柳瀬
鈴の音とともに店のドアが突然開いた。僕は驚いた。ラーメン屋に入ってきたのは、さっき葬式会館でま僕がまじまじと見続けていた違う制服の女子だった。向こうも僕に気がついたらしく、じっと僕の方を見てきた。その視線はまっすぐで、僕の鼓膜を突き破ってそのまま脳に入り、すべてを見通しているようだった。
違う制服の女子は視線をこちらに向けたまま静かな足取りで近づいてきた。やばい。思わず僕は視線をラーメンどんぶりに戻した。違う制服はそのまま僕の隣に座り、ラーメン屋に来る普通の客と同じようにメニューを見て、出された水をのみ、大盛りのチャーシュー麺油少なめを頼んだ。
何かさっきのことで言われるんじゃないだろうか。嫌な汗がにじみ出てくるのを感じた。このまま何事もなく時が過ぎればいい。あくまで自然に、ラーメンをすするスピードをあげた。ろくに噛まずに食べたので麺が噛み切られないまま変なところに入って思わずむせてしまった。
「ねえ、松田君でしょ。私のこと、覚えてる?」
「え?」
なんて間の抜けた返事だろう。だけど予想外のことに対しては大体誰もこんな感じなんだろう。とにかくまったく予期していなかった事態に僕の脳は急速に回転し始めて、どうにかこの状況を理解し、対応しようとしていた。もちろん次の彼女の発言に追いつかなかった。
「私、すぐに転校しちゃったから、あまり覚えてないかもしれないけど。5年生の時に一緒だったんだよ。」
「あ、うん。覚えているよ。」
もちろん覚えてはいない。
「そっか。意外だな。」
とりあえず相手にイニシアチブを取られているのも癪だ。
「さっき式に出てたよね。」
「うん。松田君もだよね。びっくりしちゃった。」
名前、なんだっけ。転校してきてすぐまた別の学校に行ったのは覚えている。同じクラスだったのは2ヶ月くらいだった。もちろんその時はお互い声をかけることすらなく、ただ同じクラス同士のただそれだけの関係だった。
「ああ。うん。たまたま部活もなくてさ、お世話になったし、顔出そうと思って。」
僕は部活なんてやっていない。何だかそれを言い出しづらくてよくわからない嘘をついてしまった。
「そっか。そんな風に考えてたんだ。」
彼女の言ったことの意味がよくわからなかった。さっきから、彼女の発言は言葉だけ聞いてるとそれなりに
親しみを感じるのだが、おかしなことにその実際の声を聞くととてもそうは感じない。表情はあまり変えず、
僕の方を一度も見ず、今まで会話していたのだ。
それが彼女の人との接し方で、もしかすると彼女は最大限の親しみを込めているのかもしれないが、何とも
ふわふわと実体のつかめないコミュニケーションだった。
そうしているうちにラーメンが来て、彼女は割り箸を割って一口目をすすり始めた。
僕のラーメンはもうほぼスープだけになっていた。この場からすぐ離れる気にはなれなかったので、残った具を少しずつレンゲですくって食べた。さっきの彼女の話が気になる。かといって自分から話しかけようとする気はない。
しばらくお互いのどんぶりと向き合う時間が続いた。その間少しずつ記憶が戻ってきた。彼女の名前は柳瀬だ。その後に続く名前は思い出せない。5年生の4月に転校してきて、その1ヶ月後にいつの間にか転校していなくなっていた。ゴールデンウィーク明けのある日突然、僕らは先生から、彼女の転校を告げられたのだ。柳瀬はそれなりに他の女子とも会話していたけど、休み時間には一人で教室にいることが多かった。たいしてまだクラスの人間同士馴染んでいなかっただけに、あっという間に柳瀬の存在は語られることがなくなってしまったのだ。
そして思い返してみても、僕が柳瀬と話したのは、おそらく今日が初めてだ。少なくとも親しげに話すような仲ではなかった。なぜわざわざ僕に声をかけてきたのだろう。聞いてみようか。いや、でも変に気があるみたいに思われるのも格好悪い。まして今のこの状況、ちびちびとラーメンのスープから残った具を探す僕の姿は相当変に見えるはずだ。そろそろ帰ろうか。彼女になんて声をかけて帰ればいいんだ。
「先生ってどんな人だった?」
「え?」
「短い期間だったんだけどね。先生にはお世話になったことがあったから、今日お葬式に出たんだ。私が転校した後、先生とクラスの皆、どんな感じだったのか気になって。」
すぐには答えられなかった。僕は何となくクラスの中で避けられていて、先生はそれに気付かなかった。気付いていたのかもしれないけどだからといって何もされなかったし何も言われなかった。別にそのことを恨んでなんかはいない。むしろ僕は先生に好感を持っている。
「いい先生だったし、変わらずに元気なクラスだったよ。」
自分なりに無難に答えたつもりだ。
「ふうん。」
そういったきり、柳瀬は無言でラーメンを平らげてしまった。さすがに僕も限界だと思い、伝票を持って
立ち上がった。
「じゃあまた……。」
「ちょっと待って。」
「え?」
「私は……。」
いったい何なんだ。急に呼び止められたと思ったら、その目にはうっすら涙が浮かんでいる。顔も真っ赤になっているが、口は固く結ばれ、ただ弱々しいだけの表情ではない。
「どうしたの。」
「私は大嫌いだった。」
意外な一言だった。少なくとも、僕は嫌いではなかった。ただならぬ様子にただ柳瀬を見ることしかできなかった。そしてこんなラーメン屋で深刻な話になるのだろうかと思うと、今まで大した人生経験もしていない僕はどうしていいかわからなくなった。
「あの、とりあえず会計済ませてくる。」
その場から逃げるかのように僕は言った。柳瀬は黙って俯いたままだった