エピローグ
マリーゴールドは、教会に保護された当初、殆どを寝て過ごした。起き上がることが出来ないほどだったからだ。
柔らかい白パンで作るパン粥を少量ずつ食べて、それから固形の物も食べて肉も魚も野菜も口に出来るようになったのは、数ヶ月経ってから。
それから体力や筋力を付けるために動くことになって、一年経つとようやく、身体つきがガリガリから脱した。
侯爵は保護されたマリーゴールドを嫡男と、表向き病ということにしてあるレドバドとを連れて見に行った。保護されて直ぐの頃である。
レドバドは、自分が閉じ込められているのはマリーゴールドの所為だと信じて疑っていなかったが。
痩せ細り死にそうなマリーゴールドを目にして、恨み言を吐き出すことも忘れた。
なぜ、こんな姿なのか、ようやく疑問に思った。
そこで改めて、侯爵からマリーゴールドのことを聞かされて、自分が愚かだったことにようやく気づいた。だから、病ということにされて、屋敷内で軟禁されていることも。
オダマキが伯爵令嬢ではないこともここで理解し、それどころか、唯一の伯爵家の血筋を引いているマリーゴールドを蔑ろにしていることも理解した。
ようやく、自分を病ということにして、飼い殺しにしようとした父親の考えを理解した。自分は、伯爵家の血筋も引かない娘と結婚して、伯爵家を継ぐ、と言いかけたのだ。
それは、伯爵家の乗っ取りでしかない。
血筋の大切さをレドバドでも理解していた。
だから、その結果である飼い殺しを受け入れるしかなかった。
侯爵はその後も一人で時折マリーゴールドの様子を見に来ていた。
マリーゴールドがようやく、人並みとはいかなくても成長してきたのを見て、少し安心した。
一年が過ぎた頃に、侯爵はマリーゴールドに、両親の死の真相を知っているか尋ねた。
マリーゴールドは淡々と、両親が死に至った経緯を話して、侯爵は愕然とした。もう十二歳を迎えるマリーゴールド。両親を亡くしてから四年が経っていた。
八歳で壮絶な両親の死を目の当たりにし、更には虐げられてきたのに、それでも生きていることに、侯爵はマリーゴールドの生命力の強さを知った。
一年経っても変わらない、失望をその目に宿したまま。
この頃から伯爵家の当主代理人が、王城へ何度も訴えていることが増えた。
内容は「ただの」子爵でしかないマリーゴールドの伯父が、何度も領地にいる領民の税を上げろ、とか領地で使用する予定の金で余っている分を寄越せ、とかそのような暴言を吐く。というもの。
代理人は領地から王城へ赴くついでに伯爵家に行って、子爵に忠告することと共に、マリーゴールドの安否を確認したいと伝えているのに関わらず、いつも調子が悪くてとか、出掛けているとか、不在だと言うばかり。
暴言は吐くものの、さすがに国王陛下から遣わされている代理人に暴力を振るえば問題であることが分かっているのか、それは無い。
だが、何度も何度も伯爵家はカレンデュラ、つまりマリーゴールドの母親の血筋なので、婿入りした父親の兄である「ただの」子爵には何の関係も無いのだ、と説明しているのに。
そんなことはおかしい。自分はマリーゴールドの伯父だから伯爵家や伯爵位の領地や領民に口出しする権利はある、と言って譲らない。
法律で認められていると言っているのに、自分が罰せられることは無い。だからこうして今もここにいるのだ、とやはり聞き入れない。
その繰り返しに疲弊して、王城へ何度も訴えて伯父一家をなんとかして欲しい、と言っていた。
だが、さすがにちょっと言っていることがおかしいくらいでは、調査対象にならない。
他に訴えて来る者が居ればいいが、マリーゴールドも訴えていないから、と訴えが退けられる。
証拠も無いから余計なのかもしれない。そこで代理人は証拠集めをするべく、伯爵家の使用人たちに声をかけることにした。
最初は頑なだった使用人たち。子爵一家に気付かれないように、けれど何度も何度も声をかけて気持ちを解きほぐして。
そうしてさらに一年後には伯爵家の使用人たちの証言が集まった。
そうして再度訴えたものの、証言だけではなく物的証拠も欲しい、ということを言われ。
抑々代理人は国王陛下から遣わされているのに、理不尽な発言で責められている。それなのに訴えたら、一人だけの訴えでは……と退けられる。
証言者を集めても物的証拠が……などと言い出す。
そんなことならもう代理人を辞めてもいいのではないか、と伝えたら、途端に宥められてしまう。
子爵一家を何とかしてくれるのなら、と渋々引き退っていた。
重い腰を上げた王城側は、代理人が伯爵家の使用人たちに尋ねた子爵一家のことを確認していくことに。その過程でマリーゴールドへの所業も明らかにされていく。更にはマリーゴールドの両親の死に関しても関わっているのではないか。
そんな疑問も浮かび上がった。
これは慎重に調べないとならない案件で、同時に侯爵からマリーゴールドによって聞いた話を内密、と言う条件で聞かされた話は、酷いものだった。
だが、内容が内容だけに証拠も無しに決定は出せないということから証拠集めに時間をかけた。
そこから一年半ほどで、当時マリーゴールドの護衛を侯爵から仰せつかったが、大きな失敗となって護衛を外された二人を見つけた。
そして睡眠薬入りの酒を飲んでしまったことを認めた。
勤務中に、とは思うもののもう過ぎたことである。ただこれでもまだ証拠としては弱い。マリーゴールドの話から察するに、他の誰も伯爵夫妻の件は知らないだろう。残るは、自白だ。
この時、見た目は栄養が行き渡ったことで、身長も伸びて髪も肌も身体つきも健康そうになったマリーゴールドは、十五歳。
相変わらず目は失望のまま。何も楽しみが無いからだろう。だが、助かってしまったからには、まだ生きようとは思っているらしかった。
国王陛下から遣わされた代理人の方が限界に近かったので、代理人の変更が為されていた。……異例のことである。長期に亘ることの多い代理人業務は、それゆえに給金はかなり多く支払われるし、国王陛下から選ばれたこと、そのものが箔付けになるのだから。
金や箔付けより、自分の心身の健やかさが大切だ、と判断出来たのは良かったのかもしれない。
つまり、子爵はそれほど酷い人間だ、ということの証左でもあった。
国王陛下は、最初の代理人から子爵について色々と話して欲しいと頼めば、殆どが愚痴や文句だが、どう聞いても子爵という立場にあるような人物には思えなかった。
人の話を聞かない。思い込みが激しい。法律や常識を知らない。抑々まともな教育を受けているのか、というレベルで、酷いものだった。
こうなると、マリーゴールドの両親、特に父親の方は、あまりにも酷い人間が身内に居たということだろう。マリーゴールドの母方の祖父母は、そんな人間が婿入りする男の兄に居るとは、さすがに思っていなかったに違いない。不運だった、としか言いようが無いが、そんな一言で簡単に済ませられるものでも無いのも確か。
それと、最初の代理人からの愚痴や文句を聞いていくに連れ、子爵であって伯爵位の仕事に口を出せる立場では無いにも関わらず、アレコレと言っている。
最初に代理人から訴えられた時には、そんな常識知らずが居るとは……国王陛下を筆頭に王城に勤める者たちは思っていなかったので、大げさに話しているのだろうと思っていたくらいだった。
改めて聞けばそうじゃないことが分かる。
税を上げろ、だの、領地で使用した金の余りを寄越せ、だの。
ただの子爵、ただの養育人が、過ぎた口出しだ。
何の権限も無いのに。
子爵位の褫爵。
国王陛下や国の中枢に居た者たちは、それを念頭に置いて話し合いを始めた。
マリーゴールドは十六歳を迎えていた。
そこから、伯爵位をどうするのか、という話にも及んだ。そんな子爵が身内に居たことを、マリーゴールドの両親は気づいていながら排除出来なかった。
それは、伯爵という位を与えられた家としては、危機管理能力が低かったのでは無いか、という議論にも発展。
とはいえ、既に亡くなってしまっている夫妻。多少の落ち度があっても、それをアレコレ論っても仕方ない。そのように庇う者も居る。
そんな議論が始まった、ということがマリーゴールドの耳に入ったのは、侯爵の代わりに様子を見に来たレドバドの兄で侯爵家嫡男が、伝えに来たからだった。
正直なところ、そんな話を聞かされてもマリーゴールドとしては、他人事というか、どうしろと言うのだという投げやりな気持ちでしかない。
だが、嫡男の「伯爵位をどうしたいのか、と言うのは、跡取りである君だから決められることじゃないかな」という言葉は、八歳までとはいえ、跡取りとして両親に育てられてきたマリーゴールドにとって、考えさせられるものだった。
直ぐに伯爵位や家や領地について、決まるとも思えないからじっくり考えても良いと思う、と言い置いて去って行く嫡男の姿を見送りながら。
同じ侯爵の子息なのに、随分と違うのだな、せめてこれくらいまともな人が婚約者だったら良かった。
少しだけ、そのように感傷的になった。
それから国の中枢で色々な話し合いが行われて行く中で、マリーゴールドは十八歳を迎える歳になった。
侯爵は、マリーゴールドが身を寄せている教会へ足を向けた。マリーゴールドから会いたい、と初めて連絡が来たことが、変化が起こるとも思った。
国王陛下が、マリーゴールド自身は何を考えているのか知りたい、という意向もあって。その申し入れを受け入れた。
「お忙しい侯爵閣下をお呼び立てしまして、失礼いたしました」
謝罪を続ける。それに「許そう」と簡単に口にした侯爵は、マリーゴールドが何を言い出すのか、先を促した。
「侯爵閣下にお頼みしたいことがございます。……我が伯爵家の爵位返上並びに、伯爵領返還の手続きに協力頂きたいのです。それが難しいことでしたら、爵位と領地を侯爵閣下に譲渡する手続きをして頂きたい。いかがでしょう」
侯爵と呼ばれた男は、予想を上回る話に、目を見開き暫し考える。
「降爵される、と知っていたのか」
「いえ。降爵の罰ではなく褫爵の罰ではないか、と」
侯爵の問いにマリーゴールドは、即答する。
侯爵は、その聡明さに何も手助け出来なかったことを悔やむ。
同時に、実は父親と共に教会を訪れていたレドバドは、話し合いに口出ししないつもりだったのに、つい口出しをしてしまった。
「なぜ、なぜ、伯爵位を返上などと……。君の正当な権利で正統な血筋の君なのに。せめて、私に一言。いや、婚約破棄を申し出た私では無理でも父上に相談でもすればよかったのではないのか? 君一人で決断するなんて」
初めて会った時から十年。
なんだかマトモなことを言っているな、とマリーゴールドは思ったが、それだけだった。そしてレドバドの言葉に少しだけ首を傾げてから。
「どうして、私が信じられるとお思いで? あなた様のことも、侯爵様のことも、誰のことも信じられるわけがないでしょう」
確かに侯爵はマリーゴールドを教会に連れてきた。だが、レドバドの裏切りを起こすような愚かさには、もっと早く気づいてほしかったと思うし、信じられるだけの関係を紡げていたわけじゃない。
レドバドに関しては言わずもがな。
レドバドは、絶句したが、それは少なからず、マリーゴールドの中で信用できる相手になっている、と勝手に思っていた侯爵にも言えた。
でもマリーゴールドの中では、誰も信用できる相手では無い。それこそが、彼女の目が失望のままである理由なのだろう。
ややしてから侯爵は、マリーゴールドの願いを受け止め、国王陛下に奏上。国王陛下は頷き、返上を認めた。
子爵は、この決定を受けて一家で伯爵家から立ち退きを命じられ、それでも動かないので強制的に追い出される。
着の身着のままで金も持たせてもらえない。それどころか、マリーゴールドの養育をしなくてはならないのに、マリーゴールドに使用されていなかった、と調べで判明してしまったので、子爵が持っていた金目の物は取り上げられた。夫人や令嬢の装飾品やドレスももちろんのこと。
そして、子爵位も褫爵という形で取り上げられたので、一家は貴族ではなくなり、平民の身分となった。これに猛烈に反発した三人が、元子爵たちを追い出した国王陛下の意向を受けた人物に、暴言を吐いたことから、国王陛下に反逆したのと同じこと、と判断されて王都から追放された。
伯爵領地は、返上されたことから国王陛下預かりとなっているため、元子爵一家が行けることは無い。王領も同様で、高位貴族の領地には既に元子爵一家のやらかしは噂されていたので、彼等が現れると即追い出した。
そんなわけで、元子爵一家はシャスタデイジー国の国境付近に追いやられ、平民としてなんとか肩を寄せ合って生きて行くことになった。
終始、なぜ自分たちがこんな目に……と言い続け、死ぬまで自分たちの行いの所為だとは分からないままだったらしい。
侯爵夫人も死ぬまで領地幽閉だったが、割と早くに自分が悪かったことに気づいた夫人は、領地生活を思いの外満喫して生涯を終えたという。
侯爵はそれなりに手腕を奮ってある程度のところで嫡男に爵位を譲り、病に罹っている次男の面倒を見るため、と言って領地に引っ込んで領地にある侯爵邸にて死ぬまで仕事をしたとか。
レドバドは、生涯飼い殺しの運命を粛々と受け入れて、独り身を貫いたまま、兄を陰ながら支える人生を送った。
その心に元婚約者への後悔が常にあったらしいが、当然ながら元婚約者に、その思いは届いていない。
侯爵家嫡男は、父から侯爵位を授かったときも、婚約者と結婚したときも、侯爵として決断に迷ったときも、痩せこけて死ぬ寸前だったのに、令嬢としての誇りで立っていたマリーゴールドの花の名前を持つ少女の姿を心に思い浮かべて、自分も彼女のように凛とした姿で立てるよう願いながら生涯を歩んだ。
そして。
マリーゴールドの花の名前を持ったオレンジ色の髪と目をした少女は、伯爵位を返上したことから平民に身分を移していて、そのまま教会にてシスターになって生涯をフロラ神に捧げて生きたという。但し、子どもの頃に過酷な半生を送った影響なのか、違うのか、分からないことだが、三十歳の誕生日を迎える前に静かに息を引き取ったとも言われるが、教会内部のことは外に出ることは殆ど無いため、あくまでも噂でしか無い。
(了)
お読みいただきまして、ありがとうございました。
これにて完結です。
ハッピーエンドでは無いし、ざまぁというより、まぁそうなるよね程度の人生を終えていく人たちが多いし、恋愛要素は皆無だし、異世界だけどファンタジー色も無いので、ジャンル「その他」にしてあります。
理不尽な目に遭ったんだから絶対幸せ、というのも物語だから有りなんですけど、早々ハッピーエンドで終わるというのも無いことだって世の中ですので、ということで。