第10話 軽く分からせてやりました
サグマの立ち会いの下――ボヘックとの一騎打ちが始まる。
互いに距離を取り、静かに睨み合う。
本音を言えば、【風纏衣】の効果が残っているうちに仕掛けたかった。
だが、そこまで都合よくはいかない。
この機会そのものが貴重だ――感謝こそすれ、文句など言えない。
サグマが俺とボヘックに視線を配り、右手を高く掲げる。
「――始め!」
合図と同時に【加速】を唱えて、地面を蹴る。
長期戦は不利。この距離、この魔力量では、迷っている暇はない。
一気に決める――それだけだ。
対するボヘック。予想通りの動き。
こいつが覚えているのは第一位階魔法が二つだけ。選択肢なんて、はじめから限られている。
「【火撃】! 【火撃】! 【火撃】!」
連発してくるが、魔法陣は歪み、発現は遅い。
最初の一発は俺の脇をかすめ、二発目は掠っただけ。三発目がようやく俺を狙って飛ぶ頃には、すでに距離は十五メートルを切っていた。
「**【風撃】**!」
右手を突き出し、緑の真円魔法陣が一瞬で展開。
解き放たれた突風が、ボヘックの炎を弾き、その先の巨体まで吹き飛ばす!
「な、なんでレオンがそんな魔法を使えるんだよ!?」
尻もちをついたボヘックが、驚愕と恐怖に満ちた声を上げる。
だが、返事なんていらない。
もがくように唱えかけた【闇霧】。
だが、その詠唱よりも速く、俺の拳がボヘックの頬をぶち抜いた。
「痛ってててぇぇぇえええッ!!」
顔を押さえて転げ回る姿は、まるで――豚の水浴び。
……だが、思ったほどのダメージは入っていなかったらしい。
すぐに立ち上がり、怒りに顔を染めて叫ぶ。
「許さねぇ! 俺の顔を殴るなんて……ぶっ殺す!」
身長差が二十センチ以上、体重に至っては倍――いや、三倍か?
巨体のボヘックが、獣のように殴りかかってくる。
確かに、体格は近距離戦において最大の武器。
しかし、それは地球での話だ。
ここはアストラリア。
俺には、魔法がある。
「死ねぇぇぇえええッ!!!」
巨大な拳が、俺の左頬を打ち抜こうとしたその瞬間――
「**【石纏衣】**!」
灰色の三重魔法陣が俺の全身を包む。
石の鎧を纏ったように、体が硬質化――
骨が砕ける音と共に地面に膝をついたのは……ボヘックだった。
「痛ってててぇぇぇえええッ!!! なんでだよ! なんで俺の拳の方が粉砕されるんだよッ!」
拳を押さえ、目に涙を浮かべて叫ぶボヘック。
どうやら【石纏衣】に気づかず、殴りかかったらしい。
俺も吹っ飛ばされはしたが、痛みはない。
むしろ、こっちの出番はこれからだ。
硬質化した拳がボヘックの駄肉を貯めこんだ腹に突き刺さる。
「ぐはぁっ!」
さっきまで口に詰め込んでいた食べ物が、叫びと共に撒き散らされた。
膝をつくボヘック。
しかし、俺は容赦しない。腹と背中を中心に殴りまくる。
俺がいつもジウムに叩かれていた場所だ。
ジウムが、「これは何かの間違いだ」と、周囲の者に必死に弁明している。
サグマは静かに、制止のタイミングを伺っていた。
だが、まだ足りない。
次に出会ったとき、俺の顔を見ただけで震えるほどに――そう、今まで俺がジウムに抱いていた感情をこいつにも教えてやる番だ。
ただ、どこまでが命に関わるのか、俺には分からない。
ならば、死なせず、壊さず――焼きつける。
逡巡し、即座に行動に移す。
戦意の失せたボヘックを吐物の上に転がし、顔に狙いを定めて、右手を翳す。
同時に、サグマが発声――
「レオン! やめろ! 勝負あ――!」
「**【石撃】**!」
サグマの声が最後まで響く前に、拳大の石の塊は、勢いよく発射。
寝転がるボヘック耳元を掠めて――
ドンッッ!
地面に小さなクレーター。
石の破片と砂塵が舞い上がる。
ボヘックは、動けない。
糞尿を漏らし、怯えながら天を仰いでいた。
サグマはホッとした表情を見せ、改めて宣言する。
「勝者! レオン! 敗者、フルタス法爵家ボヘック・フルタス!」
その声は、この場にいる全員の耳に届くのに十分な声量だった。
勝負が決まったと同時に、張り詰めていた空気が一気に弾ける。
周囲で見守っていた者たちから、どよめきと感嘆の声があがった。
「すげぇの見せてもらったぞ!」
「ありゃもう……宮廷魔法師レベルだろ……?」
「……いや、でも……ちょっと臭くないか……?」
最後の声に、ジウムたちを乗せてきた御者が真っ青な顔で馬車へ飛び乗る。
続けて、同乗してきた者たちも、慌てて御者に続く。
きっと彼らは糞尿吐物に塗れたボヘックと同乗するのはゴメンだと思ったのだろう。
親であるジウムですら、ボヘックに近づこうとしない。
あれだけ可愛がっていたはずの息子を前に、顔すら背けている。
ふん……いつもは俺におねしょの洗濯物を押しつけていたくせに。
たまには自分で後始末してみるといい。
そんなジウムに、サグマが静かに一言。
「これでレオンは自由。異論はないな?」
だが、ジウムは何も答えず、ただ唇を噛みしめていた。
サグマの声が、鋭くなる。
「……別に、異論があるならそれでも構わん。だがその時は、王都にいるはずのお前が、なぜここにいるのか……そして未成年の少年を契約で縛ろうとした事実を、俺から報告させてもらう」
ぴくりと、ジウムの肩が跳ねる。
「いくら吠えても無駄だ。ムスク商会の番頭であり、士爵であるこの俺と、一介の宮廷魔法師でただの法爵であるお前――どちらの証言が重いかは、分かるだろ?」
サグマが手を広げると、周囲に集まった人々の姿が目に入る。
商人、隊商の護衛、旅人……証人は十分すぎるほどいた。
観念したのか、ジウムは震える声で答えた。
「……わ、分かりました……」
だが、その目だけは、俺を鋭く睨みつけていた。
もし以前の俺なら、その目に凍りついていたかもしれない。
でも今は違う。
もう、俺は怯えない。
逆に、俺の方が睨み返す。
次は、お前の番だ――その意思を、目に宿して。
と、そのとき。
ポン、と誰かが俺の肩を軽く叩いた。
振り向けば、そこにはサグマの笑顔。
「レオン、行くぞ」
行くぞ、と言われても……少し戸惑った。
これまでずっと、隊商の後ろを歩いていただけの俺に、馬車の中へ入れと。
どうしようと迷ったが、好意に甘えることにした。
馬車が揺れる。
その窓の外には、まだ街道のど真ん中で呆然とするジウムとボヘックの姿があった。
「どうだ? スッキリしたか?」
サグマの問いに、少しだけ笑みが漏れる。
「……だいぶ、気持ちは軽くなりました。でも……ジウムのことは、まだ――」
ボヘックには、もう何の未練もない。
けれど、ジウムだけは……胸の奥に、くすぶるものが残っていた。
「そうか……ならば、ジウムが一番嫌がることをしてやればいい」
「嫌がること……?」
「そう。たとえば、お前が宮廷魔法師になって、ジウムの上官になる。しかも、手の届かないほど――遥か上の存在として、な」
冗談めいた口調だったが、その眼差しは真剣だった。
けれど、俺は首を横に振る。
「でも、僕には魔力がありません……強くなっても、そればかりは――」
強くはなれても魔力はない。
宮廷魔法師がそんな落ちこぼれであっていいはずがない。
「ん? 本当に魔力がないのか?」
サグマが目を細め、静かに問いかけてくる。
「第三位階魔法の消費魔力は、確か40だろ? 水晶の数字だけでは【風纏衣】と【石纏衣】を連続で使うことは無理なはずだ。隠すような魔法、例えば【隠蔽】か、偽るような魔法を使っていたんじゃないのか?」
【隠蔽】? 初めて聞く言葉だ。
それに、あのときのサグマ――マグサ相手に偽る理由がない。
「正真正銘、僕の魔力は50です。フルタス法爵家の人たちからは、『落ちこぼれ』と呼ばれていました」
それは、サグマにも言われていたことだった。
もちろん、あのときの彼の言葉に悪意がないのは分かっている。
サグマは腕を組み、少しだけ目を伏せる。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……なら、こういうのはどうだ?」
サグマが言葉を選ぶように続ける。
「十五歳になったら、ドラグラス王立学校を目指せ。そこできっちり結果を出せば、宮廷魔法師への道も、見えてくる」
なるほど。
その手があったか。
目標があれば、歩くべき道も見えてくる――そう思いかけたそのとき。
サグマが、ふと、言葉を継いだ。
「……と、言ってもな。ムスク伯爵家は《《魔法師》》の就学を助けることはできん」
妙に魔法師を強調する。
「……どういう意味ですか?」
「ふむ……そうか、知らなかったか。ドラグラス王立学校には魔法科と騎士科がある」
サグマの声が、少しだけ低くなる。
「我がムスク伯爵家は、フローラル伯爵家と共に、長きに渡って王宮騎士団を支えてきた家系だ。つまり――騎士科であれば、口を利くこともできる。だが魔法科となれば話は別だ。そこはガーネット伯爵家、あるいはアクアマリン伯爵家の管轄だ」
つまり、コネというやつか。
魔法科に進むなら、そちらの貴族の推薦が必要ということなのかもしれない。
たとえコネで入ったとしても、実力がなければ冷たい視線に晒されるのは目に見えている。
それなら、落ちたほうがマシかもしれない。
けれど、その中に、どうしても気になる名前があった。
「今、ムスク伯爵家は騎士家系と仰られていましたが――」
そう言いかけたところで、サグマが片手を上げて遮った。
「おっと、確かにムスク伯爵家は騎士の家系だ。だが、得物は槍術。それに俺には、その才がない。教える腕もないさ」
ワンチャン、剣の教えを乞おうと思ったのが、無理か。
「それに、剣を学びたいなら……本家のライバルとも言える、フローラル伯爵家に行くべきだな。あそこは化け物揃い。おかげでここ数代はずっとフローラル伯爵家が王宮騎士団の団長を務めている……と言っても入り婿で、実力はフローラル家の者の足元にも及ばないがな」
「入り婿? どうしてですか?」
「理由は簡単。女家系だからだ。フローラル伯爵家では男がほとんど生まれん。だから毎代入り婿を迎えてる。当主の座は婿が持つが、爵位の継承権は……嫁、つまりフローラルの血筋にある」
そんな家があるのか……それもこの世界ならではなのだろう。
「ま、そんな事情もあってな。ムスク家は今、武ではなく、商の道にも手を伸ばしてるってわけさ」
サグマは、にやりと笑った。
「サグマを逆さに読めば、マグサ。誰が言い出したか忘れたが……裏の流通ってのも、案外悪くないんだ。もちろん、これは内緒だぞ? といっても王族にはしっかりと話を通してある」
俺は静かに頷いた。
もちろん、墓場まで持っていくさ。
この人がいなければ、俺はきっと……ジウムの契約に縛られていた。
揺れる馬車の中で交わした会話は、どこか居心地が良かった。
気づけば空は赤く染まり――
俺の最初の中継ポイント――ガーネット伯爵家・領都ファジャスの街へと、たどり着いていた。




