した口調は、とても好意的とは言えなかった。「主家を失ったあぶれ者。喧嘩が強いつもりの自惚れ野郎——端から衛士を志願する連中なんてのは、たいていそんなところだ。おまえはさしずめ、貧乏武家の三男坊あたりか」
「小領主のせがれです」
あからさまな敵意を向けられても、一眞は意に介さなかった。こういう手合いはどこにでもいる。
「ほおおおう。お父上は、どちらの領主さまだって?」
「浪枚国大日方郷です」
「知らんなあ。どうせ人もほとんど住んでないような田舎の、猫の額ほどの所領なんだろう」
「そんなところです」
逆らおうとしない一眞が気にくわないらしく、左近が鼻孔を大きく膨らませる。そこへ学堂の戸を引き開けて、別の古参が現れた。こちらは三十代半ばぐらいだろうか。鷹を思わせる鋭い目をしていて、髪は鴉の羽根のように漆黒だが、両の揉み上げは銀白だ。
「おい、入り口を塞ぐな」声もまた鋭く、ぴしりと言い放つ。「新参か」
左近はあわてて脇にどきながら、へつらうように会釈した。
「はい、小領主の小せがれだそうで。これから行堂の心構えを叩き込むところです」
「よそでやれ」素っ気なく命じ、左近から証札を取り上げて一瞥する。「街風一眞?」
質問というわけでもなかったが、一眞はとりあえず返事をした。
「そうです」
「おまえのことは空木宗司から聞いている」そう言って、彼は左近のほうを見た。「領主の息子ではなく、彼自身が領主だ。だが昇山にあたって身分を捨て、所領と財産の一切を御山に献納した。過去にもあまり例のないことで、祭主さまもたいそう驚かれたそうだ」
左近は横合いから突然殴られたように表情をゆがめ、歯を食いしばって一眞を見つめた。ぎらぎらした光を放つ目が、ゆっくりとすぼまっていく。一眞はその憎しみに満ちた凝視を浴びながら、自分が転堂初日から敵を作ったことを悟った。それも、かなり面倒臭そうな敵だ。
年上の古参はふたりのあいだの空気など気に留める様子もなく、軽い足取りで階段を下りてきた。
「ついてこい、街風一眞。少し話そう」
一眞は何も言わず、即座に従った。宿堂の脇道へ向かうふたりを左近が睨み続けている。振り返らなくても、その刺すような視線は背中で感じ取れた。
「わたしは衛士の千手景英だ。行堂の堂長と武術指南役を兼任している」
古参は速い足取りでどんどん歩き、一眞を行堂の裏手を通るカラマツの林道にいざなった。新芽が伸びる時期なので古い葉が大量に落ちているが、それらは剥がれた樹皮と共にすべて道の脇に掃き集められている。きっと明日以降は、自分もほかの修行者に混じって早朝からここの清掃をすることになるのだろう。そう思いながら、一眞はまっすぐに伸びたカラマツの幹を見上げた。目にしみるほど鮮やかな新緑が、高い梢で太陽に美しく照り映えている。
「ほんの半年前に、家族をすべて亡くしたそうだが」
景英が話しかけ、一眞の注意を引き戻した。
「そうです」
「兇賊に殺害されたとか」
「はい」
「気の毒なことだったな。なぜ、父親の後を継いで領主にならなかった」
昇山を願い出た大日方の祭堂でも、御山へ来てから前期修行のために入った行堂でも、何度も同じことを訊かれた。そのたびに、一眞は一貫して同じ説明を繰り返している。
「おれは放蕩息子で、嫡男としての務めをずっとないがしろにしていました。でも、家を空けて好き勝手やっていたあいだに家族が殺され……不品行のつけが回ってきたような気がしたのです」
景英が足を止め、少し間を置いて振り返る。
「しかも自分ではなく、家族がそのつけを払うことになった——か」
察しのいい男だと思いながら一眞はうなずいた。
「はい。それを思うと、とても領主の座に収まる気にはなれませんでした」
景英は一眞に目を向けたまま、しばらく黙っていた。先ほどの左近と違って睨んでいるわけではないが、その視線には耐えがたいほどの威圧感がある。
「おまえの話は」ややあって口を開いた彼は、不可思議な微笑を浮かべながらゆっくりと言った。「あまりによくできすぎていて嘘くさい。だが、地位も富もすべて潔く投げ出したことで補強され、傍目には限りなく真実らしくなった。とても利口だな」
一眞は表情を変えなかったが、首筋に緊張が走り、両腕の肌が粟立つのを感じた。この男は侮れない。
「おまえが下界で何をやっていたのかは知らん。どんな思惑でここへ来たのかもな。だが昇山したからには、俗念を捨てて生まれ変われ。修行し、神に仕え、新たな自分を見いだすことだ」
木漏れ日が景英の顔に落ち、その鋭い目を淡く輝かせた。
「過去と決別するために昇山する者は多い。おまえがそうしたいなら、御山は力を貸してくれる」
「はい」
うなずく一眞に背を向け、景英は再び歩き出した。林道はくねくねと曲がりながら、少しずつ山の中へ分け入って行くようだ。やがてふたりの前に、シダや苔にびっしりと覆われてそそり立つ岩壁が姿を現した。その麓には、巨大な楔を打ち込んで穿ったような三角形の亀裂がある。中は真っ暗だが、乾いた白っぽい岩の道がずっと奥へ続いているようだ。景英は亀裂の手前で足を止め、暗がりに向かって顎をしゃくった。
「奥に練兵場がある。非常時以外で鉄砲を撃ち、鋼の武器を振り回すことが許されるのは、御山ではこの中だけだ」
その時、暗がりの向こうからふいに音がした。誰かが足を引きずりながら歩いているようだ。黙って見守っていると、ややあってひとりの若者が姿を現した。頬に擦り傷、手首に赤痣をこしらえ、全身汗まみれで息を切らしている。背中を丸め、顎を出し、酔っ払いのような千鳥足で歩いてきた彼は、それでも景英に気づくとあわてて背筋を伸ばした。
「ちょうどよかった」景英が若者の肩を掴み、一眞と向き合わせる。「新参の一眞だ。行堂を案内して、決まりを教えてやれ」
「は……は、い」
若者は一音ごとに大きく息を吐き出しながら切れ切れに答え、また背中を丸めて、がくがく震える腿に両手をついた。その様子を見ながら、景英が苦笑をもらす。
「一眞、わたしの調練は毎日明け六つと、昼八つ半の二回だ。遅れるな」
「はい」
景英は踵を返し、来た道を再び戻っていった。相変わらずその足取りは速く、すらりと引き締まった後ろ姿が瞬く間に木立の向こうへと消える。一眞はそれを見送ってから、腰を折ったまま喘いでいる若者に目をやり、静かに問いかけた。
「どこかへ腰を下ろすか」
「い、いや――いい、だい……じょうぶだ」
はあ、はあ、と荒い息を吐きながら言い、彼は額と首筋からしたたり落ちて地面を濡らしている汗を袖でぬぐった。だが、ぬぐうそばからまたすぐにどっと噴き出してくる。洞窟の中の練兵場で、よほど激しい調練を受けていたのだろう。
一眞がじっと待つうちに、ようやく彼の息が静まり、顔の汗も引いてきた。
「すまない」決まり悪そうに言い、若者は肩をすぼめながら唇をなめた。「格好悪いったらないよ」
「ここの稽古は厳しそうだな」
「うん、厳しい――けど、それだけじゃなくて、おれが特別情けないんだ。剣術も槍術もからきし苦手だし、体力が全然ない」
ふっくらした顔の若者は色白で、切れ長の涼しげな目をしていた。背が高く、腕も脚もひょろ長い。胴回りには少し肉がつきすぎているようだ。歳は十六、七歳だろうか。
「剣術が苦手なら、どうしてほかの祭職を選ばなかったんだ」
「そうしたかったけどさ、祭宜や唱士になったって知られたら、母――父に殺されるよ」
武家の出だな、と一眞は当たりをつけた。衛士を志願する者の半分ぐらいは、おそらく左近の言った通り武士の家筋だろう。
「いつ入堂したんだ」
「七日前。前期修行中は五ノ上弦道の行堂にいたよ」若者は木剣か何かで打たれたらしい手首を痛そうにさすりながら、人好きのする笑顔を見せた。「よろしく。五十公野利達だ」
その名を聞いて、一眞は思わず目を瞠った。
「五十公野? 大皇が起った名家だ」
利達がぽっと頬を染める。「二百五十年も前の話だよ」
「淳田の変で門廻家を倒して、五十公野義達公が大皇位に就いた。第六代――七代だったか」
「第七代。でも政権を保てたのは義達一代で、しかもたったの十年間だった。驚いたなあ、えらく詳しいね」
「おふくろが歴史好きで、餓鬼のころよく話を聞かされたんだ。だが五十公野家は滅亡させられたと思っていた。所領は今どこに?」
「王生国の北にある、三尋木って小さな郷だよ。華表の変で義達が討たれたあと、一門衆が何か月も降伏交渉を繰り返して、無抵抗で慶城と天山を明け渡す代わりに手に入れたんだ」
「王州か。ずいぶん遠くから来たんだな」
一眞はまだ西峽の国々を見たことがなかった。干戈時代から続く武門の名家が今も群雄割拠するそこは、何か別世界のようにすら感じられる。
「ここまでの旅は長くて最悪だったよ」利達はしょぼくれ顔で言った。「半分は海路で、おれはずっと船酔いしてた。朝起きて吐き、飯を食って吐き、甲板に出て吐き、船室に戻って吐く。さんざんつらい思いをして、ようやく御山に着いたと思ったら、大祭堂までがまた遠いときてるだろう」
「その点ではおれは恵まれてたな。隣の浪州からだから、たいして長旅せずにすんだ」
そう言って肩をすくめて見せると、利達は羨ましそうにため息をついた。
ふたりは話をしながら宿堂の前まで戻り、そこでほかの修行者たちと出くわした。
次の年改めで二十歳になるという又市は、ほっそりして背の高いなかなかの美男子だ。輝盛は額と顎が面皰だらけで、話しながらそれを潰す悪癖がある。枯れ枝のように痩せていて、陰気そうに話す信光。がっしりと大柄だが、敏捷そうな身ごなしの伊之介。
そして女もひとりいた。年は一眞と同じか少し上ぐらいで、明るい褐色の目を持ち、つんと尖った鼻がいかにも生意気そうだ。彼女は〝玖実〟と名乗り、「鉄砲では誰にも負けないよ」と挑むように宣言した。豊かな黒髪を襟元で直線的に切り揃え、ほかの者たちと同じく黒い木綿の万事衣を身につけているが、その下の体は遠目にもすぐに女とわかるほど起伏に富んでいる。
「おれはまだ、鉄砲を撃ったことがない」
一眞が正直に言うと、玖実はたちまち気をよくして親しげになった。
「あたしもここへ来るまで、鉄砲には触ったこともなかったよ。でも扱いを覚えて、しょっちゅう撃っていたらすぐ上手になった。あんたもきっとそうなるわ」
「おまえは武家の子だよな。剣は使えるのか?」伊之介が訊く。
「そこそこ使える。親父の家来に腕の立つ男がいて、餓鬼のころから指南されたんだ」
そう答えながら、一眞は久しぶりに義益のことを思い出した。彼はあんな田舎で、父のような男に仕えるにはもったいないほどの実力と器量を持っていた、としみじみ思う。
「剣はいいけど、槍と弓はまだまだだ。馬術はわりといける」
「指南役がついてたようなやつは、出だしから一歩も二歩も先へ行ってて不公平だよな」信光がため息をつきながらぼやいた。「我流の剣法じゃ太刀打ちできんよ」
「でも、おまえだって武家出身だろう」
又市に指摘され、信光が眉をしかめる。
「武家ったって、いろいろあるのさ。うちはただの貧乏地侍だから、戦がなきゃずっと畑を耕してるだけで、ほとんど百姓と変わらない」
「贅沢言ってらあ。耕す土地があるだけいいじゃないか」又市は鼻を鳴らし、彼の頭を軽く小突いた。「おれなんか、まともに住める家もないような暮らしだったんだぞ」
前期修行で入っていた行堂とこことでは、かなり雰囲気が違うことに一眞は気づいた。さまざまな出自の男女が集まっているところは同じだが、こちらは圧倒的に平均年齢が若い。それもあってか、みんな積極的だし、生気に満ちあふれている。
ただ利達はほかの者と合流してから、すっかり影が薄くなってしまった。ふたりでいた時にはよくしゃべっていたのに、今はほとんど会話の中に入ってこない。いったい何を遠慮しているのだろう。
少し雑談につき合ったあと、一眞は利達を促して集団から抜け出した。
「案内してもらってる途中だったんだ」
そう言った彼に、又市たちは揃って奇妙な視線を向けた。
「ああ――そうか」伊之介がくるりと目を回し、わざとらしく咳をする。「あのさ、なんなら、おれが案内してやってもいいぜ」
「なぜだ」
何となく察しはついたが、敢えて訊いてみた。居並ぶ顔をゆっくりと見渡し、端にいる輝盛のところで視線を止めて、じっと見つめる。
「そりゃあ、その……利達もまだ入ったばかりで、あんまり詳しくないからさ」輝盛は肩をもぞもぞさせながら言い、ほとんど無意識のように手を上げて、右の顎にできた赤い面皰を潰した。周りにいる仲間たちが、一斉に呻いて顔をゆがめる。「伊之介は入堂してもう三十日だから、ここのことは自分の庭みたいによく知ってるんだ」
「そうか」
一眞はうなずき、隣に立つ利達の背中を軽く叩いた。
「そういうことなら、お互いにいい機会だし、新参同士で探索してみるよ。でも、わからないことがあったら、あとで訊いてもいいか」
伊之介を見ながら問いかけると、彼は相好を崩してにんまりした。
「おう、いつでも来いよ」
「おれだって入堂二十五日だ」信光がぼそりとつぶやく。「しかも伊之介より物覚えがいい。なのにたった五日の違いで、誰からも〝信光は行堂に詳しい〟とは言ってもらえないんだ」
「また始まった」玖実が眉を吊り上げ、彼の向こう臑を爪先で軽く蹴った。「あんたって、ほんと愚痴っぽいね」
声を揃えて笑う修行者たちから離れ、一眞と利達は宿堂の中へ入っていった。中は細かく仕切られ、各部屋ごとに四人が寝られるようになっている。男部屋と女部屋に分けられている以外に各室の区別はなく、空いている寝台を見つけてどこでも好きな部屋に寝ていいということだった。寝台がすべて塞がっている部屋もあれば、誰も使っていない部屋もある。一眞は空き室のひとつを選んで、奥にある寝台に手荷物を置いた。そのうち誰か入ってくるだろうが、当面ひとりで静かに寝られるのはありがたい。
「当番の内容は、下の行堂でやっていたのと変わらないよ。一番は掃除、二番は農作業、三番は料理、四番は修繕。一番から始めて、五十日ごとに次の番へ移る決まりだ」
利達は一眞を宿堂に隣接する食堂へ案内しながら説明した。
「暁七つに起きて身支度をしたら、祭堂に集まって朝の祈唱。終わったら宿堂に戻って、各自部屋の清掃と寝台の整頓。明け六つに練兵場で堂長の調練。でも三番当番の時には半分しか出られない」
食堂は畳敷きの部屋を二室つなげた、細長い構造になっていた。地炉が切ってある奥側に古参が座る決まりだという。板戸で仕切られた隣は、座敷の二倍ほどもある広い厨で、六人の修行者が昼飯の支度や保存食の仕込みなどを行っていた。
「朝飯は五つ。そのあと当番。四つから昼九つまでは、堂長以外の指南役から調練を受ける。休憩があって――今がそうだけど――九つ半に昼飯」
座敷の外廊下は渡り廊下につながっており、その先にはひと間だけの簡素な学堂があった。広い畳敷きで、装飾のない素朴な杉材の小机が整然と並べられている。
「昼飯のあとは、この学堂で大祭宜の教練を受ける。たまに宗司が教えに来ることもあるよ。八つ半からは、また堂長の調練。夕七つから当番。暮れ六つに祭堂で宵の祈唱。六つ半に晩飯。そのあとは〝温習〟の時間で、各自鍛錬をしたり、学問をしたりする。洗濯や風呂もこの時間帯に済ませることになってるんだ」
ふたりは学堂の出口から外へ出て、七ノ上弦道の西の端まで歩いていった。道の突き当たりには厩があり、その先は草木を刈り払って整地した馬場になっている。
「射場があると聞いたんだが」
ここまで、それらしい建物は見なかった。利達が山の斜面に目を向けながら説明する。
「さっきの洞窟の中に、弓と鉄砲の射場もあるんだ。射座は七つで、的までの距離は三十丈ほどだよ」
ひととおり話してから、利達は妙に張り詰めた表情で小さくため息をついた。
「さっきのさ――」しきりに唇をなめながら、もごもごと言う。「おれに遠慮せずに、伊之介に案内してもらってもよかったんだ」
「遠慮してない。それに、おまえだって充分詳しいじゃないか」
一眞は胸のあたりまである馬場の柵にもたれ、利達をじっと見つめた。負け犬の顔になっている――と思う。生まれてからずっと、飼い主に打たれ続けてきた犬の顔だ。
「あいつらとうまくいってないのか? けっこう気のいい連中に思えたが」
「うまくいってない……わけじゃない。あいつらは何も問題ないよ。みんな親切だし、打ち合いの時におれをいたぶったりもしない」
ということは、ほかの誰かにいたぶられているわけだ。袖から覗く手首の痣は、そいつにつけられたのかもしれない。
「ただ、おれは蝸牛みたいにのろまで、その……だから……だから、みんなについて行けないし、相手にされないんだ」
白い頬を真っ赤にして、利達は吐き捨てるように言った。気の毒になるほど、卑屈な考え方が身に染みついている。その両手は神経質そうに動いて、上衣の裾をもみくちゃにしていた。頭の中に渦巻いている思いが、そのまま動作に表れている。
一眞は、先ほど彼がほかの修行者たちの輪に入ろうとせず、遠慮がちに距離を取っていたことを思い出した。相手にされないと頭から決めてかかっているので、気後れのほうが先に立ってしまい、ちょっと相づちを打つ程度のことすらできないのだ。
だが、そんな内心の葛藤など他人にはわかるはずもない。見るからに育ちの良さそうな風情も、この場合は負の要因にしかならないだろう。きっとほかの者たちからは、つき合いの悪い権高なやつと思われているに違いない。案内役を代わろうかと申し出た時の伊之介の表情からも、それは感じ取ることができた。
「あの堂長に毎日しごかれたら――」荒く削られた柵杭に手を這わせながら、一眞はゆっくりと言った。「蝸牛だってそのうち走り出しそうだ」
利達が、はっと顔を上げた。批判か同情を予想していたところへ、それとは異なる反応をされて目が戸惑っている。だが、すぐに緊張を緩め、話を逸らされたことにほっとした様子で小さく息をついた。
「うん。少なくとも、亀よりは速くなるかも」苦笑混じりに言う。
一眞は柵を離れて彼に近づいていき、黙って横を通り過ぎた。ふいに置き去りにされ、焦っている気配が背中に伝わってくる。
「腹が減った。そろそろ昼飯時だろう?」
なおも歩き続けながら、肩ごしに訊く。すると利達は主人に呼ばれた犬のように、急いで後を追ってきた。
「そ、そう。もうじきだ」
「さっきの厨をもう一度覗きに行かないか。膳を運ぶのを手伝うと言えば、何かひと口つまませてくれるかもしれない」
「いいね」
声が嬉しそうに弾む。ちらりと目をやると、照れたような笑みを返してきた。最初に顔を合わせた時も思ったが、品のいい造作なので、笑うとさらに感じが良くなる。行堂の雰囲気に慣れて、ほかの者にもこの笑顔を見せられるようになったら、もともと悪意のない連中とはすぐに打ち解けることができるだろう。
一眞は彼を伴って食堂へ入りながら、御山だろうが下界だろうが、人間はたいして変わらないんだな――とあらためて思った。
顔を合わせた瞬間からおれを憎むやつがいるかと思えば、些細なきっかけですぐに信用して味方だと思い込むやつもいる。世話を焼きたがるやつ。色目を使うやつ。関わりたがるやつ。避けようとするやつ。そして、おれの心を見透かそうとするやつも。
ふと、千手景英の姿が脳裏に浮かんだ。端正で厳めしい顔立ち。獲物を狙う鷹のように鋭い目。おまえが何者か知っている、とあの瞳は言っていた。おまえを見ているぞと。
下界で持っていたすべてを捨てて昇山し、行堂で祈りと学びの百五十日を過ごした。それでも、おれはまだ何も変わっていないんだろうか。おれの手についた血のにおいを、あの男は嗅ぎ取ったんだろうか。
左近のような輩に目の敵にされたとしても、べつにどうということはない。だが景英の静かな注視に、一眞はかつてないほど警戒心をかき立てられていた。
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