第3話 抵抗しようと思います
夕方になり、 【治癒】の魔法書に魔力を込めていると、脳内に【時報】の音が鳴り響いた。
ジウムがそろそろ帰ってくる時間だ。
手を止め、急いで母屋の前へ出る。
十分ほど待っていると、馬車に揺られてジウムが帰ってきた。
「「お帰りなさいませ! 旦那様!」」
女性使用人と並んで頭を下げると、ジウムは馬車から降りるなり俺に声を浴びせた。
「【治癒】の進捗はどうだ!?」
「はい、あと一週間ほどで……」
「遅い! もっと早くできぬのか! これだから魔力のない落ちこぼれ魔法師は……!」
癇癪を起したかのように杖で殴りかかってくるジウム。
ジウムがこれほどまでに魔法書にこだわる理由は二つある。
一つは、それが高値で売れるから。
第一位階魔法の魔法書であれば、買取相場は一冊・大銀貨六枚。
店に並べば一冊・金貨一枚というところもあると聞く。
この世界の通貨単位は次の通り。
銅貨<大銅貨<銀貨<大銀貨<金貨<大金貨<白金貨
十進法でそれぞれ十枚集めれば上位通貨一枚と交換できる仕組み。
つまり、第一位階魔法書は売れば銅貨で六千枚分――かなりの高額品というわけだ。
そして二つ目の理由は、息子・ボヘックのため。
彼は生まれながらにして豊富な魔力を持ち、火系統と闇系統の適性があるという。
あいにく、俺は闇系統の魔法に関しては、第一位階魔法の【闇霧】しか覚えていない。
だがその代わり、父が得意としていた火系統の魔法に関しては自信がある。
【火撃】、【火弾】――
そして、第三位階魔法である【火爆】まで、すでに習得している。
……ただし、それをジウムには伝えていない。
報告している魔法は第一位階の【火撃】、【治癒】、【闇霧】のみ。
心のどこかにある反発心――
いいように使われてたまるかという、子どもじみた抵抗。
そしてもう一つ。
むやみに力を知られれば、碌な目に遭わないという、慎重な警戒心。
ジウムのような輩に、両親から授かった俺の力を都合よく使われる気はない。
……そもそも、引き取られたのは八歳の頃。
あの年齢で魔法を使える時点で異例だ。
まさか第二位階魔法を習得しているなど、誰も思いもしないだろう。
「とにかく! 一刻も早く魔法書を完成させろ! ボヘックが【治癒】を唱えられないとは限らない!」
ジウムは苛立った様子でそう吐き捨て、母屋へと入っていく。
俺も慌てて後を追い、すぐに浴室へ向かう。
朝のうちに張っておいた水を温めるためだ。
「【加熱】」
火の代わりに湯を沸かす生活魔法。
魔力を込めると、水面から湯気が立ち上り始める。
その後、ジウム、キャシー、そしてボヘックが順に入浴を済ませ、夕食へ。
三人が食べ終わった後に、ようやく俺と女性使用人も食事にありつく。
後片付けまで終えるころには、時刻はすでに二十一時を回っていた。
俺は母屋の離れにある掘っ立て小屋へ戻る。
魔法書の作成を再開しようと、【収納】に手を差し伸べ――
――しまった。
作成途中の魔法書とペンを、母屋の自室に置いてきたことを思い出す。
少しの魔力も無駄にしたくない。
俺は再び母屋へと足を向けた。
魔法書とペンを取り、掘っ立て小屋に戻ろうとしたとき――リビングの扉越しに、ジウムとキャシーの声が聞こえてくる。
「あなた、来年の『天啓の儀』でボヘックに『ギフト』が与えられなかった場合、それどころか、もし《《あいつ》》がギフトを得てしまったら……そのときは、始末しましょう」
天啓の儀? ギフト?
何だそれは……?
だが、それ以上に引っかかったのは始末という物騒な言葉だった。
俺は扉の影で足を止め、息を殺して会話に耳を澄ませる。
「……確かにな。ボヘックが宮廷魔法師になるには、ライバルは少ないに越したことはない。それに、ドラグラス王立学校の入学の件もある。契約で幽閉できない場合は……レオンの存在を消すしかあるまい。それまでに魔法書をたくさん描かせる……と言っても、あいつには天啓の儀に出席させないがな」
「そうね……じゃあ、死んでもらいましょう」
――な、何だと……!?
『あいつ』って、俺のことじゃないか!?
背筋に冷たいものが走る。
鼓動が早鐘のように鳴り響き、耳の奥が熱を帯びる。
一刻も早く、このフルタス法爵家から逃げ出さなければ――!
……いや、待て。
俺はまだ十一歳。
逃げたところで、拾ってくれる家などあるのか?
魔法書の作成ができると知られれば、また同じような目に遭うかもしれない。
それに、一人で生きていく力があるのかも分からない。
……今はまだ動く時じゃない。
天啓の儀とやらは来年。それまでは時間があるらしい。
ただ、フルタス夫妻が心変わりをしてすぐに行動を起こす可能性もある。
楽観視だけはしてはならない。
息を殺しながら、掘っ立て小屋へと戻る。
そして、机に向かいながら、頭の中で計画を組み立てていく。
最優先は――力を得ること。
それだけではない。
この世界の常識、魔物、戦いの技術、あらゆる知識を蓄えなければならない。
これまでは、すべての魔力を魔法書の作成に注ぎ込んできた。
だが、これからは違う。
生き残るための鍛錬に、魔力を回さねばならない。
中には、習得してから一度も使ったことのない魔法もある。
それらが本当に発動するのか。
魔法陣はきちんと真円を描いているか。
大きさを自在に操れるか。
確認すべきことは、山ほどあった。
特に戦闘を想定するなら、今の俺には必須と言える魔法が一つある。
それを確かめるため、俺は街の明かりが届かない場所まで足を運んだ。
「【光明】」
生活魔法の詠唱に応じて、手のひらに灯った淡い光が、周囲をぼんやりと照らし出す。
そして右手を高く掲げ、闇に向かって精神を集中させる。
使うはこの第三位階魔法――
「【風纏衣】!」
右手から広がる、鮮やかな緑の魔法陣。
直径は一メートルを超え、さらにその中心から、もう二つの魔法陣が出現。
計三つの魔法陣は一定の距離を保ちながら、俺の全身を包み込むように降り注ぎ、頭のてっぺんから足先まで、軽やかな風の衣が纏われていく。
体が軽い。
風の力が、肌をなぞるように走る。
やはり、魔法陣は美しい。
とりわけ第二位階以上の魔法ともなれば、複雑にして精緻。
第三位階魔法であれば魔法陣は三重。
魔法陣の光は、圧巻の輝きを放つ。
【火撃】のような遠距離魔法を撃ちあったとして、短期決戦に持ち込めなければ、すぐに俺の魔力は削られ、やがて何もできなくなる。
つまり、遠距離戦は不利。
戦いが始まれば、一撃で決めるか、短時間で勝負をつけなければ敗北は濃厚だ。
だからこそ、俺は近距離戦を選ぶ。
体を鍛え、足を動かし、拳を握り、刃のように動ける肉体を作る。
俺には【風纏衣】がある。
発動時の魔法陣は、完璧な真円を保ち、しかも大きい。
魔法書を読み解いたときには、効果時間は一分と記されていた。
だが、俺が展開した魔法陣の精度と大きさなら、それ以上の持続時間と効果が期待できる。
もし、力で劣って接近戦で押し切られそうになっても、【風纏衣】があれば、逃げることはできる。
さらに同じ第三位階魔法の【石纏衣】もある。
状況によっては【石纏衣】で、耐え忍ぶことも可能。
逃げることは、負けではない。
生き延びるための選択肢だ。
魔力量では劣っても――俺には、魔法陣の精度と工夫で抗う。
それが、俺の戦い方だ。