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玉響(たまゆら)の群像  作者: 唐橋遠海
第一章 戦(そよ)ぐ春景
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九   立身国七草郷・六車兵庫 手合わせ

 前夜の雨で空気がきれいに澄んだ朝、六車むぐるま兵庫(ひょうご)はまだ暗いうちから起き出した。椙野すぎの家の人々はみな寝ているらしく、母屋はしんと静まりかえっている。一家の眠りを乱さぬよう、そっと家をけ出した彼は、門外の道で入念に膝や足首を曲げ伸ばししてからゆっくりと走り出した。広々とした農作地のあいだを抜けながら、徐々に速度を上げていく。

 南向きにしばらく進むと、道の先に海が見えてきた。水の色は黒と藍色の中間ぐらいで、東のほうの水平線が一部だけぼんやりと白く光っている。砂浜に着くころには、太陽が顔を覗かせているだろう。浜までの道のりは一里半ほどだ。これを半刻で往復するのが、最近の彼の日課になっている。

 一面に水をたたえ、青々とした稲の列が整然と並ぶ田圃たんぼには、早くも仕事に取りかかろうとしている百姓たちの姿がちらほら見受けられた。野菜を育てている畑にも、もう幾人か人が出ている。エンドウ豆や白瓜などを朝取りして、城下へ売りに行くのだろう。その様子を視界に捉えながら走っていた兵庫は、休耕地の傍に立つ一軒の百姓家にふと目を留めた。藁葺わらぶき屋根には雑草がびっしりと生え、板壁は風雨に浸食されてところどころに穴が空いている。

 その家は荒れ果てており、長らく人が住んでいないように見えた。昨日もそう見えたはずだ。ならば、なぜ今朝は注意を引かれたのだろうか。

 兵庫は走り続けながら理由を考えた。小さなとげのようなものが、意識の片隅に刺さっているのを感じる。浜に着き、海面を渡ってくる旭光を浴びながら深呼吸をした時に、彼はようやくその棘の正体に思い至った。正解かどうかは、復路で確かめられるだろう。

 帰り道、兵庫は休耕地の手前で、走る速度を少しだけ落とした。顔は前に向けたまま、視線だけゆっくりと動かして、あの家をもう一度子細に観察する。すると思った通り、昨日とは様子が変わっている部分を見つけることができた。

 閉じていたはずの南側の蔀戸しとみどが開けられている。窓板そのものは古くなって黒ずんでいるが、それを支える突っい棒は白く、削りたての生木のようだ。さらに彼は、家の裏手の外壁に沿って、薪の束がふたつ積まれていることに気づいた。こちらも、割り口の色がまだ新しい。

 誰かが住み着いたのだろう。ただそれだけのことだ。そう思い、道場へ戻って素振りをしているあいだは忘れていられたが、鍛錬を終えるとまた自分があの家についてぼんやりと考えていることに気づいた。こういう引っかかりには必ず何か意味があるはずで、安易に無視すべきではない。

 彼はその漠然とした懸念を、ひとまず心に留めておくことにした。


 椙野すぎの家の人々と共に母屋で朝食を取ったあと、兵庫ひょうごは半刻休んでから道場へ戻り、朝から気合い充分な若い門弟たちの打込稽古を見物した。

 刀祢とね匡七郎(きょうしちろう)も来ていて、同年代の仲間と激しく木太刀を交えている。稽古の打ち込みは寸止めにする決まりだが、相手をしている少年はあまりうまくないようで、匡七郎は何度か実際に体を打たれていた。それでも、当たるとまずいところへの打ち込みはうまくかわしている。彼自身は、持ち前の俊敏さや、手首と肘の柔軟さを活かし、縦横無尽の打ち込みで相手を翻弄していた。年齢のわりには木太刀の扱い方が創意に富んでいる。

 ひととおり見てから縁側へ出て座っていると、稽古を終えた匡七郎がやって来た。

「兵庫さま」

 何度言っても改めようとしないので、もう好きにしろと思って呼びたいように呼ばせているが、やはり〝兵庫さま〟などと言われるとこそばゆい。

「あんなふうに、じいっと見られていたら落ち着きません」

 肩ごしに目をやると、匡七郎は少し頬を上気させていた。見られているのを知って、意識していたらしい。

「その程度で気を散らしていてどうする。それに、おまえだっていつもおれを見ているじゃないか」兵庫は軽くいなし、小さく笑った。「おまえの剣術は、少し腰が軽いな」

 ぽつりと言ったその言葉に、匡七郎がはっと目を見開く。彼は急いで近づくと、横に正座をした。

「はい」

「だが、なかなか器用に手を使う」

 褒められた嬉しさで、少年の口許が微かにゆるむ。「背の高い相手に勝てるようになりたくて、手の動かし方を工夫していたら、き手じゃないほうも、だんだんうまく使えるようになってきたんです」

「自分より大きい相手と戦う時は間合いを読み、自ら間合いを操作することが重要だ。それには、刀よりももっと長い得物のほうが向いている」

「もっと長い得物というと――棒や槍ですか」

「そうだ」

「でも、槍は雑兵の得物です」

 珍しく、少し不満げな顔を見せた。何か彼なりに、武士とはくあるべきというこだわりを持っているようだ。

「槍担ぎが雑兵の代名詞だったのは昔の話だ。近世では武士も使うし、槍使いとして名を上げた武将も大勢いるぞ」兵庫はそう言いながら立ち上がり、道場の壁に架かっている中から長めの赤樫あかがしの木太刀を選んで持ってきた。右手で柄の根元、左手で刀身の中ほどを握り、右足を少し引いて斜めに構える。「槍はさまざまな得物の特徴を兼ね備えた、理想的な武器だ。立って、構えてみろ」

 匡七郎はあわてて立ち上がり、木太刀を正眼に構えた。その手元へ向けて、兵庫が切っ先を鋭く突き込む。心構えをする暇を与えなかったにもかかわらず、少年は素早く反応した。真っ向から受けるのではなく、木太刀を左に倒しながら、横から合わせようとする。なかなかうまい対応だ。だがいつもの稽古の癖で、意識が相手の切っ先だけに向いている。兵庫は持ち手の位置を入れ替えて木太刀を半回転させ、下から彼の柄頭つかがしらすくい上げてね飛ばし、一瞬で武装解除した。手元でさらに木太刀を回転させ、なすすべもなく息を呑んだ匡七郎の喉元に切っ先をぴたりと当てて動きを止める。

「棒のように突き――」彼は静かに言った。「薙刀なぎなたのように払い、刀のように打ち込む。これに本来の長さが加われば、戦う相手との間合いを支配することも自由自在だ」

 兵庫が木太刀を引くと、ようやく息ができるようになった匡七郎は、少し震えながら長々と息を吐いた。

「兵庫さまは、槍術も学ばれたんですね」つぶやく声がかすれている。

「戦に役立ちそうな武術は何でも、ひととおりな」

「さっきは、あのまま打ち倒されるかと思いました」

「穂先だけに意識を向けていると、思わぬ角度からつかに打たれる。槍の動きは、刀よりもずっと変化に富んでいて柔軟だ。その特性を充分に活かせば、自分より体格の優れた相手や剛力の剣術使いと相対しても、敵を翻弄することができる」

「わたしでも、できるようになりますか?」

 匡七郎の目が興奮に輝いている。つい先ほどまで見せていた気乗りのしなさそうな様子は、すっかりどこかへ消え失せてしまっていた。目の前で実演されたことで俄然、槍への興味が沸き上がってきたのだ。

「もちろん、できるようになる」兵庫は真面目な顔で言った。「しっかり修練すればな。侍の得物は、何も刀だけに限ったものではない。自分の手に最も合う得物が見つかるまで、いろいろと試してみることだ」

「はい。そうします」

 声を弾ませて返事をした匡七郎を、道場内から誰かが呼んだ。

「あ、行かなきゃ」首をそちらに巡らせながら残念そうに呟く。「兵庫さまは、稽古をなさらないのですか?」

「する。もう少し後でな」

 早く行け、と促すと、匡七郎は小さく会釈して道場の中へ戻っていった。足を踏み出すたびに後頭部で、尻尾のような髷がひょこひょこと揺れている。その後ろ姿をしばし眺めたあと、庭へ下りるためきびすを返そうとした兵庫を、縁側へ出てきた人物が呼び止めた。師範の平蔵へいぞうの次男で、門人たちから〝若先生〟と呼ばれている椙野篤次郎(とくじろう)だ。彼は父親から家中かちゅう屋敷への出稽古を任されているため、日ごろ常に道場にいるというわけではない。兵庫は椙野家に滞在させてもらっているので、食事の席などではいつも顔を合わせていたが、こうして道場で声をかけられたのは初めてだった。

「篤次郎先生、何か?」

 振り返って訊ねた兵庫に、篤次郎が微笑みかける。三十路みそじ目前のかなり風采のいい男だが、まだ妻も子もなく気楽な独り身だ。

「えらくなついたものだなあ、あの匡七郎が」感心したように言い、彼は兵庫の近くに歩み寄った。「師範代も手を焼く腕白わんぱく小僧なんだが……よほど、おぬしのことを気に入ったとみえる」

 兵庫は思わず苦笑した。「わたしなどの、どこがいいのか」

「あれの筋をどう見ているか、聞かせてもらえぬか」

「たいへん、よいと思います。打ち合いの最中にも周りがよく見えているし、常に一手二手先まで考えながら動いている。また、身の軽さと敏捷さは驚くほどです」兵庫は、稽古に励んでいる少年を見ながら言った。「本人が腹をくくってその道に邁進まいしんするなら、いずれはひとかどの使い手となるやもしれません」

「素質はある、か」篤次郎も道場の中へ目を向けながらうなずく。「師範もわたしも、同じように考えている。ただ、果たしてあれに括るだけの腹があるかどうかというのが、未だよくわからぬところでな。だが、もしそれなりの覚悟があるならば、師範はあいつに剣術以外のものも教えてみたいと考えているようだ」

「平蔵先生は、音に聞こえた多門寺たもんじ流槍術の達人でいらっしゃるとか」

 兵庫がさらりと言った言葉に、篤次郎が瞠目どうもくした。

「知っていたのか」

「は。かつてわたしの師が、昔語りに語るのを聞いた憶えがあります」

 篤次郎はしばらく口をつぐみ、値踏みするように兵庫を見つめた。その口許に、じわじわと笑みが広がる。

「ふ、ふふ――いや、まいった。どうにも油断のならぬ男だな、おぬしは」言葉とは裏腹に、彼の表情はいかにも愉快そうだ。「匡七郎に槍術の話をしたのは、それを知っていたゆえか」

「あの器用さは槍を操るのにむいているのではと思えたので、話してみたまでのこと。他意はありません」

「まあ、そういうことにしておこう」

 篤次郎は含み笑いをしながら言い、兵庫の眼を覗き込んだ。

「おぬしのお陰で、匡七郎は槍術に興味を抱いたようだ。まさしく渡りに船といったところで、師範はさぞかし喜ぶことだろう。もし我々が下手へたに〝槍を学んでみろ〟などと勧めた日には、あの頑固者のことだ、剣術ではものにならんと言われたものと思って癇癪かんしゃくを起こしたに違いないからな」

「わたしには、匡七郎はいたって素直な気質の持ち主に思えますが」

「押されれば押し返す、というのが本来のあれの流儀だよ」篤次郎がほがらかに笑う。「おぬしには、よい顔を見せていたいらしいがな」

 そう言われても、兵庫には依然として匡七郎の心中は量りがたかった。

「何を誤解して、そのように見込まれたものか……」

「誤解とは限るまい。おぬしの中に、己の求めていた何かを見つけたのやもしれん。――だが今はまだ、見たいと思う部分しか見ておらぬのも事実だな」

 篤次郎はそうつぶやきながら顔を上げ、こちらをまっすぐに見た。

「おぬしと打ち合ってみたい」

 突然の申し出だったが、兵庫に動揺はない。「今日ですか」

「今日、これから」

「及ばずながら、お相手させていただきます」

 そう言ってうなずいた兵庫の肩をぽんと叩き、篤次郎はさっそく門人たちに場所を空けるよう声をかけた。打ち合いの音が止まり、一瞬にして道場内の雰囲気が変わる。師範の平蔵を除けばまぎれもなく道場一の使い手である篤次郎と、腕前はまだ未知数だが計り知れない実力を感じさせる兵庫。誰もが密かに見たいと思っていたふたりの試合が、ついに実現するのだ。誰の目も期待と好奇心に輝いていた。


 門人たちはただちに稽古を中断すると、潮が引くように素早く壁ぎわへ退いた。開始を待つあいだにも、室内の空気が煮えたぎる釜の中のようにじりじりと沸騰していく。

 兵庫ひょうごは先ほど借りた木太刀をそのまま使うことにした。その傍に匡七郎きょうしちろうがそっと歩み寄り、熱のこもった眼差まなざしを向けて小声で問いかける。

「兵庫さま、若先生に勝てますよね?」

「簡単に言うな」

 思わず苦笑した彼の袖を握り、匡七郎は強い口調で言った。

「勝ってください」

 兵庫は彼を見下ろしたまましばらく黙っていたが、やがて心を決めて「わかった」と短く答えると、篤次郎とくじろうが待つ板間の中央へ進み出ていった。

 彼のほうが篤次郎より一寸ほど上背があるものの、二人の体格はほぼ互角だ。そしてお互いに、相手の技をこれまでほとんど目にしていない。どう戦うかは、出方を見てから、それぞれ臨機応変に決めていくことになる。

 ふたりは一礼すると、呼吸を合わせて腰を落とし、互いに木太刀をつけ合わせた。そのまま緩やかに立ち上がり、するすると退いて三間半ほど距離を空け、再び相対する。篤次郎は正眼、兵庫は八双の構えだ。

 次の瞬間、兵庫は弦を放れた矢のように、篤次郎の懐へ飛び込んだ。相手の反応がわずかにでもおくれたなら、ここで勝負はついていたかもしれない。だが篤次郎は咄嗟とっさに右膝を折って体を倒し、右脇腹への鋭い打ち込みを鮮やかにかわした。そのまま地をうように木太刀を払い、こちらの向こうずねを狙ってくる。兵庫はももを引き上げるように跳んでこれをかわし、着地した先で右脇構えを取った。

 二合目の先を取ったのは篤次郎のほうだ。兵庫は突進してくる彼を誘い込むように退き、喉元に突き入れられた切っ先を首を横に振ってとかわすと、大きく踏み込んだ彼の両脚のあいだに右足を差し入れた。膝を絡めて相手の体勢を崩し、下からすくうように木太刀を跳ね上げる。篤次郎はこれを、斜めに倒した柄で受け止めた。双方の得物が二度、三度と激しくぶつかり合い、乾いた音が道場の板壁に響きわたる。

 兵庫は篤次郎の剣に、並々ならぬ手応えを感じていた。これまでに足を留めた道場で、幾人もの剣士と打ち合ってきたが、彼らとはひと味違う。本気を出さねば、つまり殺すつもりで戦わねば、決して勝つことのできない相手だ。

 激しく打ち合い、執拗に急所を狙いながら、兵庫は五感を研ぎ澄ませて相手のわずかな隙を探った。篤次郎の動きは速く、力もあり、技は熟練されていて誤魔化しがない。ことあるごとに師匠から「わけがわからん」とけなされていた自分の剣技とは、比べものにもならないほど美しく完成された剣だ。だが、彼はそこに自らの勝機を見いだしていた。美しく、誤魔化しのない剣だからこそ、型どおりの隙も生まれる。

 兵庫は再び八双の構えを取って、篤次郎との間合いをじりじりと詰めていった。袈裟に打ってくると読んだ彼が、自分の左肘の動きを警戒しているのがわかる。その時、篤次郎はここを勝負の際と見て、一気に攻めに転じた。しなやかに踏み込みながら、獰猛な突きを繰り出してくる。

 だが兵庫が狙っていたのは袈裟打ちではなかった。八双の構えは相手の攻撃を誘うためのものだ。彼は篤次郎が動くと同時に、上げていた切っ先を落とし、身を低く沈めた。体をひねりながら手首を返し、木太刀を垂直に振り上げる。その刀身が篤次郎の突き込みをがっちりと捉え、り上げてね飛ばした。彼の手を離れた木太刀が、激しく回転しながら門人たちの中へ飛び込んでいく。ひょいと腕を伸ばしてそれを掴んだのは、いつの間にか現れて見物人に混じっていた平蔵へいぞうだ。彼が「それまで」と穏やかに言い、勝負の幕を引いた。今まで呼吸を忘れていたかのように、門人たちが一斉に大きく息を吐く。

 構えを解き、兵庫もまた深く息をついた、少し熱を帯びた足の裏に、ひんやりと滑らかな床材の感触が心地いい。互いに礼をしてから篤次郎に歩み寄ると、彼はこだわりなく微笑みかけた。髪を少し乱し、総身に汗を光らせている。

「お見事、兵庫どの」

「こちらこそ、よい勉強をさせていただきました」

「よければ今夜あたり、飯を終えた後にでもゆっくりと語り合わぬか。師範も、きっと話を聞きたがることだろう」

「は。ぜひ」

 うなずいた兵庫はふと、篤次郎の斜め後方に立つ小さな人影に気づいた。匡七郎だ。「勝ってくれ」と言われ、実際に勝ってみせたのだから、本来なら喜び勇んで真っ先に駆け寄ってきてもおかしくないはずの彼が、なぜか見物していた場所に留まったまま動こうともしていない。そのことに多少の違和感をおぼえながら見つめていると、自分に向けられる視線に気づいたらしく、少年がようやく顔を上げた。

「匡七郎」

 兵庫に名を呼ばれた途端、彼は足元に鉄砲の弾を食らったように飛び上がった。明らかに様子がおかしい。不審に思った兵庫が近づこうとすると、匡七郎はにわかに慌てふためき、くるりときびすを返すや猛然とその場から逃げ去ってしまった。兄弟子たちのあいだをすり抜け、転がるようにして駆けていく後ろ姿を、兵庫が声もなくただ茫然と見送る。その横で、篤次郎がさも可笑おかしそうにくすくす笑った。

「逃げられてしまったな」

「は――」何がどうなっているのか、さっぱりわからない。「いったいどうしたのか」

「どうもこうもない。よほど恐ろしかったのだろう」

 ずばり言われても、まだ兵庫にはぴんとこなかった。もやもやとした気持ちを抱えたまま、匡七郎が去った方向をじっと見続ける。

「恐ろしい……。わたしが、でしょうか」

「無理もあるまい。わたしとて恐ろしかった」

 その言葉に、兵庫は瞠目どうもくして振り返った。

「今日わたしは打ち合いの最中に二度、殺されたと感じた」軽い口調で言っているが、篤次郎の表情は真剣そのものだ。「だが、それにも関わらず、一度もおぬしからは殺気を感じなかった。そのことが、なおさらに恐ろしく思える」

「わたしは――」

 言いさして、兵庫は言葉に迷い、一度口をつぐんだ。背後で再開した稽古の音を聞きながら、しばらく考え込む。これまで、他人とこういう話をしたことはなかった。どう伝えるべきか。どこまで伝えるべきか。

「わたしが師から学んだ剣術は、どこへ出しても恥ずかしくないものです。身につけた型も、師の教えに沿った正統なもの。しかし――篤次郎先生はお気づきになられたことと思いますが、本来わたしは正統とはほど遠い、意地汚い戦い方が得手なのです」口に出してみると、いかにもあきれた言いぐさに思えるが、事実なのだから仕方がない。「師や兄弟子たちからはいつも、なりふりかまわぬ乞食剣術などと言われていました。その言葉通り、勝つと思い定めて勝負に挑んだ時には、わたしはどんなことでもします。相手を言葉で翻弄し、鼻を肘で打ち、指で目玉を突き、向こうずねを蹴って頭突きを食らわせることも……」

 篤次郎がぷっと吹き出す。「それを、わたしにやらんでくれて助かった。今日はいくらか遠慮をしていたようだな」

「しかし、紙一重のことをいろいろとやりました」

 二合目で逆袈裟に斬り上げた時、相手の体勢を崩すため脚に膝を絡めたが、あれもおそらく足の位置次第では爪先を踏みつけることを選んでいたはずだ。兵庫はそれを思い出しながら、小さく嘆息した。

「初めは、勝ち負けになどこだわらず、幼いころより叩き込まれた正統な技でお相手させていただくつもりでしたが――」

「気が変わって、勝ちをりに行く戦法に切り換えたわけか」彼は訳知り顔にうなずいた。「勝つところを見たいと、匡七郎にねだられたのだろう」

「それもありますが、先生と最初に相対した時、わたし自身、力を尽くしてみたい思いに駆られたのです」

 それなりの経験を積んだ剣士であれば、ただ向き合っただけでも相手の力量をある程度は推し量ることができるものだ。兵庫は木太刀を構えて自分の前に立つ篤次郎を見た瞬間から、侮れない強さと鋭さを感じていた。

「それゆえ、今日は稽古とは思わず、斬り合いのつもりで臨みました」

「斬り合いのつもり、か」門人たちの打ち合いを見ながら低く静かに言い、彼は思慮深い眼差しをこちらに向けた。「――兵庫どの、おぬしは恐ろしい剣士になる……いや、もうなっている。匡七郎は、それを感じ取って怯えたのだろう」

「怯えたのではなく、わたしの戦いぶりにがっかりしたのでは?」

 納得しかねて言いつのる兵庫を、篤次郎がやんわりと押しなだめる。

「あれほどの強さを目の当たりにして、がっかりなどするはずがない。その証拠に――」そう言って彼が指し示した先には、照れ臭そうにもじもじしながら立っている匡七郎がいた。目を丸くする兵庫を見て、篤次郎が大きな笑い声を上げる。「そら、あのように、もう戻ってきたではないか」

「はあ……」

 どう反応すればいいのかわからず、心許こころもとない声をもらした兵庫の傍へ、匡七郎がほんのり顔を赤くして近寄ってきた。一度しっかり視線を合わせておいてから、ぺこりと頭を下げる。

「さっきは、逃げたりしてすみませんでした」

 兵庫は、すぐには口を開かなかった。あれほど血相を変えて逃げ出しながら、小半刻も経たずまた戻ってきた少年の豹変ぶりにただ驚くばかりだ。言葉が出ない彼に代わって、篤次郎がまず声をかけた。

「よく戻ってきたな。もう二度と、兵庫どのには寄りつかないかと思ったぞ」

「ええっ、まさか!」匡七郎は仰天したように眉を上げ、急いでかぶりを振った。「そんなわけないじゃないですか」

「だが怖かったのだろう」

「はい、すごく」

 即座にうなずく。恐れたことを否定するつもりも、隠すつもりもまったくないようだ。

「でも、本当に強い人がちっとも怖くないなんてことは、あるはずがありません」

 どこか威張るように言うのを聞いて、篤次郎が笑う。しかしその目は笑っておらず、何か興味深いものを観察するように、揺るぎなく匡七郎の上に据えられていた。

「なるほど、おまえの言うとおりだな」

「ただ、兵庫さまの怖いところを見たのは今日が初めてだったので――その、なんだか、すぐにはおそばに行けなくて。だから、ちょっと気持ちが落ち着くまで、あっちに行っていたんです」

 しゃべりながら少し不安を覗かせて、ちらりと兵庫を見上げる。

「怒っていらっしゃいますか……?」

 小さな声で問いかけられた兵庫は、そこでようやく戸惑いの呪縛から解かれ、ぎこちなく身じろぎして首を振った。

「いや、怒ってなどいない」

「よかった」匡七郎がほっと息をつき、たちまち笑顔になる。

 篤次郎は「では、夕餉の時にまた」と告げてその場を離れた。稽古をつけるため、居並んで木太刀を振る門人たちの中へと入っていく。その後ろ姿に目をやった兵庫は、ふと視界の隅に平蔵を捉えた。西の武者窓の下にたたずみ、じっとこちらを見ている。いや、どうやらその視線は、匡七郎ひとりに向けられているようだ。彼の目にも篤次郎と同様に、小さな弟子の中に探していた何かを見つけたような、好奇と満足の色が浮かんでいる。

 兵庫に気づかれたのを察すると、平蔵はいたずらっぽい笑みを浮かべて微かに会釈し、ゆっくりとした足どりで奥の部屋へと入っていった。

 試合の後、ずっとあそこで我々を見ておられたのだろうか。ぼんやり考えていた兵庫は、袖を引っ張られていることに気づいて我に返り、脇に立つ匡七郎のほうへ視線を落とした。少年は目を輝かせながら、熱っぽい表情でなおも袖を引いている。兵庫は引き寄せられるまま、彼の上に屈み込んだ。その耳に口を寄せ、内緒事を打ち明けるようなひそひそ声で少年が囁く。

「若先生との試合、わたしは、絶対に兵庫さまが勝つと思っていました」

「いいのか、そんなことを言って」

 試合後初めて、兵庫の顔に笑みが浮かんだ。匡七郎の言葉によって呼び起こされた何かが水のように溢れ出し、急速に心を満たしていくのを感じる。ややあって、彼は篤次郎との打ち合いで勝利したことを自分が今ようやく実感し、そのことに満足感をおぼえているのだとふいに気づいた。

 草深い山奥の道場で、つねづね老師が語っていた言葉が思い出される。

 戦に勝ち負けはつきものだ。だが、戦そのもに勝ち負けがあるのではない。戦に身を投じる己の中にこそ、それはあるのだ。形の上で勝ち、また皆がおまえの勝ちだと言ってくれたとしても、己が心の底から戦いに満足して幸福感を得ることができなけば、それは真の意味で勝ったことにはならぬ。

 あれはこういう意味だったのだろうか――と、兵庫は新たに目を開かれた思いで考え、深い感慨をおぼえた。勝つということの真意、それがやっと少しだけわかったような気がする。

 身体を起こして見下ろすと、ひたむきに自分を見つめている少年と目が合った。まだ勝ち負けの意味になど思い惑うこともないのだろうその瞳は、どこまでも澄み切っていてまっすぐだ。兵庫はそのことに、なぜか不思議な安らぎを感じた。

聳城国マップ https://13604.mitemin.net/i136505/

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