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第31話 迷宮での一夜

「なんだ……? あれは……?」


 迷宮の通路を歩いていた俺の目に、奇妙な光景が飛び込んできた。

 視界の先には、まるで巨大なミノムシのような集団。

 よく見ると、それは冒険者たちだった。寝袋に包まったまま、あちこちにゴロゴロと転がっている。


 その近くには見張りと思われる冒険者の姿。

 迷宮内ではこうやって協力しながら休んでいるのか。


 そして、近づいた瞬間、鼻を突く強烈な刺激臭が襲ってきた。

 汗と獣の匂いが混ざり合ったような、フェリクのギルドで嗅いだあの匂いだ。

 今後、冒険者として生きていくなら、嫌でも慣れなければならないのだろうが……正直、慣れたいとは思えなかった。


「……すごい匂いだな」


 思わず漏れた呟きに、隣を歩くリンがふっと笑みを浮かべる。


「どうせ、私たちも明日か明後日には、同じ匂いを纏っているさ」


 ……リンに限ってそんなことはありえない。


 そういえば、彼女を初めて助けたあの日――

 戦闘後で湯浴みもしていなかったはずなのに、あのときのリンの香りは……まるで、フローラルとも石鹸ともいえる香り。

 このアストラリアに来てからどころか、日本で過ごしていた頃も含めて、最上級の香りだった。


 ……って、こんなこと口に出したら、間違いなくキモいと思われる。

 そんな自覚はある。だからこそ、思っても言わない。

 代わりに、無難に会話を繋げる。


「リンは……この匂い、平気なのか?」


 問いかけに、彼女はあっさりと頷いた。


「もちろんだ。私はフローラル伯爵家の生まれ。八歳の頃から野外設営の訓練に参加していたからな。臭いどころか、虫も泥も慣れっこだ」


 ――貴族って、そういうの全部嫌がるもんじゃなかったのか?


 俺の中の貴族像とは真逆の答えに、思わず内心でそう呟いてしまう。

 いや、もしかするとフローラル伯爵家がいい意味で特別なのかもしれないな。


「……俺たちも、ちょっと離れて休憩しようか。さすがに朝から歩きっぱなしで、疲れたよ」


 そう言いながら歩き出すが、実のところ俺自身にそこまで疲労感はない。

 けれど、リンは違う。目の下にはうっすらと影が浮かび、いつものキリッとした表情もどこか緩んで見える。

 無理をする彼女に、直接「休もう」とは言いづらい。だから俺が代わりに、空気を作る。


「分かった。じゃあ、彼らと交渉してくる」


「彼らと交渉?」


「そうだ。こうやって近くで休む場合は、お互いを助け合うのがマナーとされている。私たちが寝ていても、魔物は寝てくれないからな」


 確かにその通りか。

 どういう交渉なのか気になったので、俺もついていくことに。


「すまない。我々も近くで休ませてもらっていいか?」


「いいぜ、ちょうど今から休んだ奴らと一緒で良ければな」


 見張り役の男が気さくに応じてくれると、リンは外套の内ポケットから懐中時計を取り出した。

 金の蓋には、薔薇の彫刻――繊細で美しい細工が施されている。


「感謝する。で、我らは何時に起きれば?」


「今が二十時過ぎだから、二時で頼む。その後、六時間見張りをお願いしたい」


「了解した。それでは、よろしく頼む」


 そう言って、リンはきっちりと頭を下げる。

 俺もそれにならって、深く一礼した。


「大体、こんな感じだ」


 戻りながら、リンがぽつりと呟く。


「二人で休むよりも、皆で交代しながらのほうが安全性は高まる。これからも、ああいった集団を見かけたら、積極的に休憩を検討していくべきだろう」


「そうだな。今後は俺から声をかけてみるよ」


 そう答えると、リンはふっと微笑んだ。


「……本当にお前ってやつは」


 その先の言葉は口にされなかったが、なんとなく察せられた。

 ――魔法師なのに、ってやつだろう。


「よし、とりあえずちゃちゃっとテントを張ろうか」


 彼らから少し距離を取って荷物を下ろす。

 俺は【収納ストレージ】からテントを取り出し、手早く設営に取りかかった。


 驚かされたのは、リンの手際の良さだ。

 さすがは騎士として何度も野営をこなしてきた女――無駄がなく、動きに迷いがない。


 二人用のテントを張り終え、寝袋を広げる。

 次に【収納ストレージ】から鍋を取り出した。中には、あの宿の女将さんが用意してくれた、滋養たっぷりの野菜スープ。


 器の深い食器に丁寧に注ぎ分けると、二人で手を合わせてから一口――。


「……まさか、迷宮の中でこんなに温かいスープが味わえるとはな。レオと女将に感謝だ」


 スプーンを口に運びながら、リンがふっと笑う。

 俺もその笑顔に癒されながら、あっという間に平らげる。


 食事を終えたら【創造水クリエイトウォーター】を使って食器を洗い、片付ける。


「さ、もうそろそろ寝るか……」


 そう言いながら、ふと思い出す。


「湯浴び、したかったら言ってくれ。桶にお湯を張るくらいなら、すぐできるから?」


「ん? 私はまだ大丈夫だ……が、レオの魔力に余裕があるなら今のうちというのも一理あるな」


 この数日で、リンは俺のスキル【ストック】の性質を理解しつつある。

 どう魔力を使えば最も効率が良いか。そういった思考が、彼女には自然と備わっている。


 と、ある魔法の存在を思い出した。


「リン。【洗濯ウォッシュ】って魔法、知ってる?」


 声をかけると、彼女は鞘から抜きかけていた剣をピタリと止めた。

 これから手入れでもするつもりだったのだろう。

 その目が、わずかに緩む。


「ああ。第四位階魔法だな。何度か使ってもらったことがある……あれは、気持ちよかったな」


 リンの声は、どこか懐かしげで柔らかかった。


「実は、もう【ストック】済みなんだ。俺もさっぱりしたいから、立って近づいてくれれば、範囲に収まると思うけど……どうする?」


「なんと!? 【洗濯ウォッシュ】も習得しているのか!? あれを使えると、女貴族だけでなく、王宮の侍女や後宮からも重宝されると聞くぞ!?」


 リンのそうかんが見開かれ、真剣そのものになる。

 その表情から、あの魔法がいかに貴重かがよくわかる。


 そんな大層な魔法だったのか、これ。

 俺が呆気に取られる中、リンの興奮もやがて収まり、いぶかしげに首を傾げた。


「……だが、範囲に入るとはどういうことだ? 【洗濯ウォッシュ】に範囲などあったのか?」


「うーん……俺も人の【洗濯ウォッシュ】を見たことがないから分からないけど……」


「ふむ。まあ、レオが言うのであれば信じる以外の選択肢はない」


 そう言って、彼女はなんのためらいもなく俺に一歩寄ってくる。

 その距離、呼吸が混ざるほどに近い。

 騎士としての潔さか、それとも俺を男と意識していないのか――たぶん後者だろう。


 婚約者がいる身だ。変に期待しても仕方がない。

 だから俺は、ぐっと邪念を胸の奥に押し込んだ。


「じゃあ、いくよ――**【洗濯ウォッシュ】**!」


 詠唱と同時に、空中に大きな純白の光輪が現れる。

 四重に重なった精緻な輪が光を纏い、俺たちの体を包み込んだ。


 その瞬間――


 まるで優しい風と清流に身を沈めるような、心地よい浄化の波が駆け抜けた。

 服の繊維一つひとつに沁み込んだ汗や汚れが、音もなく霧散していく。

 リンの外套は新品のような艶を取り戻し、持っていた剣も、鞘も、まるで鍛冶場から出たばかりのように美しく光った。


 刹那、リンは異様な反応を示す。


「――っ!? な、何をした、レオッ!」


 驚きに瞳を見開くリン。


「え……? 【洗濯ウォッシュ】を唱えただけだけど?」


「バカを言うな。第四位階といえど、身体の表面を清潔にし、リラックス効果を得られる程度の魔法のはずだ! なぜ服や装備品が新品同様になっている!? しかも、身体の芯から疲労が抜けたような……このまま戦場に出られる気すらする……!」


「ん? 効果が違うってこと? でも俺が唱えたのは間違いなく【洗濯ウォッシュ】だよ?」


 俺が肩をすくめて答えると、リンは少し黙り込み、鋭い視線を鞘へと落とす。


「レオが言うのであれば、そうなのだろうが……」


 そう呟きながら、彼女は片目を瞑り、慎重に鞘の中を覗き込む。


「……剣の手入れももちろんだが、鞘の中をどう清潔に保つかが問題なのだ。私の鞘の内側には清潔を保つ魔法陣が刻まれているが、それでも効果は永続ではない。中心に詰め込まれている魔石が魔力を失えば、あっけなく失効する。それでも剣を守る鞘の値段は高い。しかし、レオの【洗濯ウォッシュ】があれば……」


 再度、リンは俺を真剣な眼差しで見つめる。


「レオ、たまにでいい。また同じように【洗濯ウォッシュ】を唱えてはくれないだろうか?」


「……ああ、分かった。正直、【洗濯ウォッシュ】を【ストック】する優先順位は高くないと思ってる。でも――リンの剣が汚れたり、痛んできたら、そのときは優先的に【ストック】するよ。約束する」


 本音を言えば、毎日でも【ストック】して、彼女に触れていたい。

 だけど、それは違う。

 俺が目指すのは――ただ傍にいることじゃない。

 魔法師として、堂々と胸を張って隣に立つことだ。


「感謝する……にしても、まさか風呂に入るよりも、ずっと清潔でスッキリするとはな……」


 そう言って、リンはまだどこか信じきれないような表情を浮かべる。

 その姿が、どこか微笑ましくて、俺は思わず口元を緩める。


 テントの天井を見上げながら、【時報アラーム】をセットする。

 静かに目を閉じると、フローラルの香りとリンの気配をすぐ近くに感じながら、眠りへと落ちていった。

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