* 1 *
予告状──
満月の夜
カンナル家の御令嬢
ミウナ・カンナルを
いただきに参上します
大泥棒ヴェルガー
「ぎりぎり間に合いましたわね」
カンナル家の裏から見て、一番右側の二階の窓。
いつもどおりのその場所から、焦る気持ちを抑えて顔をのぞかせたヴェルガーは、待ち構えていたミウナ・カンナルにめまいすら覚えた。
もしかしたら、ミウナには、悪気がないのかもしれない。または、彼女のあずかり知らない出来事なのかもしれない。
しかし、聞かずにはいられなかった。
「どういうことですか、お嬢さん……」
力なく窓から入り込み、よろめきながらソファに腰をうずめる。ミウナはシルバーブロンドを静かに揺らし、不思議そうに小首をかしげた。
「わたくしを、盗みにいらっしゃったのでしょう?」
「そんなばかな」
本当は腹の底から吠えたかったのだが、空気の抜けるような声しか出なかった。まるで聞こえていないかのように、ミウナは眉一つ動かさない。
わかってはいたが、強敵だ。ミウナの自由っぷりには、幼いころからこれでもかと振り回されている。
わたくしを森へ連れて行って。
島で一番高い木に登らせて。
海に飛び込んでみたいわ。
本国の食べ物を、おなかいっぱい食べたいわ。
どれもこれも容易なものではなかったが、しかし今回は、そのどれもを上回っていた。
ヴェルガーの名で出された予告状。十中八九、ミウナ本人が出したものだろう。
つまり、自分を連れ去れといっているのだ。
「どうしてオレが、お嬢さんをいただきに参上しなくちゃいけないんですか」
やるせなさを込めて、真摯な瞳でミウナを見つめる。
ミウナがまったく動かないので、さらに続けた。
「わかってるでしょうが、オレは大泥棒でもなんでもありませんからね?」
「まあ、ヴェルガーったら」
ミウナが目を細める。口元に手を当てると、愉快そうに肩を揺らした。
「なろうと思えば、なれますわ」
「なれねえっつの」
心の底からの否定だ。しかしミウナはものともしない。
「わたくし、不安でしたの。もう満月は今夜でしょう? あなたがいつもどうやって島へいらっしゃるのか存じませんが、それはもう気が気ではなくて。このままでは、大泥棒ヴェルガーの名に傷がついてしまうところでした」
「いや、その……」
そもそも、傷のつくような肩書きは最初からない。しかし、なぜか責められているような気持ちになる。とりあえず謝ってしまいたくなるほど、ミウナにはお嬢様オーラが満ち満ちており、対するヴェルガーはあまりにも庶民然としていた。
カンナルの屋敷があるのは、人口千人に満たない小さな島だ。ヴェルガーはいつもこの地にいるわけではない。幼いころに仲良くなって以来、ときおりこうして島を訪れ、彼女の屋敷へ通っている。
ミウナがどう思っているかはさておき、ヴェルガーにとって彼女は特別であり、大切な存在だった。そのミウナが助けを求めているというのなら、もちろん全力で応じたい。
しかし、だからといって、大泥棒とは。
島に入るなり予告状の存在を知り、寿命の縮まる思いだったのだ。
「聞きましたよ、お嬢さん。この島のアホボンに求婚されてるんでしょう。今夜にはお披露目のパーティを控えているとか」
「よくご存じなのですね」
さらりと返され、ヴェルガーは鳶色の頭を力任せに掻いた。
もし自分がこの島に来るのが、あと半日遅かったら……──考えただけで恐ろしい。このお嬢様が、だれかの妻になる姿など、想像できない。
「助けて欲しいのなら、素直にそういってはどうですか」
思ったよりも、不機嫌な声になってしまった。
求婚しているのは、島の次期領主なのだという。アホボン、バカボン、金ボン等、マイナスの名を欲しいままにする絵に描いたようなどら息子だ。
「そうしてくれれば、オレだって……」
しかし、続きをいうのは躊躇われた。
顔を上げ、窓辺の椅子に腰掛けているミウナの顔色をうかがう。
ミウナは、こちらを見てはいなかった。窓の向こう、海を眺めているのだろう。彼女がよくそうしているように。
藍色の瞳が、遠くの景色を映しているのがわかる。実際にある何かではない。おそらくは、その先にあるであろう未だ見ぬ──もしかしたら一生見ることの叶わない──世界、夢そのものを、見ているのだ。
彼女の憧れを、ヴェルガーは理解していた。
この島はひどく閉鎖的だ。船の行き来もない。ヴェルガーの存在は特殊であり、だからこそ『予告状』という乱暴な手段に出たのかもしれない。
「海は、桜色に染まるのでしょう」
唐突に、ミウナがつぶやいた。
「青いですよ、お嬢さん」
冷静に答える。しかし返答など求めていないかのように、ミウナは続ける。
「海には竜が住んでいて、自由に世界を泳いでいくの。空は虹色で、その先の世界は……きっと見たこともない色。あなたは、海や空、そのすべてを、住処としているのですね」
「オレをなんだとお思いですか」
一度聞いてみたかったことだ。もしかしたらミウナは、ヴェルガーのことをなんでもできる超人のように思っているのかもしれない。
「いっときますが、オレは別に空を飛んだりできませんよ」
ミウナはゆっくりとヴェルガーを見た。長い睫毛を上下させ、不思議そうな顔をする。
「あなたは、魔法使いだわ」
断定だった。
ヴェルガーは眉間を押さえる。超人ではないにしろ、魔法使いだ。不可能はないと思われているにちがいない。
「魔法が使えれば、こうやって困ってなんかいませんよ。あなたを盗み出すのだって、魔法でちょちょいってやっちゃえばいいんですから」
ミウナは微笑んだ。
彼女があまり見せることのない、柔らかい穏やかな笑顔に、ヴェルガーはどきりとする。
どうしてここで、そんな表情をするのだろう。
「嘘です、ヴェルガー」
あっさりと、今日の天気でもいうように、彼女はつぶやいた。
「予告状なんて、嘘です。領主様には逆らえませんもの。もしわたくしが逃げ出せば、きっとお父様は悲しみます」
「……それは」
そうだろう。しかし。
ヴェルガーは腰を浮かせた。本当は、そんなことを聞きたかったのではなかった。
もしミウナが、心から逃げ出したいと──ヴェルガーにそれを望むのだと、いうのなら。
「お嬢さん」
「お別れがいえて、良かったわ」
静かな口調には、否を受け付けない頑固さがあることを、ヴェルガーは知っている。
ミウナは立ち上がり、窓を開けた。春の風が吹き込む。満開を過ぎた桜色は、しかし決して海の色ではない。
「さようなら、ヴェルガー」
ヴェルガーは、答えなかった。
とはいえ、窓を開けられたのでは、このままここに居続けることもできなかった。
窓枠に手をかけ、痩身を跳躍させる。まるで本当の大泥棒のように、二階の窓から飛び降りる。
「これを」
手渡せばいいものを、上から封筒が落ちてくる。
「島を出るまで、開けないでくださいね」
ヴェルガーは薄桃色の封筒をつかむと、振り返ることなく、屋敷の塀を飛び越えた。