4章-3. 色欲 2023.10.21
アイルと別れた後、レンヤは作戦を再開し、決められた道順通りに歩いて行く。現状特に問題はない。新たに声をかけてくる人間もいないため順調だ。道の雰囲気は次第に変わっていく。初めこそ人が多く賑わいを見せていたが、今歩く道には人が数人いる程度だ。段々と照明も減り暗くなっていく。
きた……か……。
レンヤは背後からのわずかな殺気に気がつく。どうやらその殺気の持ち主は、レンヤと一定の距離を保ちながら、後をつけて来ているようだ。レンヤは気付かない振りをして歩き続ける。このまま道順通りもう少し歩くと、完全に人気のない場所に入る。きっと後をつけてくる人物はそこで仕掛けて来るに違いない。レンヤは緊張感を持つ。
そろそろか……。
レンヤがそう思っていると、案の定、殺気の持ち主は距離を一気に詰めてきた。読みやすい奴だなぁ、なんて思いながら、レンヤはニヤリと笑うと同時に、バッと勢いよくその場にしゃがんだ。
その直後、ビュンッとレンヤの頭上を物凄い勢いで何かが通過した。音の様子からある程度の重量と大きさがありそうだ。その何かが切り裂いた位置はまさしく、今までレンヤの首があった辺りである。従って、もし姿勢を落としていなかったら、今頃確実にレンヤの首は宙をまっていただろう。しかし、レンヤは特段驚く様子もなくスっと立ち上がり、ふらりと振り返った。
するとそこには、やはり斧を肩に担いだ大柄な男が立っていた。顔は間違いない。脱獄犯だ。
「おや?お姉ちゃん、よくよけたね。偶然かな?」
男は下品な笑みを浮かべている。にやにやと笑い見るからに気色が悪い。レンヤは靴を脱ぎカバンからナイフを取り出すと、カバンと靴を道路の端に投げた。準備万端だ。これで戦える。レンヤは脱獄犯を見据えナイフを構えた。
「げへへへへ。元気なお姉ちゃんだね。いいよ?かかってきなよ。首ちょんぱにしてあげるから。こうやって反撃されるのもそそるね。悪くない。」
脱獄犯はくいっくいっと手招きして、レンヤを誘う。それを見たレンヤはニヤリと笑うと、挑発に乗るように一気に踏み込んで切りかかった。
***
レンヤの初撃は水平に空気を切り裂いた。空振りだった。それでもレンヤは、怯む事も勢いを殺すこともなく、流れるように攻撃を繰り出す。しかしながら、ナイフは一向に脱獄犯に当たることは無く、次々に脱獄犯すれすれの空気を切り裂くばかりだ。脱獄犯はひょいひょいと身を翻し、軽いフットワークで躱す。どうやらかなり運動神経が良いようだ。簡単には倒せそうにない。レンヤはギリッと歯を食いしばった。どうすればいいだろうか。このまま切り続けても埒が明かない。躱すことに徹されてしまうと、どうにもできないという事にレンヤは気が付いた。
突破の糸口を見つけられないまま、レンヤの攻撃は躱され続ける。だが、手を休めるわけにはいかない。手を休めれば相手に攻撃の隙を与えてしまう。常にレンヤが切り込んでいるからこそ、進展も後退もない状況に保たれていると言っても過言ではない。しかし、そんな状況にも関わらず、レンヤは突然切り込むのを辞めて思いっきりその場を飛び退き、脱獄犯との距離を取った。
その直後。ドゴォォン……と重く鈍い音が鳴り響いた。
「おやおや?これも避けるのか。すごいね。」
「……。」
レンヤは何も言わずゴクリと唾を飲み込んだ。心臓の音が早い。この状況はあまり良くないかもしれないと本能的に感じる。また、目の前の光景にただ恐怖を感じた。目の前に広がる光景は、レンヤの想像をはるかに超えていた。
アスファルトの地面に斧が深く突き刺さっているのだ。アスファルトは斧を中心に割れてしまっている。そして、その斧が突き刺さっている位置は、まさにレンヤが今までいた位置だ。飛び退く判断が少しでも遅れていたらと思うとゾッとする。アスファルトを割るほどの威力とはどれほどのパワーなのだろうか。レンヤには想像できない。
強いな……。
レンヤは素直にそう思った。だからと言って怯えたり逃げ出すわけではないが、集中しなければ返り討ちにされる可能性が十分にある。脱獄犯はかなりの技術の持ち主だと、切り合ったことで理解した。レンヤの切りつけるスピードにも対応したうえ、大ぶりな斧にもかかわらず隙のない攻撃を繰り出してくる。さらにその攻撃は正確だ。侮っていい対象ではないだろう。レンヤはじっと脱獄犯を見据えた。少しの緩みも許されない。神経を集中させていく。
「お姉ちゃん。ただ者じゃないね?げへへへへ。早くヤりたいな……。強い女も好みだ。鍛えられた体はさぞいいだろう。だからそんな顔はいらない。早く体を置いて死んでくれよ。」
脱獄犯は地面に突き刺した斧を軽々と持ち上げると肩に担いだ。そして、レンヤを見て酷く顔を歪ませ下品に笑う。
き、気持ち悪い……。
レンヤは嫌悪感で顔を引きつらせる。脱獄犯の今の言葉から推測するに、脱獄犯は今までターゲットとした女性の首を切り落として殺してた後、死体を犯していたという事だと思われる。発見された遺体が皆、頭部が無く全裸という事からも間違いがなさそうだ。
趣味が悪すぎじゃないか?
まぁ、人の趣味に文句を言うものではないので、何も言いはしないが……。
「げへへへへ、体。体。体をくださーいな。」
脱獄犯は歌うようにそう言うと、レンヤの方向へ駆け出した。そして、ビュン……。ビュン……。と、斧がレンヤの首目掛けて振るわれていく。レンヤはそれを後退しながら丁寧に避けていく。正直避けるのはさほど難しくはない。大ぶりなため軌道が分かり易く、タイミングも掴みやすい。だが、反撃の隙が全くないのが問題だ。下手に斧による攻撃を受けるべきではないと本能的に感じた。先ほどアスファルトを割っていたのだ。ナイフで受けたらそのまま弾かれたり、ナイフごと切り裂かれるかもしれない。
と、レンヤが攻めあぐねていた時、ビュビュン……。と突然脱獄犯の攻撃のリズムが変わった。レンヤは驚いて瞬時に体をのけぞらせる。そしてバランスを崩しながらも何とか地を蹴って後方へ飛び退いた。そして、姿勢を保つために踏ん張った。
本当に危なかった。同じリズムで攻撃され続けると高を括っていたら、おそらく今頃首が飛んでいただろう。レンヤは胸をなでおろす。死と隣り合わせの状況であることを再認識し戦いにより一層集中した。しかしこの時、レンヤの付近で、ズルッ……。バサッ。という効果音がしっくりくるような現象が起きた。
「……ん?」
レンヤは違和感を覚え、間抜けな声をあげる。足に何か軽い物が当たったのを感じて足元に視線を落とした。すると、レンヤの右足のすぐ近くに黒いもわっとしたものが落ちていた。
まさかこれは……?
レンヤは拾いあげる。するとそれは紛れも無くレンヤが付けていたカツラだった。次にレンヤは自分の頭を触る。案の定、短い自分の髪があった。レンヤは恐る恐る脱獄犯を見た。脱獄犯は予想通り、驚きで目を見開き口をぱくぱくさせている。
「はぁぁああああ!?お、お、お姉ちゃん!男かよっ!」
「あぁ。お姉ちゃんじゃなくてお兄ちゃんだよ。残念でした。」
気付くのが遅せぇよ馬鹿野郎。
「だーまーしーたーなぁ?俺様は男に興味はないんだよ!」
男は突然怒り出した。そして思いっきり斧をレンヤに投げ付ける。斧は物凄い勢いで回転しながら飛んでいき、レンヤの頭スレスレを通過した。レンヤは思わず固まり、冷や汗をかいた。全く反応出来なかったからだ。だが、ひるんでいる場合じゃない。それに、斧は無くなったのだ、相手は素手。勝機はある。
「騙されるお前だって悪いだろ。これだけ戦っても全く気が付かねぇとか引くわ。」
「ほう、だが俺様は女装趣味の兄ちゃんのが引くけどねぇ。」
グサッと言葉のナイフが刺さった。
「好きで女装なんかするかっ!」
「にしてはサマになってるじゃないか。げへへへへ。頼むからカツラかぶり直してくれよ。可愛いぜ?兄ちゃん。」
レンヤはチッと舌打ちをして、手に持っていたカツラを被りなおした。レンヤ自身も被りなおす方が良いと判断したためだ。手に持ったままでは戦えないが、捨てるわけにもいかない。また、服装は女性なのだ。顔だけ男になるのは何となく恥ずかしい気がする。
「可愛い可愛い。気に入ったよ兄ちゃん。」
「どうも。」
「さぁ、俺様もやる気になった。殺しあいを始めよう!げへへへへっ!」
脱獄犯は言い終わると同時に走り出す。レンヤもそれに合わせて走り出した。脱獄犯の素早いパンチはレンヤの顔面を目掛けて飛んでくる。レンヤはそのパンチをひらりと躱すとカウンターを繰り出す。しかし、ナイフは空気を切り裂くだけだ。全く攻撃が入る気がしない。
お互い無傷のまま一進一退の攻防が続く。これでは最終的に体力勝負になってしまいそうだ。体力勝負になった場合に、自分は勝てるか分からない。体力に自信がない訳ではないが、脱獄犯のポテンシャルが高いように思う。それであれば一層、早いうちにこの進展の無い状況は打開しなければならない。どうにか別の策を考える。
レンヤはふと視線を落とし、脱獄犯の足元をチラッと見た。攻撃は基本的にパンチのみの脱獄犯は、下半身があまり動いていない。体重を乗せるための動きこそしているが、上半身に比べて反応が鈍そうだ。狙い目は下半身かもしれない。レンヤは脱獄犯の攻撃の合間を見極め、一気に姿勢を落とした。そして大きく踏み込みナイフを振るった。
これで終わりだ。
足さえもいでしまえば勝ちだ。
しかし、それは軽率な行動だった。
「へ……?」
レンヤがナイフを振るい終わった時。脱獄犯は消えた。レンヤの目の前から一瞬にして消えてしまった。レンヤは思わず360度ぐるりと見回したが、脱獄犯はどこにもいない。一気に嫌な汗が噴き出る。脳内で警報が鳴り響く。一体どこへ行ったのだというのだ。気配もない。
と、その時だった。ふと何となくだが、視界が少し暗くなったようにレンヤは感じた。そして、その闇は見る見るうちに濃くなっていく。
上か!!?
レンヤは訳が分からないまま、本能的にその場を飛びのいた。その直後、ドゴォォン……。と地響きと共に、レンヤがいた場所に土煙がたっていた。そして、その土埃が消えると脱獄犯が現れた。どうやら気配を消して死角となった真上から拳を振り下ろしたようだ。脱獄犯の足元のアスファルトはまたひび割れている。斧が無くてもアスファルトを破壊できるようだ。恐ろしいパワーだなと感じる。
レンヤの足を狙った攻撃は本当に軽率だったと反省する。勝ちを確信したという気の緩みを利用され、攻撃を避けると同時に上部に飛ばれたのだろう。そのジャンプ力は常人の物ではない。レンヤの視界から一瞬にして消えるだけのスピードと高さを持っていた。
ただ、不幸中の幸いは、状況が全く分からないにも関わらず、直感で危険を感じその場飛び退くという判断ができたことだろう。本当に危ない。今回の戦いではすでに何度も死にかけている。勝ち目があるのか分からなくなってきた。脱獄犯との力量差は殆どないと思われる。従って、先に1撃を受けて怪我をした方が負けるだろう。軽い攻撃でも貰えば死ぬ。そういう戦いだと感じる。
「げへへへへ。避けないでよ。せっかく潰せたと思ったのに……。」
男は殺気を放ちながら、レンヤをギロリと睨み付ける。びりびりと鋭い殺気が全身に突き刺さり、レンヤの体を刺激する。殺気を向けられるというのは気持ちのいい物ではない。心臓に負荷がかかっているような感覚がする。実力が拮抗するような戦いではどうすればいいのだろうか。レンヤには経験がないため分からない。だが勝たなければならない。当然死ぬつもりなど無い。何とかして隙を見つけて攻めるしかないだろう。レンヤは考える。
相手に隙が出来なければ勝機はないのだ。それは相手も同じことで、相手に隙を突かれればレンヤの負けは確実だ。故に先ほどのような軽率な攻め方はできない。脱獄犯もおそらく軽率な攻撃はしてこないだろう。得意そうな体力勝負に持ち込む可能性が高いと考えられる。体力勝負に持っていかれた場合レンヤは不利だ。なんとしても阻止すべきだ。要するに、体力のあるうちに仕掛けなければ、負ける。
と、そのように考えていたレンヤであるが、ふとある事に気がついた。あるじゃないか勝てる戦法が1つだけ。レンヤはニヤリと笑う。
隙は待っていたって出来ない。作るものだ。レンヤは構えた。今のレンヤには、この考えしか浮かばない。よって、それを実行するのみ。チャンスは1度きり。これに賭けるしかない。この作戦に。レンヤは全ての神経を集中させる。そして地を蹴って脱獄犯に急接近していった。




