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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第三章 新たな火種
118/161

二十六 別役国酒匂郷・青藍 封霊の術

 盗賊集団〈二頭にとう団〉のねぐらに囚われてから、ひと月半ほどが過ぎた。

〈ふぶき屋〉からさらわれてきた女たちは初め十二人いたが、元気な者から順に数人ずつどこかへ売られていき、いまはもう半分以下しか残っていない。

 青藍せいらんは年齢よりも幼く見えるので高値がつきづらいと判断され、少し成長するまで置いておこうということになったようだ。ひとりで逃げ出すほどの才覚もないと思われているらしく、半月あまり経つと昼間はひとやから出されて、食事の支度や掃除などを手伝わされるようになった。

 じめじめした暗い獄にずっと押し込まれているよりは、洞窟の中に限るとはいえ自由に動き回れるほうがずっといい。青藍は雑役係の若い盗賊たちに混じり、あまり人目を引かないよう振る舞いに気をつけながら黙々と働いた。

 石のかまどがふたつあるくりやでは〈餅屋もちや〉が青藍の親方だ。額が広く、分厚い唇をした二十代(なか)ばの痩せぎすな男で、総勢三十人の仲間と捕虜の食事を驚くほど手際よく作る。彼の相方の〈林檎りんご〉と青藍は調理そのものには携わらせてもらえず、食材を運んだり洗ったり、野菜の皮むきをしたりといった下準備が主な役割となっていた。

 林檎はまだ十代の小柄な若者で、なかなか整った顔立ちをしているが少し頭が弱いらしい。いつもにやにやしているだけであまり物を言わず、こちらが話すこともどこまで理解できているのかよくわからなかった。餅屋に言いつけられた仕事はおおむねこなせるが、言いつけの内容自体をすぐに忘れてしまうので、「水()みはすませた?」「お芋を取ってきた?」などと青藍が頻繁に声をかけて思い出させてやる必要がある。

 そういう時、彼は「あっ、いっけねえ」と言って手のひらで額をぴしゃりと打ち、仕事をしにすっ飛んで行くのが常だった。「いっけねえ」は林檎がもっとも多く発する言葉かもしれない。彼は青藍が初めて出会った、自分自身よりもうっかり屋な人間だ。

 餅屋はそんな林檎を「うすらとんかち」「役立たず」と罵り、しばしばぶった。青藍も、少しでものろのろしていると「愚図ぐず」と言われてぶたれた。彼は痩せているのに力が強く、体の小さい青藍は平手打ちですら踏みこたえることができない。毎回、ごつごつした岩の地面に倒れて壁際まで転がり、一度などは頭を打ちつけて気絶したこともあった。

 右のこめかみに大きなこぶをつくってふらふらしながら過ごした四日間、餅屋はひどく不機嫌そうだったが、青藍に対する態度は普段よりいくらか穏やかだったように思う。だがほかの盗賊たちは、れ上がった彼女の顔を見るたびに無遠慮に笑った。

「こんな面相つらじゃ、ますます売れやしねえな」

「おまえ、居残って仲間になるなら、呼び名は〈たんこぶ〉で決まりだ」

 それらの言葉が悪意のない冗談なのか本気のあざけりなのか、青藍には区別がつかなかった。どのみち盗賊たちは、日ごろからたいそう口が悪い。何か言われても、いちいち気にして落ち込んだりしないのがいちばんだ。

 優しくしてくれる者も、まったくいないわけではなかった。一緒に雑役をする若い盗賊のうちひとりふたりは、彼女に気づかいらしきものを見せてくれることもある。

 もっとも親切なのは、暇さえあれば歌を口ずさんでいる〈イカル〉だ。山のふもとに棲む、声のきれいな鳥が呼び名の元になっているらしい。彼は仕事の合間にもよく鼻歌を唄うし、酒宴などで仲間に乞われれば古びた三味線を持ち出してきて小唄を披露したり、仲間が吹く調子っぱずれの笛に合わせて歌い踊ったりすることもあった。

 青藍は御山みやま唱士しょうしの素晴らしい詠唱をいつも聴いていたので、歌声の良し悪しは少しわかるつもりでいる。イカルの声は唱士たちほど鍛え上げられてはいないが、軽やかで伸びがあり、耳に心地よく響いた。

 この人、そんなに歌うのが好きなら盗賊なんかやめて、御山に昇山しょうざんして唱士になればいいのに。きちんと修行を積めば独唱だって任されるようになるかも。青藍は鼻歌交じりに働く彼と隣り合って塵掃ちりはきやごみ拾いをしながら、一度ならずそんなことを考えた。

 だが、本人にそう言ったりはしない。盗賊の塒では、他人に余計な口出しなどすべきではないことをすでに学んでいた。彼らは仲間同士ですら、何を言ったの言わないのでしょっちゅう喧嘩をしている。口は災いの元というが、実際その通りなのだ。

 囚われの女たちがいる獄の中でも、ちょっとした雑談から言い争いに発展するようなことがたびたび起こる。娼妓しょうぎたちは狭苦しい場所に長く閉じ込められて、みんなこらしょうがなくなっているようだ。

 とはいえ十二人いたころに比べると、数が減った今は広々としたものだった。寝場所や寝(わら)の取り合いをすることも最近はなくなっている。

 まだ売られずに獄に残っているのは、此糸このいと初音はつね夜斗やと花琴はなこと、青藍の五人だけだ。

〈ふぶき屋〉の部屋持ち娼妓だった此糸は勝ち気な美人で、〈二頭団〉の頭目のひとりである〈飯綱いづな〉の旦那にとても気に入られている。夜になると誘い出されて、彼の寝床で一緒に過ごすことが多かった。此糸が売られないのは、そのあたりの事情にるところが大きいだろう。

〝異国渡り〟の初音は珍しい金色の髪と空色の瞳が売りだが、田舎の宿場などではそれがかえって敬遠される元になるらしい。近場では買い手がつきそうにないので、いずれ龍康殿りゅうこうでんという大きな湊町まで連れて行こうと決まったようだった。

 娼妓の中でいちばん年かさの花琴は塒へさらわれて来るまでの旅で体を壊し、あれからだいぶ経った今もあまり回復していない。何か悪い病気でもこじらせたのか、すっかり食が落ちて、ひどくやせ細ってしまった。常に顔色が悪く、動きが緩慢で、日がな一日寝藁の上でぐったりしていることが多い。彼女に向ける盗賊たちの目つきが日増しに冷たくなっていくのが感じ取れて、青藍は気が気でなかった。これ以上元気が出ないままだと、そのうち花琴は厄介者扱いされて殺されてしまうかもしれない。ここの男たちは、それぐらいのことは平気でするだろう。

 青藍の次に年若い夜斗は最初の夜以来、ふたりの頭目を除いた盗賊たちの中でもっとも地位が高いらしい〈さい〉という男に贔屓ひいきにされていた。毎夜のように連れ出され、明け方近くにならないと獄へ戻ってこない。

 飯綱の旦那に可愛がられている此糸はそれなりに幸福そうだし得意げでもあったが、夜斗のほうはだいぶ事情が違うようだ。彼が賽に寝床でどんなことをされているのか、知識の乏しい青藍にはうまく想像できなかったが、殴られていることは間違いないと思えた。

 髪を乱し、仲間の娼妓に妬まれるほど美しい顔をあざだらけにして、目の周りや頬をれさせ、切れた唇から血を流しながら、よろよろと覚束おぼつかない足取りで夜斗はいつも獄へ戻ってくる。何も言わないまま倒れ込むようにして寝藁の上に体を横たえると、それきり身じろぎひとつせずにひるすぎまで眠り続けることが多かった。

 彼が食事をほとんど取らないことが青藍には気がかりで、起き上がれないなら稗粥ひえがゆさじで口まで運んでやろうとも思うのだが、近づこうとすると腕のひと振りで邪険に追い払われてしまう。

 夜斗は痛めつけられて弱っていたが、傲慢なほどの自負心はまだ保っているようだ。静かに深く眠って体力をいくらかなりと回復させ、夜も更けてまた賽が連れ出しに来ると、彼は決然とした面持ちで立ち上がって自ら獄を出ていく。無駄に抗う様子を見せることも、「つらい」と訴えることも、誰かに助けを求めることもいっさいしなかった。我が身に降りかかることはすべて、ひとりで耐えると決めているらしい。

 青藍はそんな夜斗に、いつしか尊敬の念をおぼえるようになっていた。自分も彼のように強くなりたいと切実に思う。

 とはいえ、いくら強くとも夜斗にも限界はあるだろう。最近の様子を見ていると、もうその瀬戸際まできているのではないかと感じることがある。

「首のあざ、どうして治らないのかしら」

 コマネズミのように忙しく立ち働いた一日がようやく終わり、くたくたの体を獄で休めていた青藍は、今日も夕餉を食べなかった夜斗の寝姿を見ながらぽつりとつぶやいた。

 彼の白く優美な首筋に、赤黒い首輪のような痣がくっきりと浮かび出ている。初めて見つけたのは十日ほど前だが、それからいっこうに薄れる気配がない。

「治る前に、またやられる。消えないの、だからね」

 隣で藁の上に寝そべっていた初音が、囁き声で教えてくれた。

「何をされたら、ああなるんですか」

 青藍は彼女のほうに少しにじり寄り、声をひそめて訊いた。

「絞めるの。手とか紐。ぎゅっ」絞める動作を真似てみせる初音の、夏空の色をした瞳が暗く陰っている。「息止まるのちょっと前まで」

「あの、とこのこと――をしている時に、首を絞めたり叩いたりするのはふつうのことですか?」

「お客みんなそれ好きよ。気持ちいい」

「気持ちいいの?」

 驚く青藍を、壁際で物憂げに爪の掃除をしていた此糸が鼻で笑う。

「ほんとに初心うぶで、物知らずな子だよ」

 彼女は上体を起こし、にやにやしながら青藍を見つめた。

「突っ込みながら首を絞めたり、ぶったりするのを楽しむ男は多いんだ。そうされると女はつい体に力が入っちまうだろ。あそこの肉も締まって具合がいいって寸法さ」

「あそこって、どこですか」

 此糸と初音が一緒になって吹き出した。間抜けな質問をしてしまったようだ。恥ずかしかったが、知らないことはそのつど訊いて覚えるしかない。

「女の人も、気持ちがいいの?」

「いいわけないだろ、馬鹿だね」

 切り返すように言った此糸の目にけんがある。

「女の尻っぺたを叩いて、相手もよろこんでるなんて思い込んでる男はとんだ間抜け野郎だよ。こっちは痛いばっかりだし、しつけの悪い犬扱いされてるみたいで、いらつくったらありゃしない」

 此糸さんも、飯綱の旦那に叩かれたりしているのかしら――と青藍は考え、彼女には痣も傷も見当たらないから違うだろうとすぐに思い直した。少なくとも、夜斗のようなひどい扱いを受けてはいないはずだ。

「なにも、あんなに殴らなくてもいいのに」

 赤や黒や黄色や、さまざまな色合いの痣に覆われた夜斗の寝顔を見ながらつぶやき、青藍はため息をついた。

 これほどきれいな顔を、どうしてあそこまで徹底的に傷つけたりできるのだろう。

 塒へ来た初めての夜、賽は「遊ぼう」と青藍を誘った。もし言われるまま従っていたら、今ごろあんなふうに痣と傷だらけにされていたのは自分だったのだ。そう考えただけで、顔から血の気が引くのがわかった。と同時に、痛みを夜斗に肩代わりしてもらっている心苦しさで胸がいっぱいになる。

「夜斗の相手は……あの賽って男は、ふつうじゃない」

 奇妙に張り詰めた声で、此糸が呻くように言った。

「たまにいるんだよ。女をぶん殴りながら犯すのが何より好きって男が」

 青藍が震え上がる横で、覚えがあると言いたげな初音がうんうんとうなずいている。

娼楼みせでそんな真似すりゃ、すぐ男衆おとこしが駆けつけてきて袋叩きにされるし、一発で登楼御法度になるけどね。外の世界じゃ、ああいう連中は弱い女や手前てめえの女房相手にやりたい放題さ」

 降山こうざんしてから何度も考えたことだが、下界はなんて怖いところなんだろう。人に危害を加えてはいけないという、ごく当たり前の決まり事すら存在しないか、あるいはあっても誰も気にしていないなんて。

「でも夜斗のやつも、あのカマ掘り野郎にやり返してるみたいじゃないか。見るたび、顔に打ち身やひっかき傷が増えてるよ」

 此糸は横目に夜斗のほうを見て、素っ気ない口調で言った。

「案外、楽しんでるのかもしれないね」

 そんなはずないわ。夜斗さんは苦しんでる。青藍はそう思ったが、声に出して反論はしなかった。此糸も本気で言っているわけではないのだろう。彼女も青藍と同じように、賽に気に入られたのが自分ではなかったことに安堵あんどし、一方で後ろめたさを感じているに違いない。その証拠に、前は目が合っただけで何かしら陰険な言葉を投げずにいられなかった夜斗に、最近あまり自分からからまなくなっている。

「此糸さん」

 青藍は身を起こし、猫のように静かにい寄りながら囁いた。

「此糸さんは、飯綱の旦那と仲良しでしょう?」

 その質問に、此糸は少し気をよくしたようだった。

「まあね。あたしを売るのはよして、このまま傍に置いておきたいと思ってるようだよ」

「もしかして、飯綱の旦那が言えば聞くんじゃないかしら、あの人に――夜斗さんを傷つけないようにって」

 ぎょっとしたように目を見開き、此糸は藁の上に投げ出していた両脚をさっと引き寄せた。

「馬鹿言うんじゃないよ。そんなこと頼めるもんか」

「でも飯綱の旦那は、此糸さんのお願いなら聞いてくれるかも」

「あたしなんぞがねだったところで、着物一枚だってくれやしない。気に入られてるったって、しょせんは好きな時に好きなように使うのにちょうどいい女ってだけさ。賽に意見してくれなんて頼もうもんなら、さんざん痛い目に遭わされた上に、素っ裸で手下どもの中に放り込まれちまうのが落ちだよ」

 青藍はしゅんとして、浮かせていた腰をざらついた岩の地面にぺたりと下ろした。首をうなだれると、髪についていた藁がはらりと落ちる。

 いい案だと思ったが、浅はかな考えだった。此糸の立場をまったく理解できていなかった自分が恥ずかしい。

 深く嘆息する青藍の背後で、獄の木格子がぎしりと鳴った。

 ぎょっとして振り返れば、いつの間にそこへ来ていたのか、さいが格子を片手でつかんで立っている。

「よう、おれの〝女〟はいい子にしてるか」

 峻厳な細面にからかうような笑みを浮かべ、彼は格子の隙間から獄の中を覗き込んだ。視線が左から右へゆっくりと動き、最後に青藍を捉えて止まる。

 今の話を聞かれた? ううん、だいじょうぶ。とても小さな声で話していたもの。

 平気だと自分に言い聞かせながらも、青藍は心の臓からみぞおちのあたりまで激しくドキドキと脈打つのを感じた。手のひらにねっとりした汗がにじみ出す。

 賽はしばらく青藍を見つめたあと、眠り続けている夜斗に視線を移した。

「知らん顔とは、つれないやつだな」

 此糸が弾かれたように飛び上がり、急いで夜斗を揺り起こした。

「ちょいと。起きなよ、あんた」

 夜斗は低く呻き、肩口に置かれた此糸の手をいやがるように寝返りを打った。のろのろと手をついて体を起こし、腰を上げ、藁まみれのままで膝立ちになる。少し間を置いて首を左右に振ると、顔にかかっていた長い髪が分かれて、たった今まで熟睡していたとは思えない明眸が現れた。

「来な」

 そう言って賽が扉の鍵を開けると、夜斗は膝に置いた手を支えにして立ち上がった。青藍たちのほうを見ることはせず、黙って外へ出て行く。

 彼が傍に来てにらむように見上げると、賽はにやつきながらその頬を軽くつねった。

「うんと楽しもうぜ」

 夜斗はさっと腕を振り、ハエを追い払うように賽の手を打ち払った。ぴしりと痛そうな音が鳴って、青藍の身をすくませる。

「こんなとこで、じゃれつくんじゃねえ」

 久しぶりに聞いた夜斗の声は、思いのほかしっかりしていた。

「おまえってやつは、なかなか折れねえなあ」賽がくすくす笑い、夜斗の柳腰に片腕を回して引き寄せる。「そこが気に入ってるよ」

 扉が元どおり閉められ、ふたりの姿が岩の通路のひとつに消えていくと、深々とため息をついて此糸が囁いた。

「夜斗は……しぶとい野郎だよ。それだけは間違いないね」


二頭にとう団〉には〈門番もんばん〉と〈飯綱いづな〉のふたりの頭目がいる。彼らは一緒にこの盗賊団を仕切っているが、仕事はそれぞれ別に行い、片方が出かけている時にはもう片方がねぐらに残ることになっているらしい。部下たちも二派に分かれており、誰がどちらの頭目と働くかはおおよそ決まっているようだった。

 青藍せいらんが観察したところによると、門番の部下は十人。対する飯綱の部下は十四人。盗み働きには加わらない〈餅屋〉と〈林檎りんご〉、薬療やくりょう術を心得ている〈薬屋〉、そして〈さい〉の四人は中立的な立場らしい。

 初め青藍は賽を門番の右腕なのだと思っていたが、彼は飯綱からも腹心の者として扱われている。外で仕事を行う時には、賽はどちらの頭目にも必ず同行した。要するに彼はこの一団きっての実力者なのだろう。

 飯綱がその賽と部下たちを引き連れて、久しぶりにどこかを襲撃しに出かけた翌朝、わらの寝床で目覚めた青藍は洞窟の中の空気が湿っぽいことに気づいた。外では雨が降っているのかもしれない。

 近ごろは一日の半分をひとやの外で過ごしているが、洞窟の出入り口へ向かう通路には決して近寄らせてもらえないので、もうずっと外の景色を見ていなかった。毎日少しずつでも穴の開口部付近へ行って森を眺めたり、新鮮な空気を胸いっぱいに吸ったり、通路の途中まで差し込んで岩肌を温める日の光を浴びたりできたらどんなにいいだろう。

 ゆっくり上体を起こし、眠気を追い払うために大きな伸びをすると、硬い床で寝て強張こわばった体の節々がぽきぽきと鳴った。一瞬ひやりとしたが、周りで寝ている娼妓しょうぎたちが起き出す気配はない。

 賽が出かけたお陰で、一時とはいえ理不尽な暴力から解放された夜斗やとも、珍しく穏やかな表情で眠りをむさぼっている。

 青藍は薄闇にほの白く浮かぶ彼の寝顔をちょっと見つめてから、見張りに扉を解錠してもらって獄の外へ出た。くりやでは餅屋がすでに食事の支度を始めていたが、今日は人数が少ないので人手は必要ないという。代わりに洞窟の奧にある便所穴の掃除と、山のようにたまったつくろい物を片づけるよう言いつけられた。

 かわやの掃除は決して愉快な仕事ではないが、自分自身もたびたび使う場所なので、きれいにしておきたい気持ちは強い。青藍は手ぬぐいを顔に巻いて鼻と口を覆うと、何をどのように使ったらこんなに汚れるのかといつも不思議に思う床に水を流し、砂をき、濡れて重くなったそれをせっせとほうきで寄せては穴に掃き落とした。

 便所穴と呼んではいるが岩の地面にできた天然の亀裂に過ぎないので、落としたものはそのまま真っ暗な地の底へ消えていくだけだ。かなり下のほうに川があるらしく、耳を澄ますとかすかに水の流れる音が聞こえてくる。亀裂の周辺には穴底へ向かって吸い込まれていく風の流れがあり、不潔なわりには臭気がこもっていないのがせめてもの救いだった。

 掃除を終えると青藍は厨へ飛んでいき、青菜と芋がらが入った稗雑炊ひえぞうすいの椀をもらって立ったまますすり込んだ。今日は餅屋の機嫌がいいらしく、塩気の強い大根漬の切れ端も添えられている。彼女はそれを最後まで残しておいて、厨を出がけに口に放り込んでから次の仕事に向かった。

 獄がある天井の高い広間から奧に延びた支道の一本はとても長く、途中で何本にも枝分かれしている。それらの先にあるのは、ふたりの頭目と幹部が私室として使っている穴蔵や、下っ端の盗賊たちが雑魚寝をする広い空間、浅い小川が流れている水場、武器庫、道具部屋などだ。

 青藍は水場に近い小穴のひとつへ入ると、まず瓦灯がとうふたつに明かりを灯した。次にわらを壁際にどっさり積み上げて、居心地のいい作業場所を作る。それから灯火を近くに引き寄せて座り、繕い物に取りかかった。

 針仕事はお世辞にも上手とは言えないが、古い衣類に空いた穴のかがり方や継ぎの当て方が多少不格好でも、また着られるようになってさえいれば盗賊たちはうるさく文句を言ったりしない。誰かに見張られて矢継ぎ早に指図されたり、小突き回されたりすることなく、ひとりでじっくり取り組めるこの仕事が青藍はけっこう好きだった。

 三針縫って、口に入れている大根漬の端をひと囓り。さらに三針縫って、またひと囓り。ささやかな楽しみを食べ尽くしてしまったあとも、彼女は灯火から立ちのぼる魚油の生臭いにおいを嗅ぎながら黙々と仕事を続けた。

 そうやって集中していると、相反するように意識が遠くまで広がっていくのがわかる。五感でこの場所の事象を捉えるのと同時に、それを超えた感覚で離れた場所の事象をもいつしかはっきりと知覚していた。

 厨で餅屋がネギを刻みながら、そろそろ傷み始めそうな長芋のことを考えている。

 林檎は広間の焚き火を燃え上がらせながら、獄の中の初音はつねをちらちらと盗み見ている。彼女のことがずっと前から気になっているのだ。

 支道の小穴のひとつでは、弓名人の〈百中ひゃくちゅう〉が矢柄やがらにする篠竹を小刀で削っている。

 わあ、この感じ、久しぶり――と青藍は思い、大祭堂で祈っている時にもたまに同じようなことが起きていたのを思い出した。とすると、縫い物に集中するのも祈りに没入するのも、根は同じようなものなのだろうか。

 集中度が増し、ふだんの何倍にも運針の速度が上がっていることに気づかないまま、彼女はさらに多くのものを捉えようとして意識の網を広げた。

 洞窟の入り口を、喉自慢の〈イカル〉と顎髭を長く伸ばした〈山羊やぎ〉が入ってくる。外で粗朶そだを集めてきたのだ。彼らの背後に、けぶるような雨の幕が垂れかかっている。

 その水滴一粒ひとつぶのきらめき。濡れた木々と土と草のにおい。囁くような雨音。

 洞窟の奧の暗い部屋では、門番の旦那が小さな明かりの傍でうなだれていた。彼は床に座り込んで背中を丸め、その疲れ果てた眼差しは藁の寝床に横たえられた弟の〈拳固げんこ〉に向けられている。

〈ふぶき屋〉襲撃時に重い傷を負い、半死半生でなんとかこのねぐらに帰り着いた拳固は、薬屋の手厚い治療を受けても回復のきざしがほとんど見られなかった。にもかかわらず、驚くべき頑強さで未だに持ちこたえている。門番はこのところ昼も夜も弟につききりで、物言わぬ唇に水を含ませたり、体を拭いたりと、献身的に看病を続けていた。

 だが拳固はもう、ただ死んではいないというだけのものになっており、そのことは門番もうすうす感づいている。

 傍にいるだけで熱を感じるほど熱い体。隆々(りゅうりゅう)としていた筋肉がげ落ち、骨の上にじかに貼りついているように見える小じわの寄った肌。じくじくとんで腐敗した、傷口の肉から漂う悪臭。

 彼は死にかけている。苦痛に満ちたからだから魂が離れようとしている。

 小さな明かりが届かない部屋の暗い片隅では、もうさほど遠くはないであろうその瞬間を待ちかねるように、黒々とした悪意の塊がうごめいている。

 指先に鋭い痛みが走り、青藍は息を呑んで我に返った。左手の親指の腹に、針がまっすぐ突き立っている。繕い物ごと反射的に振り落とし、彼女は血がにじむ指を口に含んで立ち上がった。

 どうしよう。

 焦燥感にかられながら考え、すぐに力なくかぶりを振る。

 ううん、どうしようもない。あの人はじきに死んで、天門をくぐってしまう。そのあとに残るからだを――からを、この洞窟に引き寄せられてきた悪霊あくれいが狙っている。

 冷や汗がどっと噴き出てきた。胸が早鐘を打っている。

 どうしよう。無意識にうろうろと歩き周りながら再び考えたが、これという案はやはり浮かばなかった。

 まさか門番のところへ行って、「弟さんは今日のうちに亡くなって、漂魄ひょうはくになってしまいます」などと教えるわけにもいかないだろう。まず信じてもらえるとは思えないし、へたをすると激怒した彼に殴られるかもしれない。

 だが、息絶えた拳固が漂魄と化した時のことを想像すると、知っていながら黙っているのも怖かった。最悪の場合、誰かが犠牲になることもあり得る。

 塒には大勢の人が――武器の扱いや荒事に慣れた男たちがいるので、漂魄が暴れても取り押さえることはできるかもしれない。だが封霊ふうれいの儀式を行わないかぎり悪霊は抜けないし、危険が去ることもないのだ。

 ここで人が死んだことはあるのかしら。封霊やたま送りの儀式は、いつもどうしているのかな。

 粗朶そだ集めをしていたイカルを見つけて、話をしてみようか――と思ったが、なかなか決心がつかないまま青藍は迷い、歩き周り、また迷い、結局元のように壁際へ戻って腰を下ろした。

 無力さを感じる。弱さを。

 人目を引かないよう、誰かの気に障らないよう、そんなことばかり考えて日々を送っているあいだに、すっかり臆病者になってしまった気がする。

 もう一度意識の網を広げようとしたが、まったく集中できなかった。それどころか五感すらも鈍ったように感じる。視野が狭まり、耳が詰まって音も聞こえにくくなった。緊張しているせいだろうか。

 青藍は壁を背にうずくまり、息を殺してじっと待った。口の中にいやな味がする。渋くて苦く、刺すように冷たい。その舌先の冷えがじわりと奧へ向けて広がり、喉から体の中へとしたたり落ちていって腹の底まで凍えさせる。

 やがて支道の奧のほうで、門番が獣のように咆哮ほうこうした。次いで激しいむせび泣きが響きわたる。

 あの人、死んでしまった。

 青藍は震えながらさらに縮こまり、手を祈りの形に組み合わせた。

 どうしよう。始まる。始まってしまう。

 門番の声を聞きつけた手下たちがやって来て、青藍のいる小穴の前を通り過ぎ、奥の部屋へ駆けつけた。みな低い声で口々に慰めの言葉をかけている。

 そして、出し抜けにそれは始まった。

 驚きあわてた声。悲鳴。怒号。乱れた足音。若い盗賊のひとりが、けつまろびつしながら通路を逆戻りに走っていく。少し間を置いて、さらに三人がそれを追うように青藍の視界を横切った。みな必死の形相だ。

「斧を取ってこい」誰かが叫ぶ。

「いや縄だ。押さえつけてふん縛れ」

「てめえがやれよ!」

 口々に言いながら走っていく盗賊たちのあとから、拳固の大柄なからだが現れた。まだらに黒ずんだ肌、白濁した瞳、異様に俊敏だがどこかぎこちない動きは漂魄ひょうはくに特有のものだ。

 そいつは犬が高鼻を使うように空気を嗅ぐと、地を蹴って猛然と駆け出し、先に逃げた者たちを広間のほうへ追っていった。

「みんな外へ出ろ、表へ!」

 ものすごい大音声だいおんじょうで吠えながら、最後に門番がやって来た。左の肩を手で押さえている。彼が通り過ぎたあとには、地面に点々と血が落ちていた。漂魄に襲われ、怪我をしたらしい。

「武器は使うな。これ以上、拳固の体を傷つけたらタダじゃおかねえぞ」

 恫喝どうかつする声には本気の響きが感じ取れる。

 青藍はぞっとして、跳ねるように立ち上がった。

 漂魄はもうヒトではない。魂が去ったあとのからだはただの亡き骸、壊れて使えなくなったれ物に過ぎない。そんなものに執着せず、容赦なく手足を切り落として動けなくするべきだ。

 天門信教てんもんしんきょうでは不滅の魂こそが重要であり、肉体は魂が一時的に宿るだけの器であると考える。遺骸を粗末に扱うことはないが、できるだけ早く埋めたり燃やしたりして始末してしまうのが普通だ。

 その考えが身に染みついている青藍にとって、悪霊を宿した弟の遺骸をなおも守ろうとする門番には同情こそすれ、その頑なさに共感を持つことは難しかった。

 怪我人が増えるだけだと――言わなきゃ。からだのことはあきらめてって。

 青藍は小穴を出ると、無我夢中で通路を走り抜けて広間に飛び出した。踏み散らされた焚き火の薪や粗朶が、まだ炎をまとったままであちらこちらに散らばっている。その揺れる明かりに照らされて、漂魄がみんなを追い回していた。〈拳固〉という呼び名の由来になったのであろう大きな拳を、ぶうんという風切り音が聞こえるほどの勢いで振り回している。

 攻撃を禁じられた盗賊たちはただ逃げるしかなく、半分ほどはすでに洞窟の外へ出て行ったようだ。まだ残っている餅屋、イカル、百中らは手を出しかね、やむなく防戦に徹している。

 百中は自慢の弓を携えており、何度か矢を射ようとしたが、そのたびに門番のすさまじい目に威圧されてしぶしぶ構えを解いた。

 漂魄がぐるりと首を回し、歯を剥き出しながら駆け出す。進行方向にいるのは餅屋だ。立ちすくむ彼に、横から門番が体当たりをして吹っ飛ばした。自分はその位置で踏み留まり、まっすぐ突っ込んできた弟の体をがっしりと受け止める。

「拳固、なあ、眠ってくれ。もういいから」

 もがく漂魄を全力で抱きすくめて動きを封じ、噛みつこうと伸ばされる首を左右にかわしながら、激しく息を切らして懇願する声は涙に濁っていた。

「おまえが安心して眠れるように、あんちゃんが全部きちんとしてやるから」

 それから彼は横目に手下たちを見て、唸るように言った。

「出ろ。外へ。みんな出ろ」

 ついにあきらめ、残っていた盗賊たちがぞろぞろと洞窟を出て行く。日ごろから門番に心服しているイカルだけは、なおも立ち去りがたそうに佇んでいたが、やがて小さな嘆息を残してきびすを返した。

 小軀しょうくながら力の強い門番は、頭ふたつぶんも大きい弟の体をどうにか押さえている。だが傷からの出血が激しく、じきに体力が切れて力負けしそうだ。

 イカルの背中が通路の中へ消えかけた瞬間、青藍は我を忘れて呼び止めた。

「待って!」

 突然の大声に、イカルが飛び上がって振り返る。

「笛を」

 そう言いながら一目散に駆け寄り、青藍は彼の腕をぎゅっと掴んだ。

「あったでしょう、笛。貸してください。取ってきて」

 舌をもつれさせながら必死に頼む。

「早く。お願い。お願い」

 イカルは目を見開いて困惑していたが、激しくかすと無言で何度かうなずいて身を翻した。あわてふためいて支道へ駆け込んで行く。

 宴会で誰かが吹いていたあの笛――青藍は身をみしぼるようにして待ちながら、その色や形を思い出そうとした。使えるかしら。わたしの笛、〈ふぶき屋〉に置いてきてしまったあの笛と同じように。少し長いけれど、形や太さはよく似ていたと思う。

 ややあって、イカルがばたばたと戻ってきた。手には古びた竹の笛が握られている。

「ありがとう」

 奪うように受け取り、歌口に唇を当てかけて、青藍ははっと気づいた。まだ足りないものがある。

「紙と筆」

「なに?」

 訊き返すイカルに詰め寄って、早口に繰り返す。

「紙と筆をください。何か書けるもの」

 わけがわからないという顔で、イカルは再び走っていった。ともかく探してきてはくれるだろう。

 青藍は漂魄と格闘している門番を見つめ、「もう少し頑張って」と心で励ましながら笛を鳴らしてみた。

 うわあ吹きやすい。でも音が低いわ。

 自分が使っていた笛との違いに戸惑いながら、基本の音である〝ごう〟を探していくつかの音を鳴らした。

 違う。これも違う。もう少し高い——あった、これ。

 基本の音の位置さえわかれば、習い覚えた曲をきちんと吹くことができる。

 そこへイカルが駆け戻った。右手に矢立やたて、左手に茶色く変色した古い紙を持っている。紙の表には何かの文字と、絵のようなものが描かれていた。

「こんなのしかねえ」

「いいんです。ありがとう」

 青藍は矢立から振り出した筆に墨を含ませると、紙を三つに裂き、それぞれの裏側に呪文を書き入れた。

 よし、やってみよう。

 背筋を伸ばして笛を構え、大きく息を吸い、青藍は最初の一声いっせいを――魔を引きつける〝合〟を高く吹き鳴らした。

 門番にのしかかっていた漂魄が、びくりと頭を上げてこちらを見る。

 封霊の秘曲を吹き始めると、それはゆるりと体の向きを変え、ふらふら歩き出した。表情からは凶暴さがかき消えて、なかうつろになっている。

 青藍がじりじり後退すると、漂魄は引き込まれるようについてきた。

 よかった、違う笛でもちゃんとやれる。あとは――。

 うしろを確認しようと振り返った青藍の笑顔が凍りついた。

 門がない。

 わたし――なんて馬鹿なの。いちばん大事なものを忘れるなんて。門に誘い込んで封じないと、封霊したことにならないわ。

 御山みやまで封霊の術を行う際には実際の門を使うか、門柱に見立てた二本の杭を立てることになっていた。ちゃんと思い出していれば、何か使って先に代用門を立てておけたのに。

 彼女は愕然としながらも笛を吹き続け、急いで視線を左右に走らせた。

 門に見立てられるもの。直立した二本の柱。何かあるはず。何か。その時、近くで茫然と立ちすくんでいるイカルの尻端折しりはしょり姿が目に止まった。これだ。

 青藍が漂魄を従えて近づくと、彼は息を呑んで後ずさった。

「動かないで」

 笛から唇を離し、鋭く命じる。

 なすすべもなくその場に固まったイカルの足下にひざまずくと、青藍は小脇に挟んでいた神符の一枚を素早く彼の片脚にあてがい、指先に気を込めて表面をなでた。門を開く〈闢神びゃくじん〉の符がぴたりとすねに貼りつく。

 再び笛を吹き鳴らすと、凶暴さを取り戻しかけていた漂魄がまた虚ろになり、よろめきながらイカルのほうへ歩いてきた。その目から、口から、鼻の穴から、じわりと黒いものがしみ出しかけている。やがてそれらは空中に抜け出てひとまとまりになり、上下にふわふわと漂ったのちに、イカルの両脚の間にすうっと吸い込まれた。通り抜けるそばから色が薄れ、淡雪が溶けるように消えていく。

 青藍が笛を吹きめるのと、悪霊の支配から解き放たれた拳固の体が崩れ落ちたのはほぼ同時だった。

「悪しき御霊みたまを天門の内にてきよめ、慰撫いぶせしめ給え」

 封霊の締めくくりによく唱えられる言葉を口の中でつぶやき、青藍はイカルのもう片方の臑に〈闔神ごうじん〉の符を貼りつけて門を閉じた。

 できた。よかった。

 安堵の息を吐いて立ち上がった青藍に、情けない顔をしたイカルが訊く。

「おい、これ……どうすりゃいいんだよ」

 彼は小刻みに震えながら、二枚の神符を貼られた両脚を怯えた目で見おろしていた。

「剥がしてだいじょうぶです。もう天門は閉じられたから」

 そう教えてから視線を転じると、事切れた弟を膝に抱いている門番と目が合った。彼の表情は張り詰め、少し引きつっている。青藍はゆっくり歩いていってふたりの傍らに膝をつくと、三枚目の札、亡き骸を新たな憑依から守る〈封札ふうさつ〉を拳固の腕に貼りつけた。

「おまえ……」

 終わりまで固唾かたずを呑んで見守っていた門番が低く呻いた。

「なぜ知ってる、封霊の術を。祭宜さいぎなのか」

 訊ねたあと、自らそれを否定する。

「いや、違うな。前期修行は百五十日、後期修行は四百日。その歳でもう修了してるはずはねえ」

 ひとり言のようにつぶやいて眉をしかめ、彼はあらためて青藍を見つめた。

「まさか、おまえ」その言葉を口に出すのを恐れるかのように、そっと小さく囁く。「降山こうざん若巫女わかみこ――なのか」

 青藍は全身が恐怖に総毛立つのを感じた。

 どうしよう。知られてしまった。知られると何がまずいのかはわからないが、よくないことのような気がする。だが、今さら否定するわけにもいかない。

 仕方なくうなずいてみせると、門番のまなじりがぐっと深くなった。驚いているようにも、怒っているようにも見える。

 青藍のほうも少なからず驚いていた。彼があまりにも御山の修行者に詳しいからだ。修行が前期と後期に分かれていることや、それぞれの履修日数まで知っている者は、一般の信徒の中にはめったにいないに違いない。

 その瞬間、天啓のように答えが降ってきた。

 彼が仲間の盗賊たちに〈門番〉と呼ばれている理由わけ

 天門信教の信徒なら、〝門〟と聞けばふつうは真っ先に天門を思い浮かべるものだ。それなのに彼の呼び名を聞いて、「何の門の番人かしら」などと考えていた自分はなんて間が抜けているのだろう。

「あなたも、降山の――奉職者なのね」

 おそるおそる訊くと、門番が唾を飲んだのがわかった。

 もし祭宜だったなら自分で封霊の術を施せたはずなので、御山ではほかの祭職に就いていたのだろう。唱士しょうしにしては、彼の声は濁りすぎている。ということは……。

「衛士?」

 再びたじろいだ彼の背後にある通路から、かすかに人声が聞こえてきた。外へ出ていた者たちが様子を見に戻ってきたのだろう。

 門番は弟を肩に担いで立ち上がると、左手で青藍の胸ぐらを掴んで引き起こし、押し殺した声で凄みをきかせた。

「若巫女上がりだからって、おれが手心を加えるなんて思うなよ。神だの何だのの戯言たわごとや説教も聞きたかねえ。わかったか」

「は、はい」

 震えながら答えると、彼は青藍を乱暴に突き放した。くるりと背を向け、重い足取りで支道へ向かいながら、通りすがりにイカルにもじろりとひと睨みくれる。

「てめえも、ほかのやつらに余計なことをしゃべるんじゃねえぞ」

 彼は最後に「そのへんを片づけとけ」と言い捨てて、私室がある通路の奧へと消えていった。そのあとを、真っ先に広間へ入ってきた〈薬屋〉があたふたと追っていく。肩の傷を治療するのだろう。

 青藍は胸に詰めていた息を吐き出し、鼻の下の冷や汗を手の甲でぬぐってから、散らばった薪雑把まきざっぽうをのろのろと拾い始めた。極度の緊張状態から解放された反動で、体じゅうにどろりと粘りつくような疲れを感じる。

 ひとやへ戻って、ちょっとだけ眠れたらいいのに。

 そう思ったところで、初めて娼妓しょうぎたちのことを思い出した。錠の下りた扉に守られていたので危険にはさらされなかったが、突然の騒ぎには度肝を抜かれたらしく、みんな格子の前に集まっている。やつれた青い顔の花琴はなことすらもだ。

 薪をき火のところへ運びながら、ちらりと彼女らのほうを見た青藍は、思いがけず出くわした夜斗の強い視線に射すくめられて足を止めた。格子の隙間から注がれる眼差しにはかすかな驚きと、これまでに一度も見せたことのなかった好奇心が入り混じっている。

 それは青藍が夜斗と出会って以来、壁のしみや羽虫に向ける以上の関心を初めて彼から向けられた瞬間だった。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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