十一 立身国七草郷・黒葛真木 弟
障子を透かして入る白々とした朝の光を感じて目蓋を開けると、室内はすでに襖絵の隅々まではっきり見て取れるほど明るくなっていた。
まあ、わたしたち寝坊したわ。
黒葛真木は誰も起こしに来なかったことに少し驚きながら、一枚の夜着を分け合っている夫貴昭の様子を窺った。彼は彼女の肩口に顔を埋め、未だ穏やかな眠りをむさぼっている。両腿のあいだに彼の膝が割り込み、ゆるく曲げた指の関節が乳首に軽く触れていた。昨夜は久しぶりに長い時間をかけてゆっくりと愛し合い、ふたりとも着衣を整えないまま眠りに落ちてしまったのだ。
真木はその情熱的な交わりを思い出しながら微笑み、少し寝乱れた夫の髪を指で軽く梳いた。夕べの営みは、わたしたちに新しい子供をもたらすだろうか。嫁いで三年、長男の貴之が産まれて二年。そろそろ次の子を授かってもいいころだ。もうひとり男の子が欲しい。でも女の子でもいい。黒葛の義母上は、優れた男子ばかり三人もお産みなさった。わたしの母も、わたしを産んだあとで立て続けに三人の男子を授かっている。多産の家系だから、きっとわたしにもたくさんの子が授かるはずだわ。そのために、夫と共に努力もしている。
「殿」
優しく声をかけると、貴昭はくぐもった声で「うん」と答えた。これはまだ、完全には目が覚めていない証拠だ。まどろんでいる時に話しかけると、彼はいつも夢うつつで「うん、うん」と返事をする。普段はあまり隙を見せない夫だけに、その無防備さが真木には愛おしくてならなかった。
「殿」
「うん」
「もうお起きにならないと」
「うん」つぶやいて、ゆっくりと背中を丸める。もう起きる寸前ね、と思った次の瞬間、彼はぱっちり目を開き、そのまま首を回して天井を見やった。「寝坊したな」
「はい」
真木がくすくす笑うと、貴昭は彼女の腰に腕を回してぐっと引き寄せた。
「まあ、たまにはいいか」
とぼけた調子で言いながら、妻の温かい首筋に唇を押し当てる。くすぐるように鎖骨をゆっくりとなぞられ、軽く歯を立てられると、真木の息が自然と荒くなった。
「殿。あなた。もう日も高いのに、そんなおいたを」
「堅いことを言うな」貴昭は辺りの明るさなど気にする様子もなく、思うままに愛撫を続ける。「以前はよく、こうして朝から睦み合っただろう」
彼の言う通り、輿入れのあと三年近く住んでい三州の蘇武では、ふたりはしばしば二匹の若い獣のように奔放に愛し合ったものだった。だが七草へ来てからは、なかなかそうはいかない。ここでの彼は国主代行として立州を支配する立場であり、目の前にはさまざまな仕事が常に山積している。国主というのは、家臣の誰にも増して多忙なものなのだ。
真木は時々、結婚の祝いとして夫に与えられた、湖のそばのあの小さな所領に帰りたいと思うことがある。あそこでは家族と共に、平凡で穏やかで親密な暮らしを送ることができた。ここでは夫は〝御屋形さま〟と呼ばれ、一日のほとんどの時間を家臣たちに取り巻かれている。そこに女や子供の入り込む余地はなかった。
それでも貴昭は、いかにも黒葛家の者らしく身内思いだ。どんなに忙しくとも家族をないがしろにすることはない。無理に時間を作ってでも、できる限り多く幼い息子の相手をしてやり、時にこうして妻を可愛がることも忘れなかった。
「気を散らしているな」
片眼をしかめながら貴昭が言い、真木ははっと我に返った。
「おれに抱かれるのは退屈か」
「ま。そんな皮肉を」
真木はお返しとばかりに貴昭の耳朶に噛みつき、彼を大声で笑わせた。たくましい両腕でぎゅっと抱きしめられ、息が詰まりそうになる。
「幸せです」
その言葉は自然にあふれ出てきた。夫の手が髪をなで、肩の丸みを指の腹でそっとさする。
「おれも幸せだ。かわいい妻がいて、子がいる。この若さで、一国を担う大役を任されている。これ以上は望むべくもない」
「ええ。でも……わたしはまだ、望むものがあります」
「何が欲しい」
「あなたとの子を、もうひとり。いいえ、ふたり」真木は夫の胸に耳をつけ、ぴんと張った滑らかな皮膚を通して伝わってくる、強い心臓の鼓動を聴きながら囁くように言った。「三人でも、四人でも」
「貪欲な奥方だ」貴昭は明るく笑って身を起こし、あらためて真木の上に覆い被さった。「斯くなる上は、力の及ぶかぎり努めねばなるまいな」
口調はふざけているが、目は真剣そのものだ。射るように見据えられたまま深く口づけられ、真木は夢中で夫の首に腕を回した。そうしながら、さすがに誰かそろそろ様子を見に来るかもしれない――と思う。お願い、もう少しだけでいいから、ふたりきりにさせて。もう少しだけ。
結局最後まで、夫婦の邪魔をする者は現れなかった。あるいは女中の誰かが室内の様子に気づき、気を利かせてくれたのかもしれない。
起き抜けの激しい交わりは、真木の体に心地よい疼きと気怠い疲労を半々に残した。貴昭のほうは疲れた様子など微塵も見せず、妻の手伝いで着替えをしながら、早くも今日すべき仕事に思いを馳せている。
「午過ぎから供回りを連れて荷軽部へ行く」
「隣の郷ですね」真木は夫によく似合う、黒紅梅の阿武上布で仕立てた小袖を着せかけながら訊いた。「お戻りはいつごろ?」
「天候がよければ、そのままほかの郷も見回ってくるつもりだ。三、四日戻らんかもしれん」
「そうですか」
寂しい、という気持ちは顔にも声にも出さなかった。だが夫は気づいたらしく、指の背で優しく頬をなでてくれる。
「移封したばかりなので忙しいが、今は辛抱してくれ。儲口守恒が政をないがしろにしていたので、いろいろと棚上げになっていたことをおれが片づけねば。本城のない荷軽部に国庁があるのもおかしな話だし、いずれ七草へ移すことになるだろうな。各地の郷庁も、半分ほどは機能していないようなので、放っておくわけにはいかん」
「はい」
「一段落したら、大規模な狩りを催す。その時は、おまえと貴之も連れて行くつもりだ」
「まあ、楽しみです」
「守恒がここ数年、鹿狩りを禁じていたせいで猟師がいなくなり、近隣の百姓たちが鹿や猪の食害に困り果てているらしい。近々、印判状を与えて腕のいい猟師を領内に呼び戻すが、それまでのしのぎにと思ってな。七草で新たに家臣となった者たちと交流し、彼らの器量をはかる、よい機会にもなるはずだ」
「それにしても守恒どのは、なぜ鹿狩りを禁止に?」
「さあ。よほど鹿が好きなのだろう」
貴昭はからからと笑って、真木のこめかみに軽く唇を触れさせ、颯爽と中奥へ出て行った。これから中御座之間で、昨夜の宿直を務めた者や出仕してきた重臣らと朝食をとりながら、彼らの報告を聞くのだ。
身支度をして奥寝間を出た真木は、側仕えの女中に申しつけて、玄米の粥とごま塩、茄子の漬物だけの簡単な朝食を自分の居間に運ばせた。そろそろ朝五つになろうかという時刻なので、あまりのんびりとはしていられない。たしか今日は、新しい下女の面接をする予定になっていたはずだ。城付きの堂司を呼んで、巧月一日に行う貴昭の祖母の追悼霊祭の打ち合わせもしなければならない。
「貴之はもう、朝餉をすませましたか」
食事をしながら訊くと、侍女の津根が笑って答えた。
「はい、もうとっくに。今朝はことのほか早くお起きになりましたよ」
「まあ」真木は思わずため息をついた。「親の面目丸つぶれね。今はどうしているの」
「中奥の内御座之間で、博武さまと遊んでおいでです」
石動博武は真木の弟で、貴之にとっては叔父にあたる。彼は甥が産まれてからというもの、親馬鹿ならぬ〝叔父馬鹿〟を自称して憚らず、暇さえあれば相手をしに現れるので、御殿女中たちの中には傅役だと勘違いする者もいるほどだった。我が子を弟が可愛がってくれるのはもちろん嬉しい。しかしまだ年若く、もともとさほど子供好きでもなかった彼が、こうまで貴之に夢中になっているのが真木には不思議でならなかった。
食事を終えて内御座之間を見に行くと、津根の言った通り博武が貴之を遊ばせていた。どこで調達してきたものか、薄く平べったいきれいな小石をいくつも用意していて、それを甥にひとつずつ渡しては積み上げさせている。うまく積めても、途中でうっかり崩してしまっても、同じぐらい貴之は喜んで盛んに笑い声を上げていた。
「上手、上手。そら、もうひとつ」小さな手に石を載せてやりながら、博武はふと顔を上げて真木に気づき、にやりと笑って見せた。「姉上。今朝はずいぶんと遅いお出ましで」
「あなたのほうはお早いこと」
「昨夜は宿直の当番でしたからね。午からは御屋形さまのお供をすることになっていて、寸暇に屋敷へ戻っても詮ないので、そのまま居残っているんです」
真木は室内に入って行き、貴之の傍に腰を下ろした。息子は幼いなりの集中力を発揮して、ぐらぐら揺れる小石の塔をさらに嵩増ししようとしている。
「朝餉はどうしたの」
「女中にひもじいと訴えたら、握り飯を作ってきてくれましたよ。おれは、人にものをねだるのがうまいんです」
ぬけぬけと言う弟に、真木はあきれ顔を向けた。だが実際に彼は昔から、なんだかんだと言いくるめて他人を自分の思うままにしてしまうのが得意だ。弁が立ち、人なつっこく、それでいて風のように捉えどころのない博武は、我が弟ながら魅力的な男だと認めざるを得ない。そして、その魅力を武器に味方や仲間を増やし、城内での地歩を着々と固めている彼が、いずれ貴之の強力な庇護者になるであろうことは疑う余地もなかった。
「この石、どこで見つけたの?」
畳の上に置いてある石は、どれも角が取れていて丸い。そのひとつを手に取ると、表面がすべすべしているのがわかった。
「河原で拾ってきたんですよ。城の大外堀を兼ねている舩渡川の下流、海に近いあたりには、こういう石がたくさんあるんです」
「あなたがしょっちゅう、城下をふらふら出歩いていると聞いたけど、どうやら本当のようね」
博武は眉を上げ、口の端をわずかに歪めた。
「伝兵衛だな。あのちくり屋め」
「そのちくり屋を気に入って、従者にすると決めたのは自分でしょう」
「みんなそう言いますがね、おれには覚えがないんですよ」
真木はその場に居合わせた時、もう八歳になっていたのでよく覚えている。
石動家の居城である狩集城で、父石動博嗣の招集に遅参した家来がいた。酒飲みのだらしない男で、何かというと遅れて来る、普段からあまり評判のよくない人物だ。「乗るつもりだった馬が急に走り出し、逃げてしまいましたので」と言い訳をしながら、その日も彼は酒のにおいをぷんぷんさせていた。誰もがあきれ果て、博嗣すら叱るのもうんざりだという顔をしているのに、それにも気づかず、替え馬とは相性が合わず――などとくどくど言っている。
それを横で聞いていたのが、のちに博武の従者となる若かりし日の久喜伝兵衛だった。
「そういえば先刻、ご城内で主のない馬に出合ったが……」彼は何を思ったか出し抜けにそうつぶやき、みなが視線を集める中「乗り手の酔い覚めを待っていて殿のお召しに遅れては大変と思い、ひと足先に一騎駆けして参ったと得意げな顔をしておりました」と皮肉った。
当時、伝兵衛は十七歳で、身分も決して高くはない。一方の皮肉られた相手は、振る舞いはさておき、家格自体は上士に相当する人物だ。
これはひともめあるか、と誰もが思った瞬間、父親の出陣を見送りに出ていた次男の博武が、突然声を上げた。
「それは見上げた心がけの馬だな」彼はさも愉快そうにけらけら笑うと、博嗣のほうを向いてはっきりした口調で言った。「父上、この者が気に入りました。わたしの郎党にしたいと思います」
こうして博武は、わずか五歳で家来を抱える身となった。そんな常識外れがまかり通ったのは、このなりゆきをおもしろがった博嗣が容認したから、そして伝兵衛自身が何も異議を差し挟むことなく受け入れたからだ。
「あの時は驚いたわ」真木は当時を思い出しながら言った。「なにしろあなた、五歳になるまでほとんど言葉を話さなくて母上が心を痛めていたほどだったのに、急に口を開いたと思ったら大人顔負けにしゃべり出して」
「そのへんも記憶にありませんね」
博武は貴之が崩した石を拾い集めながら、肩をすくめてみせた。
「伝兵衛がどう言ったか知りませんが、おれが城下をうろつくのは、当地のことを知って早く馴染みたいからですよ。それに、城の中だけじゃなく、外でも人脈を広げたい」
この子のことだから、きっと手当たり次第いろいろな人に声をかけて回っているんでしょうね、と思うと、ふと笑みがもれた。ちらりと視線をよこした博武が、それを目ざとく見つける。
「笑ってますね。城下で思いがけず、興味深い人物にばったり出くわすことだってあるんですよ」
「例えばどんな人?」
「どんなって、そうだな……先日、おれと同年の武芸者に会いました。寡黙で、慇懃で、おもしろい男でしたよ」
「どうおもしろいの」
「おもしろいことを何も言わないところがおもしろい――という感じかな」
「あなたらしい評価だこと」
「冗談はさておき、あれはかなり腕が立ちそうだ。石動の備に入れと誘ったら、まんざらでもなさそうな顔をしていました」のんびりと話しているが、その目に一瞬鋭い光が瞬く。「あの男とはそのうち斬り合うか――または、共に戦うかすることになりそうな予感がします」
「まあ、いやだ」真木は眉をひそめて低く言った。「そういう話を嬉しそうにするところ、殿とそっくり」
「そっくりと言えば、貴之は近ごろ御屋形さまによく似てきましたね」
博武は甥の顔を覗き込みながら言った。変わった色合いの石を手の中でひねり回していた貴之が注目されていることに気づき、叔父を見上げてにっこり笑う。
「ほら、この笑顔。まるで御屋形さまそのものだ」
「ええ、そうなの。産まれた当初は母親似だとさんざん言われたけど」
赤子のころ、貴之は誰が見てもわかるほど石動家の顔をしていた。しかし乳離れしたころから面立ちが変わり始め、今では完全に黒葛家の顔つきになっている。もっとも特徴的なのは輝きのある大きな目と、まっすぐ通った鼻筋だ。黒葛家の男性の多くは眉目秀麗で、その目鼻立ちは凛々しい反面、やや厳しさも感じさせる。だが夫の貴昭や貴之の場合は、少し笑みをふくんだような口元の優しさがそれを幾分和らげていた。
「目が開く前の顔を見た時は、元博がもうひとり産まれたかと思いましたがね」
博武が末の弟の名前を出したことで、もう何年も会ってない少年の姿が真木の脳裏に浮かんできた。彼は天山へ人質として送られる黒葛宗家嫡子の随員に選ばれ、北部へ向かって旅をしている最中だ。記憶にあるよりも成長して、今はもっとたくましくなっているだろう。
「あの子、元気にしているのかしら」
「元気ですよ。昨日、手紙が届きました」博武がこともなげに言う。「十日ほど前に狩集を通過して、そこから出したらしい」
石動家の居城がある三州の狩集は、真木にとっても懐かしい実家だ。父母が息災なのをいいことに、ずっと里帰りをしていない。
「城に立ち寄ったの。じゃあ、父上も母上も喜ばれたでしょうね」
「天山に行ってしまったら、もう当分は会えませんからね。父上がご一行を手厚くもてなし、元博には、まだ十三歳なので少し早いですが、元服式を執り行ってくれたそうです」
博武はそう言って、さも可笑しそうに笑った。
「おもしろい話を聞かせましょうか、姉上。実は元博のやつ、わずかのあいだに三度も元服するはめになったんですよ。一度目は生明、二度目は郡楽、そして三度目は狩集で」
「ええ? どうしてそんなことに?」
「まずは勤め先の生明を発つ時に、小姓としてお仕えしていた黒葛寛貴さまが御自ら烏帽子親となって、加冠の儀を行ってくださったとか。祝ってくれる者も少ない天山で、寂しく元服を迎えさせるのは忍びないとおっしゃってね。それから、ご一行が郡楽を発つ前の別れの儀式の際に、今度はご宗家の御屋形さまがやはり同じようにおっしゃって、元博の元服式をわざわざ組み込んでくださったそうです。で、最後は狩集で父上が」
真木は思わず吹き出し、慌てて口元を手で押さえた。少し向こうの中御座之間では、夫が重臣たちと大事な話をしている。女の笑い声などがもれ聞こえたら大変だ。そんな姉を見ながら、博武はにやにやしている。
「お三方それぞれの心づくしとはいえ、堅苦しい儀式で幾度も主役を張るはめになり、元博もさすがに閉口したようです。だがめったにあることではないので、これからは〝三度元服した男〟を二つ名にするつもりだと手紙に書いてきました」
口を覆ったまま身をふたつに折って、真木は息が詰まるほど笑った。いかにも、小さいころから明朗快活だった元博らしい言いぐさだ。
「随員のご一行とは、うまくやっているの?」
「若君の傅役の朴木直祐どのと意気投合して、それなりに楽しく過ごしているようです。随員の長の黒葛禎貴さまも、よく練れた好もしいお人柄だとか。まあ、あいつは誰とでもすぐ仲良くなれるし、それなりに処世術も心得ています。心配はいりませんよ」
あまりにあっさりとした言い方なので、真木としてはやや拍子抜けした感があった。子供のころ、博武と元博はあんなに仲が良かったのに。
「あなたは、もっと気に懸けているかと思ったわ」
「気に懸けていますよ。だからこそ、次々と送られてくる手紙を、律儀に全部読んでいるんです。どこに泊まったの、何を食べたのといったことまで細々と書いてくるものだから、毎度長くて参りますよ。きっとあの調子で、兄貴にも書き送っているでしょうね」
「まあ、孝博にも? わたしには何も言ってこないわ」
「嫁に行った姉に、ことさら用もないのに弟が手紙を送ったりするものじゃないでしょう」
そう言われればその通りだが、何となく寂しいような気もする。思えば、黒葛家に嫁いで以来、実家とは少し疎遠になりすぎていたかもしれない。出産の時にも帰らなかったので、母が前の所領の蘇武まではるばる来て滞在してくれた。
黒葛家は身内のつながりを、何よりも大事にする。支族たる石動家もそうでなくては。わたしも近いうちに、母上に手紙ぐらい書こう。そしていずれ里帰りして、両親に孫の成長ぶりを見せてやりたい。
「ところで、返事を書いてやっているの?」
何気なく訊くと、博武はちらっと姉を見やり、憮然としてため息をついた。
「天山へ着いたと言ってきたら書きますよ。べつに今、こちらから知らせるほどのことは何もありませんしね」
「薄情な子ね」
「手紙なら、兄貴がまめまめしく書き送っているに違いないから、おれが書かずとも構わないんです。どのみち元博も、おれからの返事は期待していませんよ」
慎重に積み上げていた石の塔がぱらぱらと崩れ、貴之が笑い声を上げたその時、内廊下から貴昭がやって来た。
「おお、楽しそうだな」
貴之に歩み寄る彼を見て、博武がさっと腰を上げ、片膝をついて脇に控えた。何ごとにつけ自分流のやり方を通したがる奔放な弟だが、主君である貴昭の前では臣下としての振る舞いを決して忘れない。真木には、彼のその心がけが嬉しかった。
「また叔父上に遊んでもらっていたのか?」にこにこと機嫌のいい息子を抱き上げ、貴昭はその顔を嬉しげに見つめた。「今のうちに、うんと甘えておけ。じきに会えなくなるからな」
彼が貴之を抱いたまま、上段の間に着座するのを目で追いながら、真木は首を傾げた。
「どうして会えなくなるのです?」
貴昭と、彼に続いて腰を下ろした博武とを交互に見ながら問いかける。ややあって、返答したのは夫のほうだった。
「宗家の命により、近々、立州でも天翔隊を編成することとなった」
「それは知っています」
「北西部の射手矢郷をまたぐ群峰のいずれかに禽籠を設置し、士分の若者たちの中から隊士の候補者を選んで送る」
「はい」
「博武は、その第一陣の候補者のひとりだ」
驚きのあまり、真木はしばらく声が出なかった。凝然と見開いた目の前で、当の博武は涼しい顔をして、散らばった小石をまた拾い集めている。その口元には小癪な笑みが浮かんでいた。
「わたしは……聞いていませんでした」
動揺を押し隠そうとしたが、声が少し上ずってしまった。それに気づき、貴昭が怪訝そうな顔になる。
「姉にも内緒にしていたのか、博武」
主に問われた博武は、落ち着き払った様子で答えた。
「内緒にしていたわけではありません。ただ話さなかったというだけで」
貴昭がにやりと笑う。「反対されるのがわかっているから、話したくなかったのだろう」
「は。それは否定しません」
もちろん反対するに決まっている。真木は顔に血が上るのを感じながら、両手を握り締めた。
「天翔隊の隊士は……訓練中に七割がたが脱落し、その半分が命を落とすと聞いています」
「それは昔のことですよ」博武が呑気そうに言う。「過去の教訓を活かし、そういった尊い犠牲から学んで、今では訓練法もずっと現代的に改良されています。実戦へ出る前に死ぬ者はそう多くありません」
どうしてこの子は、平然とこんなことが言えるのだろう。
「博武にはいずれ士大将となり、七草の備の一隊を率いてもらいたいと思っている」貴昭が静かに言った。「当然ながら、騎馬隊を率いる者は馬術を、鉄砲隊を率いる者は砲術を体得し、他者に抜きん出る技量を示さねばならん」
「わたしは天翔隊の長を目指したいのですよ、姉上」
博武は笑みを消し、真木をじっと見つめた。
「それにはまず、禽を操れるか、あるいは空で敵と斬り結べるようにならなければ。禽籠山で特別に訓練を受けないかぎり、それらの技は決して体得できません」
「でも……でも――士大将になるにしても、騎馬隊でいいではありませんか。鉄砲隊でも、槍隊でも。どうして天翔隊なの」
「それはこの先、天翔隊が戦いの帰趨を握るようになっていくからです」
博武は集めた小石を綾織りの巾着袋に入れ、膝行してきて真木に差し出した。反射的に受け取ろうとしたが、膝の上で固く握り締めていた両手がなかなか開かない。弟は苦笑をもらし、この上なく優しい手つきで丁寧に指を開かせると、手のひらの上にそっと袋を載せた。
「これ、若君が気に入られたようなので、お渡ししておきます」
無邪気な笑みを向けられたが、真木は笑顔を返すことができなかった。
「博武、夕べは宿直を務めたのだろう。表の小座敷で、午まで少し眠っておけ」
命じられて博武が退室すると、貴昭はあらためて訝しげに真木を見た。
「あの話で、おまえがそうも心乱すとは思わなかった」
言われるまでもなく、自分でもおかしいと思っている。なぜこんなに、胸の中で不安が大きく膨らんでいくのだろう。
「すみません。ただ――先ごろ末の弟の元博が人質勤めのため天山へ赴き、今度は博武が……と思うと、なんだかわたしを取り巻く世界が、みるみる変わっていってしまうような気がして」
いつの間にかまた手に力が入り、巾着袋を揉み絞っていた。そんな妻に貴昭が、理解といたわりに満ちた眼差しを注ぐ。
「平穏な時代が終わろうとしているのだ、真木」
そう告げた彼の声は静かだが、鋼の厳しさを帯びていた。
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