第9話 追っかけてきちゃいました
――心が解かれて見る街は、こんなにも鮮やかだったのか。
モノクロに染まっていたビーゼルの景色が、今はまるで絵の具をこぼしたように色づいて見える。
無理もない。
真っ昼間に、この街を堂々と歩くのは、これが初めてなのだから。
ジウムは今頃、王宮にでも出仕しているだろう。
キャシーとボヘックは、陰の気をまとった引きこもり体質。
外で鉢合わせする可能性は限りなく低い。
だが、油断は禁物だ。
足取りを追われでもしたら、また面倒なことになる。
だから、駅馬車などは使わない。
俺は自分の足で、目的地を目指す。
北に行けば、王都ドラグラス。
人も物も溢れ、華やかで活気に満ちた場所。
……けれどそこには、ジウムという影がある。
だから、俺が選ぶのは北以外。
そして、心に決めていた行き先がひとつ――
迷宮都市バックス。
ビーゼルから南へ約五百キロ。
かなり遠いが、そこには自由がある。
冒険者として、誰にも縛られず、力のままに生きていける場所が。
道順は完璧に頭に入っている。
マグサがくれた周辺地図は、【収納】に入っている。
あとは、この四年間、毎日身につけていた過去――
ボロボロの一張羅を、街の片隅にそっと捨てるだけ。
服は安物でいい。どうせ成長期、すぐに着られなくなる。
だが、靴だけは別だ。
旅は足元から始まる。
くるぶしまでしっかりと覆う、耐久性の高いミリタリーブーツ。
それを手に入れた俺は、ビーゼルの街を抜け、郊外の丘へと向かう。
そして、それは時間通りに現れた。
――隊商。
巨大な馬車に荷を積み、何頭もの馬と武装した冒険者を従えた、移動する商団。
正直なところ、十二歳の少年が一人きりで街道を旅するなんて、ただの自殺行為。
このあたり――王都とそのベッドタウン周辺でさえ、盗賊や野犬の危険はゼロではない。
マグサが言っていた。「駅馬車を使用しないのであれば、隊商を使え。あいつらの後をついていくだけでも、危険度はグッと下がる」と。
それにしても不思議だった。
本来、隊商の集合時間や出発時刻は極秘扱いのはず。
盗賊に狙われぬよう、情報は最小限に留められるのが常識。
……なのに、マグサは知っていた。
この日、この時間、この場所に――隊商が通ると。
そして、実際に現れた。
南へ向かう商団。目的地は、ここから五十キロ離れた街・ファジャス。
どう考えても、マグサはただの店主ではない。
情報が流れてくる伝手を、彼は持っている。
深く考えても仕方がない。
今は目の前の旅路に集中するべきだ。
隊商がゆっくりと動き始めると、俺もすぐにその後を追った。
幸い、数名の冒険者が隊商の警護に当たっており、歩き組もちらほらいる。
十二歳の俺でも、少し早歩きをすれば十分についていけるペースだった。
それに、見た目からして俺が盗賊ではないことは一目瞭然だったのだろう。
誰一人、咎めることなく――むしろ、ちらりと一瞥しただけで、関心すら示されなかった。
一人で旅をするには、まだ頼りない年齢。
マグサの金言に感謝しつつ、俺は進路を南に取る。
前方を歩いていた人々が、隊商の姿を見つけると、自然とその後ろへ列をなす。
彼らには隊商に雇われている者が、身分の証明を求める。
数時間もすると、隊商の背後には十数人の一団ができていた。
そんな中でも俺は、魔力を無駄にしない。
優先度の高い、【石纏衣】を【ストック】してから、【治癒】にも魔力を蓄える。
だが、平穏は長く続かなかった。
隊商が小休止を取るために馬に水をやり始めた、ちょうどその時だった。
南から一台の馬車がこちらへと走ってくる。
何気なく馬車の方に視線を向けた――その瞬間。
最も会いたくない顔と、目が合った。
――ジウム。
どうして――なぜ、お前がここに!?
今頃は王宮に出仕している時間のはず……なのになぜ南から来たのだ?
もしかして、こいつ……屋敷に戻って俺がいないと分かるとすぐにファジャスへと発ったのか?
思考が追いつく前に、馬車の中から怒鳴り声が響き渡る。
「いたぞ! レオンだ! 馬車を止めろ!」
飛び出してきたのは、ジウム――そして、口いっぱいに食べ物を詰め込んだままのボヘックだった。
「レオン? 探したぞ? 逃げるのであれば王都と反対の南というのは見当がついたが、まさか隊商の後についているとはな……魔法書はどうした? 【治癒】は描き終わったんだろうな?」
ジウムはゆっくりと、だが確実に距離を詰めながら声をかけてくる。
その歪んだ笑みに、思わず俺の足が後ずさる。
「どうした? 黙っていては分からんぞ。なぜここにいる? どこへ向かっていた?」
獲物をいたぶるような声音。
その足取りはまるで、狩りを楽しむ猛獣だ。
「ぼ、僕は……もうあなたのところには……戻りません!」
ジウムの前で声を上げる――ただそれだけで、過去の恐怖が全身を包む。
だがジウムは、ふと声を柔らかくした。
「そうか、レオン。お前にも言い分はあるだろう。ならば――ゆっくり屋敷に戻って、話し合おうじゃないか?」
その言葉に、背筋が凍る。
俺は知っている。
こいつは《《契約》》を結ぼうとしている。
魔法で交わされる、絶対の拘束。
あの日、ジウムとキャシーが企んでいた契約――
偶然耳にしたその計画を、俺はマグサに相談した。
俺の素性がバレない程度に。
そして彼は、真顔でこう言ったのだ。
「魔法契約を破れば、重い罰が下る。お前の人生は――そこで終わる可能性が高い」
だから、絶対に契約などしてはならない。
ジウムの甘言に乗るわけにはいかないのだ。
いくつか問答を交わすが、会話は堂々巡り。
ジウムの額に浮かぶ青筋が、次第に怒気へと変わっていく。
――そして数分後、ついにその感情が臨界を超えた。
「これ以上話しても埒が明かぬ! ならば――力づくで連れ帰り、契約で縛りつけてやる!」
ジウムは杖を振り上げ、魔力を込める。
「【拘束】!」
杖の先に浮かぶ魔法陣は、無色透明なガラスのような輝きを放ちながら空中に現れた。
わずか一秒の静寂を破り、魔法陣は鋭く飛翔――輪の形へと変化し、俺に向かって放たれる。
速い! 避けきれない……!
――だが、体が自然と動いていた。
「**【風纏衣】**!」
瞬間、俺の全身を緑色で真円の三重魔法陣が包み込む。
風の奔流が体を押し上げ、輪の魔法が地面を虚しく掠める。
ギリギリの回避。なんとか間に合った。
ジウムの顔に、あり得ないという表情が浮かぶ。
「な、な……なんだと!? なぜお前が――第三位階魔法を!? それも、発動まで五秒はかかるはずの魔法を――一瞬でだと!?」
ジウムの声が怒気と動揺に滲む。
どうやら、宮廷魔法師であるこいつですら……【ストック】の存在を知らないようだ。
「くっ……だったら――これを喰らえっ!」
再び杖を天に掲げ、魔法を紡ごうとする。
やられる前にやる!
そう思い、俺も右手を前に掲げる。
と、その瞬間――
「そこまでだ!」
――そこにいたのは、隊商の冒険者たちを従えた一人の男。
旅装に身を包んだその男の姿を、俺は見間違えるはずがなかった。
「マグサ……さん……?」
そう、間違いない。
あの小さな書店の店主、俺に知識と生き方を教えてくれた、あのマグサだ。
もしかして、マグサがこの隊商の主!?
であれば、マグサが集合時間や出発時刻を知っているのも当然の話。
彼は静かにジウムを見据える。
その瞳には一切の迷いもなければ、恐れもなかった。
「まさか、レオンがとんでもない魔法師だったとはな……ジウム法爵――お前のことは聞いている。未成年を契約で縛ろうとしていたな?」
ジウムの顔が、みるみる青ざめる。
「な、なにを……誰がそんな――!」
マグサの声が、さらに冷たくなる。
「先ほど、お前自ら吐いただろう。力づくで連れ帰り、契約で縛りつけてやる。と」
「き、貴様……! この私をお前呼ばわりするとは……っ! 宮廷魔法師であり法爵である私に、無礼が過ぎるぞッ!」
睨みつけるジウム。
だがマグサは、一歩も引かない。
むしろその気迫に、ジウムの方がじりじりと後退していく。
「ああ? それがどうした」
「……名を、名を名乗れぇ!」
ジウムの絞り出すような声に、マグサは静かに口元を緩めた。
「――よかろう。私は《《サグマ》》。ムスク伯爵家サグマ・ムスク士爵だ」
ジウムの顔が、凍りついた。
唇がわなわなと震える――その名を聞いて。
「……サ、サグマ……ムスク……伯爵家の……士爵……!?」
士爵――上級貴族に連なる存在。
その血筋でありながら、正統な継承権を持たぬ者に与えられる一代限りの称号――だが、その名は絶大な影響力を持つ。
マグサ――いや、サグマがそばにいる。
この場を支配しているのはサグマだ。
だからこそ、今しかない。俺の願いを通すチャンス。
「サグマ様、お願いがあります……この場で、ジウムと決着をつけさせてください!」
――そう言い切った俺には、確信があった。
先ほどの【拘束】。その発現速度を見た瞬間、理解した。
俺の第三位階魔法を使えば、間違いなく勝てる。
サグマにもらった魔力回復薬を飲んで、魔力を回復し、あの魔法を放てば……!
だが、サグマは首を横に振った。
「レオン、分かっているだろう。宮廷魔法師に手を出すというのは、国に刃を向けるに等しい。聞いた限りでは、非があるのはジウム……それでも、お前が無傷で済むとは限らない」
……くっ。
ドラグラス王国に仕える宮廷魔法師を事を構えるとなれば、そう言われても仕方ないのか……。
そんな俺の内心を察したように、サグマが提案を投げてくる。
「だが――お前の気持ちも分かる。ならばこういうのはどうだ?」
サグマの声が、場に静かに響く。
「ボヘックと一騎打ちをする。もし、お前が勝てば――完全な自由を得る。逆にボヘックが勝てば、ジウムの望む魔法書を差し出す……ジウム、何が欲しい?」
「ひっ、【治癒】の魔法書を……に、二十……三十……いやっ、五十冊だッ!」
「レオン、そっちも問題ないか?」
これはサグマがくれたチャンスだ!
みすみす逃すわけにはいかない!
「――はい。受けます!」
「よし、決まりだ。このサグマ・ムスクが立ち合い人となろう。ただし――殺人、部位の欠損は禁止だ」