第2章-3
王城を後にして、アルスとシェイドは家に帰った。買い出しを放り出して森へ走り、騒動を鎮め、王に謁見するという、なかなか濃い2日間だったが、その間キルスはキルスできちんと生活していた。
買い出しに行き、ひとり分の食材……というか出来合いのものを買い、毎日シェイドが手入れをしている庭を眺めながら食事をしたらしい。
……キルスってこういうやつだったっけか?アルスはキルスの話を聞きながら、昔の印象が脳みそから吸い出されていくような感覚に陥っていた。
「で、地界へこれから降りるのか?」
不意にキルスに聞かれて、アルスはハッとする。兄はふたりともアルスより背が高く、ふたりが並んでいると、それはもう壁だ、壁。こどもなんか泣いてしまうんじゃねぇか?と思うほどに、威圧感が強い。
「あー……まあ。でも、今から支度して行くつもりはねぇな。まずアルティアが今どこにいるのかわかんねぇし、調べるには……地界へ降りなきゃなんねぇけど、なんだかな……」
「あまり乗り気じゃなさそうだな」
王の命令……と言うよりは頼み事寄りのそれというか。急務という雰囲気ではなかったから、余計に気が引き締まらないのかもしれない。
「王に頼まれてしまったもんは仕方ねぇけど。まあ、明日か明後日にでも出かけるかな……」
「シェイドは?」
「私は……いる?」
万が一のことを思うと、そばにいるのは心強い。が、俺じゃなくてシェイドが万が一……となるのは勘弁だと思って、首を横に振った。
「大丈夫だ、シェイドはここにいてくれ」
次兄はわかった、と言いながら小さく頷いた。
夜、アルスは庭の隅で短剣の手入れをしていた。刃こぼれしていた箇所を念入りに、丁寧に研いでいく。刃と石が擦れる音が、だんだん心地よく感じてくる。
それなりに研いだので、状態を確認する。当てただけで皮膚が切れそうな、鋭く艶やかに仕上がっていた。それを鞘に収める。ホルダーも傷んでいる箇所がないかしっかり見る。
長期間『休まる場所』から離れる前日に必ず行っていることだが、キルスは毎日自分の短剣を確認しては研いでいる。本当はそれがいいのだろうけど……ちょっと面倒くさい。
と、ホルダーの装着の金具が緩んでいたのを見つけた。いや、部品がひとつ無くなっているな……。こんなことはよくあるので、自分でそれなりに修理してきた。
道具を片付けてリビングに戻ると、シェイドがカモミールティーを嗜んでいた。手に持っていたホルダーに気づいた兄は、カップを置いた。
「どこか壊れたの?」
「ああ、ここの部品が無くなってた」
「ここか……。ホルダーごと変える?新しいもの作ってあるから」
シェイドは席を立って装備品や工具などを保管している部屋に入っていった。そこはシェイドの仕事部屋でもある。製造から修理まで、器用にこなす鍛治職ニンなのだ。それでいて治癒魔法も使え、魔物を手懐けるのも得意という、万能な兄だ。
ややあって、真新しいホルダーを持ってシェイドが部屋から出てきた。アルスは壊れたホルダーから短剣を抜いて兄にわたし、新しいホルダーを受け取った。腰に着けて調節したのち、短剣を鞘に収める。皮が馴染むまでは少し固くて動きづらい。だが、そんなのはすぐに慣れる。
「……ありがとう」
お礼を言うと、シェイドは微笑んだ。古いホルダーは新しいものを作る際に型取りの役割を担ってから解体されるという。使えそうな部品は回収するのだとか。
「こうやっていつでも交換できるように、ストックを作っておいてるんだ。私とキルスのぶんもちゃんと保管してあるし。また作っておくけど、今のままでいいよね?何か欲しい機能とかある?」
「いや、これで十分だ。ってか、これ作る材料費なんか結構かかるんじゃねぇのか?」
「ああーそれはまあ……。でも、自分の収入で賄えてるから気にしないで」
「いやそれは……身内だからって払わないわけにはいかねぇだろ」
「いいんだよ、勝手に作ってるだけだから」
ふふ、と笑いだすシェイド。……なんだよ、なんか変なこと言ってるか、俺?そう聞くと、兄はそんなことないけど、とまだ笑っていた。
「いやあね、アルスもおとなだなぁって」
「は?」
「そうだよね……家出の仕方はともかく、ちゃんと自分で考えて行動して、地界でも苦なく生活してきて……。もう何も言うこと無いよね」
「シェイド……」
シェイドはひとしきり笑ったあと、ふう、とため息をついて落ち着かせた。笑い過ぎたのか、紫の眼からつうっ、と雫が頬を伝っていった。それを袖で拭った仕草に、アルスは少しドキッとした。
「……もう話してもいい年齢か。アルスの……自我が芽生えるまでの10年、どんな状況だったのか。そんなのどうでもいいかもしれないけど」
確かに正直なところ、今じゃなくてもいい話だったが、話す気になっているのに、どうでもいいからいいやと断るのもどうにも嫌な気分だった。
シェイドが過去の話をすることは滅多にない。過去を振り返ってもどうにもならない。思い出すとツラいものなんか、自分の心を抉るだけ。そう言って口を開くことはほぼ無かった。だから翡翠の王の話も、まさか聞けるとは思っていなかった。
「……シェイドがよければ、教えてくれないか?俺は……俺の知らない10年を、知ってみたい気もしてる」
「あら、そうなんだ。じゃあ……今日はもう遅いから、明日にでも。旅立つ前にこんな話もどうかと思うけどね」
「……あんまりいい話じゃなさそうだな」
「……うーん……そう、かもしれない」
シェイドのトーンが下がる。アルスは思い直す。
「やっぱりまた今度にする。話す気になってたのに、すまん……」
「……わかった。私こそごめんね、もやもやさせてしまって」
じゃあまた明日、とシェイドは古いホルダーを持ったまま自室に消えていった。アルスは一息ついて、空になったカップを静かに片付けることにした。
翌朝、身支度を整えてリビングへ向かうと、パンの焼けるいい香りに包まれていた。
「おはよう」
シェイドが明るく挨拶をする。おはよ、と小声で返す。キルスとは特に交わさないが、一応目を合わせておく。そんな朝も、しばらく見納めか。
「……朝メシ食ったら出かける。アルティアをヴィルヘルへ連れてきたらいいんだったよな」
「うん。王は助けを乞うたら、と仰っていたけど、問答無用で保護してきてもいいと思う」
やはり兄も同じ考えだった。アルスは小さく頷いてから、パンを齧った。薄く塗られたバターの香りが口いっぱいに広がる瞬間がたまんねぇな。
パンと紅茶を味わいながら、さてどこから探そうかと考える。偵察鳥はどこでアルティアの様子を撮っていたのだろうか。……その場所へ行ってももういないだろうから別にいいか。
アルティアの住処はダーラムのグリフォリル厩舎だ。当然そこにもいないだろうが、何か手掛かりを得られるかもしれない。
闇の種族が特定のグリフォリルを探していると知られると、何か企んでいるのかと疑われてしまわないだろうか。
探してどうする?闇の国へ連れていく?あいつはダーラムのグリフォリルだぞ?なぜそうするのか?そう問われることは必須だろう。
はぁ、と、アルスは大きくため息をついた。
「……肩身が狭いな、地界ってのは」
カップを持ちながら、キルスが呟いた。ヒトの考えを勝手に読むなよ……。
「何故と聞かれたら、王が保護を望んでいるからだと言えばいいだけだろ。正直に真実を話しても疑ってくるのか、地界の民は?」
キルスも何度か降りたことはあるが、ヒトと接したことはないらしい。そもそも街には入ったことないと言うから、そりゃそうか。
「全員がそうじゃねぇけど、一定数はいるんだよ。そういうヒトに出会わなけりゃいいんだがな……」
「あなたたちと同じように生きているだけだけど、何か文句でもある?と言いたくなっちゃうよね」
シェイドが苦笑する。本当にそれな、とアルスもキルスも頷く。そういうこともあって、地界へ降りることに躊躇してしまうが、もう仕方ない。
「……グスグス言っても仕方ねぇから、行ってくるわ」
アルスはスッと立って皿とカップをキッチンへ持っていった。そのまま置いといていいよと言われたので、ご厚意に預からせてもらう。必要なものを所持しているか確認し、兄たちに短く挨拶をして、家を出た。
アルスはまず、ヴァルボラ北部の空港に向かった。飛空挺の時刻を確認しようと掲示板を見たのだが、まさかの全便欠航で思わず目を剥いた。
飛空挺が飛べないほど地界は大騒ぎになっているのか?幸先悪くてげんなりした。
他の手段といったらグリフォリルか。空港を後にして街に戻り、グリフォリルの厩舎を訪ねた。
「すまねぇ、今、全部出払ってて。ていうか、昨日出て行ったコたちが帰って来ないんだよ」
「……みんな地界に?」
「ああ。んで今、どこの国の厩舎にいるか確認しているんだ。もうちょい待ってくれ」
「……手伝っていいなら手を貸すが」
「マジ?助かる!じゃあこれ……」
とわたされたのは、昨日の帳簿だった。厩舎担当の騎士が連絡をし、その結果をアルスがメモをする形で1頭ずつ確認していった。
「……いやマジか」
全ての幻獣の居場所を見ると、ほぼダーラムだった。アルスのメモを見て、騎士は青ざめる。
「みんなちゃんと入れてるのかな……。あそこの厩舎、一部ぶっ壊れてるらしくて。例のグリフォリルがやっちまったとか」
「アルティアが?」
「ああ、そのコ、アルティアっていうんだったっけか。頑丈な厩舎をぶっ壊すって、何があったんだろな。……あ、魔物に襲われたのか?あの蛇みたいなやつ」
ダーラムであの魔物はマズイだろ、とアルスは戦慄を覚える。いや、待て。ぐるりと高い壁で囲まれた街に魔物は入れないはずだ。……やはりダーラムに行ってみるしかないか。シェラたちなら何か知っているだろう。
帳簿を眺めていると、羽ばたく音がした。グリフォリルにしては低く重そうなそれだった。振り返ると、くすんだ赤い色の身体とオレンジ色の鬣の飛竜が着地したところだった。
「フレイ?」
「あ、アルス!」
竜騎士フレイは目を丸くしていた。
「ヴァルボラにいたなんて!どうしてここに?」
「実家に帰ってただけだが」
「じっか……アルスの故郷、ここだったの……」
「まあな。……ここには護衛でか?」
「ううん、あなたを探してたの」
何となく察しがついた。騎士は帳簿を持って「一旦退くね」と言って建物に入っていった。
「アルティアのことで話したいんだけど……」
「なんか魔物に襲われかけたのをブレスで撃退したんなら知ってるぞ」
え、とまたフレイは目を丸くする。そばのテーブルにたまたま情報誌が置いてあったのを見つけると、竜騎士はそっと手に取って記事を見始めた。
「偵察鳥って……地界の様子を見るために放たれた怪鳥なんだ……。それが偶然、アルティアの様子をとらえたと。……凄いわね、この怪鳥。いや、違う。魔物を扱う闇の種族が凄いのね」
「まだ実験段階らしい。何のためにこの怪鳥を放ってんのかは知らん。単に様子を見たいだけかもしれんが」
闇の国は不要な干渉はしない。だが、周囲の様子は把握しておきたい。……いつでも自国を守れるように。
「この映像はどこで?」と、フレイは情報誌に載っている画像を指差す。アルスはそこまではわかってねぇんだと首を横に振った。
「モントレアに来たのよ、アルティア。ダーラムに魔物の群れが行っちゃった!って叫びながら」
この時フレイは護衛の仕事があったので向かえなかったのだが、モントレアの長レントが相棒の地竜に乗って駆けて行ったそう。
「その日のうちに魔物は退治できたみたい。レントは夜遅くに帰ってきたけど、かなり疲れていた様子だったから声をかけなかったわ」
「……魔物の群れがダーラムに行ってしまった、ってアルティアは言ってたんだよな?」
「え?ええ。どうしたの?」
「いや……妙だなって。あいつのブレスで一掃できるだろ、すぐに退治できるような魔物なら。ダーラムに向かうのを見てからモントレアに行ったような言い方をしている」
「……そう言われてみるとそうね。しかも都にそれを言いに来ただけでどこかへ飛んで行っちゃったし」
「それは……魔物に追われてたからじゃねぇか?」
「あ、そっか……。ダーラムに行っちゃった魔物とは別のものに追いかけられていたってことか」
……なぜダーラムに魔物が行ったのか。
ダーラムの厩舎をアルティアが壊したらしいと、さっきの騎士が言っていた。アルティアは、魔物が自分を追いかけてくることを知っていたのか?だから力ずくで厩舎から逃げ出したのか?だったらアルティアを追いかけるはずだ。それなのに、魔物の群れはダーラムを襲った……。アルティアがいると見込んで街へ向かったのだろうか。
「まあ、ダーラムが無事ならいいんだが。それよりもアルティアが今どこにいるかだ。ほかの街になんか行ってたら、もれなく魔物が付いてくる状態だろ、たぶん」
「そうね……」
「俺はアルティアを探し出して保護するつもりでいる。王がこっちに連れてこいって」
「そう……」
「だからグリフォリルを借りて地界へ行こうとしたら、誰もいないって状況だった。……俺を探してたのは、アルティアを探すためなら、シーナに乗せてってくれると助かるんだが」
「……もちろんよ!あなたの言うとおり、一緒に探して欲しいってお願いに来たんだもの。すぐにでも行けるわよ」
「じゃあよろしく頼む」
察しの通りだった。フレイの後に続いてシーナのそばに行き、額を撫でて軽く挨拶をする。ぐぅ、と甘え声を出す飛竜に、自然と口角が少し上がる。
「で、何で俺だったんだ?」
アルスはシーナに乗りながらフレイに聞いた。ヘイレンやシェラだっているだろうに。
「……あなたしかいなかったのよ、すぐに動けるヒトが」
「ダーラムを襲った魔物にやられたのか?」
「えっと……私も詳しくは聞いてないんだけど、魔物を退治した時に怪我でもしたのかな。シェラ、入院中なの。だからヘイレンもつきっきりで」
まあ、ヘイレンは単独行動を許されてないだろうからな。アルスはそうかと頷いておいた。
「ちょっと待ってー!」
シーナに乗っていざ飛ぼうと翼を広げた瞬間に呼び止められた。先ほどの騎士が手を振りながら駆け寄ってきた。
「どうかしましたか?」
フレイが尋ねると、騎士は2、3呼吸程息を整えた。
「今さっき、アルティアの目撃情報が、ダーラムからありまして。テラ・クレベスに開いた巨大な穴の付近で、魔物と戦っていると……」
「向かってみます。ありがとうございます!」
竜騎士は短く敬礼をして、シーナを飛び立たせた。ふわりと身体が浮き上がる瞬間は、何度乗っても慣れないものだ。そう思っている間に、飛竜はあっという間にヴァルボラを、ヴィルヘルを離れて降下していった。
テラ・クレベスは、地の国アーステラと火の国ファイストの境にある巨大な渓谷。その一部は少し前に崩落し、巨大な穴ができたのだが、アルティアはその穴付近にいるという。
「穴なんてあったっけ」
フレイの記憶にないのも頷ける。あの時彼女はいなかったのだから。
「たぶん、空からだとよく見えるぞ。地盤沈下でできた穴だからな」
「えぇ!?地盤沈下……ってもしかして?」
「ああ、あいつだ」
フレイは憂いを帯びた表情を見せた。そういえば、その後あいつがどうなったのか知らないなとアルスは気づいた。
「……ラウル、その後どうなったか知ってるか?」
「いえ……。情報誌にも特に載ってなくて。ポルテニエに海が戻ってきた、干魃が無くなった、地の国の地震も治まった、ぐらいで、ラウルの話はひとつも無かったわ」
「そうか……。結局はラウルの仕業だと明記せずだった感じか」
そうね、とフレイは頷いた。平和になれば、原因はわからずとも「まあいいか」と流れていってしまうところが、地界の民の良さというか能天気というか。
天空界の域を越え、地界の空に突入する。ぬるい風に変わる。地界は暖期真っ只中のようだ。
シーナはテラ・クレベスを見つけると、高度を下げながら向かっていった。……闇に囚われ自我を失ってしまった、弓の名手ラウルが封印された場所。のちに封印は破られてしまったのだが、シェラが動きを止め、アルスがラウルの闇を吸い取った。そして、ラウル自身は相棒の半獣騎士ガロがダーラムの留置場へ連れて行ったのだが、それ以降が不明だ。
ラウルは2つの罪を犯していた。ひとつは大干魃でポルテニエに被害を与えたこと、もうひとつは彼と同族のヒトを殺害したこと……。後者の罪は極刑レベルだが、そうせざるを得なかった場合は考慮される。しかしそれでも何年、何十年と牢獄生活だろう。
「アルス、あれ!」
フレイに呼ばれて、飛竜の背中を少し移動する。フレイの隣になんとか着いて、彼女の指差す方角を見た。黒っぽいものが蠢いている。
「あれっぽいな。アルティアが見えねぇけど、埋もれてんのか?」
「シーナのブレスで一掃できそうだけど、アルティアまで丸焦げはヤバいよね」
「まあ……。でも、一発火の玉投下してみてもいいんじゃねぇか?」
それで魔物が散り、アルティアが見えたら、俺は幻獣の前に降りて鉤爪を振るってやれる。そう言うと、フレイは一瞬戸惑っていたが、「やってみましょう」と頷き、シーナに命じた。
「あの黒い集団に火の玉を放って!」
飛竜は減速して喉を鳴らした。蠢くものの形がなんとなく見える距離まで近づいていたが、相手は気づいていない様子だった。身体を起こし、口元に火を溜め込む。背中が地に対して垂直になりかける。アルスは背中の角に足をかけ、別の角をしっかりと掴んだ。
白と黄色、赤い光も交えて、シーナの口からどん!と火の玉が放たれた。反動で足元がずり落ちた。
「わっ!」
掴んだ角にぶら下がるような格好になり、やや焦ったが、シーナが体勢を戻したので落ちずにすんだ。どすん、とアルスの身体がシーナの背中に落ちた。
「大丈夫!?」
フレイが叫んだが、アルスは数回頷くことで返事をしたつもりだった。強打のあまり声が出なかっただけなのだが……。それよりも魔物はどうなったのか。
「シーナ!」
竜騎士は相棒を発進させた。短剣を鉤爪に変え、いつでも飛び降りれるように体勢を整えた。
ぎゃおーん!!
凄まじい咆哮に、シーナが頭を少し下げて怯んだ。フレイも耳を塞ぐ。
「ちょっと……アルティアこんなにうるさかったっけ?」
「今のはアルティアじゃねぇ。あいつだ!」
巨大な穴の淵に、大蛇がいた。それは、幻獣に巻きつき、締め上げているように見えた。
大蛇が突如、鎌首をこちらに向けた。翡翠色の眼が光った瞬間、シーナの右翼から鮮血が飛んだ。
『グゥ!』
シーナはバランスを崩しながら落下し始めた。見えない力が、飛竜の身体を掠めていく。
「飛び降りる!退避させろ!」
「わっ……かった!気をつけて!」
アルスはシーナの尾の付け根あたりから飛び降りた。闇の力を身体に纏い、空中を蹴った。魔力で速度を上げ、鉤爪を構えて大蛇に突進した。
前方に殴りかかるように手を突き出した。鉤爪は大蛇の柔らかそうな胴にぶすりと刺さる。渾身の力で薙ぎ払うと、鎌首が吹っ飛んだ。アルスは巻きつかれたまま穴に落ちていくアルティアの、拘束を脱していた翼を掴んだ。その途端、蛇の胴が光となって消え失せた。
「やっべ!」
アルティアにしがみつき、左手を地に翳した。ラウルが残した沈下の跡に激突する寸前に、紫の靄が地を覆った。靄はアルスとアルティアをトランポリンのごとくバウンドさせた。何度か弾んで、アルティアが先に地面に落ちた。アルスは幻獣の上に落ちた。
「いって……すまんアルティア、大丈夫か……?」
幻獣の身体をそっと触りながら、鼓動があるか確認する。胸元を押さえて目を閉じる。……どくん、と音は感じたが、今にも止まりそうな間隔だった。
目と口が半開きになっている。幻獣全体に黒い靄がかかっている。アルスは頭を上げて自分の腿に乗せた。首を撫でながら、右眼に魔力を込めると、赤く光らせた。
アルティアの心の深淵に蟠る闇を吸い上げる。ついでに大蛇の残した魔力も薄緑の湯気のように上がってきた。こいつをオーブにすれば、大蛇の『記憶』が見られるかもしれない。アルスは闇を吸い取りながら、反対の手で薄緑の湯気にも手を翳した。
薄緑の湯気は球体となって宙に浮いている。このまま勝手にできあがると踏んで、アルスは片手を下ろした。
闇が身体を痛めつけながら、消費した魔力に変換されていく。そんなよくわからない状況にいながら、アルスは闇が映し出す『記憶』にしばし見入っていた。
闇をすっかり吸い出した時、アルティアの身体がビクッと反応した。はぁー、と幻獣は長く息を吐いた。アルスはふうっと倒れ込み、幻獣の顔が腿から落ちた。
「んあ?アルス?え、ここどこ……」
アルティアは頭を上げ、上半身を前脚で支えるように起こした。薄緑の球体がぼんやりと浮いている。何だこれと見つめていたら、遠くから何かが走ってくる音が聞こえた。
逃げなきゃ。……逃げる?何に?
アルティアは混乱していた。どうして一瞬逃げようと思ったのか。そもそもオレは何から逃げていたのか、どうにも思い出せなかった。
「あるぅー!」
オレを呼ぶ声がした。これは……フレイだ!足音の主は、彼女が乗っている地竜だった。地竜はもうひとり、がたいの良い男を乗せていた。
地竜は躊躇なく崖から飛び降りると、アルティアと3馬身程の距離でふたりを降ろした。というか、着地の弾みでふたりを吹っ飛ばした。それでもふたりとも竜騎士だけあって、何事もなかったかのように華麗に着地して、こちらに駆け寄ってきた。
「アル、大丈夫?」
たぶん、オレのことだろうけど、そばで倒れているジンブツも『アル』なんだよな……。
「オレは……なんか身体が痛くて動きたくないキブンだな。そっちのアルは、何で倒れてんだ?」
あっ、とフレイは口を手で覆った。そういやどっちもアルじゃねぇか、ともうひとりが呟いた。
「……アルスは……生きてるな。おい、大丈夫か?」
「ん……」
アルスはゆっくり目を開けた。レントの姿を認めると、身体を起こそうとした。手が震えている。自力で起き上がれそうになかったのか、レントが助けていた。
「ちと熱いぞ」
レントがごく自然に手の甲をアルスの首に当てたのだが、ビクッと反応して、硬直した。それに気づいているのかいないのか、レントは「んー」と小さく声を出しつつ手を離し、全身を窺った。
「怪我は無さそうだな?病み上がりか?」
「……違ぇよ」
「あ、そう。じゃあ悪いけど、もう少し放っといていいか?先にアルティアを……」
「保護して」
「あ?」
「ヴィルヘルで……王が、待ってる」
どう言うことかとレントは考えを巡らせたが、単純にアルティアを魔物から守るためかと至った時、頭上から咆哮が降ってきた。
「えぇ……まだ来んの?」
アルティアがため息をついた。どうやら魔物の群れがこちらに向かってこようとしているらしい。
「オレ……もう疲れたよ。動きたくねぇ」
「ならここにいろ。俺が一掃してきてやる。フレイ、いけるか?」
「ええ」
レントはアルスを一瞥した。どうやらもう少しだけうずくまっていたいのだろう、ゆっくり身体を倒していった。レントは小さくため息をついた。
「……アルス、俺たちが取りこぼした魔物、こっちに降りてくるだろうから、何とかしてくれるか?」
ややあって、アルスはもそもそと動いた。片目を開けて、レントに向かって小さく頷いた。よし、とレントも軽く頷くと、アルティアの首元をひと撫でしてから、フレイと巨大な穴から脱出した。




