3章-4.豹変 2023.10.8
「ちなみに、何故この場所に人が一人もいないかといいますと、事前にしっかりと封鎖してます。とっくに一般人の避難は完了しています。そう、あなたが地下へ入る前にです。さらに現在、地上ヘの全出口には腕の立つ部下を配置しておいたので、貴方が捕まる事なく地上に出るなんて事は不可能です。ふふっ。絶望しましたか?」
少女はさわやかに笑いながら説明を付け足した。これ以上の説明など不要だ。王手に追い撃ちまでかけるのだからえげつない。その少女の発言内容を聞いて、勝ち目がないと本能的に悟ると、一気に精神が崩落していく様な気がした。
逃げきれない。
絶体絶命……。
その極限状態は精神に多大な圧力をかけた。すると突然、腹の底から何かがふっと湧き上がってくるような感覚がした。その何かは、確かな熱を帯びてジワジワと全身へと広がっていった。
「ここで諦めるわけにはいきません……。ようやく出られたのですから……。」
ここで諦めて、牢屋に戻る。その選択を取れば生き続けることは出来るかもしれない。しかし、やはり諦めきれない。理不尽な社会のはぐれ者として、再び影で生きていくなど真っ平御免だ。
従って、ここで諦める気など全く無かった。どんなに追い詰められようとも、大人しく捕まる気は無い。せっかくあの暗く苦痛ばかりの日々から解放されたというのに。今ここで捕まれば、今後一生死ぬまであそこで過ごす事は明らかだ。今後抜け出せるチャンスなど2度とないだろう。捕まる訳にはいかない。
男は、ギリっと歯を食いしばった。
一体どうやってこの危機的状況を切り抜ければいいのだろう?
うまい策略などない。
裏警察相手に、策略も何もないだろう。
それならば、強行突破……。
それ以外考えられない。
あまりにも無謀。
だが可能性があるとしたらこの方法しかないのだから仕方がない。
そう決断した時。体が震え出した。先程全身に広がった熱がさらに膨れ上がり、体内から放出されていくのを感じる。それは、怒り、憎しみ、妬みに絶望、あらゆる負の感情なのだと何となく感じる。それらの感情が複雑に絡み合い、醜く変質した様な物が、全身を伝って身体中を震え上がらせる。
全てが憎い。
許せない。
理不尽だ。
生まれた時から決まっていた。
何も悪い事をしていなくても虐げられた。
他人の鬱憤のはけ口にされてきた。
自分を見下してきた人間たち。
見て見ぬふりをする周りの奴ら。
全て許せない。
優越感に浸りたかったのか?
分かった気になって救ったつもりだったのか?
満足して飽きたら離れていくのか?
どれだけ他人に振り回されればいい?
こんな状況に追い詰めた目の前の奴らも。
憎くて仕方ない。殺したくてたまらない。
「ムカつく。ムカつく。ムカつく。ムカつく。笑っている奴が憎い。幸せな奴が目障りだ。私はこんなに。こんな……。そう、苦労もせず笑う奴が憎い。ムカつく。ムカつく。死んでしまえ。死んでしまえ。みんな死んでしまえ。みんな死んでしまえ。死ね。死ね。死ね。死ねぇぇぇぇえええええええええ!!!」
まるでストッパーがはずれてしまったかの様な気分だ。高揚感で満ちている。今まで抑えてきたあらゆる感情が吹き出す。止まらない。感情が止まらない。止めることなどできない。
「全員殺してやる。」
処理対象を全員視界に収め、意識を集中した。
***
脱獄犯の回りには、殺気に似たとても重苦しく不快なオーラが渦巻いていく。当然目には見えない。しかし、確かに肌で感じられるほど濃厚で重々しいオーラがそこにある。
「な、なんだ?あの男……。正気か?」
レンヤは脱獄犯の豹変ぶりに驚き後ずさる。本能的に危険を感じる。得体の知れない化け物を見ている気分だ。
「まぁ、漫画でよくあるよね。こういうの。」
一方で全身黒ずくめのシラウメの部下の男は落ち着いており、呆れたように呟いた。
「死ねっ!死ねっ!死ねっ!死ねっ!死んでしまえ!!!!」
雄叫びの様な声と共に、ブワッと刺さるような殺気がレンヤ達に襲いかかる。気を強く持っていなければ倒れてしまいそうなくらいだ。すると突然。レンヤが見ている前で脱獄犯が消えた。否。消えたのではない。目にもとまらぬ速さで脱獄犯が動いたのだ。
直後にはブシュッと生々しい音が響き血液が舞った。その血液は、脱獄犯の1番近くにいたシラウメのものだった。
「殺してやる!殺してやる!」
脱獄犯はシラウメを切り付けた後、流れるような動きでレンヤを視界にとらえ、一気に切り込んでくる。すかさずレンヤはナイフを構える。しかし、その対応は余りにも不十分だった。一瞬にして距離は詰まり、キンッと刃物がぶつかり合う金属音が鳴る。目と鼻の先に現れた脱獄犯にレンヤは押されていた。
「なっ!!?」
速い。速過ぎるっ!
レンヤは、本能でナイフを受け流したり避けたりするが、それだけで精一杯だった。重い攻撃を受けるだけの体勢が整っていない。受身しか出来ない。反撃などもっての外だった。先程までの男がここまで強くなるのかと困惑する。地上で人々を切っていたときは、ここまで速くはなかった。明らかに別人の様だ。
レンヤが困惑しながらも、そう思考し脱獄犯の攻撃を凌いでいると、突然キンッ!と鋭い金属音がした。その音はレンヤが持っていたナイフが弾かれた音だった。認知した時には、ナイフ遠くへ飛ばされ宙を舞っていた。
やばいっ!
そう思うのと同時に目の前が真っ赤になった。派手に血液が舞い視界を赤で埋める。それと同時に、熱を帯びた痛みが激しく腕から感じられた。それによって、レンヤは腕を切られたのだと認知する。その衝撃と痛みでレンヤは途端にバランスを崩し尻餅をついた。するとそれを見た脱獄犯は、すぐさま標的をシラウメの部下に切り替え、その方向目掛けて地を蹴って行ってしまった。
何故、とどめを刺されなかったのかは分からない。もしかすると脱獄犯は、相手を殺す事より自分が逃げ切る事を優先しているからなのかもしれない。あるいは、単純に判断能力が落ちているのか。いずれにせよレンヤにとっては、殺されずにすんだのだから好都合だった。殺されていてもおかしくなかった。それ程までに脱獄犯に圧倒されていた。
レンヤは傷口を押さえ立ち上がる。傷は非常に深いらしく、脈打つように血が流れ出す。
「レンヤ君。立たないで下さい。」
シラウメの声だ。声がした方向を見ると、シラウメが左手を押さえながら歩いてくる。シラウメは左手を切られたようだ。押さえる右手の隙間から血がポタポタ垂れている。
「シラウメさんこそ……。」
「私の傷は浅いので平気ですが、レンヤ君のはかなり深いです。」
シラウメはそう言ってかばんから布を取り出す。
「応急処置です。今はこの布を貼って下さい。後で縫わないとダメなレベルです。」
渡された布はいつかマドカが持っていた、不思議な布である。レンヤは布を傷口に貼り止血した。シラウメも自分の左手にその布を貼り止血した。ふとレンヤは顔をあげ、脱獄犯を見る。脱獄犯は、シラウメの部下と目にもとまらぬ速さで切り合っていた。
「私の部下ならあの程度は平気でしょう。安心してください。」
シラウメは言う。しかし、その様子を見つめるシラウメの顔には、いつもの笑顔はなかった。
「あの、シラウメさん。犯人の動きが急に速くなったけど……。一体。」
普通じゃない。異常事態だ。レンヤはそう言いたい。
「はい。私もこの事態には驚いています。前科をみても、あの男にあそこまでの力はありません。人間、極限状態になると、今まで以上の力を発揮すると聞いた事はありますが、それにしたって異常。おかしいです。ひょっとすると、何かあるのかもしれません。」
シラウメは真剣に考えているようだ。視線は脱獄犯から一切離さないままの状態で、ぶつぶつと小さく何かを呟いている。
「アイル!その男生け捕りに出来ますか?多少手荒でも構いません!」
シラウメは部下の男に指示を出す。
「わかった。やってみるよ。」
アイルと呼ばれたシラウメの部下の男は、切り合いながらも返答した。アイルは脱獄犯が振るうナイフをひらりとかわすと、後ろに飛びのき距離をとった。そして、今まで使っていたナイフをしまい、代わりに刃渡り20センチ程の小刀を2つ取り出し、両手に持った。
そして次の瞬間、アイルは勢いよく踏み出し、流れるような鮮やかな動きで男に小刀を振るっていく。すると脱獄犯もそれに合わせるように身を翻し躱していくが、次々と赤い線が体中に刻まれていく。どうやら避けきれている様に見えて、実際は少しずつ切られている様だ。しかし、脱獄犯の表情は先程と一切変わらず憎しみに歪んだままだった。スピード負けして、浅いとはいえ傷が増えていく様な状態なのだから、焦り出してもおかしくない。むしろ、何かしら反応があるべき状況だろうと思う。
「目障り、目障りだ。死んでしまえ。」
脱獄犯は呪文を唱える様にブツブツと、ひたすらに呟いている。その様子は異常だ。気持ちが悪い。
「やはりおかしいですね。」
レンヤの隣にいるシラウメが小さく呟いた。
「あの男は気が狂ってしまったのでしょうか……?それに、またスピードが上がったようですね。」
レンヤは、アイルと脱獄犯の切り合いをじっと見る。シラウメの言う通り、脱獄犯のスピードが上がっている。アイルの攻撃を避けきったり切り返すなどし、明らかに動きが変わってきている。
「レンヤ君。もしかすると危険かもしれません。万が一、脱獄犯がこのままの勢いで成長し、アイルのスピードを上回ってしまった場合には、レンヤ君は構わず逃げてください。」
「なっ!」
レンヤはシラウメの言葉に耳を疑った。
「逃げる事は恥ではありません。立派な行動です。それに、こんな事に巻き込んでしまって申し訳ありません。怪我までさせてしまいましたし……。」
シラウメはそう言ってレンヤに頭を下げる。
「ちょっと、シラウメさん!?謝られる覚えは無いし、怪我は自己責任だろ?しかも、今は異常事態。だったらそれはシラウメさんの責任じゃないでしょ。」
「ですが……。もしレンヤ君にもしもの事があったら、私……。マドカに……。」
シラウメはそこまで言って口を閉じた。その先の言葉を飲み込んたのだろうと思われる。何を言おうとしたのかは分からない。しかし、苦虫を噛み潰したような表情をしたシラウメに、その先の言葉を聞く気にはなれなかった。
「私に何?シラウメ?」
突然地下に響く声。
「ま、マドカさん!?」
マドカがちょうど階段を下りてきていた。声の様子から、マドカはよく状況がわかっていないようだ。いつもの調子でレンヤ達の方へと歩いてくる。もうとっくに脱獄犯は片付いてしまっていると思っているのだろう。何の警戒もせず、狂暴化した脱獄犯が暴れ回る危険な場所へと近づいていた。
マドカの位置から脱獄犯は死角になり見えない。ゆえに、脱獄犯からもマドカは見えない。しかし、あと数歩でもマドカがこちらへ歩いて来てしまうと話が変わってくる。さらに、マドカとレンヤの距離よりマドカと脱獄犯との距離の方がはるかに近い。幸い脱獄犯はアイルとの切り合いの方に意識がいっているようで、まだマドカの存在に気付いていない。
「マドカさん!来るな!危ない!」
レンヤは叫ぶように言うのと同時に走り出した。
間に合え!間に合ってくれ!
マドカはレンヤのいつになく真剣な声に何かを感じ取り、ピタリと歩みを止めた。しかしながら、すでに遅かった。手遅れだ。もう、死角からはすっかり出た位置にマドカはいた。ふとマドカは脱獄犯の存在に気付く。そして、脱獄犯もまた、マドカの存在に気付いた。
脱獄犯の視線はしっかりとマドカを捉えていた。まさに、ロックオン。その言葉がピタリとあてはまる瞬間だった。脱獄犯は案の定、動き出す。アイルとの切り合いを突如辞め、方向転換し、マドカの方向へと地を蹴った。一瞬でマドカと男の距離が詰まる。
「え……?」
マドカはいきなりの男の接近に驚き固まる。そしてあっという間に、マドカの目前に男は現れた。しかも、マドカの腹部から肩までを、斜めに切り裂こうとナイフを低い位置に構えた状態で。レンヤの脳裏には最悪の光景が浮かんだ。嫌だ嫌だと感情が激しく揺れる。あの立ち位置、距離、角度から切り上げられたらマドカの腹部はかなり深く切り裂かれるのが、嫌でも分かってしまう。それは確実に死を意味する。レンヤは迫りくる恐怖に思わず目を瞑ってしまった。
しかし、直後に訪れたのはレンヤの予想に反して静寂だった。何の物音もしない。完全なる無音が場を支配していた。レンヤは予想外の様子に恐る恐るゆっくりと目を開ける。そして状況を確認した。すると、そこには完全に静止したマドカと脱獄犯の姿があった。まるでそこだけ時が止まってしまったかのようだ。自分の荒れ狂う心臓の音と呼吸の音だけが異様に聞こえる。その不可解な状況に、レンヤは訳が分からず立ち止まった。一体何が起きたのだろうか。何故脱獄犯はマドカを切り裂く直前で制止しているのだろうか。まるで分らない。脱獄犯が立ったまま突然気を失ったとでもいうのか。しかし、動き出したのは脱獄犯ではなくマドカだった。
「うわぁ!びっくりしたなぁ!いきなり何!?何なの?てか、おじさん危ないよ!それにナイフの使い方がなってない!こんな使い方じゃ切れるものも切れないでしょ!」
マドカはいつも通りの口調でそう男に言い放った。その声は本当にいつも通りマドカのままで、レンヤは安堵から気が抜けるようだった。すると、マドカは脱獄犯からいとも簡単にナイフを取り上げた。そして脱獄犯の方へ1歩踏み込むと、思いっきり男のみぞおちを蹴り上げた。
「ゔっ……。」
男は初めてうめき声をあげ、膝から崩れて地面に手をついた。アイルに切られた時には全く表情を変えなかった男が、今は苦しみ悶えている。
「アイル!捕獲してください!」
シラウメの声が響くと同時に、アイルは一瞬で脱獄犯を捉え無力化する。捕獲の確認が出来たのと同時に、シラウメが安堵する深い息の音が聞こえた気がした。