第15話 バーバラにて
バーバラの街に到着してから、俺はすぐに宿を取った。
部屋に入ると、担いでいたリンスをすぐにベッドで寝かしつける。
そして一時間後――
「……ここは?」
着の身着のまま寝かせていたリンスが、ゆっくりと目を開けた。
「あ、おはようございます。少しお待ちください」
彼女が身を起こすのを確認すると、説明もそこそこに俺はスープをもらいに、宿の食堂へと足を向けた。
部屋に戻ると、リンスが困惑した表情でこちらを見ていた。
「まずは、このスープを飲んでください」
「いや、でも、私は……」
「飲んでくれないと、このスープが無駄になってしまいます。あと、冷めていますが、食事も用意してあります」
テーブルの上には、パンにチーズ、干し肉などをきれいに並べていた。
すべて俺の【収納】にあったものだ。
唯一、この宿で買ったのは、彼女が手にしているそのスープだけ。
「それと、浴槽にはお湯を張っておきました。冷めてもいいように、かなり熱めにしてあります。入るときは気をつけてください。では、僕はこれで」
「あっ……いや、レオン……ここまでしてもらっても、私には……返すものが、何も……」
リンスの声は、まるで消え入りそうなほど小さかった。
「大丈夫ですよ。遠慮はしないでください」
それだけ言い残し、俺は別に取ってあった部屋へと戻った。
素泊まりの宿だ。二部屋とっても大銅貨六枚。
いつもより、大銅貨一枚ほど高い程度だ。そこまで気にすることもない。
また、宿の女将に医療の知識があって、本当に助かった。
リンスの容態を見せると、すぐに「軽い栄養失調による衰弱」と診断してくれた。
いきなり固形物を口にさせると、胃腸が驚いてしまう――そう言って、野菜をじっくり煮込んだ、とろとろのスープを用意してくれたのだ。
……それにしても、ちょっと気になる。
凛とした雰囲気に、堂々たる佇まい。物腰も言葉遣いも、俺たち一般人とは違った。まるで貴族――いや、騎士か?
だが、それでいて栄養失調――というのは、どうにも不釣り合いだ。
何か、理由があるのかもしれない。
あまり自分のことを話したがらない様子だったし、こちらから無理に聞くのは避けよう。
それが、今の彼女に対する礼儀だと思う。
それに、俺も人の心配ばかりしていられない。
終盤に差し掛かった【雷撃】の魔法書を、再び手に取る。
明日には、習得できるはずだ――魔方陣を空に描く自分の姿を想像すると、自然と気分が高まる。
新たな位階魔法を習得する際には、気をつけなければならない注意点が二つある。
ひとつ目は、習得期間中の精読だ。
俺の場合、第一位階魔法を覚えるには、最低でも一週間はかかる。
毎日一時間ずつ勉強しても、あるいは一日三時間かけても、かかる日数は変わらない――最低でも、一週間は必要なのだ。
だったら、一日三時間ずつやるより、一日一時間で済ませた方が効率がいいんじゃないか?
そう思うのが普通だろう。実際、俺もそうだった。
……だが、それは大きな落とし穴だったのだ。
しっかりと精読し、魔法そのものへの理解を深めておかないと、魔法陣は小さく、描く速度も遅くなる。
そして、一度習得した後に魔法陣を拡張したり、描写速度を上げたりするのは、非常に困難で、膨大な時間を要する。
だからこそ、最初から時間をかけて、徹底的に理解しながら覚えるほうが、結果的に圧倒的に効率がいい。
そして、もうひとつの注意点は、同時に複数の魔法を覚えないこと。
これも理由は同じだ。一つの魔法に集中して、じっくり取り組んだ方が、質も効率もはるかに高い。
もちろん、人によって適性ややり方は違うかもしれない。
だが、俺にとっては、この二つのルールは絶対だ。
魔法書を読んだ後、【ストック】してから眠りにつく。
翌日――
まだ日が昇る前から、俺は【雷撃】の魔法書と睨めっこを続けていた。
そしてついに、魔法書から魔法陣と文字がふっと消えた。
……ようやく、習得完了。
こうなったら、試さずにはいられない。
早速、街の外へと出て、標的になりそうなものを探す。
ちなみに、バーバラの街の入り口には、グレスト男爵の私設騎士団と思しき兵士たちが常駐している。
彼らの手には、いつも羊皮紙の手配書が握られている。街に出入りする者は、必ずそのチェックを受けなければならない。
つまり――彼らの視界に入る範囲は、安全圏、ということだ。
俺もその圏内に留まりながら、辺りを見渡す。
そして、少し離れた場所に、壊れかけの木製の柵を見つけた。
――これを、標的にしよう。
「【雷撃】!」
宙に描かれるのは、鮮やかな黄色の魔法陣。
その大きさは、いつも通り――そして、紛うことなき真円だった。
魔力が魔法陣に注ぎ込まれた瞬間――
眩いばかりの雷光が一直線に放たれ、柵へと突き刺さる。
次の瞬間、柵は砕かれ、焦げた匂いだけをその場に残した。
サグマから威力が低いと聞いていた【雷撃】。
しかし、実際に撃ってみると、意外とありだ。
さすがに、殺傷能力では【火撃】には及ばない。
だが、弾速は【火弾】よりも速そうに思える。
もし、ある程度の時間、敵を麻痺させられるのなら――
【雷撃】で動きを止め、続けて【火撃】を撃つ。
そのコンボは、ほぼ必中と言っていいかもしれない。
確かな手ごたえを感じながら、俺は宿へと戻った。
本当はもっと試したかったが、魔力がそれを許してくれない。
昨日は、宿に戻ってから【水創造】で浴槽に大量の湯を張ったせいで、いつもよりかは【ストック】ができなかった。
だからこそ、今日は魔力の節約が最優先だ。
部屋に戻り、【収納】から食料を取り出す。
……そういえば、リンスはちゃんと食べただろうか?
ポットに水も入れておいたが、気づいてくれただろうか?
気になって仕方がなくなり、俺は彼女の部屋の前へと向かい、そっとノックをした。
「リンスさん? お加減はどうですか?」
声をかけると、なんの躊躇もなく扉が開かれた。
同時に、ふわりとフローラルな香りが漂ってくる。
「ああ、レオンか。入ってくれ」
そう招かれ、部屋に入った瞬間――
「す、すみませんっ!」
反射的に顔を背け、視線を部屋の外に向ける。
理由は明白。部屋中に洗濯物が干されており、当然ながら、下着も含まれていたからだ。
「どうした? 顔を真っ赤にして。体調が優れないのか?」
「えっ、いや……見るつもりはなかったんですが、下着が目に入ってしまって……」
正直に答えると、リンスは肩をすくめて、少し自嘲気味に笑った。
「ああ、すまないな。こんな無骨な女のつまらない物を見せてしまって……だが、許してくれ。洗濯なんて、この旅を始めるまでやったことなかったからな。少しはマシに干せるようにはなったと思うが……」
無骨な女? つまらない物?
……もしかして、リンスって、自己評価がめちゃくちゃ低いタイプなのか?
俺からすれば――いや、これ以上は考えない方がいい。
絶世の美女の神聖なる布とか、そんなこと口に出したら確実に引かれる。
「もしかして、洗濯は昨日の残り湯で?」
「ああ。本当に助かったよ。これまでは水もまともになくてな。魔法の才がないと、こういうとき困る」
「分かりました。じゃあ、またお湯を張っておきますね。それと、水筒のような容器があれば、飲料水もためておけますけど?」
そう言うと、俺の背後で、リンスが大きく首を振っているのが気配でわかった。
「いや、これ以上世話になるわけにはいかない。人生のすべてを投げうっても、返しきれなくなりそうだ」
「いえ、もう乗りかかった船ですから。水筒、出してもらえますか?」
しばらくの逡巡の末、リンスは観念したように水筒を差し出してきた。
俺はそれを【水創造】で満たし、部屋のポットにも補充。
さらに、浴槽にもたっぷりと水を張り、【加熱】でしっかり温めておく。
魔力の節約を考えていたが、こればかりは仕方ない。
「では、また後で……」
名残惜しさを胸に、俺は部屋を後にする。
正直、後ろ髪を引かれる思いだ。
……とはいえ、あのまま部屋にい続けるのは、さすがに危険だった。
視線が、つい洗濯物ばかりに向いてしまうのがバレたら――さすがにいろいろと終わる。
それに、行きたい場所もあった。
駅舎だ。
おそらく、この状況下では馬車の運行は止まっているだろう。
しかし、止まっていない可能性もある。
そんな思いを胸に駅舎へ向かおうとした、そのとき――
不意に、肩を掴まれた。
振り向くと、そこに立っていたのは、思いもよらぬ人物。
「君、ちょっといいかな?」
そう声をかけてきたのは、今朝俺が【雷撃】を柵に向かって放ったとき、街の入口から様子を見ていた――あの、私設騎士団の一員だった。




