序 久夛良木島・清太郎 弟子入り
走れるようになったのと登れるようになったのと、どちらが先だったか清太郎は覚えていなかった。
母は走るほうが先だったと言い、祖父はその前にもう登っていたと言う。行商人の父はその話になると、苦々しい顔をして黙り込むのが常だった。いや、彼はこの末息子の前では、いつだってそういう顔をしている。
清太郎は走るのも好きだが、登るのはもっと好きだった。高い木に登るのは楽しい。わずかな手がかりを探しながら、大きな岩によじ登るのはもっと楽しい。だが久夛良木島の最南端へ行き、外海へ向かって垂直に切り立っている断崖絶壁を初めて見た時には、さすがに足がすくんだ。
短い草がまばらに生えた地面に足を踏ん張り、勇気を出して崖の縁から覗き下ろした彼の顔を、潮のにおいのする強い風がなぶった。
ここは目が眩むほど高い。遙か下で、崖の裾野に荒々しい波が打ち寄せているが、その音が届かないほど高い。
清太郎は眼下の海に引き込まれそうになるのを感じながら、首と腰に力を入れて、頭をうしろへ引き戻した。その背中に、ぶっきらぼうな怒鳴り声が飛ぶ。
「おい、ぐずぐずするな。道具を下ろせ」
「は、はいっ」
あわてて振り向き、清太郎は荷を積んだ駄馬と、その脇に立つ痩せた男の元へ走った。
いつも不機嫌な父親から、徒弟奉公に行けと突然言い渡されたのは、ほんの二日前のことだ。兄たちも十四か十五で奉公に出されたので、十三歳の自分もきっともうすぐ行くことになるだろうとは思っていた。来年か、その次の年か。だが、清太郎の番は予想よりも早くやってきた。
父親が選んだ徒弟先は、籠負いの親方のところだ。籠負いはその名の通り竹細工の籠を背負い、断崖絶壁に産卵する稀少な宝鳥〈天隼〉の雛を獲る。たった一本の綱を頼りに、切り立った崖を登り下りしながら行う仕事で、非常に難しく、金になり、そのぶん危険も大きいと言われていた。
当然ながら、高所が苦手な者は一人前の籠負いにはなれない。どんなに高い場所へ上がっても決して目を回さず、平衡を保っていられることが必須条件とされた。さらに、岩を掴んで体を引き上げるだけの腕力や体力も必要となる。
その点、たしかに清太郎は籠負いにむいていると言えた。
幼いころから暇さえあれば樹木や岩山に登って遊んでいたので、高いところには慣れている。その腕は見た目以上に力強く、握力も同年代の子供の中では突出していた。体はあまり大きくないが、長時間平気で岩にへばりついていられるので、それなりに体力もある。
徒弟先の親方富造は、三十歳を少し過ぎた小柄な男だった。仲間うちでも名の通った古参の籠負いであり、崖に登って雛を獲れずに戻ったことは一度もないという。げっそりと頬のこけた鋭いその顔には、白くなった古い傷痕がいくつもあった。新しい傷がないのは、現在の彼が並はずれた熟練者である証拠だ。
清太郎が父親に連れられて来た時、富造は挨拶もそこそこに、その体をじろじろと眺め回した。
「いくつだ。十三? それにしては小さいな。だが、そのほうがいい。右腕を上げろ。拳を握れ。拳骨をつくるんだ。もっと強く。もっと、もっと強くだ」
富造は万力のような指で清太郎の二の腕をぎゅっと握り、矢継ぎ早に命じた。
言われるまま従っているあいだ、清太郎は彼の白い傷痕からずっと目を離せずにいた。籠負いになったら、おれもあんな傷をいっぱい作るんだろうか、と思いながら。
最終的に、体はそこそこできている、度胸は実地で試す、ということで話はまとまった。とりあえず、見込みはあると感じてもらえたようだ。
「じゃあよろしく」と素っ気なく言って小屋を出て行く父親を、清太郎は何も言わずに見送った。当分母や祖父に会えないのは寂しいが、父のあの不機嫌顔を毎日見なくてすむと思うと正直ほっとする。
徒弟奉公の一日目は、崖登りに使う綱や、雛を入れる籠の点検と補修、雑用などに明け暮れた。自分が崖を登るのはずっと先のことかと思っていたが、富造は明日さっそくふたりで雛を獲りに行くと言う。実際に仕事をしながらすべてを教わることになるのだと、そこでようやく清太郎は悟った。すぐに覚えて、使い物になるところを見せなければ、きっと家に帰されてしまうだろう。そう思うと、気が引き締まる一方で漠然とした不安を感じずにはいられなかった。
今朝、駄馬を引いて断崖へ向かう道中、富造は天隼について話してくれた。
久夛良木島は、聳城国最大の天隼の生息地だ。彼らは繁殖する際にも巣を作ることはなく、崖の窪みなどに卵を産みつけ、雄と雌が交互に温める。一度に三個の卵を産卵するが、そのすべてが孵るとは限らなかった。うまく全部孵ったとしても、もっとも体の小さい一羽は高い確率で兄弟たちに突き殺されたり、巣から落とされたりする。それは生きる力の弱いものを淘汰する、厳しい自然の摂理だった。籠負いは、そうやって命を落とす前に、三羽目の雛を〝もらい受ける〟仕事なのだ。
三羽目が幼鳥になるまで生き残ることも、稀ではあるがなくはない。そういう雛は縁起が良く尊いものとされ、〈吉雛〉と呼ばれて珍重された。吉雛には飛び抜けて利口なものが多いという。
「親方は吉雛を獲ったことあるの?」
好奇心にかられて訊くと、富造は出会ってから初めて、笑顔と言えなくもないものを見せた。
「これまでに四度」その声にほんの少し、誇らしげな響きが混じる。「仲間うちで、おれほど吉雛に出くわしている籠負いはいない」
久夛良木島で生まれた清太郎は、〈禽〉や〈天翔〉といった別称で天隼に慣れ親しみ、その姿を小さいころから頻繁に見て育った。だが、間近に寄ったことは一度もない。野生の天隼は、とても警戒心が強いのだ。
一見したところ、天隼はハヤブサによく似ている。頭の色は漆黒で、背面や翼の上面は青黒い。喉元から体の下側は白く、黒褐色の斑模様が等間隔に並んでいる。飛んでいる姿も、遠目に見ればハヤブサそのものだ。
だが、体が桁違いに大きかった。なにしろ、人の手で雛から育てられた天隼は、成鳥になるとその背に人間を乗せて空を飛ぶのだ。
高い山の上に築かれた城を、麓と空から同時に攻めるために天隼が利用されるようになったのは、およそ百年前からだという。初めはごく一部の無鉄砲な武将が〝空の馬〟代わりにしていただけだが、やがて乗り手と斬り手がふたり一組になって天隼を駆り、空中で騎馬隊さながらの戦いを繰り広げる新たな部隊〈天翔隊〉が編成されるようになった。
禽に乗って空を飛ぶのは、どんな気持ちなんだろう。
清太郎は富造の元へ来てから、たびたびそのことを考えた。おれは高いところが好きだ。だから禽にだってうまく乗れるかもしれない。でも天隼の部隊に入れるのは、きっと身分の高いお侍だけなんだろうな。物売りの子なんて、駄目だと言われるに決まってる。
じゃあせめて、しっかり仕事を覚えて、立派な籠負いになろう。駄馬から道具類を下ろしながら、清太郎はそう決意した。
「この崖の縁には、いくつか鉄杭を打ち込んである」
清太郎を伴って崖の端へと歩きながら、富造が教える。鉄杭とは、頭に輪のついた太い棒のことだ。籠負いはその輪に命綱を結びつけて、崖を登り下りする。
富造は鉄杭のひとつを掴んで揺らし、しっかり打ち込まれているかどうかを確かめた。
「もしこれが緩んでいたら、いざという時に抜けて一巻の終わりだ。だから、仕事にかかる前に、必ず全部の杭をこうやって揺らしてみるんだぞ」
「はい」
清太郎は教えられた通りに、ほかの杭を揺らしてみた。どれも硬い岩に深く打ち込まれていて、びくともしない。
「臆病者はこの仕事にはむかないが、臆病さが全くないやつも駄目だ」富造は綱の結び方を手ほどきしながら、噛んで含めるように言った。「綱と杭は、得心のいくまで何度でも確かめろ。杭に少しでも錆があったら、抜いて交換するんだ。綱は一度使ったら、絶対にもう信用するな。それがおまえの命を左右することになるんだからな」
「はい」
話を聞くうちに、じわじわと緊張感が高まってきた。同時に、道具に手を触れてその確かさを確認することで、心が落ち着いていくのもわかる。
ちょっとおっかないけど、いい親方だ。微に入り細を穿った説明に聞き入りながら、清太郎は思った。父ちゃんはおれのことがたぶん嫌いだけど、それでもちゃんとした、本当にいい親方をおれのために選んでくれた。今度会ったら、たとえどんな顔をされても、忘れずに「ありがとう」と言おう。
準備が整い、ついに崖を下りる時がきた。風ではためかないように、着物の袖にはたすきを掛け、裾はからげて帯に挟んである。命綱は腰にしっかり結びつけた。
「いいか、綱に頼りきるなよ。登る時も下りる時も、壁面の出っ張りや裂け目を見つけて、それを手がかりにするんだ。足場をしっかり確保できるまで、絶対に気を抜くな」
「はい」
実際に下り始めると、上であれこれ考えていた時よりもずっと気が楽になった。強風に煽られながら絶壁を下りるのは簡単ではないが、何百回も岩登りをやってきたおかげで、手がかりになるものを直感的に見つけることができる。
左に二間ほど離れたところで着々と下りている富造が、こちらの様子をちらりと窺って、少し驚いたような顔をした。
「親父さんが、おまえは猿の子なみにどこへでも登ると言っていたが、どうやら嘘じゃなかったようだな」
「木や岩に登るのが大好きで、毎日登ったり下りたりしてたから」清太郎は岩の細い裂け目にぐっと指を突っ込みながら、軽く息を弾ませて応えた。「うんと小さいころからずっと。——親方、雛はどのあたりで獲るの?」
「もう少し下だ。ねじくれた短い木が生えているところがわかるか。あの辺から先で見つけられるはずだ」
ちょっといい足場を見つけた清太郎は、そこに両方の爪先を置いて体を安定させてから、股の下を覗き込んだ。途端に、股引の中で金玉がきゅっと縮み上がる。とんでもない高さだ。崖の縁から見た時よりも、さらに海面が遠く感じられた。額と首筋に冷たい汗が噴き出し、海風を受けてそれがたちまち乾く。
胸いっぱいに溜まった息を、口をすぼめてふーっと長く吐き出してから、彼は腹を据えてもう一度下を見た。巨人が大鉈で切り落としたような絶壁のところどころに、富造が言った通り低木が突き出ている。そして、そのあたりに飛来してくる天隼の姿がはっきりと見えた。
「禽だ……」
戦くように低く囁いた声を富造が聞きつけ、口の端をきゅっと吊り上げる。
「どうだ、でかいだろう」
清太郎は両眼を見開いたまま、黙ってうなずいた。本当にでかい。想像以上だ。人を乗せて飛ぶのだから、馬ぐらいはあるだろうと思っていたが、翼を広げた天隼は、それよりもっとずっと大きく見えた。
「親方、雛を獲りにいったら、親が襲ってくるんじゃ……」
「そうならんように、岩と同じ色の着物を着てるんだ。あいつらは目がいいし、色を見分けるからな。崖に登る時は、そこに溶け込める色を選んで着て、できるだけ目立たないようにするんだ。大きな声もたてるな」
「はい」理屈はわかるが、不安は消えない。富造の白い傷痕が脳裏にちらつく。「もし襲われたら?」
「その時は、懐に入れてる禽追い笛を吹け。オオタカの鳴き声に似せた音だが、あいつらはそれが嫌いだ。近づきすぎる前に吹けば、方向を変えて飛んでいく。だが、できるだけ使うなよ。あまり聞かせると、嫌がって住処を変えちまうからな」
見つからないようにする。見つかったら追い払う。なるほどと思いつつ、清太郎はまだ、胃のあたりに固いしこりのようなものを感じていた。
籠負いの七つ道具には小刀が含まれているが、あんなもので天隼と戦えるとも思えない。武器になるものを持たないということは、要するに、何があろうと天隼を傷つけてはならないということなのだろう。
襲ってくるな。くるなよ。おれたちは敵じゃないぞ。ほっといたら死んじまう雛を助けるだけなんだからな。
口の中でつぶやきながら、清太郎はさらに崖を下りていった。見上げると、崖の縁がもうかなり遠い。そろそろ半分ぐらいまで下りただろうか——と思ったその時、出っ張りを求めて壁面を引っ掻いていた右足が、深い窪みを探り当てた。
体を支え続けて疲れた両腕を、少し休ませられるかもしれない。そう考えて、足場を確かめるために見下ろした彼は、その窪みにふわふわした真っ白な綿毛の塊を見つけて、思わず息を呑んだ。
「お、親方! ひ、ひ、雛がいた!」
喉に声をつっかえさせながら報告すると、もう少し先へ下りていた富造が、同じ高さまでするすると登ってきた。
「よし。何羽いる」
「さ、三羽」
「いいぞ。おまえが獲れ。おれは親が戻ってこないか見張る」富造の声は落ち着き払っている。「よく見て、いちばん体が小さいのを獲るんだぞ。そっと禽網をかぶせて引き寄せ、籠に移すんだ。乱暴にするなよ」
清太郎は命綱を左腕に二度巻きつけ、背負い籠の蓋を開けておいてから、あらためて窪みの中を覗き込んだ。真っ黒な丸い眼が六つ、揃ってこちらを見つめている。警戒しているが、それほど怖がってはいないようだ。
いちばん小さいやつ——清太郎は三羽をじっと見比べ、その中の一羽を選び出した。ほんの少しだが、兄弟たちよりも体の幅が狭い。しかし雛とはいっても、雌鶏ぐらいの大きさはある。
清太郎は腰紐に差してあった禽網を抜いた。楕円形の竹枠に麻紐を編んだ網袋が取りつけてあり、持ち手となる短い棒がついている。虫を捕る道具にそっくりだ。
彼は右手で棒を持って、ゆっくり腕を伸ばした。目当ての雛が竹枠の中にうまく収まるよう、慎重に真上まで持っていき、頃合いを見てぱっとかぶせる。たちまち、雛たちは恐慌をきたしたように鳴き声を上げ始めた。
辺りを油断なく見回しながら、富造が急かす。「早くしろ。声を聞きつけて親が来るぞ」
清太郎は持ち手をしっかり握ってひっくり返し、真横に素早く掬い上げた。岩の窪みにわずかに生えていた葉っぱの丸い植物ごと、雛が袋の底にぽとんと落ちる。白い綿毛に覆われた雛は鳴き、もがき、怒っているが、どうやらどこも傷めなかったようだ。
背中の籠に移すのは、ちょっと難しかった。禽網を後ろ手で操作するのに、少し手間取ってしまう。だが、なんとかうまく籠の中に雛を入れることができた。
「よくやった」見張りを続けていた富造が言い、再び下り始めた。「今度は、あの左の窪みにいるやつをおれが獲る。おまえは見張りながら、ほかに雛がいないか探せ」
「は、はいっ」
まだ興奮冷めやらぬまま、清太郎は崖に取りついた。籠の中では雛がもぞもぞ動いているが、もう鳴き声は上げていない。
富造と同じ高さまで下りると、彼はすでに禽網を構えて待っていた。
「やるぞ」
「はい」
清太郎は両手で岩の裂け目をしっかり掴み、見つけた出っ張りに片足を置いた。半ば身をひねって空を舞う影を探し、次に断崖に眼を戻して雛を探す。そうやって視線を三往復させた時に、彼は左下の岩に走っている長い亀裂の底で、白いものが動いているのを見つけた。きっと雛だ。
富造はもう、獲った雛を籠に移そうとしている。清太郎は空をぐるっと見回してから、再び亀裂に視線を戻した。
そこにいる雛たちは、さっき獲ったものより大きいようだ。綿毛の中に、羽毛がかなり混じっている。
こんなに育ったら、もう雛じゃないな——ちょっとがっかりしながらそう思った時、清太郎は亀裂の中に幼鳥が三羽いるのに気づき、小さな喘ぎをもらした。
三羽だ。幼鳥になってるのに三羽いる。こめかみが激しくうずき、胸が今にも張り裂けそうにどきどきした。吉雛だ。おれ、初仕事で吉雛を見つけた。
そのことで頭がいっぱいになった彼は、ほかのすべてをしばし忘れた。親禽のことも、富造のことも、自分が断崖絶壁に取りすがっていることも。はっと我に返った時には、懐の禽笛を出す余地すら残されていなかった。
天隼が一羽、富造を狙って滑空してくる。清太郎にできるのは、声を限りに叫ぶことだけだった。
「親方! 危ない!」
その甲高くひび割れた声に天隼が反応した。空中でさっと向きを変え、大きく翼を広げて清太郎に襲いかかる。
獰猛な巨体が間近に迫ると、むっとするような生臭い空気が吹きつけてきた。羽ばたく翼の先で体を鞭打たれても、ただ岩にしがみついて泣き声をもらすことしかできない。そして目の隅に、鋭く研がれた鎌のような鉤爪が見えた——と思った瞬間、清太郎の左のこめかみが深く切り裂かれた。血がほとばしり、目の前がすっと暗くなる。
次に視界が開けた時には、もう足場から落ちていた。崖の縁がみるみる遠ざかり、全身がぞっとそそけ立つ。
上のほうで富造が、「くそっ!」と大声で罵った。
言わなきゃ。親方に。おれ吉雛を見つけたんだって、言わなきゃ。でも、もう遅い。
閉じた目蓋の中に、岸壁の裾野の岩で体を砕かれ、打ち寄せる波に洗われている自分の姿がまざまざと浮かぶ。そのあと激しい衝撃が全身を貫き、幻影を跡形もなく消し飛ばした。
目を開けた時、自分が生きているのはすぐにわかった。腰のところで体がふたつ折りになり、風に吹かれてぶらぶらと揺れている。顔の傷からは、まだ鮮血が滴っていた。
「今、血止めをしてやるからな」
すぐそばでふいに声がした。首をそちら側へ回すと、逆さまになった富造の顔が視界に入る。
「親方、おれ……」
言いながら上半身を起こそうとすると、腹に激痛が走った。のたうち回りたいほどの痛みだ。一瞬、あの天隼に臓腑を食いちぎられたのかと思ったが、ただ腰に巻いていた命綱が食い込んでいるだけだった。
本当にこれが〝命の綱〟だったんだ。清太郎はそう思って身震いし、手を伸ばして壁の出っ張りを掴みながら、今度は慎重に体を持ち上げていった。
「親方、おれ、小便ちびったかも」
「生きてりゃこそだな」
富造は淡々と返し、片手だけを使って器用に傷の手当てをしてくれた。
「禽は……」
「笛で追い払った」眉をしかめ、じろっと睨む。「おまえ、すぐ取り出せないなら、次からは咥えておけよ」
「はい」
もっと厳しく叱責されるかと思ったが、富造はそれ以上責めなかった。出血が止まり、体勢を立て直し、人心地つくまでのあいだ、黙ってじっと待っていてくれる。
やがて彼は、清太郎の顔を覗き込んで問いかけた。
「どうだ、まだやれるか」
「やれる」
すぐに応えた彼を、富造は疑わしげに見つめた。
「本当にやれる」重ねて言う。
そして、そうだ。あれを言わなきゃ。吉雛がいたって。おれが死なずにすんだのは、きっと縁起のいい吉雛を見つけたからだ。
その時ふいに、清太郎の顔が曇った。血の気が下がり、額に冷たい汗が浮かぶ。
馬鹿だ、おれは。雛。あの雛を忘れていた。真っ逆さまになって、一緒に落ちた。籠の蓋が開いたかもしれない。せっかく獲った大事な雛を、海に落として死なせたかもしれない。
急に様子の変わった彼を訝しげに見ている富造の横で、清太郎はあたふたと背中の籠を確認した。だが肩ごしでは底のほうまで見えない。幾度か無駄な努力をしたあと、脇の下から見ればいいのだと気づく。
祈るような思いで覗いたそこに——雛はいた。特に変わった様子もなく、籠の中で体を丸め、つぶらな黒い目で清太郎を見つめている。
「無事だった……」
清太郎は小さくつぶやいて、震えながら深々と息を吐き、それから笑い出した。すぐにそれが泣き笑いに変わる。
「よかった、生きてた。おれ、雛を死なせなかった。雛が無事でよかった」
大粒の涙をぽろぽろこぼしながら、よかった、よかったと繰り返す彼の頭を、富造の無骨な手がなでた。
「おまえ、いい籠負いになるかもしれんな」
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