8章-3.送り出し 2023.11.18
*** マドカ
「マドカさーん。レンヤだけど」
小さなノックの音と共に聞こえてきたのはレンヤの声だった。いつもより少し遅いなと感じつつも、マドカは立ち上がると、扉へ向かった。そして、ゆっくりと扉を開けてレンヤを出迎える。
「おっ! レンヤ君、やっと来た~! 遅いよ。全く~」
マドカは冗談交じりに文句を言いながらも、ニコニコと笑う。今日も変わらずレンヤが、自分のために来てくれたことが素直に嬉しい。レンヤは早速室内にある林檎を一つ手に取ると、宙に放り投げ一瞬にして皮を剝き6等分にしてしまった。当然のようにウサギの耳付きだ。綺麗に皿に盛りつけられた林檎を、レンヤはいつも通り差し出してくれる。マドカはにっこりと微笑むとそれを受け取った。
マドカは皿の上の林檎に視線を落とす。皿に綺麗に並んだウサギの耳を付けた林檎たちは、全てが均等で美しい。断面も真っすぐで欠点一つない。完璧だ。レンヤはあっという間に、これをいとも簡単に出来るようになってしまった。もはや普通の人間のレベルを遥かに超えているだろう。そんな様子を見る度に、レンヤは普通の人間ではないのだなと、マドカは改めて感じる。そしてまた、そう感じる度に、何とも言えない感情が腹の底から湧き上がってくるのだ。しかしマドカは、そんな得体の知れない感情には一切目を向けず、まるで何事も無かったかのように振舞った。
「うっはー! やっぱ、リンゴ最高だよー!」
マドカは大好物の林檎を頬張る。ずっと食べ続けても飽きる事が無い。恐らく今後もずっと飽きる事は無いのだろう。そんな事を考えながら咀嚼し、二切れ目に手を掛けたところで、マドカはふとレンヤの表情がいつもとどこか異なる事に気が付いた。いつもであれば、林檎を食べ続けるマドカに対して、ドン引きしたような表情で苦笑いしているのだが、今回は何か様子が違う。思い詰めたような、何か難しい事を考えているかのような雰囲気だ。
「どうかした?」
「あ、えっと……」
レンヤの様子から、何かがあるのだろうなと察する。マドカは静かにレンヤの反応を待った。じっとレンヤ見つめていると、レンヤと目が合ったのだが、直ぐに気まずそうな表情をされ、視線を逸らされてしまった。それでも変わらず見つめ続けていると、レンヤはようやく決心したようだった。ふーっと小さく息を吐いたのち、マドカを真っ直ぐに見た。
「マドカさん、オレ。今晩、シラウメさん達の仕事についてくんだ」
「え?」
予想外の内容にマドカは思わず声を漏らした。
「オレがシラウメさんにお願いして、同行させてもらう事にしたんだ」
「……」
レンヤが自ら仕事に同行したいと願い出た等、あまりにも信じる事ができなくて、マドカは固まってしまった。いつだって周りに流されるだけで、自ら面倒ごとに首を突っ込もうとはしなかったレンヤが、自ら首を突っ込んだとでもいうのだろうか。
「その仕事、結構危険で。だからオレは最初、シラウメさんに付いて行くのを断られた。だけどオレはどうしても譲れないから、無理言って連れて行ってもらう事になった」
一度は断られたにも関わらず、食い下がったのだという。本当に目の前にいるのはレンヤなのだろうか。困惑する気持ちでおかしくなりそうだ。こんな時、自分はどう反応すればいいのだろうか。いつものように茶化したり弄る雰囲気ではない。真剣なレンヤの様子に、自分は完全に圧倒されてしまっている。
レンヤは自分に何を望んでいるのだろうか。どんな反応を期待しているのだろうか。全く分からなくなってしまった。そして、自分の気持ちすらもうまく形作る事が出来なくなってしまっていた。だが、何かを言わなければならないだろう。きっとこの場で自分がレンヤにかけるべき言葉の正解は、真剣に伝えてくれたことへの感謝。そして、レンヤの意思を尊重する言葉。この2つだろう。
「そうなんだぁ。伝えてくれてありがと! 頑張ってね、レンヤ君。シラウメの足引っ張っちゃだめだよ!」
マドカはそう言ってニコッと笑った。
上手く笑えているのか分からない。
「あぁ」
レンヤは短く返事をすると、ドアの方向へと視線を向けた。その様子から、レンヤはもうこの部屋を去ってしまうのだと何となく感じた。林檎はまだ皿に残っている。いつもならば、マドカが食べ終わるまでは傍にいてくれるのに。
「マドカさん、オレ色々と準備したいから、部屋戻る。今日はあんまりいられなくてごめん」
やはり今日は直ぐに去ってしまう様だ。レンヤはそのまま体の方向を扉の方向へと向け足を踏み出した。
「ん? マドカさん?」
しかしながら、レンヤは直ぐにそう呟いて困惑したような表情で立ち止まった。レンヤの視線の先はレンヤ自身の右手だった。その右手をマドカがギュッと掴んでいたのだ。ほぼ無意識だった。去ろうとするレンヤの手を、咄嗟に掴んで引き留めてしまっていた。
「レンヤ君……。気をつけてね」
マドカは誤魔化す様に言う。
行かないで。
マドカは本音を飲み込んだ。笑顔で送り出すと決めたくせに、未練がましく引き留めるなど一体自分は何をしているのか。
「絶対……。絶対私の所に帰ってきてよ!」
マドカはニコッと笑って言った。いつも通りの自分が言いそうな言葉だ。これなら大丈夫だとそう思う。
自分が今引き止めたって何にもならないのだ。レンヤが自分で決めたことを邪魔してはいけないと思う。マドカは自分を納得させる言葉を脳内で繰り返した。
「あぁ」
レンヤはいつもの様に自信満々で返事をする。その様子に、マドカは少し安心した。
きっとレンヤはいつもの様に帰ってくる。マドカはそう感じて、レンヤの手を離した。
「じゃぁ、マドカさん。また明日」
「うん! レンヤ君。また明日ね!」
マドカは笑顔でそう言って、レンヤを送り出した。
*** マドカ
レンヤが去った後、マドカは独り部屋でリンゴを食べる。むしゃむしゃと。いつもは一気に食べてしまうのに、今だけはゆっくりと味わって食べる。
別に最後の1個というわけではないのに。
また明日、レンヤが来て剥いてくれるはずだから……。
「なんでかな。凄く不安だよ」
マドカはそう呟いて、最後の一切れまで大事に食べた。




