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突然の訪問に対して非礼を述べて、兄は御者に命じて馬車を立たせる。兄も帰ろうとしたところで、オダマキが話しかけてきた。
「ねぇ、レドバドのお兄さまぁ、レドバド様が、マリーゴールドと婚約破棄してぇ、私と結婚するって言ってたからぁ、私とレドバド様がぁ結婚すること、侯爵家で認めてくれたんですよねぇ?」
話し方はバカっぽいが、内容は完全にレドバドの失言を聞いていた。
「いや。侯爵家では認めていない。跡取りの私が言うのだから確かだ。そして、二人の婚約は国王陛下が認めたものだから、レドバドが婚約破棄だと口にしたとしても、国王陛下が認めていないから無効だ。というか、このことが国王陛下に知られたら、国王陛下が認めていないのに婚約破棄などと言ったことで、我が侯爵家にも、それを聞いて喜んでいたのならあなたにも、国王陛下からお咎めがあるかもしれないな」
オダマキは、顔色をサッと変えて「嘘っ」と叫ぶので、嫡男は肩を竦めてみせた。
それだけでオダマキは、もしかして本当に? と焦る。
この遣り取りの間に、マリーゴールドは居なくなっていて、嫡男は何も出来ない無力な自分を悔やんだ。
「知らないっ! 私、知らないっ。聞いてない!」
「そうですね。お互い、今のレドバドの話は知らないことにしましょう。レドバドはここに来なかった。いいですね?」
嫡男がオダマキに念押しすれば、高速で首を縦に振る。どうやらこれで今のレドバドの発言は無かったことに出来た、と判断して嫡男は馬に乗って侯爵家へ帰還した。
直ぐに侯爵へ報告し、侯爵家で行われる祝いの夜会の準備で忙しいが、侯爵はそれどころじゃない、と判断して、お抱え医者にレドバドに睡眠薬を盛るように指示した。
常に睡眠薬を飲ませて、起き上がれないことにし、良い機会だ、と、一ヶ月後に行う予定の、侯爵の出世祝いの夜会で、それとなくレドバドが病に罹ったことを広めることにした。
大々的に病と言うのではなく、尋ねられれば病に罹り、と説明するが、それだけで噂はあっという間に広がるだろう。
この夜会に伯爵令嬢であるマリーゴールドを招待するのは当然だが、マリーゴールドは病で欠席。その代わり、伯父の子爵夫妻と令嬢が出席する、と返事が来ている。
嫡男の報告と、以前のレドバドの従者と護衛の報告から、マリーゴールドはギリギリのところで生かされている、と判断して、レドバド付きだった従者と護衛に、夜会の日に乗じてマリーゴールドを救い出せ、と命じた。
従者も護衛もマリーゴールドのあんな姿を見ているから、その命令は直ぐに受け入れた。
だが、侯爵家に匿うわけにもいかない。
だから侯爵は子爵である伯父が手を出せない、王家縁の教会に匿ってもらうことにした。
先代国王陛下の歳の離れた弟が教会のトップにいる教会なので、並の貴族が迂闊に手を出せるようなところでは無いのである。
侯爵家で密かにそのような命令が出されていたのと時を同じくして。
マリーゴールドは、疲れていた。
もう、死ぬまで時間の問題かと思っていた。
婚約者と会うためだけに、最低限の食事を取らされてはいるが、本当に必要最低限のみ。
何しろ具なしのスープと固い黒パンのみ。その黒パンだって大きさで言えば、大人の片手ではなく五歳くらいの子どもの片手くらいのもの。
肉も魚も野菜も無い食事で栄養が行き渡るわけがない。お腹が満たされることすら無い。
幸いにも、伯爵の領地経営や伯爵位に付随する執務は、王家から遣わされた代理人が行ってくれているからそちらでトラブルは起きていない。領民に負担が無いことだけが救いか。
伯爵家の当主代理人が来たところで、当主代理が持てる印章を使用して執務は行ってもらえる。既に伯父は居座っていたが、当主代理権が無いことを知った伯父に嫌がらせを受けた代理人は、伯爵領地へ向かい、そちらで仕事をしている。
おかげで伯父は癇癪を起こしたが、当主だけが持てる当主印章は伯父では分からないところに隠してあるので、使用されることも無いから伯爵位の当主が行う仕事に影響は全く無い。
尚、隠し場所は伯父も勝手に入った伯爵当主の執務室だが、執務机の仕掛け引き出しに入っているから、散々探し回って、いや、荒らしまわっても見つからなくて癇癪を起こしていたことも、伯爵家に乗り込んで来た当初はあった。
仕掛け引き出しであることも気づいてなさそうだったが、仕掛け引き出しの解除方法は、執事すら知らない。当主と跡取り……つまりマリーゴールドだけが知っている。
だから、マリーゴールドが死んでも伯父が伯爵位を継承して伯爵になることは絶対に有り得ない。
尤もマリーゴールドが死んだ時点で、伯爵位は取り上げられるから印章も何も意味は為さないが。
たった十一年で、生きることより死ぬことの方がいいと投げやりな気持ちになっているマリーゴールド。
実際現状では生きたい希望など無いだろうし、死は身近なものでもある。
何しろ、先程婚約破棄だとか宣った婚約者を迎えるためだけに外へ出たが、身体がフラついて疲れやすくなっている。ただそれだけしか動いてないのに。
それに。
侯爵がどう思っていようと、婚約者が婚約破棄を言い出したことで、もう希望も見えないとも思った。
婚約者に情があったわけじゃない。
恋情も友情も尊敬も敬愛も親愛も何もない。
信頼も信用も寄せてない。
一応の婚約者であるマリーゴールドよりも従姉妹のオダマキを優先している時点で、情など生まれるはずもないし、自分のことを嫌っていることは気づいていたので尚更情など湧き上がらない。
それでも。
婚約者に決まった理由をきちんと理解して、マリーゴールドの味方になってくれる時が来るかもしれないという淡い、爪程の淡い期待があった。
吹けば飛ぶくらい軽いものだとしても、婚約者なのだからもしかして……と。
結果として、婚約破棄だ、などと言い出したが。
微かな、本当に微かなものだとしても期待してしまっただけに裏切られた気持ちになった。
マリーゴールドを見ているのに、オダマキを優先してオダマキを選ぼうとした婚約者。
微かでも期待するべきではなかった。
期待しなければ、裏切られた、なんて思わなかったのに。
婚約者の兄とかいう人が現れて婚約破棄を宣言している途中で、婚約者の口を封じて婚約者を連れて帰って行ったけれど。
婚約者が出会った頃から婚約の意図を理解していないことは分かっていたけれど、三年経ってもまるで理解しないどころか、婚約破棄を言い出すくらいなら、もう期待なんてしないし、希望なんて持たない方がいい。
栄養が行き渡らないからなのか、成長もおそらく止まっている。身長があまり伸びないのがその証拠。
それに起きていることがもう疲れてしまうほど、辛い。直ぐに横になるのは身体が疲れてしまうことを避けるためだけど、起きるだけの体力が無いことも関係している。
起き上がるだけで息切れをしてしまう。
気力を振り絞っているようなものだから。
僅かな期待も裏切られて失った今、死んでもいいかな、としか思えない。
そんなことを思いながら目を閉じる。
明日は呼吸が止まっているのかしら。
どこか他人事のようにそんなことまで考えて。
それからおよそ一ヶ月。
生きてしまっているので、一応食事にありつく。
死んでもいいとか思うくせに、お腹が空いて、お腹が空くから具なしでもスープを飲み、小さくても固い黒パンを口にしてしまう。
死んでもいいと思いながら、どこかで死にたくないと思っているかのような自分の行動に自嘲する。
そうして、食事をする事すら疲れてしまうほど、身体を起こしているのが辛いマリーゴールドが、明日こそは目を覚ましませんように、と思いながら目を閉じて直ぐ。
身体がふっと浮いた気がして、薄く目を開ける。
顔はよく分からない。最近、目があまりよく見えなくなってきているから。
一瞬、死者のお迎えか、と考えたけれど、よく分からない。
「もし……わたし、を、さらう、つもり……なら。おかね、はらってもらえない、から、やめたほうがいい」
死んでいたら、誘拐の可能性なんて無いだろうけれど、もし万が一誘拐だったら、と思ってそんなことを口にする。
たったそれだけを口にするのに、掠れた声を出したせいなのか、喉はひきつるし、咳き込むし、酷く体力を消耗して疲れた。
「違います。お金じゃなくて。あなたを教会に連れて行く仕事です」
かなり低くて力強い男性の声に、そして耳元で小さな声で囁かれた言葉に、よく分からない、と呟いてマリーゴールドは意識を手放した。
「寝たのか」
「いや、意識を失った」
マリーゴールドを抱き上げたのは、侯爵から命じられ護衛。こんな状況で寝たのか、と少し呆れた声は従者。護衛の否定に、従者は顔を引き締めた。意識を失ったということは、命が危ういということではないのか、と。
伯爵家の使用人は、マリーゴールドを居ない存在として扱っているようで、数日前に侯爵の遣いと言って伯爵家に入り込んだ際、子爵一家には当たり前のように仕えていても、マリーゴールドの世話などは全くしている感じではなくて、憤りを覚えた。
伯爵家の使用人は、子爵一家が乗り込んで来て早々に執事と侍女長に暴力を振るい、使用人たちの心を折っているから、反抗する気持ちも無いし、マリーゴールドの世話を最低限にするだけで、暴力を振るわれないのだから、皆、楽な方に流されて、現状に至っているが、そんなことは侯爵家の従者も護衛も知る由も無いので、伯爵家の使用人たちに憤っていた。
そうして今夜。
侯爵家の夜会に出かけたマリーゴールドの伯父である子爵一家の隙をついて、使用人たちに見つからないように身を潜めながら、侯爵家用の従者と護衛は、マリーゴールドの身体を確保して教会へ連れて行った。
侯爵から事情を聞いていた教会側は、マリーゴールドのあまりにも痛ましい姿に目を伏せてから、匿うことにした。どちらかと言うと身の安全の確保だが。
そうして、マリーゴールドはギリギリのところで命が救われた。
伯父である子爵はマリーゴールドが居ないことに気づいて、躍起になって探そうとしたが。あまりにも騒ぎ立てて自らが疑われるのも嫌だったため、止めた。
本来なら、これで養育すべきマリーゴールドが居なくなったことで子爵一家は出て行かなくてはならないのだが。
伯爵家の使用人たちは心を折られているから追い出す気にならず。
伯爵当主代理人は、伯爵領地のためにこのことを知らず。また、代理人は子爵から知らせを受けることも当然無く。
誰も子爵一家を追い出すことが出来なかった。
伯爵位の仕事は出来ないながらも、伯爵家にマリーゴールドは居ないから、完全に伯父である子爵一家が乗っ取ったことに。
マリーゴールドが居なくなった分だけ金が浮いたことで、子爵一家はその分だけ更に贅沢をした。