第92話 バックス辺境伯からの依頼2
「……詳細を話そう」
バックス辺境伯が深くため息をつき、白髪交じりの眉をわずかにひそめた。しかし、この張り詰めた空気の中で話を続けるのは、さすがに憚られる。不敬を承知で、俺は一歩踏み出し、口を開いた。
「申し訳ございませんが……別室で伺うことは叶いませんでしょうか?」
「……まぁ、よかろう」
案内されたのは、先ほどの広間よりもずっと狭い――それでも二十畳はあろうかという応接間。
「バックス辺境伯家の後継者の選定方法は、知っているな?」
……正直、まったく知らない。俺の表情から察したのか、辺境伯はわずかに眉を跳ね上げ、苛立ちを隠さずに説明を続けた。
「この迷宮都市を管理する系統のギフトを授かり、なおかつ最初に【闇玉】を習得した者――それこそが、我が家の世継ぎとなる」
血統もだが、それ以上に力と資質。実力主義、というわけか。
「幸運にも、我が長男は【迷宮管理】を受け継ぎ、属性診断紙も漆黒に染め上げた……」
どちらの条件も備えた長男が現れるなど、この選定法からすれば、まさに理想的といえよう。
「だがな……【闇玉】迷宮は第五位階魔法を刻む、最難関のひとつだ。先祖たちの代から今日まで、後継者たちは幾度となく、あのボス――三頭蛇竜の牙に命を散らしてきた。俺の時代にも、二人の候補が、金証魔法師や冒険者たちと共に、奴の腹の中に沈んだ」
ボスは三頭蛇竜というのか……。
「【闇玉】を習得するには、早くて二年、遅ければ五年はかかる。俺は三年を費やした……そして最近――それは起きた。習得が近いと誰もが思っていた矢先だった。夜、テントの中で……長男と、付き添いの金証魔法師一名、金証冒険者二名が――無残にも殺されていたのだ」
辺境伯が「あの中に殺人鬼がいる」と断言した理由が、今ようやく腑に落ちた。
三頭蛇竜との激戦の最中ではなく、休息のひととき――その油断を突いての殺害。
となれば、迷宮に潜っていた全員が容疑者だ。
後継者争いが熾烈を極め、誰かが野望に駆られて凶行に及んだ可能性もある。
……ただ、いくら不意打ちとはいえ、後継者が三人の金証を仕留められるものなのか――その一点だけが、胸の奥で引っかかっていた。
「補給の時期が迫っていたこともあり……全員、一度は迷宮から引き上げた。三頭蛇竜を相手に、背後から討たれる危険が潜んでいる以上、撤退は当然の判断だった」
「……現在の戦力は、いかほどでしょうか。世継ぎ候補を含めて」
「お前たち二人を除けば――金証魔法師四名、金証冒険者八名。息子たちは四名だ。それぞれに、金証魔法師一名と金証冒険者二名をつけている」
もしかして、バックスの金証は、今この場に全員集っているのか?
そういえば、ワイバーン討伐の折にも「金証は後継者争いの渦中で動けない」と耳にした記憶がある。
まさか、あれから一年以上も、その争いが続いているとは……。
「畏まりました。ただ――報酬を伺う前に、どうしてもお伝えしておかねばならぬことがあります」
こちらも無条件で駆けつける気など毛頭ない。
下手に期待を抱かせるのも、相手にとっても失礼だ。
この条件を呑んでもらえぬのなら、この話はここで終わり。【闇玉】の習得も、潔く諦めるしかない。
――迷宮を統べるのは、バックス辺境伯。
辺境伯の許しなくして【闇玉】迷宮に潜るなど、到底ありえないだろうからな。
「……言ってみろ」
低く圧を帯びた声が、部屋の空気を震わせる。
「僕たちには、刻限があります。来年の八月にはバックスを発ち、王都へ向かわねばなりません――それでも構わぬのであれば、報酬次第でお引き受けいたします」
ドラグラス王立学校の件もある。
だが何より――ギースに挑まねばならない。
リンと共に未来を歩むためにも、王都へ戻ることは絶対条件だった。
「構わん。ちょうど第二候補――セカルズが、その頃に習得を予定している。報酬は――魔法師には白金貨一枚、冒険者には大金貨五枚。さらに成功報酬と、活躍に応じた加算を別途用意しよう……」
ま、マジか……。
金証というだけで、これほどの好待遇なのか。
それにしても、魔法師と冒険者の待遇差は、相変わらず気になる。
「ただし――そのときまで、他のクエストを受けることは一切禁ずる。二カ月に一度は地上へ戻し、一カ月の休養を与える。どこで過ごそうと構わんが、クエストの受注だけは絶対に許さぬ」
要するに、地上での時間は心身をリフレッシュしろ、ということか――それほどまでに、【闇玉】迷宮は苛烈なのだ。
「他に質問はあるか?」
「はい――辺境伯にお目にかかるなら、これを、と託されまして……」
バッグから取り出したのは、銘も刻まれていない二本の瓶。
それを恭しく差し出す。
「酒……か……?」
バックス辺境伯は栓を引き抜いた瞬間――目を見開き、声を震わせた。
「こ、これは……カリーシュ!? しかも二本も……!? ど、どこで手に入れたのだ、貴様!」
剣幕に思わず身をすくませる。
だが、その目には怒気ではなく、抑えきれぬ歓喜が宿っている。
「えっ……あ、北カリ村の村長――元宮廷魔法師のイシュバル様からです。『バックス辺境伯に会う機会があれば、きっと喜ぶ』と……」
「二本も、だと……? あの頑固ジジィめ……俺が何度頼んでも寄越さなかったくせに……!」
そんなに希少な酒だったのか……?
まだ【収納】には三本残っているが――今ここで全てを渡す必要はない。十分すぎるほど喜んでいるしな。
「では……ありがたく一本は私が受け取ろう――もう一本は、レオ、お前の手から我が息子セカルズに渡してやれ。迷宮攻略の力になるはずだ」
「迷宮攻略に……?」
「……お前、闇属性迷宮に潜った経験はないのか?」
「……はい」
辺境伯は深々と息を吐き、呆れたようなため息を漏らした。
「……通路にばら撒いて蛇除けにしたり、酒をぶっかけて酔わせるのさ。とくに三頭蛇竜は凶暴極まりない。近づくことすら命がけだ……そこで、この酒の出番だ――どういうわけか、カリーシュには妙に弱い。イシュバルの野郎が鳳龍様の恩寵だなんてほざきやがるから、『御伽噺も大概にしろ』と返してやったら、それ以来、一滴も卸してくれなくなった……鳳龍なんざ、いるわけねぇのにな!」
いつの間にか威厳に満ちていた口調は砕け、まるで街角の不良のような言い回しに変わっていた。ただ村長が卸さなくなったのは分かる気がする。北カリ村の人間に鳳龍をバカにする発言だけはNGだ……もっとも【聖玉】やカリの苗木を授かった俺からしても、あまり気持ちのいい言葉ではないが。
……にしても、蛇に酒か。古事記の八岐大蛇を思い出さずにはいられない。
「質問がなければ、最後に俺から一つ……」
視線でもう無いなと問いかけてくる辺境伯。
こちらもアイコンタクトで返すと、重い言葉を吐く。
「……長男を殺した奴を、無理に捕える必要はない――最優先すべきは、後継者たちの無事だ」
てっきり捕えて死罪にするつもりだと思っていたが……
もしかすると辺境伯自身、後継者の中に犯人がいる可能性を考えているのかもしれない。
「さて、話すべきことは話した。あとは――一緒に潜る連中と詰めてくれ」
辺境伯は棚から重厚なカットグラスを取り出し、輝く酒で満たす。
俺とリンは、俺たちに背を向ける辺境伯に会釈を送り、人狼が交じる部屋へと、戻るのであった。




