十八 江蒲国耶岐島郷・黒葛貴之 初陣
薄曇りの天気で、やや肌寒い早朝。
陣屋で朝餉を共にしたあと、黒葛貴之は父貴昭に連れられて陣所の中を見回った。耶岐島郷に陣を張って以来、父は毎日欠かさず各所に足を運び、様子を見るようにしているという。
貴昭が主戦場と考えている広大な湿原は、水浸しの草地とでもいったような場所だ。兎耳山に近いあたりの地面は比較的固めだが、磐鶴川沿いは柔らかくぬかるんでいる。
くぼ地に水が溜まってできた〝池塘〟と呼ばれる池沼がところどころにあり、小さいものは生い茂った葦に覆い隠されているため危険だった。
「竹竿が見えるだろう」
馬を並べて陣所内を進みながら、貴昭は黒葛軍が普請した柴垣の向こうに広がる湿原を指差した。
「先に青い旗をつけてある。あれが池塘の目印だ。また、赤い旗より外側へ進むと、深いぬかるみに腿まではまる」
ずいぶん綿密に調べたのだなと思いながら、貴之は黙って父の話を聞いた。
「あの湿原の中に、耶岐島城からこの陣所へ向かう主要な道は三本しかない。一本は兎耳山沿い、一本は中央やや西寄り、一本は磐鶴川沿い。もっとも太いのは中央本道だが、それでも幅は五間足らずだ」
その道幅で並列できるのは歩行の兵なら十から十二、騎馬は八から九。多いほうの数だと、進軍の速度が上がった際に両端が湿原へ押し出される可能性がある。
「横に長く広がっての一斉突撃はできない、ということですね」
貴之は緑一色の中に、胡粉ですうっとひと筆掃いたような白い本道を見ながら言った。
「だから、敢えて湿原の端に陣を張ったのですか。耶岐島城に近く足場のいい農地ではなく、大軍の動きを制御できるこの場所で戦うために」
「そうだ」
父の唇に、かすかに笑みが浮かぶ。
「兵数が多ければ多いほど、身動き取れずに押し合いへし合いすることになる。とはいえ湿原も、足を取られはするが歩けないわけではない。馬は沈むが、人は進める。雑兵の多くはそちらへ流れ出て、遮二無二ぶつかってくるだろう。戦うにつれて屍が積み上がり、それが格好の足場にもなる」
水漬く草と泥の中に倒れた屍をいくつもの足が次々に踏みつけ、踏みにじり、越えていく。そんな場面がまざまざと脳裏に浮かび、貴之は肌が軽く粟立つのを感じた。
「昨日、陣所へ入る前に通りましたが、山沿いの道はかなり細くて難儀しました」
「川沿いもだ。あちらは林の中を抜ける道で、騎馬が通るのにはむいていない」
貴之は目を凝らし、東のほうに鈍く光る川面と、その流れに沿う細長い林を見た。
「湿原の中に林があるとは、おかしな光景ですね」
「こういう土地を流れる大きな川の脇には、樹木が生い茂りやすいのだ」
貴昭は中央本道へ出られる木戸の前で馬を止め、広い湿原をまっすぐに見た。
「戦いの始まりは、この本道での先鋒による銃撃戦だ。ひとしきり撃ち合ったら、山沿いと川沿いの道に配置した部隊がまず打って出る。両脇から攻め上り、敵を押し戻しながら旗本に迫るのが彼らの役割だ。次に先鋒が後退すると見せ、敵を釣り上げてこの柴垣の傍まで連れてくる。できる限り多く引きつけたら矢弾を浴びせ、伏兵が横から挟撃、それから主力隊の突撃だ」
彼が思い描いている戦いの図は、貴之が布陣の様子から推察したものとおおよそ一致しているようだった。
「敵を誘い込んだら一気に蹂躙し、後続を崩しながら敵本陣まで錐を通すようにして深く斬り込んでいく。目指すのはただひとつ、主将の首だ」
「父上、守笹貫信康の軍勢がこちらへ向かっているそうですが、彼らが兎耳山や川の東から回り込んで背後を突いてくるということはありませんか」
「その動きがあれば、事前に報せがくるだろう。〝眼〟が見ている」
あ、そうか、と思いながら貴之は空に目をやった。北の方角、耶岐島城の上とおぼしきあたりに、明らかに普通の鳥とは違う大きな鳥影がふたつ見て取れる。立州天翔隊の偵察分隊〈天眼組〉が哨戒を行っているのだ。
「昨日の野伏せり退治――」父がふいに話題を変えた。「鉄砲組だけ連れて行ったそうだな。なぜだ」
「それは……天翔隊は別格として、うちの備でもっとも練度が高いのは鉄砲隊だからです」
貴之は訊かれるままに、昨日のことを思い出しながら説明した。
「それと、野伏せり側に鉄砲持ちはいないようだったので、一方的に狙い撃たれる恐怖を感じさせてやろうと思いました」
「敵に鉄砲がないと、なぜわかった」
「荷駄が襲われていたのはそう遠くない場所でしたが、発砲音は聞こえなかったので」
「勘だけでやっているわけではないのだな」
貴昭はそう言って、息子を横目に見ながら薄く笑った。
「決断が早い上にすぐ動くから、ついて行くのに骨が折れると柳浦重益が言っていたぞ」
「長々と思い悩まないだけで、考えてはいます」
「おれも結論にたどり着くのは早いほうだ。しかし、そこに至るまでの思考の経緯をできるだけ周囲に伝えるようにしているし、人の意見にも耳を傾ける。独り善がりに陥らぬためにな。将たるものの心得だ」
「はい」
「おまえには恃み甲斐のある者たちをつけている。彼らと対話する手間を惜しむな」
「心がけます」
「だが生か死か、勝利か敗北かの瀬戸際に立ったとき――もっとも頼れるのは、いつだって一瞬のひらめきだ」
はっと顔を上げ、貴之は父の目をじっと見た。
「日ごろからよくものを見聞きし、経験を積み、知を磨いておけ。そうすればここぞという局面で、電光のごときひらめきが必ず訪れる。それに従うことを恐れるな」
父がこんな話をしてくれたのは初めてだ。一人前と認めるとはいかないまでも、多少は見どころがあると思ってくれているのだろうか。貴之はくすぐったさと胸の高鳴りを同時に感じながら、深くうなずいた。
「父上の教えを決して忘れません」
「ずいぶん神妙だな。いい子にしていないと、また帰れと言われると思っているのだろう」
からかい口調で言って、貴昭は馬腹を軽く蹴った。本陣のほうへゆっくり引き返していく。
「案じずとも、陣中に留め置いたからには使ってやる。射撃の腕がたいそう上がったそうだな。的確に当てるし、弾込めも速いとか。行軍中の馬上で、延々と装填手順を温習していたと聞いたぞ」
「師匠から、そうやって体に覚え込ませろと言われています」
「いま乗っているその馬は、砲声に慣らしてあるか」
「はい」
「では、柴垣裏に配置する鉄砲隊の後尾につけよう。先鋒が敵を釣り上げてきたら、前列の鉄砲隊と後列の弓隊が一斉に撃ちかける。おまえも撃てるだけ撃ち、〝掛かれ〟の声を合図に木戸が開いたら、第一陣と共に打って出ろ。どうだ、やれるか」
「やります」
貴之は決然と答え、自信を示そうと少し胸を張った。
「初陣の後見役を、誰に頼むか決めねばならんな」
父のつぶやきの語尾を、「御大将どのォ!」と呼ばわる声がかき消した。
近くに屯して休んでいた長柄組の中から、重益といい勝負になりそうな大男が立ち上がり、槍を担いでひょこひょこと近寄ってくる。年は二十代半ばごろだろうか。眼光鋭く、太い眉が眉間でつながっていて猛々しいが、日焼けした顔いっぱいに明けっ広げな笑みを浮かべている。
「敵はまだ動きませんか」
長い脚で仲間をまたぎ越えて来た彼は、貴昭の馬について歩きながら物怖じする様子もなく話しかけた。
「まだだ」
「なんちゅう鈍くさいやつだ、高閑者元嘉とかいう大将は」
「それでも、さすがにそろそろ重い腰を上げるだろう。その時がきたら、大いに暴れてもらうぞ」
「は。お任せあれ」
大きな拳でどんと胸を叩いてみせ、ふと貴之に目を向けた彼は率直な驚きの表情を浮かべた。
「そちらの――お若いお連れさまは……御大将どのにえらく似ておいでですなァ」
貴昭がふふ、と笑みをもらす。
「おれの上のせがれだ」
「なんと!」男は目を見開き、ぎょっとしたように足を止めた。「わ、若さまでござりましたか」
あまりに大きな声なので、離れて座っている者たちの耳にも届いたようだ。大将の若君が来ていると、口から口へさざ波が立つように噂が広がっていく。中には貴之をひと目見ようと、わざわざ立って前のほうへ出てくる者もいた。
だが〝黒葛の殿さま〟への畏敬の念は強いらしく、さすがに無造作に近寄ったりはしない。すぐ傍まで来てけろりとしていた大男は、少し変わっているのだろう。
貴之は父と共に本陣への坂道を上りながら、肩ごしにちょっと振り返ってみた。大男は長い槍を両肩に担ぎ、嬉しげに頬をゆるめて見送っている。
「人なつっこいやつですね」
「蘭泰三という名で、荷軽部あたりの地侍らしい。ここ数年、どの戦場にも必ず来ていて、いつでもあの調子だ」
なんとなく、見ていると元気が出るような男だ。貴之はそう考えながら、後肢で立った熊を思わせる姿にしばし視線を留めていた。
その夜、本陣の内外に大きな篝火をいくつも焚き、戦勝祈願の儀式が執り行われた。
出陣の前に主立った武将を集め、全員の心をひとつにして気勢を高めるのが目的であり、儀式自体にたいした意味はない。出席した者たちの目当ては、儀式のあとに振る舞われる酒食のほうだ。
だが黒葛貴之の初陣を祝う〈祝陣儀〉は終始厳粛な雰囲気で進行し、軍付きの祭宜が清めの水を注いで〈祝文〉を唱えるあいだ、咳きひとつ立てる者はなかった。
司式の祭宜は春日という名で、元は七草城下の祭堂に仕えていた小祭宜だ。ここ五年ばかり、黒葛貴昭はずっと彼を右翼軍に帯同している。
神事が行われるあいだ、貴之は春日のやつれた細面をずっと見ていた。
父が戦場に決めた湿原は霊的にあまり良くない場所らしく、彼は二日前から近隣の堂司三人の手を借りて、夜も寝ずに祓いや清めに駆けずり回っているそうだ。げっそりして見えるのも無理はないだろう。
儀式の最後に、祭壇に一日供えていた神酒の樽から盃に三滴の〝零れ〟をもらって飲み、それで堅苦しい手続きはすべて終わりとなった。一気に座はくだけ、たちまち雑談や飲み食いが始まる。
貴之はすぐに甲冑を外し、瓶子に移した神酒と塗りの盃を携えて武将たちに挨拶をして回った。この小さな気づかいひとつで、君臣の関係はぐっとよくなる――というのは傅役の唐木田直次の教えだ。
主筋から盃を与えられるのは臣下の誉れであり、また〝神酒の零れ〟の零れをもらうのは縁起がいいとされているらしい。
顔見知りの武将に盃を差していた貴之は、儀式が終わってから幕内に入ってきたとおぼしきふたり組にふと目を留めた。彼らは貴昭の傍へ行き、何か言葉を交わしている。今しがた着陣したばかりなのかもしれない。
貴之は瓶子に再び酒を満たし、三人が話しているところへ近づいていった。すぐに父が気づき、手を上げて差し招く。
「貴之、小手森郷の家久来友晴と龍史だ」
親子らしいふたりがこちらを向いた瞬間、貴之の頭に古い記憶が蘇った。
きゅっと上がった眉尻と切れ長の垂れ目、そして額の真ん中の大きな黒子。年配のほうの男の顔には見覚えがある。
「あなたに、城の庭で凧を揚げてもらったことがある。何かの集まり――たぶん、年改めの祝いの日に」
友晴が笑み崩れ、目尻がますます垂れて溶け落ちそうになった。
「なんと、覚えていてくださりましたか。あのお小さかった若君がこのように立派に生い立たれ、初陣に臨むまでになられたとは慶賀に堪えませぬ」
彼は表情のみならず声からも喜びをあふれさせながら言い、うしろに控えている背の高い若者を見やった。
「これを出迎えに陣所の外へ出ておりましたので、若君の祝陣儀を見逃し、惜しいことをいたしました」
若者はすっと前に進み出て、貴之に深々と頭を下げた。
「家久来龍史と申します。どうぞお見知りおきを」
歳は玉県景綱よりも少し上、二十代前半に見える。目元涼しく口元の締まった隙のない風采で、父親にはあまり似ていない。
顔を上げた彼は、瞳に篝火の炎を映しながら貴之をじっと見つめた。食い入るような視線で、少し居心地が悪く感じられるほどだ。
「兄の金晴は立天隊で働かせていただいておりましたが、先日の輪達城砦の戦いで命を落としました。それで、家で冷や飯を食らっておりましたわたしが跡取りと決まり、急ぎ参陣いたした次第です」
落ち着いた口調で静かに話し、彼は貴昭へ目をやった。
「御屋形さま。これより父ともども、及ばずながら兄のぶんまで相勤める所存にございます」
「うむ。そなたらの働きに期待しているぞ」
彼と父とのやり取りが終わると、貴之はまず友晴に、次に息子に盃を与えた。
友晴は大いに感激しながらすぐに飲んだが、龍史は何を考えているのか、酒の注がれた盃を目の高さに捧げ持ったまま凝然として動かない。その手が、わずかに震えているように見える。緊張しているのだろうか。
次の瞬間、彼は唇に凄味のある笑みを浮かべて酒を飲み干し、よく通る声で力強く言い放った。
「かたじけなくも貴之さまのお盃を頂戴いたしたからには、必ずやこの龍史が敵大将の首を獲ってご覧に入れましょう」
幕内のざわめきが一瞬にして静まった。誰もが唖然とした表情を浮かべている。怒るべきか、笑うべきか――そんな迷いが場の雰囲気から感じ取れた。南部人は血の気が多いので、大方の心情は怒るほうへ傾いていそうだ。
酒の席で派手にぶち上げるのは必ずしも無礼とはされないものだが、さして名高いわけでもない家の、成り上がったばかりの若い跡取りとしてはいささか大きく出過ぎたと言わざるを得ない。
その時、ぴんと張り詰めた空気を、ふいに割り込んだ新たな声が破った。
「あいにくだが――」
目を向けるまでもなく、貴之にはその声の主が誰なのかわかった。再会を待ちかねていた人だ。
「敵将の首級は立州天翔隊の腕自慢がいただく」
陣幕をくぐって顔を出した石動博武は不敵な笑顔で言い、首をひねってうしろを見た。
「この真境名燎がな」
名指しされた当人は、続いて中へ入りながら呆れ顔をしている。
「そこは、ご自分がやるとおっしゃるべきでしょう」
「おぬしのほうが強いのだから仕方ない」
黒葛家の天翔隊の特徴である黒い長袍をまとい、颯爽と姿を現したふたりに全員の注目が集まった。その圧倒的な存在感の前に、放言した龍史は完全に忘れ去られてしまった形だ。
貴之は少し気の毒に思いながらも、彼の傍を離れて叔父たちのところへ飛んでいった。父に着陣の挨拶をしている博武のうしろには、子供のころから見覚えている彼の従者の姿もある。
挨拶を終えると、彼らはそろってこちらを向いた。
「貴之。こっちにいるとは知らなかったから、陣所の入口で聞いて驚いたぞ」
「よく来てくださいました、叔父御。燎どのも」
凛々しい女武者が目元をなごませ、慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
「若さま、お久しゅうございます」
彼女は立天隊で一、二を争う剣の達人で、男に立ち交じり男の形をして働いているが、やはり女性らしい柔らかみもあって、貴之にはいつも優しい。
それに、きれいな人だ――と、貴之は子供のころからひそかに思っていた。何の粉飾も必要としない少女のような、内から輝く生来の美しさを持っていると感じる。生意気と思われるだろうから、むろんそんなことを口に出して言ったりはしないが。
「あそこに父が見えるので、ちょっと声をかけてまいります」
燎はそう断って、由淵陣から貴之と共に来た真境名義家の元へ行った。
「義家どのも援軍に加わって来たのか……」博武がつぶやき、唇の端をわずかに上げる。「親子で共に働けて、嬉しかろうな」
「そういうものですか」
「嬉しくもあり、不安でもあり。複雑な親心というやつだ。御屋形さまも、おまえが御陣に来て同じように感じられただろう」
「顔を見るなり、邪魔だから帰れと言われました」
「そこから、よく祝陣儀にまでこぎつけられたな」
博武は愉快そうに笑い、幕内を見渡してため息をついた。
「もう少し早く着いていれば、儀式を見られたのに。惜しいことをした」
家久来友晴と同じようなことを言う。
「昨日ここへ着いた時、叔父御の姿がなかったので驚きました。とっくに来られているものと」
「おれと燎だけなら禽でひと飛びだが、どうしてもついてくると言い張るやつがいて、不本意ながら馬で来ることになったから遅れたのだ」
皮肉っぽく言って、叔父が視線をうしろに投げる。そこには彼の従者の久喜伝兵衛が、しれっとした顔で立っていた。
「伝兵衛、久しいな。元気だったか」
貴之が声をかけると、彼はにんまりと笑んで頭を下げた。
「若さま、お健やかなご成長ぶりを拝見いたし、恐悦の至りにございます」
「危険な戦と知って、ついてきたのか? 叔父御を守るために」
「いえ、たまには山を下りたいと思いまして。このかたは遠出というとすぐ禽を使いたがるので、わたしはたいてい砦に置き去り、もう何年もろくに下山しておりませんでした。そろそろ山から離れて羽を伸ばさねばと」
「行楽に来たような言い方をするな」
博武が眉をひそめ、貴之のほうを向く。
「戦がすんだら、おれと燎は馬を飛ばして鉢呂砦へ戻る。次の作戦を控え、部隊が待っているからな。すまんが、こいつはおまえのところで預かって、百武城へ連れて行ってやってくれ。どうしても最終決戦に加わりたいらしい」
「いつものように砦に残されたら、大勝利の瞬間に立ち会えません。それでは何のために長年お仕えしてきたのやらわかりませんからね」
いろいろひねくれたことを言っているが、結局のところはなるべく叔父の近くにいて、彼の助けになりたいと思っているのだろう。貴之は伝兵衛の心中をそう推し量り、快く身柄を引き受けた。
「慎吾と一緒に、おれの傍についていてもらいましょう」
「外で会ったが、おまえの従者は相変わらず控え目で物静かだな」
博武はそう言って、横目に伝兵衛を見た。
「じつにうらやましい。余計なことをぺらぺらしゃべらず、粛々として仕事をこなすやつは貴重だ」
当てこすられても、伝兵衛は平気な顔だ。
「たしかに。あなたはたいそう有能なおかたで弁も立ちますが、それゆえに少々しゃべり過ぎるきらいがありますな。時には敢えて口をつぐむこともなさらねば」
貴之は腹を抱えて笑い、叔父に〝神酒の零れ〟の零れを飲んでもらってから、またほかの武将たちへの挨拶回りに戻った。いつまでも身内とだけ話しているわけにはいかない。
やがて夜も更け、明日にも始まるかもしれない戦いに備えて、諸将はそれぞれの宿所へ引き揚げていった。陣所の中にはぽつりぽつりと焚き火が見えるが、ほとんどの将兵はもう寝静まっているようだ。
陣屋へ戻った貴之は、部屋へ向かう途中で父に呼び止められた。
「おまえの部屋は、真境名燎に空けた」
男顔負けに強いとはいっても女性には違いないので、男連中に交じって寝るのでは落ち着かないだろう。貴之に異存はなかった。
「そうですか」
「今夜は、こちらで寝ろ。荷物ももう移させた」
貴昭が示したのは彼自身の寝間で、中に入ると畳の上に床がふたつ取られていた。
「え」意外すぎて、うまく反応できない。「父上と一緒――ですか」
「かまわんだろう。親子なのだから」
そうは言っても、父と枕を並べて寝るなど、幼児のころにすらしたことがない。畏れ多い気もするが、それ以前になんとなく気恥ずかしかった。
息子のためらいを感じ取ったのか、父があっけらかんとした口調で言う。
「陣所というのは、どこも手狭なものだ。陣屋の部屋数が足りなければ、おれは近習と雑魚寝をするし、行軍中に雑兵らと団子になって眠ったこともある。せがれひとり横で寝させるぐらい、どうということもない」
「はあ」
「つまらん気づかいをせず、さっさと床に入れ。もう明かりを消すぞ」
急かされ、あわてて横になると、ほんとうにすぐ行灯が吹き消されて真っ暗になった。
「父上――」
闇が緊張感をほぐしてくれて、顔が見えていた時よりも気楽になった気がする。
「夜襲の危険はないのですか」
「耶岐島城の動向は常に空閑忍びに探らせているが、可能性はほぼないだろう。暗夜の湿原に大軍を送り出すなど愚行――その考えは彼我に共通しているようだ」
「高閑者軍は、守笹貫本軍の到着を待っているのでしょうか」
「日暮れごろに届いた天眼組からの情報では、本軍はまだ半日以上も離れた場所にいるらしい。佐武街道沿いで、今日はかなり早めに陣を張ったとか。女たちの出入りがあるようだったというから、戦勝の前祝いでもしているのやもしれんな」
少し間を空け、父はさらりと言った。
「元嘉は守笹貫信康の着陣を待たずに動き出すだろう。総繰り出しは、おそらく明朝」
思わず息を呑んだ。では、もう数刻もすれば戦が始まるのか。
「こちらの準備はできている。あとは戦うだけだ」
父の口調は落ち着いている。少しも恐れたり、心配したりしているふうはない。
「戦の話ばかりせず、七草のことを聞かせてくれ。母上や弟妹のことを」
声が柔らかくなった。きっと表情もやわらいで、口元には優しい笑みが浮かんでいるだろう。
「母上は、もうずっと父上に会えずにいて寂しがっています。おれが出てくる時、また新しい小袖を縫っていましたよ。父上が戻られたら着ていただくのだと言って、初夏むきの色柄のものを」
「そうか……。佳貴や葉奈は」
「佳貴は、父上と兄上がいないあいだは自分が城代だ、立派に城を守ってみせると言って張り切っていました。葉奈はここのところ三輪姫にたいそう懐いて、もうすっかり本物の姉妹のようです」
雷土三輪が七草城に来たのは昨年の秋で、父はこの半年あまり城には一度も戻っていないから、ふたりはまだ顔を合わせていないことになる。
「おまえは三輪姫と仲良くやっているのか」
「けっこう気が合っています」
それだけ言って口をつぐんだ。許婚のことを親に話すのは、多少の照れがある。
その面映ゆさを悟ったように父は低く笑い、それきりもう何も話さず、貴之と相前後して寝入ったようだった。
明けて桃月二十二日、暁七つ半。
日の出を待たずして、高閑者元嘉の軍勢が動き出したとの第一報がもたらされた。耶岐島城内外で、人の移動が慌ただしくなっているという。
黒葛貴昭はただちに布令を出し、待機していた軍兵をそれぞれの持ち場につかせた。前もって細かく段取りを決めてあったので、大将から雑兵に至るまで己がどう動くべきかは心得ている。混乱はいっさいなく、ほんの半刻足らずで布陣は完了した。
貴之の持ち場は最前線に敷設された柴垣の内側、鉄砲隊の後尾だ。陣屋で軍装を整え、馬に乗ってその場所へ行くと、父が初陣の後見役を頼んだ家老の真栄城修資がすでに来て待っていた。
彼は若いころから騎馬名人として知られており、幼い貴之に初めて乗馬の手ほどきをしてくれた人でもある。いま乗っている愛馬も、六年子の祝いに彼が贈ってくれたものだ。
「今日はよろしくお願い申します」
貴之が挨拶をすると、修資は馬上で軽く会釈しながら白い歯を見せた。
「この上ない光栄なお役目をおおせつかりました。若の初陣、確と見届けさせていただきます」
「父からは、何ごとも修資どののお指図に従うようにと命じられました」
「さよう、わたしの傍から決して離れず、また馬廻組の防御円から外へ出ぬようお心がけください。乱戦になれば多くの敵兵が若の旗印をめがけ、兜首を獲って功名せんと襲いかかってまいります。初陣は勝利するもの、討ち取られてはなりませぬぞ」
簡単そうに難しいことを言う。貴之は苦笑し、しかし従順にうなずいた。
「わかりました」
空を見上げると、すでに太陽は昇っていた。だが雲がかかっていて薄暗い。湿原には霧が低く立ちこめ、父が深い泥濘や池塘の目印に立てさせたいくつもの旗はその中にすっぽりと沈んでいる。
風はそよとも吹かず、あたりは静寂に包まれていた。耳に綿を詰められたような静けさだ。
そうして息を凝らしながら待っていると、本陣にいる父の使い番から前線に続報がもたらされた。
「高閑者軍の先頭部隊が進発。中央本道へ向けて南進中。湿原入口への到着はおよそ四半刻後」
それを合図に、木戸を出て柴垣の前で待機していた先鋒隊三百が、中央本道へするすると進み出た。十列縦隊を組み、先頭は竹束に鉄板を打ちつけた楯を押し立てている。
人の動きが呼び寄せたかのように、わずかに風が出てきた。湿原を覆っていた重い霧が少しずつ吹き流されていく。
点々と置かれた目印の小旗の先端が覗き、それを結わえつけた竹竿が現れ、やがて夜露に湿った葦原と中央本道が先のほうまで見渡せるようになった。雲間からようやく陽が差してきて、その道を白く浮かび上がらせる。
貴之は馬上で首を伸ばし、遠くへ目をやった。
湿原の向こうに、いくつもの小さな煌めきが見える。揺れ動きながらきらきらと輝くそれは、陽光を照り返す海の小波を思わせた。
あれは――槍の穂先か。すごい数だ。
いつしか呼吸を止めていたことに気づき、彼は大きく息をついて右脇へ視線を落とした。慎吾がそこにいて、何を求められても即座に手渡せるよう万全の体制で控えている。
彼の顔を見ると、高まった動悸が不思議にすっと静まった。
「そら、現れましたぞ」
修資が湿原の彼方を指差した。煌めきに混じってひらひらと舞う、大小さまざま、色とりどりの旗指物。
はじめは小指の先ほどの大きさだったそれが、みるみるうちに大きく鮮明になっていく。はっと気づくと、もう描かれた文様を見分けられるまでになっていた。
つい先ほどまでは間延びしたように時の経つのが遅かったが、今は吹っ飛ぶように流れ去っていくのを感じる。
だしぬけに、中央本道で猛烈な撃ち合いが始まった。先鋒隊同士が激突したのだ。しばらくのあいだ間断なく乱射が続き、その発砲音が湿原一帯に響きわたる。
銃声がやや散発的になると、雷鳴のような雄叫びと喚声がそれに取って代わった。双方とも弾尽きて、槍合わせが始まったらしい。
「邀撃準備」
先陣を指揮する士大将の声が飛び、柴垣の内側に配置された四段構えの鉄砲隊と、そのうしろに並ぶ弓隊が素早く戦闘態勢を取る。
貴之も慎吾に持たせている鉄砲二挺のうち、一挺を受け取って弾を込めた。
中央本道で戦っていた先鋒隊が、じりじりと後退してくるのが見える。彼らは敵をさんざん痛めつけて憤激させ、徐々に退きながら後を追わせて自陣近くまで引き寄せる、いわば囮役だ。
すぐに退いたのでは相手を釣り込めないので、できるだけ前に踏み留まって長く戦う。それだけに損失も大きい。
先鋒隊は見事に敵を釣り上げてきたが、兵数はすでに半分近くにまで減っていた。生きて戻った者も、その大半がかなりの痛手をこうむっている。
逃げる獲物を躍起になって追ってきた敵先鋒は、ここへきてようやく自分たちが死地に誘い込まれたことを悟った。が、すでに道は後続の味方で支えており、引き返すことはできない。
器から水があふれるように、道の両脇へ多くの歩兵がこぼれ出し、ぬかるみに足を取られながら広く左右に展開した。
柴垣との距離、半町あまり。
「撃てェ!」
号令と同時に、数百挺の鉄砲が一斉に火を噴いた。濡れた泥人形が崩れるように敵前列がばたばたと倒れ、無事だった者の頭上にも大量の矢が雨あられと降り注ぐ。
鉄砲隊の第二、三陣が続けざまに斉射し、第四陣が撃つころになると、ようやく敵勢も立て直して応射し始めた。
柴垣に食い込み、木っ端を飛ばし、中には陣内に飛び込んでくる弾もある。むろん味方も無傷では済まない。貴之の目の前で、ある者は吹っ飛び、ある者は弾かれ、ある者はきりきり舞いをして倒れた。硝煙と血のにおいが濃厚に立ちこめ、悲鳴と呻き声と、恐怖に抗おうとする喚きが陣内に充ち満ちる。
双方の陣営の銃弾が飛び交う湿原には、すでに数百もの死体が点々と転がっていた。だが新手は後方から続々と湧き出てくる。中央本道の敵は集中砲火で足を止められているが、道の脇へ出た者たちはさらに横へ広く展開し、ぬかるみに苦戦しながらも果敢にこちらへ迫っていた。彼らに柴垣を越えさせるわけにはいかない。
貴之は手を休めることなく弾を込め、ただひたすら無心に撃ち続けた。
膝まで泥に埋まって動けない男。
池塘にはまり、ずぶ濡れで這い上がろうとしている男。
葦をかき分けて頭を覗かせた男。
標的はいくらでもいた。ひとり撃ち倒しても、またすぐ次が現れる。
永遠にそれを続けているような気がし始めたころ、陣所の中で太鼓が鳴り始めた。次の攻撃へ移る合図だ。
中央本道から左右に十間ほど離れ、葦原に潜んでいた伏兵が雄叫びを上げて躍り上がった。
相撃ちを避けるために左側面と右側面が交互に銃撃し、すぐさま鉄砲を刀槍に持ち替え、逃げ場をなくした敵めがけて襲いかかる。
この挟撃で、柴垣近くまで迫っていた敵は、あっという間に半分以下に減った。残った兵はたまりかねて退こうとしており、前へ進もうとする味方と狭い道の上で押し合いになっている。
そこへすかさず、伏兵部隊が鋒矢の隊形を取って斬り込んだ。そのまま敵を薙ぎ払いながら、猛然と前へ突き進んでいく。
再び太鼓が鳴り、陣所のあちらこちらで大きく旗が振られた。
「さあ若、まいりますぞ」
修資が鞍上で形よく座り直し、力強く言った。
「遅れぬように」
「承知」
貴之は慎吾から槍を受け取り、左右を見て柳浦重益ら馬廻衆と視線を交わした。
「掛かれッ!」
士大将の号令一下、将兵が木戸から繰り出し、雪崩を打って中央本道へ突進した。伏兵と合流して厚い壁となり、さらに前進しながら敵を蹴散らしていく。
修資と貴之を囲む護衛も一団となり、槍隊の第一陣に続いて本道に乗り入れた。道はすでに湿原の中ほどまでこじ開けられ、そこを中心に広い範囲で激しい乱戦が繰り広げられている。
〝旗印めがけて敵がくる〟という修資の言葉どおり、黒地に白で黒葛家の家紋〈千切り〉を染めた貴之の旗印に、周囲の敵が色めき立つのがわかった。高値の兜首を勝ち取ろうと、殺気立った目の男たちが次々と襲いかかってくる。
「黒葛の小せがれを討ち取れ!」
前線で指揮を執っている騎馬武者のひとりが叫んだ。
「させるかァ!」
重益が鬼の形相で吠え返し、棍棒のように太い腕にぐっと力を溜めて馬上槍をぶん投げる。その穂先が、騎馬武者の喉仏のあたりを一文字に貫いた。
「美事」
修資が満面の笑みで賞賛し、馬に近づく雑兵の胸を槍でひと突きする。
屈強な馬廻組に守られつつ自らも戦いながら、貴之はゆっくりと確実に馬を前へ進めた。
湿原の端はそろそろか。いや、まだ出口は見えない。乱戦の中にいると、戦いの現況はもちろん、自分の位置すらもよくわからなくなる。
父貴昭は野伏せり退治など陣取りごっこのようなものだと言ったが、その言葉は正しいと貴之はようやく実感し始めていた。
敵味方合わせて百人程度なら、戦いを指揮するのはそう難しくはない。人の動きも状況もひと目で把握できるから、次に何をするべきかもすぐにわかる。
だが数千、数万の人間が目路の端まで埋め尽くし、個々に戦いを展開しているこのような場所では、何かを把握するのも判断を下すのも容易ではなかった。
果たしていまは我々が押しているのか、それとも押されているのか。敵本陣まであとどれほどの距離があるのか。山沿いの、あるいは川沿いの道では戦況はどうなっているのか。
知りたいことは山ほどあるが、いまの貴之に確実にわかるのは、目の前の敵を殺しているという事実だけだ。
兜をどこかで落としたらしい武者を。
両手に刀を持った若い兵士を。
折れた槍の柄で襲ってきた泥まみれの雑兵を。
ただこの場を生き延びるために、彼は力をふりしぼって戦い、間断なく群がってくる敵をひとりずつ倒していった。
狙い澄まして、きれいに急所を突くことなどとてもできない。相手の攻撃をかいくぐりながら、狙える場所をどこでも狙うしかなかった。脇。腿。手指。目玉。叫ぼうとする口の中。
馬上にあり、自分の足で駆け回っているわけではないのに息が切れる。全長八尺あまりの槍も、それを持つ腕も鉄塊のように重くなってきた。気力はまだあるが、じきに体力切れになりそうだ。
汗が目に流れ込み、一瞬ふっと集中が途切れたところへ、斜め後方から槍が突き出された。穂先に陽光がぎらりと反射し、その痛いほどの輝きを右目の隅に見ながら、殺られた――と思う。
だが落命して崩れ落ちたのは彼ではなく、背後から近づいて急襲を仕掛けた敵兵のほうだった。葦をなぎ倒して転がったその背中に、脇差しが深々と突き立っている。
後から襲ってきた戦慄に総毛立ちながら顔を上げると、三間ほど向こうの湿地で手を振っている大男が目に入った。
「御大将どのの若さまァ! ご無事か」
血と泥で汚れ尽くした顔に、子供のように無邪気な笑みを浮かべているその男は、昨日父と一緒に見かけた蘭泰三だった。
貴之を狙う敵に気づき、咄嗟に刀を投擲して救ってくれたらしい。
「かたじけない」
大声で礼を言うと、彼は照れてもじもじしながら頬を搔いた。
「なんのこれしき。ご用心くだされよ」
そう言って槍を握り直し、泰三は次の敵に向かって駆けていった。その足取りは驚くほど軽く、まだまだ元気いっぱいのようだ。
「若、お怪我は」
重益が横から肩を掴み、必死の面持ちで訊いた。
「ない」
だが、あの男がいなければ危なかった。戦場では一瞬の油断も許されない。その恐ろしさをあらためて実感しながら、貴之は疲れて散漫になりかけていた意識を引き締め直した。
「進もう」
決然と言うと、すぐ前にいる修資が振り向いてうなずいた。
「じきに湿原を抜けられます。馬廻組は、少し防御陣を狭めて若を囲め」
馬を寄せてさらに緊密な一団となり、貴之たちは湿原の出口を目指した。そこを越えれば足場のいい農耕地に出る。敵将高閑者元嘉の本陣は、そのどこかにあるはずだ。
敵を退けながらしばらく進むと、中央本道を西から東へ横切る道と、その先に広がる整然と区分けされた農地が見えてきた。ようやく湿原の北端だ。ついにここまでたどり着いた。
視界を遮るものがほとんどないので、かなり広範囲に見渡せるが、高閑者家の旗差物や陣幕は見当たらない。
「敵本陣はどこだろう」
「耶岐島城と湿原の中間あたりかと」修資が左右に視線を投じる。「農地に出たら、ひとまず北へ向かいましょう」
馬に拍車をかけて道の残りを一気に駆け抜けた貴之らは、田畑の中を通ってそのまま北進を続けた。このあたりには、黒葛の陣所にあったような小高い場所がない。元嘉は平地に陣幕を張るか、どこかの集落で大きめの建造物を接収して本陣としているだろう。
敵の姿を警戒しながら進んでいた貴之は、見覚えのある顔を乱戦の中に見つけ、通り過ぎながら思わず振り返った。
家久来龍史だ。馬を鮮やかに乗りこなしながら、手ごわそうな騎馬武者を相手に槍で戦っている。
周囲で奮戦中の、浅黄色の旗印をつけた小部隊は彼の手勢だろう。それを率いて、いち早くこの場所まで来ていたということは、大きなことをただ言うだけではなく相応の実力も持っていそうだ。
龍史のほうも、すぐ近くを駆けていく貴之に気づいたようで、敵と槍を合わせながら少しのあいだ横目に見つめていた。
「本陣だ!」
誰かが叫び、貴之は急いで前に向き直った。
先頭を走る重益が、鞍の上に腰を浮かして北東の方角を指差している。そちらへ目をやると、小川の向こうにある孤立した林と入母屋造りの建物、その周囲に張られた陣幕が見えた。入口に立つ旗は赤白紫、三色の染め分け。
高閑者元嘉の旗印に間違いない。天門神教の祭堂を本陣としているようだ。
「乗り込みますか、修資どの」
貴之が小川の手前で馬を止めて訊くと、彼は少し考えるふうを見せた。
「その前に手勢を集めましょう。近くで戦っている適当な部隊を――」
最後まで言い終える前に、敵本陣から数人の兵が出てきた。貴之たちの見ている前で、彼らによって三色旗が荒っぽく抜き捨てられていく。
次いで陣幕の内から、馬上で頭を高く上げ、すっと背筋を伸ばした堂々たる騎馬武者が現れた。その傍に付き従う者たちの指物には、〈五つ剣蛇の目〉が描かれている。真境名家の家紋だ。
ひとりが担ぐ長槍の穂先には生首がひとつ、解いた髪で結びつけられていた。切り口からはまだ鮮血が滴っている。
「高閑者軍主将高閑者元嘉、真境名燎が討ち取ったり」
凛と澄んだ声が響きわたった。
断ち切られたように剣戟がぴたりと止み、周辺一帯がしばし静寂に包まれる。
やがて地響きにも似た大歓声が湧き上がり、歓喜と興奮に吠えるいくつもの声が交錯して戦場に満ちた。
「燎どのが……」
貴之は口の中でつぶやき、ぞくりと身震いして息を呑んだ。
すごい。叔父御の予言どおりになった。しかし、まさかほんとうに彼女が成し遂げるとは。
「信じられん」隣で修資が低く唸った。唖然とした顔をしている。「なんという女だ」
敵本陣を落とした真境名勢が集まり、歴史に残る勲功を立てた女大将を中心にして陣所へ引き返し始めた。討ち取った首級を高く掲げ、道々に大声で勝利を触れ回っている。
その一団を目にし、主将の死を知った敵兵の多くが、みるみる戦意を失っていくのがはっきりと見て取れた。中には一刻も早く戦線から離脱しようというのか、山のほうへ駆け出す者たちもいる。だが死を決して踏み留まり、なおも戦おうとする兵も少なくはない。主君の仇討ちを心に期す者もいるだろう。
戦いはまだ終わったわけではなく、このあとは追撃戦へと移行していく。
貴之は新たな力を呼び起こすため、ひとつ深呼吸をして顔を上げた。
「よし、もうひと働きしよう」
修資がにやりとする。
「そうですな。このへんに残っている小勢を片づけてから、いったん陣所へ戻りましょう。御屋形さまが――」
また中途半端に言葉を切った彼の目は貴之の頭上、ずっと高いところに向けられている。
同じ方向へ目をやった貴之は、いつしか晴れ渡っていた青空を横切る一羽の禽影と、それが落としたらしいものを見た。
端で結んで三本つないだ赤い扱き帯。長くひらひらとくねりながら、ゆっくり舞い落ちてくる。天眼組からの合図だ。
黒葛本陣で法螺貝が吹き鳴らされた。低い音程で長く三度、高く短く二度。その意味するところは事前に教えられている。
〝守笹貫本軍、来る〟
慄然として声も出ない貴之の隣で、修資がほろ苦く笑った。
「大方済んだと思うたは早合点で、ようよう折り返し……いや、どうやらここからが本番のようだ」
聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/




