2章-3.放火魔 2023.10.1
6か所目に放火されると予想される現場に独り残されたレンヤは、アパートの1階の階段裏に座って身を隠していた。そこは昼間でも暗く、覗き込まれない限り、発見される事はないだろう場所である。
「暇だ……。」
待ち伏せ開始から約1時間。何もすることがないため、暇で仕方がない。周囲を確認するが、放火魔が来る様子は全くない。階段裏は薄暗いうえに人の目線も気配もないと言う事もあり、レンヤは緊張感なく、うとうと船を漕ぎ始めた。
ね、ねみぃ~・・・・。
ここで寝てしまうのは非常にまずいと知りながらも、容赦なく襲ってくる睡魔に勝てそうにない。必死で睡魔に抗うも、レンヤは暗い階段裏でついに眠りについてしまった。
***
どれくらい時間が経っただろうか。すっかり日が沈んで暗くなり、元々暗かった階段裏は、自分の手でさえ見えないほど真っ暗だった。
「ん……あ?あれ?俺は……?」
レンヤはようやく起床する。寝起きという事もあり、一瞬状況が飲み込めず首をかしげるが、すぐに置かれた自身の状況を理解する。
「近い……な……。」
レンヤは真剣な顔つきでつぶやいた。起きた瞬間から続くこの不愉快な感覚。それは、こちらへ少しずつ近づいてくるまがまがしい気配が原因である。その存在のおかげで、瞬時に状況が理解できた。
まず、この気配の正体が放火魔である事に間違いはないだろう。レンヤは、ぼやける目をこすり、あくびをしながらも意識を集中させる。ばらくの間息を殺し気配をも消して、階段裏から放火魔の様子をうかがう。すると放火魔は、いくつかあるポリタンクの1つを持ち、中の液体をまき散らしながら、レンヤの潜むアパートの周囲をゆっくりと進んでいく。
「♪♪♪~♪♪♪♪~燃えろ燃えろ~♪オイラのために~♪ガソリンちゃ~ん♪」
奇妙な鼻歌が、同時に聞こえて来た。しかも、渋い男の声の鼻歌だ。
「ガソリンちゃ~ん。ちゃんと燃えてね~。キヒヒヒヒヒッ。」
レンヤはその放火魔の様子をもっと良く見ようと、階段裏からゆっくり出ていき、そして、街灯に照らされた男の姿をしっかりと確認する。濃いひげに、中年太りした体型。資料にあった放火魔の顔写真と同じ顔。同一人物間違いない。
うっしゃー。20万発見!
レンヤは内心歓喜し、小さくガッツポーズをとった。脱獄犯に間違いないと分かったならば、さっさと殺してしまおう。レンヤは内ポケットからナイフを取り出し、ゆっくりと足音を消して男へ近づいていった。
一方男は、レンヤが近づいているとも知らずに、鼻歌を歌いながら呑気にポリタンクの中身をまき散らしている。そして、ひとつ目のポリタンクが空になった。男は持っていたポリタンクをその辺に放り投げると、ふたつ目のポリタンクに手をのばした。
と、その瞬間。ブシューーーーーッ!!と、勢いよく液体が噴き出して飛び散る音がなる。しかしながら、「な・・・に・・・?」と声を漏らしたのはレンヤの方だった。目を見開き、唖然としながら。目の前の光景が信じられないというように口をポカンと開けて。
飛び散る液体はレンヤの予想に反して血液ではなかった。真っ赤な鮮血ではなく、街灯に照らされてキラッと光を反射する、透明な液体。
「ガソリン!?」
レンヤに今もかかり続ける液体は、返り血ではなくガソリンだった。要するに、レンヤが勢いよく切り裂いたのは男の身体ではなく、ガソリンの入ったポリタンクだったのだ。
「キヒヒヒヒヒッ!甘い・・・甘い甘い甘い甘い!!キャンディーより甘いんだな~!キヒヒヒヒヒッ!兄ちゃん!気配は消せても、殺気がビリビリ刺さるようにきちゃって、バレバレなんだな~!キヒヒヒヒヒッ!」
男はレンヤの方を向き、酷く顔を歪ませて笑う。面白くてたまらないといったように。レンヤはそんな男の姿を見て本能的に後ろへ跳び、男と距離をとった。
「キヒヒヒヒヒッ!兄ちゃんも、ガソリンちゃんとメラメラ燃えるんだな~!外はコンガリ中はふわっと燃えるんだな~!キヒヒヒヒヒッ!」
「外はコンガリ、中はふわっとって……。タコ焼きか?俺は!!」
って、突っ込んでる場合か?俺……。
つい反射的にツッコミを入れてしまったが、すぐさまナイフを構えて戦闘態勢にはいる。
「キヒヒヒヒヒッ!兄ちゃん、今の自分の置かれた状況がわかってないんだな~!今オイラが火をつけたらどうなる?キヒッ!キヒヒヒヒヒッ!」
状況……?
レンヤはふと自分を見る。瞬間、そういう事かと理解する。返り血の代わりに被ったのは、大量のガソリンだった。現在全身ガソリンまみれである。もしこんな状況で火なんてつけられたらどうなるかなど嫌でも分かる。
しゃれになんねぇよ。
レンヤは、ハハっと自嘲気味に笑った。さて、どうしたものか。このままおとなしく、火だるまにされるわけにはいかない。
「兄ちゃん、アパートと一緒に燃えるんだな~。キヒヒヒヒヒッ!」
男は手にライターを持ち、今にも足元に広がるのガソリンの水溜まりに、火を付けようとしている。ガソリンの水溜まりは、レンヤやアパートをぐるりと取り囲んでいる。もしこの状況で火なんてつけられたら、レンヤもアパートも間違いなく燃やされてしまう。
「ちょ、ちょっと待とうぜ?おじさん!」
レンヤは今にも火を付けそうだった男に、あわてて声をかけた。すると男は、手を止めレンヤの方を向く。
「うるさいんだな~。今すぐ燃やしてやるから、大人しく待ってるんだな~。」
「いやいや、そーじゃなくて……。おじさん、後ろにもう一個ポリタンクあるけど、そっちはまかなくていいの?」
レンヤは、男の背後にあるポリタンクを指して言う。すると男は、振り返りポリタンクを見た。そして、ハッとしたような顔をして、持っていたライターを胸ポケットにしまった。
「忘れてたんだな~。」
どうやらこのポリタンクの中身も、まき散らす予定だったのを忘れていたらしい。男は3個目のポリタンクを手に取り、持ち上げた。その瞬間レンヤはニターっと笑った。その瞬間を待ってましたと言わんばかりに、持っていたナイフを勢いよく男に投げつけた。
ナイフはヒュンッっと空気を切り裂きながら、真っ直ぐに男の頭部目掛けて飛んでいく。そして、男の後頭部に刺さるかと思った瞬間、男は勢いよく振り返り3個目のポリタンクで飛んでくるナイフを弾き飛ばした。ナイフはポリタンクを少し切り裂いた事で軌道が変わり、虚しく地面にカランと落ちてしまう。
「兄ちゃんは、チョコレートみたいに甘いんだな~。キヒヒヒヒヒッ!こんな直線的な攻撃じゃ、オイラは殺せないん……」
男は勝ち誇ったように言っていたが、そこまで言って異変に気付き口を閉じた。チョロチョロチョロ……と、液体が流れる音だけが周囲に響く。
「火、つけたければ、つければぁ?つける勇気があるならだけど。」
レンヤは固まる男にニヤリと笑って言った。そして、再び内ポケットからナイフを取り出し構える。先程レンヤが投げたナイフは一見、簡単に防がれ無意味に見えた。しかし、ナイフは男が持つポリタンクに傷をつけ、そしてそのポリタンクの傷口から漏れたガソリンを、男にかけたのだった。それがレンヤの本当の狙いだった。
自分がガソリンまみれになった今、相手に火をつけられないようにするためには、相手にもガソリンまみれになってもらえばいいと考えたのだった。しばらく固まってレンヤを見ていた男は、次第にわなわなと震えだす。相当怒っているのだろう。顔が真っ赤だ。
「お、お前、もう許さないんだな~!!お前は先に殺してから、火葬してやるんだな~!!」
男は持っていたポリタンクを勢いよく投げ捨てた。そして、ギロリとレンヤを睨みつける。とたんに男の殺気がビリッと、レンヤに伝わってきた。
「ハッ!これが殺気か……。おもしれぇ!」
レンヤは言い終わると同時に地を蹴り、男へ向かっていく。そして、一定の距離内に近づくとナイフをどんどん振るう。しかし、男はレンヤの動きを瞬時に見極め、華麗に避けていく。そのためナイフは、ヒュンッヒュンッと空気を切り裂いた。
「兄ちゃん、なかなか良い動きするけど、甘いんだな~。その程度じゃ、オイラは殺せないんだな~。キヒッ!キヒヒヒヒヒッ!」
男は、ナイフを避けながら、勝ち誇ったように不気味に笑う。レンヤを見下し余裕を見せる。しかし、レンヤもまた不敵に笑っていた。まるで切りあいを楽しむかのよに。そしてレンヤはしばらく切りあったところでフッと笑いをこぼした。
「おじさんもなかなか良い動きするけどさぁ、いつ誰が、これが俺の本気っつった?」
「は?何を言って……。っ……!?」
男がレンヤの発言に不審を抱いた時だった。ブシュッと突如近くで鳴る音に男の言葉が強制的に遮られる。それと同時に視界に現れた予想外の赤によって男は瞬時に気がづいたようだ。その音の正体は、鮮血が飛び散る音であると。
「いつの間に……?」
男の右肩から勢いよく血が飛び散っている。男はわけが分からず目を見開く。
「いつの間にって……。わかんなかった?今だよ今。」
レンヤはニヤニヤと笑って、馬鹿にした態度で言う。
「いやさ、おじさんみたいな本物に会ったのは初めてだったから戦ってみたかったけど、もういいかなって。飽きたし。それに腹も減ったから帰りたいし。だからもう、終わりにしようぜ?」
レンヤは鼻で笑ってそう言うと、一気に男との距離を縮めた。そのスピードは、先程とはケタ違いだった。男は、レンヤの動きを目で追うのがやっとで避けるなんてもってのほかだった。レンヤのスピードに全くついていけない男は構える間もなく、次の瞬間には、ザシュッという複数回の肉が切り裂かれる音を最後に肉塊へと変貌した。
「ハッ。こんなもんかよ、凶悪犯って……。」
レンヤは、何か物足りなさそうにそう呟く。もっと興奮するような戦いを望んでいたのにガッカリしたというのが本音だった。レンヤは無様に肉塊となった男を見下ろす。暫くじっと肉塊を見つめていたが、ふっと我に返った。
「……。う゛……。内臓出てる……。気持ち悪っ……。」
見ているうちに気持ち悪くなり、レンヤは吐きそうになってしまう。やはりレンヤはグロテスクな物には弱かった。自分で自分が情けないとは思うが、こればかりはどうしようもないだろう。
「早く帰って、まどかさんに、死体回収してもらわねぇと……。」
レンヤは、吐きそうになりながらも先程男に向かって投げたナイフを回収し、人目を避けてマドカ宅へ向かって走って行った。