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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第一章 戦(そよ)ぐ春景
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十   天勝国門叶郷・伊都 隠れ家

 農作地の中に簡素な小さい家々が建ち並ぶ〝ざい〟を通り抜けながら、伊都いとは何度か田圃たんぼに馬を寄せて、農作業をする人々に道を訊いた。それでわかったのは、百姓は武士の家について何も知らないということだ。

 門叶とかないさと天勝ちよし国の中では比較的小さい部類に入り、伊都の生家がある大光明おおみや(ごう)の半分ほどしかない。だが在に住む人の大半は、すぐそばにある城下町に、ほとんど足を踏み入れることなく暮らしているようだった。

 もっと城郭に近づき、屋敷町で適当な家の下男か誰かに訊くほうが、ずっと話が早いのは間違いない。だが、まさにその屋敷町に住む隣人に家族を惨殺された伊都は、門叶の武家にも強い警戒心を抱いていた。長助ちょうすけは〝誰が敵かわからない〟と言っていたし、門叶の城代は志鷹したか家のけらいだ。襲撃者たちを率いていた志鷹頼英(よりひで)と通じている者が城下にいないとも限らない。

 さんざん迷った挙げ句、伊都は日が西に傾くころになってようやく城下町に入った。幸いだったのは、最初に声をかけた塩商人(あきんど)が、たまたま目指す叔母夫婦の家を知っていたことだ。何度かそこへ届け物をしたことがあるという彼は、親切に家の門前まで馬を引いて案内してくれた。この幸運な出会いがなければ、夜になってもまだ辻をうろいついていたかもしれない。

 父方の叔母である都留つるの夫は渡会わたらい典政(のりまさ)といい、堀端に屋敷を構えていた。叔母はともかく、彼とはまだ一度も顔を合わせたことがない。突然やって来た妻の姪を、果たして受け入れ、かくまってくれるだろうか。宵闇が迫る中、玄関で取り次ぎを待つあいだ、伊都の胸は張り裂けそうにどきどきしていた。中へ入れてもらえたとしても、夕べ起こったことをどんなふうに話せばいいのだろう。

 玄関へは叔母の都留が応対に出てきた。その顔には戸惑いと強い懸念が浮かんでいる。

「まあ……伊都。本当にあなた?」

「叔母さま、お久しぶりです」伊都はあまり歓迎されていないことを、彼女の声音から感じ取りながら挨拶した。「お知らせもせずに来てしまい、申し訳ありません」

「そんな格好で――馬に乗ってきたの? ひとりで? お母さまは?」

「あの……ひとりで来ました。母は――」亡くなりました、といきなり言うわけにもいかず、思わず口ごもる。「一緒ではありません」

 叔母はますますいぶかしむような表情になったものの、とりあえず式台へ上がるよう言ってくれた。

「あら、その腰物は……」

 履き物を脱ぐ伊都をじっと見ていた彼女が、ふいに声を上げた。帯に差した小太刀に、とがめるような視線を向けている。

「どうして刀なんか。定吉さだきちにお預けなさい」

 脇に控えていた下男が黙って両手を差し出す。そちらに顔を向けた伊都の背中に、ひやりと冷たい感触がった。刀を手放したくない。思えば母が亡くなったあと、この小太刀を支えにすることで、どうにか立っていられたような気がする。心のり所を失ったら、すぐにも倒れてしまいそうだ。

 だが、どう駄々をこねたところで、帯刀したままで座敷へ上げてもらえるはずはない。伊都は小さく震える手で小太刀を帯から抜き、痛恨の思いを噛みしめながら下男に手渡した。武装を解かれたことで、裸になったような頼りなさを感じる。

 親戚の家へ来たのだから、もう安全なはずなのに、どうしていつまでも不安が消えないのだろう。刀を手放すのは大きな間違いだというように、神経がぴりぴりするのはなぜだろう。

 叔母に連れられて座敷へ行くと、度会わたらい典政(のりまさ)が待っていた。彼は伊都の父親よりも少し若く、二十代後半ぐらいに見える。切れ長の大きな目で、口髭が濃く、それをきれいに刈り込んでいた。背はかなり高くて、恰幅かっぷくもいい。

「叔父さま」典政の前に正座した伊都は、畳にきちんと両手をついて深く頭を下げた。「初めてお目にかかります」

 顔を上げると、驚きと感嘆が入り混じったような彼の視線にぶつかった。何かおかしな様子に見えるのだろうか、とさらに不安がつのる。

「これは驚いた」典政は凝然としたまま、つぶやくように言った。「たいそう美しい……いや、愛らしいな」

 伊都の頬が熱くなる。美形だと褒められたことは過去にもあったが、大人の男性からこうも正面切って言われるとやはり恥ずかしい。思わずうつむくと、横で叔母が不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「この子の母親――義姉上あねうえの器量は、大光明のご城下でも評判ですからね」声にややけんがある。「母娘おやこだけあって、よく似ております」

「そうか。うむ……いずれ縁組みの申し入れが、降るように舞い込み始めるだろうな」

 典政は楽しそうに笑い、さらにまじまじと伊都の顔を見つめた。

「いとこでなければ、せがれの嫁にもらいたいぐらいだ」

 予想外に気さくな叔父のお陰で少し緊張がほぐれたものの、伊都はまだ気を抜くわけにはいかなかった。これから、およそ信じがたい話をして、どうしてもふたりに信じてもらわなければならないのだ。

 襲撃があり、両親が亡くなった事実は、調べればすぐにわかることなので問題ないだろう。だが、志鷹頼英が襲撃者のひとりだというのは、それを目撃した伊都が知っているだけで、ほかに何も確たる証拠はない。国主の弟たる人が、兇賊きょうぞくのような真似をしたなどと言って、容易たやすく信じてもらえるとはとても思えなかった。

「それで、前触れもなく、供も連れずにひとりで訪ねてきたのは、何用あってのことかな」

 やんわりと訊ねられ、伊都は再び棒を呑んだように体をこわばらせた。ついにこの時がきた、落ち着かなければ――と心中でつぶやく。

 それからゆっくりと顔を上げ、彼女は昨夜起こったことを何もかも、包み隠さず打ち明けた。夜中に庭へ出て花を眺めていたこと。そこへ男たちが突然押し入ってきたこと。母の無惨な最期。父の死にざま。巻き添えになった奉公人たち。そして、月明かりではっきりと見た、首謀者と隣人の顔。

 すべ話し終えるまでには、小半刻ほどもかかっただろうか。その間、叔父夫婦はほとんど口を挟むことなく、身じろぎもせずに聞いていた。

「息を引き取る前に、下男の長助が言いました。〝誰が敵かわからない〟〝ご城下から出て遠くへ〟と」伊都は話のしめくくりに、じいやの警告について話した。彼の顔を思い出すだけで、涙がこぼれそうになる。「でも、どこへ行けばいいのかわからず……いちばん身近な親戚の叔母さまを頼って、こちらへ来てしまいました」

 伊都は叔母と叔父の顔を交互に見た。叔母は眉根を寄せて唇をぎゅっと引き結び、ひどく動揺しているようにも、腹を立てているようにも見える。一方の叔父の表情は、深いうれいを帯びていた。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。でも、今お話ししたことはすべて本当です。どうか、父と母の無念を晴らすために、お力をお貸しください」

 伊都は切々と訴え、畳に額がつくまで頭を下げた。そのまま、ふたりのどちらかが何か言ってくれるのを待つ。もう話してしまったのだから、あとは相手次第だ。彼らがどう受け取ったかは、想像すらできなかった。とんでもない作り話をする、頭のおかしい娘だと思われたかもしれない。

 長い沈黙に心が押しつぶされそうになったころ、ふいに伊都は両肩を掴んで体を引き起こされ、そのまま力強く抱きしめられた。大きくて温かい手が、あやすように背を叩き、優しく髪をなでる。

「かわいそうに」そう囁いた声は叔父のものだった。「幼い身で、つらい目にうたな。よう無事で、ここまで逃れてきた」

 伊都は驚きに目を見開き、それから叔父の胸にぎゅっとしがみついた。張り詰めていたものがゆるみ、幾粒かの涙となって頬をすべり落ちる。

「昨夜から寝もやらずに馬を走らせてきたなら、さぞ疲れたことだろう。ともかく何か食べて、ひと晩よく眠るがいい。先のことは明日、あらためて話し合おう」

 父ならこう言うだろう、と思うような口調で、それがさらに伊都を切なくさせる。血のつながりがあるのは叔母なのに、赤の他人である叔父のほうがずっと身内らしく思えるのが不思議でならなかった。


 そのあと出された食事は、なかなか喉を通らなかった。炊きたての玄米にイワナの干物、茄子あすの味噌汁、切り干し大根の煮物という献立だが、何を口にしてもほとんど味が感じられない。心身共に疲れすぎているせいだ。だが伊都いとはせっせと箸を動かし続け、箱膳に並べられた椀の中身を全て平らげた。その様子を、上座から典政のりまさが満足げな笑顔で見ている。彼は伊都の表情や仕草に常に注意を払い、気にかけてくれているようだった。

 叔母の都留つるの態度は、彼に比べるとかなり冷淡だ。もともとそういう性格なのか、あるいは、厄介ごとを家に持ち込んだ姪を快く思っていないのだろう。もしそうだとしても、仕方のないことだと思えた。伊都をかくまったせいで、度会わたらい家に類が及ぶのではと不安になるのは当然だ。

 食事の席には、初めて会ういとこの典照のりてるもいた。伊都よりひとつ年下の九歳だが、ひょろひょろにせていて七歳ぐらいにしか見えない。都留が言うには、彼は生まれつき病弱とのことだった。枯れ枝のように細い手や青白い顔、くぼんだ眼窩がんかなどを見ると、たしかに弱々しさを感じる。だが食欲は大人以上に旺盛で、玄米と汁を三度もおかわりしていた。食べた分が肉にならないのなら、いったいどこへ行っているのだろう。

 食事が終わると、伊都は叔母に寝部屋へ案内された。畳の上にはすでにとこが延べてあり、行灯あんどんに火も入っている。欄間らんまに透かし彫りがあり、明かり障子しょうじの窓が見栄えのいい坪庭に面しているので、おそらく普段は客間として使われている部屋だろう。客扱いには恐縮するが、ひとりで寝られるのは嬉しかった。まだ気持ちがざわついているので、誰かと一緒の部屋では落ち着けそうにない。

「ゆっくりお休み」

 部屋を出がけに、叔母は少し口ごもってから、ほんのお義理のようにそう言った。彼女の口調には、まったくといっていいほど温かみが感じられない。

 前に会った時もそうだったろうか、と伊都はひとりになってから考えた。最後に顔を合わせたのは二年ほど前だったと思うが、その時の彼女がどんなふうだったかはあまりよく覚えていない。これまで考えたこともなかったが、父や母との関係は果たしてどうだったのだろう。兄である父の死を聞いて驚き、心乱れた様子こそ見せたものの、涙を流すほど悲しんだりはしなかった。あまり仲のいい兄妹ではなかったのだろうか。

 伊都はあれこれと思いを巡らせながら帯を解き、馬乗り袴と小袖を脱いだ。内着だけになって、ようやくほっと一息つく。まとめて縛っていた髪もほどくと、さらに体の緊張がほぐれるのがわかった。

 ともかく眠ろう。今、いろいろなことを考えていてもしょうがない。叔父は明日、また話そうと言ってくれた。きっとそれで、何かしらの方針は決まるだろう。

 伊都は薄く綿が入った夜着をめくり、床に入ろうとして、ふと尿意をもよおした。そういえば手水ちょうずへは、夕べ自宅で行ったきりだ。ずっと気を張っていたせいか、これまでまったく意識にのぼらなかった。

 初めての家でも、手水の場所はなんとなくわかる。伊都はそっと部屋を出ると、半開きのり戸から月の明かりが差し込む入側いりかわを、家の奥へ向けて歩き出した。先ほど食事をした座敷の裏手がおそらく奥寝間おくのねまで、手水や湯殿はその周辺にあるはずだ。

 背後の、台所があると思しきあたりで下女らがたてる音を聞きながら、微かにきしむ板張りの床をゆっくりと進んでいく。

 左にある、この小さな板戸はきっと納戸の入り口。その隣は小座敷。そしてここが座敷。付け書院の出っ張りの先で入側は左へ折れ、さらに少し行ったところで今度は右へ折れていた。天井が少し低くなったので、ここからが家の奥部分なのだろう。

 小さい部屋をふたつ通り過ぎ、奥寝間と思われる間口の広い部屋の前を通りかかった時、伊都は中からもれる話し声に気づいて足を止めた。

「兄は断ったのでしょう。それしか考えられません」

 叔母の声だ。ということは、〝兄〟とは父のことに違いない。伊都は腰付こしつき障子に影が映らないよう、腰板の陰にしゃがみ込んだ。体が咄嗟とっさに動いただけで、なぜ自分がそんな真似をしているのかはよくわからない。だが、ここにいることを知られずに叔母の話を聞く必要がある、と直感が告げていた。

「しかし頼英よりひでさまも、思い切ったことをなさる」唸るようにそう言ったのは叔父だった。「なにも、皆殺しにせずともよさそうなものだが」

「するならするで、きちんと片をつければよいものを」叔母がいらいらと吐き捨てる。「たかが小さな娘ひとり――どうして逃したりなさったものか」

 伊都は体を動かさなかった。息も止める。存在を悟られたら終わりだ。小さく縮まり、視線を落とし、一塊の土くれのように無機質な存在になろうとする。そして、ただ耳だけをそばだて続けた。

「あの娘をどうしたものかな」

「どうもこうも」癇癪かんしゃくを起こしたように、叔母の声が高くなる。「かくまっていると知れたら身の破滅です。始末せねば」

「これ、声が大きい」叔父が叱り、重いため息をついた。「しかし――せっかく生き延び、いじらしくも我らを頼ってきたものを」

「とんでもない、図々しいにもほどがあります。たいして親戚づきあいしていたわけでもないのに、ぬけぬけとこちらを頼るなど」

 爺やは正しかった。〝誰が敵かわからない〟というあの言葉は、まさに問題の核心を突いていたのだ。外の者だけではなく、身内にすらも敵がいた。志鷹したか家に少しでも関わりのある人々は、誰ひとりとして信用してはならなかったのだ。

 伊都は床にいつくばったまま、ゆっくりと後ろへ下がり始めた。慎重に、音を立てず、蜥蜴とかげのようにひそやかな動きで、じりじりと奥寝間から遠ざかっていく。そして、もうだいじょうぶと思えたところで立ち上がり、床板の端を踏みながら寝間へ戻った。部屋を抜け出て、また戻ったことに、誰かが気づいた様子はない。

 ふすまを閉じると、真っ先に行灯あんどんを消した。少し目が慣れるのを待ってから、障子越しに入る外の明かりを頼りに、一度脱いだ着物を再び身につけていく。そうしながら、伊都は自嘲気味に笑みをもらした。夕べとまったく同じことを繰り返している自分が、あまりにも愚かに思える。爺やの警告どおり、あのままどこか遠くへ行くべきだったのだ。ここで安全に守ってもらえると思うなど、考えが甘すぎた。次は絶対に失敗しない。

 身なりを整えてから、伊都はとこに潜り込んだ。叔母が様子を見にこないとも限らない。眠ったふりをして、家じゅうが寝静まるのを待ち、それから出ていこう。縁側から裏庭へ降りて、裏木戸から抜け出ればいい。昨日と違って、今日は見張りがいないから難しくはない。だが、馬はあきらめるしかないだろう。馬屋から連れだそうとしたら、きっと奉公人に気づかれてしまう。

 そこで、彼女ははっと息を呑んだ。

 わたしの小太刀。下男に預けた。あれはどこに置かれているのかしら。残していきたくない。自分のものと思えるのは、もうあれしかないのに。でも、こっそり探し回るのはたぶん無理だわ。

 伊都は横向きに寝て、身じろぎひとつせずに時が経つのをじっと待った。庭木の影が明かり障子に映り、何か不思議な生き物のようにうごめいている。ゆらゆらと揺れる、何本もの細い腕に似たその灰色の影は、まるで彼女をどこかへ誘い出そうとしているようだった。

 わたしが行くべき場所がどこなのか、知っているなら教えてくれたらいいのに。天勝ちよし国を出て、志鷹家の支配下にない国へ行こうか。隣の平等たいら国はだめ。分家の華表とりい志鷹家が国主だから。じゃあ南部はどうだろう。ここからいちばん近いのは、たしか立身たつみ国だ。天勝国の二倍もあるような、とても大きい国だと教えられた。その中に紛れ込んでしまえば、誰にも見つけられないかもしれない。あるいは、いっそ東峽とうかいへでも行ってしまおうか。別役わかえ国を通り抜けて御守みもり国へ。そして昇山して、御山みやまの奉職者になる。

 どれも非現実的な考えに思えた。馬も銭もなく、道も知らず、付き添う人もなくて、そんなに遠いところまで行けるはずがない。それとも、行けるのだろうか。

 意識は冴え渡っているが、体は綿のように疲れていて、伊都は何度か睡魔に屈しそうになった。そのたびに、眠っちゃだめ、と自分を叱咤しったする。うっかり眠り込んで朝までここにいたら、明日は殺されてしまうかもしれない。その思いが、かろうじて集中力を持続させてくれた。


 小半刻が経ち、さらに小半刻が経ち、じりじりと夜がけていった。

 もういいかしら? ううん、あと小半刻待とう。それとも、半刻待つほうがもっといいかもしれない。誰もかれもが、深く眠りの中に入り込むまで。わたしが出ていく足音を、誰も聞きつけたりしないように。

 その時、ふすまの向こうで床板が微かにきしんだ――気がした。思い違いだろうか。いや、また軋んだ。廊下に人がいる。襖が開いた。誰か中に入ってくる。

 夜着の下で体をよじり、戸口のほうを向こうとした瞬間、上から押さえ込まれて、口を手でふさがれた。相手は大きく、必死にもがいてもはねけることができない。薄暗がりの中でも、相手が叔父であることはわかった。叔母との話し合いで、今夜のうちに始末すると決まったのだろうか。このまま、何もできずに殺されてしまうのはいやだ。

伊都いと」手に力をこめて抵抗を封じながら、叔父が小声で囁いた。「静かに。都留つるに気づかれてはまずい」

 伊都はもがくのをやめた。だが、まだ体の力は抜かない。典政のりまさは少し息をつき、言葉を続けた。

「あとでわけを話すが、ここにいては危ないのだ。わしはそなたを助けたい。あらがわず、今はおとなしく従ってくれ」

 その声には誠実な響きがあった。信じてもいいだろうか。先ほども彼は叔母に対して、わたしをかばうような言い方をしていた。助けたいという言葉に、嘘はないのかもしれない。

 伊都は少しずつ抵抗をゆるめ、最後に両腕を突っ張るのをやめた。同時に、叔父の束縛も弱まる。

「誰にも悟られぬよう、これから家を出るぞ。音を立てず、ものを言わずについてこられるな?」

 黙ってうなずき、伊都はそろそろと床の上に起き上がった。完全に身支度を整えているのを見て、典政がふと眉をひそめる。

「……もしや、出ていくつもりだったのか」

 問いかける彼の顔をじっと見つめ、しばらく間を置いてから、伊都は再びうなずいた。叔父が少し驚いたようにたじろぎ、ややあって、何かに落ちたと言いたげな表情を浮かべる。悟られていないつもりだったが、もしかすると奥寝間おくのねまの外でふたりの話に聞き耳を立てていた時に、彼はその気配を何となく感じ取っていたのかもしれない。

 叔父と一緒に家を抜け出るのは簡単だった。彼が進むほうへ、ただついて行くだけでいい。裏庭には玉砂利たまじゃりを敷いた細い道があり、叔父はその上に転々と置かれた、水流の中の小島のような飛び石を踏んで歩いていった。突き当たりには、小屋根のついた裏木戸がある。扉にはかんぬきが渡されていたが、受け金具に角材を載せただけの簡単なものだったので、すぐに開けることができた。扉の先には細い木橋があり、その下を水路が通っている。これが門叶城の外堀にあたるようだ。

 水路を隔てた向こう側は、夕方通った商人町だった。どの商家もたなも火を落とし、表の大戸を閉じて静まりかえっている。夜道は墨を流したように暗く、人はもちろん野良猫一匹歩いていない。

「足元に気をつけて、ついておいで」

 そう囁いて歩き出した典政のあとを慎重に追ううちに、だんだん目が慣れて辺りの様子が見えてきた。大光明おおみやに比べると、ここの商人町は規模が小さく、荷車がすれ違えるほど幅の広い通りもあまり多くないようだ。表通りの道は比較的まっすぐだが、一歩裏通りに入ると、くねくねした細い路地が迷路のように入り組みながら交差していた。初めて来た者が案内なしに踏み込むと、中で迷ってしまうかもしれない。

 その迷路を慣れた様子で歩き、叔父が伊都をいざなったのは、町の外れに近い一軒の小さな家だった。間口は五、六間ほどだろうか。長屋よりは少し広いが、中は台所のほかに二間、多くて三間か納戸がある程度だろう。薄い板塀で囲まれた敷地の裏手には小さな庭がしつらえられているらしく、葉を茂らせた細い桜の木が夜空に枝を伸ばしているのが見えた。

 周囲には長屋が多いが、独立した小綺麗な家がほかにも数軒ある。おそらくそれらは、かなり羽振りのいい職人の統領か、踊りや武芸の師匠、あるいは商家の隠居などの住まいだろう。この家にも、叔父の知り合いのご隠居か誰かが住んでいるのかもしれない。

 玄関の板戸を控え目に何度か叩き、しばらく待ってから再び叩いていると、中でごそごそと音がして小窓が引き開けられた。格子の向こうで蝋燭の明かりがゆらめいている。

「どなたさまで」誰何すいかする声は年老いていた。

「わしだ」

 典政が短く答えると、すぐに突っいを外す音がして、板戸が引き開けられた。土間に立っていたのは、黒々と日焼けした丸顔に、眩しいほど真っ白な顎髭をたくわえた小柄な老人だ。

「こんな時分においでとは思わず、ご無礼いたしました」彼はそう言いながら、典政と伊都を中にしょうじ入れた。「今、奥さまをお起こしして参ります」

 老人が奥へ引っ込むと、典政は伊都を伴って、台所と続きになっている次の間へ上がった。外から見た通りのこぢんまりとした質素な家だが、掃除が行き届いていて、どこを見てもすっきりと片付いている。

「ここへ着くまで、本当にいっさい声をもらさなんだな」部屋の様子を見回している伊都に、典政が話しかけた。「そなたはまるで、の子のように腹が据わっている」

 伊都は叔父を見上げ、小さくうなずいた。

「父は男子に恵まれなかったので、幼いころからわたしに武芸を仕込み、嫡子として育てました。男の子のようなのは、そのせいだと思います」

 ややあって、ひとりの女が羽織を肩にかけながら出てきた。そのうしろに、手燭てしょくを持った老人が続く。

「急にすまんな」典政は彼女に向かって言い、次に伊都のほうを見た。「これは、わしが世話をしている女で、名を多恵たえという」

 紹介されると、多恵はにっこり笑って会釈した。黒目がちの丸い目をしていて、鼻の頭にうっすらそばかすがある。あまり美人ではないが健康そうで、開けっぴろげな笑顔から天真てんしん爛漫(らんまん)な人柄が見て取れた。老人は〝奥さま〟と言っていたが、年はかなり若そうだ。

「はじめまして」伊都は会釈を返し、自分で名乗った。「伊都といいます」

「わしの妻の姪だ」典政はそう説明して、伊都の肩に手を置いた。「ここでしばらく預かって欲しい」

「まあ、かわいい姪御さま」

 多恵は声を弾ませて言い、腰をかがめて伊都の手を優しく握った。手のひらがさらりと乾いていて、とても温かい。

「どうぞ、お楽になすってくださいねえ」

 その気安さは伊都を少し気後きおくれさせたが、同時に心をなごませもした。のんびりしたしゃべり方が、生家に奉公していた下女のまちにどことなく似ている。

「疲れていようから、寝させてやってくれ。明日、また様子を見に来る」

 典政はそう言うと、見送りはいらんと多恵を押し留めて、玄関へ向かった。すかさず老人が先回りし、明かりを低く下げて足元を照らす。

「奥へとこを取りますから、ちょっと待っててくださいましね」

 ほがらかに言い置いて多恵が去ると、伊都は典政を追って玄関へ出て行った。戸口を出かけていた叔父が気づき、意外そうに足を止める。

「どうした。この家では、不安がらずともよいぞ」

 なだめるように言う彼の傍へ行き、伊都はかぶりを振った。

「いえ、そうではなく――あの、実は叔父さまのお宅に、刀を置いてきました」

「刀?」典政が眉をひそめる。「どんな刀だ」

「糸巻太刀(こしらえ)の小太刀で……柄が白糸菱巻(ひしまき)つば木瓜もっこう形」

 すらすら答えると、叔父が感じ入ったように低く唸った。

「まさに武芸者の子だな」

「父から贈られたものですし、手元にあると落ち着くので、できれば取り戻したいのです」

「相わかった。探して、持って来よう」

 典政はそう約束して、暗い夜道を帰って行った。一度はあきらめかけたが、どうやら小太刀が戻ってきそうだ。伊都はほっと安堵の息を吐き、家の中へ引き返した。

「狭いですけどねえ、辛抱なすってくださいね」

 次の間の奥にある八畳の座敷には、ふた組の床が並べてあった。多恵は申し訳なさそうにしているが、べつに窮屈さは感じない。

 座敷に入ってようやくわかったのは、この家がくの字の形をしているということだった。〝く〟の書き始めの部分に玄関があり、入った先は縦に長い土間になっている。その右側に次の間と台所が並んでいた。次の間に上がって奥へ進むと、家の中心の曲がった部分にある座敷に突き当たる。そこで左へ折れると六畳の居間と三畳の納戸、そして風呂と手水ちょうずがひと続きになっていた。外から見えた裏庭らしきものは、くの字の内側部分にあたるようだ。

 住んでいるのは多恵と老下男だけのようなので、それなりにゆとりのある住まいと言えるだろう。

 伊都は手水を使わせてもらってから、着物を脱いで床に入った。多恵がすぐに行灯を消し、室内が深い闇に包まれる。伊都は仰向けに寝て枕に頭を馴染ませ、体いっぱいに溜まっていた緊張の塊を息と共に細く長く吐き出した。全身から力がけ、すぐに頭がぼんやりしてくる。

 急速に眠りに落ちていきながら、伊都はふと叔父と多恵の関係について考えた。こんな一軒家で老爺ろうやひとりを相手にして、後家のように暮らすには彼女はまだ若すぎる。おそらく年は二十歳はたちにもなっていないだろう。

 叔父は「わしが世話をしている女」と言っていた――うつらうつらしながらそう思った瞬間、伊都の意識がわずかに覚醒した。そうか、この人は叔父さまのおめかけなのね。

 わかったとたん、伊都はすべてを放棄して眠りに身を委ねた。そのまま深く、深く、静かで何もない暗闇の中に沈み込んでいく。最後にちらりと頭をよぎったのは、叔母さまは知っているのだろうか、という小さな疑問だった。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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