私の婚約者は、私より妹を信じた
「お姉様、どうして私のドレスを捨てたの!?」
朝食の席で、妹のマリベルが泣きそうな顔をしながら口を開く。
「捨ててないわ」
疑惑を向けられた私は手にしていたカップを静かに置き、向かいに座る妹を見つめて冷静に言葉を返す。
「そもそも、なぜ私があなたのドレスを捨てる必要があるの?」
「だって、昨日まで部屋にあったのに……今朝になったらなくなっていたんです!」
「それなら、まずは侍女に確認しましょう。誰かが間違えて別の場所へ運んだのかもしれないじゃない」
「お姉様は、いつもそう!」
マリベルは俯いて、太もものドレスをキュッと握りしめた。
「私が何か言っても、すぐに理屈で返してくる。だから……私、お姉様と話すのが怖いの!」
その言葉に、向かいに座っていた私の婚約者、エドワード王太子殿下が痺れを切らしたかのように眉を寄せた。
「リフィア。もういいだろう」
「……」
「マリベルは君に何かされたと言っているだろう。少しは妹の気持ちを考えてやれ」
胸の奥に、小さな痛みが走った。いつもはこんな強い口調で私たち姉妹の間には入ってこないのに、今日に限って、どうして。
「もちろん考えています。だからこそ、何があったのか確認したいのです」
「君は昔からそうだ」
エドワードは疲れたように息を吐きながら続ける。
「君はいつも自分が正しいと分かっているような話し方をする」
違う。私はただ、事実を確かめたかっただけ。
けれど、ただでさえ忙しい彼の身を思うと、これ以上はもう困らせたくなかった。
だから、何も言わなかった。
「……申し訳ありません」
「うふふっ」
そのとき、マリベルが小さく笑ったような気がした。私はその笑顔を、見逃してしまったのだ。
そして、それがすべての始まりだった。
◇
マリベルが私について話す内容は、日を追うごとに変わっていった。
あるときは令嬢たちのお茶会で。
「わたくし、お姉様に人前で恥をかかされましたの!」
次の日は両親に向かって。
「お父様、聞いて下さい! 昨夜、お姉様から私のことを妹だと思っていないと言われましたわ!」
そして、その次の週には舞踏会。
「お姉様は、私が殿下と親しくすることを嫌っているのです!」
もはや嫌がらせとしか思えないほど、マリベルの言動はエスカレートしていった。
もちろん、どれも事実無根だ。
けれどそのたびに周囲からは詰め寄られ、そのたびに必死に説明をしながら否定を繰り返した。
そして、あの日を境に線引きをされてしまったように感じたエドワードはというと、結局、最後まで私の話を聞こうとはしなかった。
「妹がそこまで怯えているんだぞ。少し距離を置いてくれないか」
「殿下、私は何もしていません」
「分かっている」
「では、なぜ?」
彼は困った私の顔を見て、ニヤリと笑いながらいつものようにこう口にする。
「君なら分かってくれるだろう?」
胸の奥が、妙に冷たくなった。
君ならできる。
君なら大丈夫。
君なら分かってくれる。
私はずっと、その言葉を嬉しいと思っていた。信頼されている証だと思っていたから。
でも、そのとき初めて、その言葉が私を黙らせるためだけの言葉なのだと知った。
「はい……」
私は、下唇をキュッと噛みしめた。
◇
私とエドワードは、幼い頃からの婚約者同士。
王太子妃になるための教育を受け、彼が政務に追われればその補佐をし、外交の席では彼が話しやすいように相手の意図を先回りして読み取った。
それが私の役割だと思っていた。
けれどあの日、彼の言葉は、私を沈黙させるためだけのただの道具だったんだと悟ってしまった。
エドワードは私を信頼してくれていると思っていたから、マリベルの話がおかしいことに、私が何もしていないことに、いつか気づいてくれると思っていたのだけれど……。
「リフィアお嬢様、旦那様が御呼びでございます」
そんな考えが完全に打ち砕かれたのは、ある日の夜だった。
「失礼致します」
父に呼ばれて応接室へと向かう。
扉を開けた瞬間、そこには険しい顔をした彼がいるのが見えた。
「入れ」
その隣には妹のマリベル、向かいには父。
そして、テーブルの上には小さな銀色の瓶が置かれていた。
「お前の部屋から見つかった」
「……その瓶は?」
「毒だ」
息が止まりそうな私を尻目に、彼は眉間にシワを寄せたまま、こちらを見ようともせずに視線を下に向ける。
「お父様ーー私」
「マリベルが体調を崩した日に、お前の部屋からこれが見つかったのだ。中身を調べたところ、致死性の毒が入っていたそうだ」
「知りません」
すぐに否定したけれど、マリベルが畳み掛けるように震える声で被せる。
「わたくし……お姉様に殺されるところだったんですか?」
「違う、私はそんなことしていなーー」
「でも!! 毒はお姉様の部屋にあったのでしょう!?」
「待って、マリベル。それがおかしいと言っているのです」
そう妹に言いながらも、私の意識はずっと彼に向いていた。
私の視線には気付いているのに、父に言い寄られているのに、妹に疑いを掛けられているのに。なんの助け船も出さずに沈黙を保っているエドワードの横顔が妙に憎たらしく見えた。
「僕は悲しいよ、リフィア」
「お待ちください、殿下。どうして私の部屋にあったというだけで私が犯人になるのです。誰かが置いた可能性は?」
「もちろん調べている」
「でしたら、私の言葉も聞いてください」
「聞こえている」
「いいえ!」
思わず声が強くなった。
「それは聞こえているだけで、殿下は私の話を聞いてはいません」
部屋の空気が凍った。
エドワードは険しい顔をさらにじませ、目を細める。
それでも私は、彼から目を逸らさなかった。
「私は何もしていません。殿下なら、分かってくださると思っていました」
長い沈黙のあと、エドワードは静かに口を開く。
「君を疑いたくはない。だが、僕はマリベルを信じる」
「……どうして?」
「簡単なことだ。彼女が嘘をつく理由がないからな」
「お言葉ですが、私にも妹に毒を盛る理由などありません」
「どうかな。君は、マリベルを嫌っていたではじゃないか」
「いいえ。私は、妹として大切に思っておりました」
「しかし実際には、彼女は君を恐れている」
そのタイミングで、マリベルがわざとらしく咽び泣いた。エドワードはその涙を見て、私から視線を切り、妹の肩に手を回した。
その瞬間、何かが切れた。
そして理解した。
彼は真実を探しているのではなく、ただマリベルを信じたいだけなのだと。
「……分かりました」
「リフィア?」
「もう結構です」
私はそれ以上、何も言わず部屋を飛び出した。
◇
数日後、私は王宮へと呼び出されることになる。
謁見の間には国王陛下、王妃殿下、重臣たち、そしてエドワード殿下とマリベル。
嫌な予感など、この時点では予感ですらなかった。今からここで何を告げられるのかなど、もうとうに分かりきったことだった。
「リフィア・ヴァレンティア」
国王陛下の声が鳴り響く。
「此度の一件について、そなたの婚約者としての資格を問わざるを得ないとの結論に至った」
陛下のお言葉を聞きながら、そっとエドワードの方を見た。彼も私を見ていた。
けれど、その目にあったのは信頼ではなく、敵意に満ちたどす黒い決意の炎。
「従って、エドワードとの婚約破棄をここに宣言する。異議はあるか?」
周囲から小さなどよめきが起こるも、私はただ黙って口を閉じ、陛下の問いに静かに首を横に振る。
「ございません」
周囲の声が引いてから発したその声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「……」
彼がこちらを見ていることには気がついていた。
けれど、もう遅い。
どうして私を信じてくれないのか。十年以上も隣にいたのに、どうして妹の涙一つに負けるのか。
そんなことを尋ねる必要は、もうない。
だって答えはすでに出ているのだから。
私は婚約を破棄されたその日のうちに、王家から任されていた仕事をすべて返上した。
政務の補佐に外交文書の確認業務。貴族間の日程調整や王太子府の予算管理に至るまで。婚約者として当然だと思っていた仕事を、一つ残らず。
「本当に、全部お返しになるのですか?」
侍女が不安そうに口を開く。
「ええ」
「ですが、殿下は」
「もう……殿下の婚約者ではないわ」
それだけ答えて、最後の書類をそっと封じた。
◇
翌朝、王宮では最初の問題が起きた。
早くも隣国との交渉が止まったようで、それは私が何か月もかけて調整していた大事な案件だった。
そして次の日には、こちらも後日耳にしたことなのだけれど、財務部から予算案について問い合わせが殺到したとか。
翌週には、複数の貴族家から王太子府への抗議が届き、エドワードは一つずつ処理しようとしたけれど、どこから手をつければいいのか分からないと項垂れていたらしい。
「今までどうされていたのでしょうね」
侍女が首を傾げる。
もちろんこれまでも、別に問題が起きなかったのではない。問題になる前に、私が先に対処していただけ。
その事実を、王宮の人々は少しずつ認識し始めていた。
「これほどの仕事量を、リフィア嬢が?」
「そもそもの話、王太子殿下は何もご存じなかったのか」
「婚約者を失ったというより、これではまるで王太子府そのものを失ったようなものではないか」
けれど、そんな声があちらこちらで広がっていることなんて意にも介さず、私の代わりに王宮の中心へ招かれたマリベルは、私の代わりに王太子に愛された妹として日々を堪能していた。
「マリベル、愛しているよ」
「わたくしもですわ。エドワード様」
姉に虐げられていた可哀想な令嬢。
彼女は周囲の誰からもそう同情され、王宮内でもエドワードの隣に立つことを許された。
けれど、嘘で築いた牙城は新たな嘘でしか増築てきないとでも言うように、妹は王宮内でもこれまでと同様、悲劇の令嬢を演じ続けた。
「お姉様は昔から私が嫌いだったのです! 私が殿下に近づくことも許してくれませんでした! それに毒の件だって、きっと私を殺したかったのよ!」
日を追うごとに……日を追うごとに。
けれど、増えすぎた嘘は必ずどこかで矛盾となり、人々に疑惑の眼を咲かす。
「それは本当か!?」
最初に見つかったのは、ドレスだった。
私が捨てたとされたドレスは、実はマリベル自身が別の侍女へ預けていたことが発覚。それが父の耳に入った。
舞踏会で恥をかかせたという話に至っては、その時間、私は別の貴族と会話をしていたことが記録に残っていた。
そうして一つずつ、妹が築き上げた牙城が音をたてながら崩れていった。
「なんと言うことだ……!!」
そして最後に、毒の件。
毒瓶が私の部屋へ運び込まれたその時間、屋敷内を駆ける一人の人物が浮上した。
毒を購入した際に使われた金、その出所や、好きに屋敷内を巡り、私と妹の部屋を違和感なく行き来でき、父やエドワードにその事実をいち早く報告できた人物。
調べれば調べるほど、すべてがマリベルへと繋がっていく。
「こ、これは……!!」
なにより決定的だったのは、父が見つけた一通の手紙。
そこには、私を陥れるための計画が書かれていた。
どんな噂を流すか。どの使用人に証言させるか。どこへ毒を隠すか。そして、エドワードが必ず自分を信じるという確信まで鮮明に。
すべてが明らかになった。
マリベルの涙も、怯えた素振りも、私を追い出すために作られたもの。
そしてエドワード。彼は何度も私の言葉を聞き流しては、最終的に私よりも妹を信じる道を選んだ。
誰かに騙されたのではない。
自分自身で、私を切り捨てたのだ。
「リフィア……」
ある日の午後、少しやつれたエドワードが私の前に現れた。
「お久しぶりです」
「ああ……私は、とんでもない過ちを犯してしまったようだ。悪かったよ、リフィア」
「お気になさらず」
彼の目は、初めて見るほど弱っていたけれど、同時に、どこか朗らかな様相をにじませている。私が怒っていないせいかしら?
「本当のことを言うとね、僕は、最後まで君のことを信じていたのだよ」
「おやめください。どの口がおっしゃるのです」
「え、ああ……申し訳ない。ただこれだけはわかってもらいたい。やはり僕には君が必要ーー」
「私の人生に、貴方は必要ありません」
それだけを告げて踵を返した。
エドワード殿下、さようなら。
◇
その後、事件が公になったことで、王家の信用は大きく揺らいだ。
さらに、私が王太子府を去ったあとに露呈した政務能力の不足も重なり、エドワードを王太子として残すことに反対する声が急速に増えていった。
「仕方あるまい」
やがて国王陛下は大きな決断を下すことになる。
エドワードの王太子位を剥奪。王族としての身分も失い、財産も没収され、王都から永久追放。
そしてマリベルもまた、爵位継承権を剥奪され、社交界から永久追放された。
それが二人の結末だった。
「リフィア様、ご存知ですか?」
「ううん。知らない」
侍女にそう聞かれたけれど、むしろ知る必要もないと思ってる。二人がどこへ行って、何を失ったのか。そしてこの先、どんな人生を送ることになるかなんて。
私にはもう、関係のないこと。
◇
ほとぼりが冷めたあと、私は王都を離れ、隣国に向かった。母方の親族が暮らしていたからそこに行こうと思い立ったのだ。
とくに何も決めず。
強いて言えば、あの国から離れたかったから。ただそれだけ。
そんな私を迎えてくれたのが、隣国の第二王子ルシアン殿下。彼は澄んだコバルトブルーの瞳で私をまっすぐに見つめた。
「あなたがリフィア嬢ですね」
「はい」
「長旅で疲れたでしょう。今日はゆっくり休んでください」
とくに私の過去を聞こうともせず、ただそれだけ。
王太子の婚約者だったことも、婚約破棄されたことも、妹に陥れられたことも。
必要と思えば話せばいいし、話したくなければ話さなくていい。そんな距離感だった。
それが、私にとって何より心地よかった。
「リフィア」
ある日。庭園を歩いていると、ルシアン殿下が私の隣で足を止めた。
「あなたは、少し頑張りすぎるところがありますね」
「そうでしょうか」
「ええ。何かを頼まれると、まず自分にできるかどうかを考えるでしょう?」
「……そうかもしれません」
「嫌なときは、断ってもいいんですよ」
当たり前の主張に聞こえるその言葉が、なぜか不思議なくらい胸に残った。
これまでずっと、誰かの期待に応えることが幸せだと思っていた。役に立てば必要とされ、必要とされれば愛される。
だから我慢した。支えて、何度も自分の気持ちを後回しにしてきた。けれどーー
「そう言う生き方も、いいんじゃないかな」
ルシアン殿下は、そう言って笑顔をくれるだけで私に何も求めない。
失敗したときも、何もしないときも、変わらず笑ってくれる。
「ありがとうございます」
少しずつ、私は変わっていった。
庭を散歩することが好きになったり、何も予定のない午後を楽しめるようになったり。誰かのためではなく、自分が読みたい本を選ぶこともできるようになった。
そして、いつの間にかルシアン殿下が隣にいることを嬉しいと思うようになる。
そんなある夕暮れどき、彼が私に告げる。
「リフィア。僕はあなたが好きです」
心臓が大きく跳ねて、顔からボッと火が出るような気がした。
思わず両頬を手のひらで覆うも、彼の言葉は止まらない。
「あなたが嫌でなければ、これからも僕の隣にいてほしい」
以前の私なら、嬉しいとか嬉しくないの前に相手の立場を考え、家同士の関係を考え、国益を考えたかもしれない。
けれど今は、自分の胸の中にある気持ちだけを見つめることができる。
「私も、あなたの隣にいたいです」
ルシアン殿下が優しく笑う。
差し出された手に、私は自分から手を重ねた。
温かかった。
あの日、妹を信じた婚約者に捨てられた私は、すべてを失ったと思っていた。
「ルシアン殿下、お慕いしております」
けれど、違った。
私はあの日、ようやく自分の人生を取り戻したのだ。誰かに信じてもらうためではなく、誰かに必要とされるためでもなく。自分が、この人と生きたいと思えること。
それを自分で選べることこそが、私にとって初めての幸せだと感じた。




