* 3 *
会場は、海を一望できる領主所有の豪邸だ。高い位置にそびえ立ち、景色の良さを何よりも優先しているのが一目でわかる。
カンナル家からの申し出で、パーティに関する雑務──会場の設営や食事の準備、給仕から屋敷の警護まで──すべてを、カンナル家お抱えの使用人が担当していた。
ミウナにとっては、ありがたいことだった。屋敷中が見知らぬ人間ばかりでは、気が滅入る一方だ。
「大変お美しゅうございます、ミウナ様」
いつもミウナの世話をしてくれているメイドが、涙をこらえながらいう。
「あの金ボンにはもったいない……!」
「滅多なことをいわないで。ここは敵陣です」
ミウナはやんわりと諫めた。敵陣という言葉を使ってしまったが、それはそれだ。
鏡を見る代わりに、窓の外に目をやる。ひどく明るい満月が、こちらを向いていた。まるで祝福しているかのようで、ミウナは月から目を逸らす。
着飾った自らの姿が窓に映っていたが、それも、意識的に見ないようにした。
絢爛な白いドレスは、否応なく結婚を連想させる。領主側からの贈りものとはいえ、できれば着たくはない。
諦めていないわけでは、なかった。
わかっていた。
これ以外に、道はないのだ。
「ミウナさま」
扉がノックされ、メイドたちがミウナを促す。
ミウナはうなずくと、ホールへと向かった。
数え切れないほどの蝋燭が壁を飾りたてている。これほど明るくしてどうするつもりなのだろう。ミウナは頭がくらくらするのを感じた。せっかくの満月なのだから、その光で充分なのにと、しようのないことを思う。
しかし、会場となるホールの明るさは、それまでの比ではなかった。
ぐるりと囲んだ壁はもちろん、並べられた丸テーブルにも数個ずつ、まるで競うように燭台が並べられていた。前面に広がる巨大な窓は存分に月の光を取り込んでいたが、数の力の前ではかすんでしまっている。
ミウナは唾を飲み込んだ。
神経を張り詰めて、ホールへと足を踏み入れる。
ほんの一瞬、会場のざわめきが消えた。
見られているのがわかった。次期領主の婚約者として、注目を浴びているのだ。今日はそのための催しなのだから。
やがて、賞賛や祝福の声が、溢れ出した。しかし、哀れみの色が混ざっていることに、ミウナは気づいていた。
この島で、次期領主のことを知らないものはいない。まるで、見世物か生け贄にでもなった気分だ。
「おお、ぼくのミウナ!」
噂に事欠かない話題のどら息子が、満面の笑みで歩み寄ってくる。白いタキシードに身を包み、自慢の金髪も丁寧に撫でつけられていた。見た目だけなら悪くはない。
「なんという美しさだろう! まったく、ぼくの妻にふさわしい。すぐにでも食べてしまいたいぐらいさ。次の妻を迎え入れるまでには、君こそがぼくの宝物だからね、ミウナ。なあに、大泥棒なんて、このぼくがやっつけてやるとも!」
しかし、中身はあまりにも残念な仕上がりだった。振れば音がするに違いないというのは、島の住民ほぼ全員の見解だ。
「光栄ですわ」
ミウナは優雅にドレスの裾をつかみ、一礼してみせる。
カンナル家の一人娘として、責任があった。つまらないことで機嫌を損ねるわけにはいかない。
「本当なら、このまま月の光に惑わされて、君をぼくの楽園へさらってしまいたいのだけどね」
片目を閉じようとしたのだろうが、不格好に両目をつむってアピールする。公衆の面前にも関わらず、ミウナの肌に触れようと身構えていた。手つきがいやらしい。さりげなく身を引いて、ミウナは微笑むことにする。
「まあ、それは素敵」
なにが素敵なのか、自分でいっていて意味がわからない。この調子でこの先やっていけるのだろうかと、若干ながら不安になる。
しかし、そんなことを気にするような次期領主ではなかった。彼は金色の髪をかきあげて、両手を天井に向かって掲げると、声を張り上げる。
「さあ、音楽を! 島を守護する海ですら嫉妬するであろう、美しきミウナ・カンナルに、最上の祝福を──!」
拍手が巻き起こった。控えていた楽隊が、弦楽器を奏で出す。
歓声を浴びながら、ミウナは笑みを持続させていた。しかし笑顔の裏で、どうしても考えずにはいられなかった。
もしも──あってはならないことだが、もしも素直に告げていたら、どうなっていただろう。
彼は、手を取ってくれたのだろうか。
お嬢さん──そう呼びかける声は、いつでも耳によみがえる。
明らかに慣れていない、不自然な言葉遣いで。お嬢さんと呼ぶ、優しい声。
ミウナと呼んでくれても、良かった。
最後に、一度だけでも。名前で呼んでなどと、そんなことはきっと、一生かかってもいえなかったけれど。
「ミウナ」
ミウナは耳を疑った。
それは、記憶の声ではなかった。たしかに、すぐ近くから聞こえた。
「……ヴェルガー?」
周囲を見渡す。音楽に合わせて、踊る人々。未来の夫はすでにほかの女性に声をかけている。求める人物の姿は、見えない。
「どこ?」
幻聴だとは思えなかった。思いたくなかった。
ヴェルガーではないかもしれない。しかしたしかに、自分を呼ぶ声があった。鼓動が速くなっていく。来てくれたのだ。昼間のあれは演技で、やはり予告状はヴェルガーの手によるものだったのだ。
「ヴェル……」
目を止めた。
音楽とともにゆらゆらと揺らぐ人々のなかで、ただひとり、ただまっすぐに立って、こちらを見ている人物がいた。
ミウナの二倍はあろうという巨体に、豊かな髭。片眼鏡の、厳格な男性。
ヴェルガーでは、ない。
「お父様」
誰よりもミウナを愛し、そして誰よりもミウナにつらくあたった父親が、じっとこちらを見ていた。
ミウナの母親は、ミウナを生んですぐに死んでしまった。父の厳しさはミウナを思うが故だと、わかっていた。
その父が、まるで祝福の空気など関係ないとでもいうように、立っている。
この婚約に反対することもなく、そして特別に祝福することもなかった父とは、ほとんど言葉を交わしていない。好きにしなさいといわれたそれを、ミウナはそのまま責任だと感じていた。
カンナル家のために。
父の期待に、応えるために。
しかし、父の目にいまあるのは、決して喜びではない。
「おまえは、どうしたい」
静かな声はあらゆる音を飛び越えて、ミウナの耳に届いた。
ミウナは、奥歯をかみしめる。
そんなことは、いえない。
いっていいはずがない。
「わたしは、おまえの幸せを、望んでいるよ」
ミウナの視界がかすんだ。
幸せを──
もし本当に、幸せを、望んでもいいのなら。
「わたくしは……」
声はかすれていた。ミウナは力一杯に、息を吸い込む。
「ヴェルガーと、ともに、いたいのです」
出てきた声は決して大きなものではなく、絞り出したような頼りないものだった。それでも、父は微笑んで、うなずく。
会場にいるカンナル家の使用人たちが、目配せをしたような気がした。
次の瞬間、会場は暗闇に包まれた。あれほどあった蝋燭の灯が、一瞬の間に、一つ残らず消えたのだ。会場のあちらこちらから、悲鳴があがる。
しかし、ミウナは見ていた。
窓の向こう、丸い月が、たしかにその姿を照らしていた。
ガラスの割れる音。飛び込んでくる痩身の男性。
「大泥棒、ヴェルガーだわ!」
ミウナのすぐ近くで、ずっとそばにいたメイドが叫ぶ。
「なんて恐ろしい! 予告状は本当だったのね!」
その声はあまりにも弾んでいた。嬉々としているといってもいいほどだ。彼女だけではない、聞き覚えのある声が、口々にヴェルガーの名を叫んでいる。逆らうことのできない大泥棒だと、どこか演技がかった声で、恐怖をあおっている。
「あなたたち……まさか」
ミウナは父親を見た。そして、悟る。あの予告状の意味を。いったい誰が、出したのかを。
「お嬢さん!」
月明かりを背にして、ヴェルガーが駆け寄ってくる。その手を、ミウナはつかんだ。無我夢中だった。考えることなどできない。
いまは、ただ、心のままに。
「ヴェルガー!」
抱きつくようにしてヴェルガーの隣に並び、窓に向かって、走る。
しかし、ホールの端まで来て、止まらざるを得なかった。
目を疑う光景が、待っていた。
海そのものが、隆起している。凪いだ海の中央、そこだけが意志を持ち、まるで生きているかのように、空に向かって立ち昇っている。
「竜……!」
ミウナは、握る手に力を込めた。
夢物語ではない。
現実だ。
それは、竜としかいいようのないものだった。うねる水が角の形に突き上げ、目の部分だけが鋭く光っている。海の水であるはずなのに、たしかに竜の姿で、ミウナとヴェルガーとを見据えていた。
──さあ、乗りなさい。
女性の声が、頭に直接、語りかけてくる。
理屈ではなかった。ヴェルガーと同じあたたかさ、優しさが伝わってくる。恐怖など、微塵も感じない。
「魔法使いじゃないですよ、いっときますが」
ふてくされたように、ヴェルガーがいう。ミウナは、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。
「そんなことは、どうでもいいのです」
ヴェルガーを見上げる。嬉しさで泣きそうになるのをこらえ、微笑む。
「わたくしにとっては、あなたは最初から、特別なんですもの」
竜が波打ち、力強く風を泳ぐ。首を伸ばすようにして、屋敷に向かって飛びかかってくる。
ミウナは迷わなかった。ヴェルガーとともに、両足をそろえて床を蹴った。
空を舞ったのは一瞬のことだ。一度のまばたきの後には、竜の背に乗っていた。満月の光を受け、穏やかに輝いている。水面そのものなのに、感触と、ぬくもりがある。
「みんな──!」
ミウナは、振り返った。
きっと見えない。きっと聞こえない。それでも良かった。
「ありがとう──!」
身体中の思いを込めて、叫ぶ。
父親や、ずっとともに暮らしてきたカンナルの家族たち。どんな顔をしているだろう。笑顔でいてくれるだろうか。そのほかの全員が唖然としているのは想像に難くないが、それで良かった。あくまでも、大泥棒の仕業なのだ。カンナル家の令嬢は、盗まれてしまったのだから。
──揺れるわよ!
声とともに、風が吹き荒れる。
岬の桜が、枝を揺らす。
舞う花びらが、海を桜色に彩っていった。月明かりでも充分に美しく、それはミウナの思い描いた通りの海だった。
「お嬢さん」
手をつないだままで、ヴェルガーがいう。
どこか気恥ずかしそうに、ほんの少し視線をずらして。
「愛の告白は、手紙ではなくて、口でしてください」
「あら」
ミウナは、目を細めた。
「手紙なんて、書いたかしら」
「はいはい」
ヴェルガーが笑う。
ミウナは、彼の横顔に、そっと唇を寄せた。
たとえ、わたくしがだれの妻になろうとも
たとえ、あなたが、人間以外のなにかであろうとも
ミウナ・カンナルは
世界でただひとり
いつまでもあなたを、愛しています──
読んでいただき、ありがとうございました。
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