第90話 誘惑
「そうそう、その調子だ……リン、腕の使い方は完璧だ。肩から大きく回して――そう、水をかく量を増やせ。前に伸ばした手を、さらにぐっと前へ……体をひねりながら大きく伸ばすイメージで……うん、いいぞ。うまい!」
もともと剣を振るうときのしなやかな腕さばきがあるだけに、フォーム自体はすでに俺よりも綺麗だ。
バタ足も力強く、きっちりと水を押し出している。
ただ――問題は、息継ぎ。
「ほら、水中で息を止めちゃダメだ。鼻から息を吐き続けることで、顔を上げた時にスムーズに息を吸い込むことができるようになる」
言葉にすると簡単だが、すぐに体が覚えるわけではない。
「……れ、レオ……た、助けッ――」
次の瞬間、リンが水を飲み込みかけてバランスを崩す。
慌てて抱き寄せると、彼女は驚くほど強い力で俺にしがみついてきた。
当然、互いに水着姿。
アストラリア基準で育った彼女の肢体は、柔らかさとしなやかさが同居――フローラルの香りと共に肌越しにダイレクトに伝わり、胸をざわつかせる。
「す、すまない……! 必ず礼は……させてもらうから……」
リンの耳まで真っ赤に染まっている。
小さく囁く声は震えていて、けれどその必死さが可愛くて仕方ない。
「気にするな。俺だって剣を教えてもらってるし……それに――もう十分、礼はもらってるよ」
今この瞬間こそ、何よりのご褒美だ。
「だ、だめだ……! ちゃんと……礼をしなくては……そ、それでは……また最初から、頼む……!」
俺の腰にがっしりと巻きついていたリンの腕を、そっと解き、再び泳ぎの練習へ。
泳ぐという動作は想像以上に体力を奪う。だからこそ、俺はいつでも【洗濯】を唱えて疲労を癒せるよう、準備だけは怠らなかった。
――だが、この至福の時間も長くは続かなかった。
一週間も経つ頃には、リンはもう俺の手助けを必要としなくなっていたのだ。
むしろ、今や俺よりも速い。水を切るその姿は、まるでマーメイドのよう。
泳ぎきった後も、息を整えるのが早くなった。ほんのわずかずつだが、体力そのものが底上げされているのが分かる。
「どんなに鍛えても、体力だけは増えないと思っていた……けれど、こうして泳げるようになったのも、持久力が伸びたのもすべてレオのおかげだ!」
そう言って、波間に咲かせた花のように、リンが満面の笑みを浮かべる。
その笑顔を見られただけで、俺にとっては何よりの報酬だった。
クラーケンを退け、海底で魔法陣を精読する日々。
俺が桟橋へ戻れば、リンは魔法書を閉じて待っている。
そして二人で海へ――鍛錬とも癒やしともつかぬ、かけがえのない時間を過ごすのだった。
そんな生活を続けること、二か月弱――
ついに、その時が訪れた。
いつものように海底で魔法陣を精読し、桟橋に上がる。
すると、リンが俺を見て口をパクパクと動かしていた。
「どうした? リン? 腹でも減ったのか?」
軽口を叩いたものの、彼女の様子は明らかに普通ではない。
胸の奥でざわめくものを感じる俺に、リンは震える手で一冊の本を差し出した。
表紙も背表紙もない、ただの本。
ぱらぱらとめくると、ところどころにリンの綺麗な筆跡が刻まれている。
その内容に目を走らせた瞬間――
「……まさか、これ……」
視線を上げた時、リンはもう感極まって嗚咽を漏らしていた。
ならば――やはり、そういうことか!
「おめでとう! リン! ついに――【誘惑】を習得したのか!」
抱きしめずにはいられなかった。
長い間、諦めずに挑み続けたその努力が、今こうして報われたのだ。
華奢な体を抱き寄せると、リンもまた強く抱き返してくる。
「……ありがとう、レオ……位階魔法など、私には縁のないものだと思っていた……それなのに……それが、特位階魔法だなんて……」
しばらく二人で喜びを分かち合っていると、やがてどちらからともなく腕を解く。
少し朱を帯びた彼女の手を引く。
「さっそく、どんな魔法か試してみようじゃないか」
リンは深くうなずき、波しぶきがかすかにかかる桟橋の端へと歩く。
「まずは感覚をつかむだけでいい。射程と範囲はどのくらいなんだ?」
「うむ……魔法書によれば、射程も範囲も、かなり自由が利くらしい」
「そうか……なら、最小限で試そう。壁打ち程度で」
リンがそっと左手を前へ掲げると、凛とした声が波間に響く。
「――【誘惑】!」
俺は目を疑った。
特位階魔法の【収納】の魔法陣は他者に見えない――だから【誘惑】も見えないものだと思ったが、目の前でゆっくりと、淡いピンク色の光が水面を染めていく。
描かれる速度はたどたどしい。桟橋の上に、柔らかな光が線を結び、まるで誰かが絹糸で魔法陣を縫っているかのようだった。
やがて――驚愕するほどの光景が現れる。
魔法陣は一層ではない。
二重、三重……そして四重の多層式。その全てが、淡い桜色の輝きで脈打ち、形は真円ではなく、優美な――ハート。こんな魔法陣があったなんて……ある意味特殊な魔法――だから特位階魔法なのか。
四重の魔法陣から解き放たれたのは、淡い桜色の光条。
魔法書によればその光の粒子にかすった瞬間、魔物は抗うことなく引き寄せられる。位階魔法を覚えていない者は無条件で、第一・第二位階魔法を扱う者でさえ、わずかな抵抗こそ許されるが、最終的には意志をねじ伏せられるように術者へと吸い寄せられるという。
ただし、この魔法ができることは、あくまで引き寄せることのみ。
第三位階魔法以上を覚えている者には効かない。さらに相手の動きを操ったり、思考を支配することはできない。
ゆえに、もし引き寄せた相手が強者であったなら……その瞬間から事態は一気に厄介さを増すのだった。
しかも、その代償は重い。消費魔力は実に『100』――第四位階魔法すら凌ぐ燃費の悪さである。
それでも、この魔法はリンにこそうってつけだった。
彼女は圧倒的な強さを誇る一方で、体力は恵まれていない。体力の消費を抑えつつ敵を引き寄せられるこの魔法は、彼女と非常に相性がいい。
せっかく覚えたのだから、試してみたい――それが人の性。
まして、長らく諦めていた位階魔法ならなおさらだ。
「……四層で使ってみるか?」
「……だが、まだ魔法陣を描くのが遅くて、私の魔法よりも間違いなく魔物の攻撃の方が速く届くぞ?」
「だから、俺がいるんだろ? 一緒に行けば大丈夫だ」
そうして二人は第四層へ。
俺が【風絨毯】を詠唱し、淡い風の力で足元に広がる絨毯を呼び出すと、リンはすぐに意図を悟った。
「なるほど……空から一方的に撃てばいいのか……」
【風絨毯】の上で体勢を整え、いざ実戦――。
「【誘惑】!」
霧のように柔らかな桜色の光条が放たれ、アーミークラブの群れを包み込む。
次の瞬間――
奴らは一斉に、【風絨毯】の上にいるリンへと引き寄せられるように猛進した。
リンは迷いなく絨毯から飛び降り、自分めがけて突っ込んでくるアーミークラブを、桜光を翼竜剣に纏わせ、連撃で次々と斬り伏せていった。
「どうだった?」
「……魔法が使えると、ここまで楽に戦えるものなのか。もっとも、レオがいなければ詠唱する暇もなかったがな」
リンは苦笑を浮かべながらも、どこか誇らしげだ。
しかし、俺の考えは少し違う。
「いや、むしろ潜伏してる敵や魔物には絶大な効果じゃないか? 【闇玉】迷宮の性質を考えたら、これがあるだけで随分楽になるはずだ」
「ふむ……たしかに。だが、そのためには範囲をもっと広げねばならぬな。つまり、さらに大きな魔法陣を描く必要があるということか……」
「そういうこと。だから俺がサポートする。これでも魔法のことには少し自信があるんだ」
胸を張ると、リンの口元がやわらかくほころぶ。
「うむ……なら、これからも頼らせてもらおう――金証魔法師殿」
その三日後――
俺はついに、【海嘯】をフリードたちより一足先に習得した。
年の瀬のざわめきが満ちるバックスの街へと、リンと二人――確かな手ごたえと共に帰還の歩を進めるのであった。




