第95話 闇玉迷宮
「まさか、こんな通路があるなんて……どおりで金証の人たちを、街では一度も見かけなかったわけだ」
年末でにぎわう大通りを歩くものとばかり思っていた俺たちは、バックス辺境伯邸とギルドの地下を結ぶ、秘密の通路を進んでいた。
苔むした石壁と、魔石灯がぼんやりと照らす湿った石畳――足音だけがやけに響き、背筋に冷たいものが走る。
やがて、通路の終わりが見え、ギルドの地下に辿り着いたとき、先頭を歩いていたセカルズが立ち止まり、俺たちへと振り返った。
「よし、ここから先は【闇玉】迷宮だ――レオ、リン。一層の最初の部屋はお前たち二人だけで戦ってもらう。どれほどの力を持っているか……今度は俺たちが見極めたい」
やっぱりそう来るか。
彼らにとって、俺とリンの実力は未知数。
それに、今朝は俺が彼らを値踏みしたばかり――逆の立場になったのも無理はない。
「承知しました。ひとつ伺いたいのですが、どんな魔物が待ち受けているのでしょう?」
「一層はレッサーサーペントを中心に、蛇系の魔物ばかりだ」
「……情報感謝します。それでは戦闘準備に取り掛かります」
そう言い残し、俺は一歩下がって皆から距離を取り、息を整える。
指先に意識を集中させ、手のひらを軽く突き出す。まるでジャグリングの開始を告げる合図のように――。
「**【治癒球】**!」
次の瞬間、片手には淡く輝く【治癒】の魔法陣、もう片手には蒼光を帯びた【水撃】の魔法陣が同時に浮かび上がった。
二つの魔法陣から出現した白い球が俺の背後に浮かぶ。
「なっ……!? 魔法陣を、二つ同時に……だとッ!?」
セカルズの驚愕の声が響く。
他の者たちも一様に息を呑み、目を見開いて俺の手元を凝視していた――だが、これで終わりではない。
「**【解毒球】**!」
【解毒】を織り込んだ、浄化の球だ。
魔法陣を同時に描けるようになったのはごく最近のこと。【範囲治癒】と【海嘯】を習得してからだ。おそらく、対象属性の第四位階魔法を覚えていなければ、この芸当は不可能だったのだろう。
その証拠に――【雷球】を発現させるときには、まだ同時に魔法陣を描くことができない。
もっとも、【ストック】を持つ俺にとっては、発現速度の差など大きな意味を持たない。だが、実力を示す演出としては、これ以上ない切り札だ。
もちろん、全てをさらすつもりはない。
この場の誰かが、ファスクを殺した犯人――対峙する可能性がある。ギルドに習得魔法を申告していない以上、俺がどんな手札を持っているかを知るのは、リンただ一人で十分だ。
【治癒球】、【解毒球】、【雷球】――
三つの球が、俺の周囲で静かに軌道を描く。
未だ目を見開いたままのセカルズへ、軽く顎をしゃくって告げる。
「俺の準備は、整いました――行きましょう」
「え? あ、ああ……わ、分かった! では――進むぞ!」
俺の背後に浮かぶ球を一瞥して、セカルズが小さくうなずく。彼の手が迷宮の扉にかかり、鈍い音と共にゆっくりと開かれた。
一層は、見慣れた迷宮と大差ない――ただ、黒光りする壁面だけがわずかな反射光を返し、頼りない明滅で周囲を浮かび上がらせている。空気は湿り、視界はひどく悪い。
「**【火撃】**」
火球をリンの頭上に生み出し、ほのかな橙の光を放つ。
「【光明】」
さらに自分の周囲を照らす光を呼び、暗闇を押し返す。
「火、水、雷、聖……まさしく虹魔法師の名にふさわしい……」
背後でセカルズが、感嘆と畏れを半ばにした声を漏らす。しかし、まだ終わりではない。部屋の入り口まで進み、俺は掌を前方へとかざした。
「**【風詠】**」
魔力を帯びた風が、部屋の奥深くへと滑り込む。
「う、嘘だろ!? 第三位階魔法を一瞬で……!? それも、風魔法師のフェイルよりも大きく精微だと!?」
背後で誰かが、興奮を隠せないまま叫んだ。四つの球を浮かべるよりも、これの方が驚かれるのか――そう思いながらも、俺自身、風の反響が告げる情報に目を見張る。
「リン、魔物の数はかなり多い。次の部屋、地面一面に蠢いている……十や二十じゃきかない。注意してくれ」
「了解した。いい練習になりそうだ。レオは私の後ろに下がってくれ」
素直に一歩、後ろへ下がったその瞬間――背後からひそひそと囁きがもれる。
「まさか、女一人に任せるつもりか?」
「あの顔と身体に傷でもついたら、目も当てられんぞ……」
さらに、聞き覚えのある声が混じった。
「リンが怪我したら、俺が毒をぜんぶ吸い出してやるか……」
サーディスだ――どうしたらそんな発想になるんだよ。
だが、リンはそんな雑音など聞こえないかのように、静かに左手を前へとかざす。
「【誘惑】」
淡く桜色の光がほころび、空中に一筆一筆、丁寧に魔法陣が描かれていく。四重に重なったハート形の魔法陣が完成した瞬間――ピンクの光条が波紋のように部屋を駆け抜けた。
それを合図に、床を埋め尽くす蛇たちが一斉に身をくねらせ、大口を開けてリンへと襲いかかってくる。
中には、体長五メートルを優に超え、胴回りも五十……いや、六十センチ以上ある個体さえいた。それでも、リンの瞳には一片の揺らぎもない。
翼竜剣が鞘から抜かれる――白刃が空気を裂く音とともに、巨蛇たちの首が角切りに断たれた。斬撃は正確無比、無駄も容赦もない。
それでも刀身は、あの桜光を纏うことはない。
犯人を突き止めるまでは、追い詰められぬ限り本当の力を見せない――故に花舞剣流は使わない。それが、俺とリンが交わした約束だ。
それでも、彼女の一閃は十分に力を示していた。
「な、なんだ……? あの第四位階魔法は……?」
「……おい、間違いなく俺たちの領域だよな……」
「まさか、彼女……あの剣技で魔法師なのか?」
視線は誰もが俺ではなく、リンに釘付けになっている。
桜色の誘惑をすり抜けた数匹の蛇に、俺は【雷球】をばら撒いた。稲光が迷宮を照らし、蛇たちが痙攣して床に沈む――その一瞬を逃さず、リンの白刃が閃き、切っ先が次々と魔物を仕留めていく。
結果、息つく間もなく部屋は静寂を取り戻した。討伐はあっという間の完了だった。
「どうでしょうか――これが、僕たちの戦い方です。ご納得いただけましたか?」
出番を与えられなかった【治癒球】と【解毒球】を、掌の上で遊ばせるように操りながら問う。
セカルズは短く息をつき、低く答えた。
「……ああ――さすが、父上が選んだ者たちだ」
だがその視線は、最後までリンから離れなかった。
他の金証冒険者たちもまた、彼女を値踏みするような視線を送っている。
もっとも、彼らの実力はやはり伊達ではなかった。
次の部屋ではセカルズのパーティが、続く部屋ではサーディスの一団が前へ出る。 どちらも見事な連携と判断力で、蛇の群れを一瞬にして切り伏せる。その動きは鋭く、無駄がなく、剣筋一つとっても淀みない。
――剣の技量において、彼らは間違いなく俺より数段上だ。
しかも、恐ろしいことに――まだ誰一人として本気を見せていない。それは、表情や体捌きからも明らかだった。
十時間にも及ぶ行軍の末、ようやく本日の休息地点へと辿り着く。
全員がようやくといった表情でテントを張り始める。
そんな折、一人の女性がリンに声をかけた。
「……湯浴び、したくない? 二か月間、毎日入れて大銀貨三枚。もちろん覗きは徹底的に防ぐし、男は立ち入り禁止。清潔さは保証する」
フォルランが雇った金証魔法師――セイラだ。
二か月で大銀貨三枚。通常なら暴利もいいところだが、汗と血と埃にまみれるこの状況では、むしろ安くさえ感じてしまう絶妙な価格設定だった。
さらに彼女は、唇に笑みを浮かべて畳みかける。
「寝床も私たちのテントでどう? 大銀貨三枚。男たちに襲われる心配は一切なくなる。両方まとめてなら大銀貨五枚でいい。おまけに、怪我をしたときの治療費も割引してあげる。シャルロットとロザリアも一緒よ」
シャルロットというのはサーディスが雇った冒険者だから、ロザリアというのはフィオージのところの茶髪の女冒険者か。
にしても、この女――完全に商売の匂いを嗅ぎつけてやがる。
けれど、同時にこれをきっかけに彼女たちと打ち解けるチャンスでもある。
「リン、甘えてみればどうだ?」
俺は迷わず大銀貨三枚を取り出してセイラに渡す。
もちろん、湯浴びを済ませても、最後に【洗濯】を唱えるつもりだ。俺のためにもな。
「うむ、では湯浴びだけ頼もう。準備が整い次第、すぐに向かおう。よろしく頼む、セイラ殿」
彼女の背を送った直後、次の来客が現れた。
「レオ、知っていると思うが……通路にも毒蛇は出る。そのため、周囲に酒を撒く。手を貸してくれ」
現れたのはライゼルだ。
俺は「もちろん知っている」とでも言うように頷き、彼の動きに合わせて酒を撒いていく。
蛇は地を這う生き物。アルコールを染み込ませておけば、体表から浸み込み、動きが鈍る――そう語り継がれてきた知恵らしい。
ただ、用意した酒は度数が高い。揮発して効力を失わないかという不安は拭えない。それでも、長年この迷宮を生き延びてきた先人たちが編み出した術だ。疑うより、まずは従ってみるべきだろう。
指定されたとおりに酒を撒き終えると、次は警備の話。
今日はセカルズのパーティが警備を担当してくれるらしいが、明日からは俺が指示を出せとのこと。セカルズが号令をかけると反発が起きると踏んでいるらしい。
お世辞にも良好な兄弟関係には見えないからな。
ライゼルと話し合いを終えると――リンが戻ってきた。
湯浴びを終えた彼女からは、柔らかく甘いフローラルの香りが漂い、疲れた心身をそっと和らげてくれる。
俺はリンと共に【洗濯】の魔法陣に身を沈め、清められた衣服と身体で寝支度を整えた。このひとときの安堵は、俺たちを深い眠りへと誘うのであった――




