誕生から幼少期
昭和の終わりの年の暮れ、私は新潟にある小さな町の一般家庭に生まれた。
私の上には3つ違いの姉がいて、その2年後、弟も生まれた。
でも、弟は生まれてすぐに死んだ。
私の母親は虚弱体質で子供が作りにくい体だった為、不妊治療を受けながら何とか私達を身ごもった。
けれど、そのほとんどは薬による効果で、姉も私も、そして弟も何らかの障害を持って生まれてきたのだ。
姉は両手の小指の長さが一関節分短く、私は生まれつき扁桃腺肥大と言われた。
そして弟は知的障害、または五体不満足で生まれる可能性が高いと言われて、生まれる前から諦められていたという。
その結果体力が持たず、母親か弟かどちらかの命しか救えないと宣告されて、弟が犠牲になったという。
父親は男の子が生まれてくるのを楽しみにしていたらしいが、命には替えられないと、母親なしの家庭で世間からなんと言われるか心配し、結局弟は断念されたらしい。
そして私達二人だけの姉妹が、成長していったのだった。
物心ついたときにはもう、両親との記憶は無い。
覚えているのは、祖父母に育てられていた、と言うことだけ。
両親のことは、一緒に暮らす同居人。
そんな感覚だった。
保育園に入った頃。
扁桃腺肥大の影響で、風邪をひいては医者に通うことが多かった。
当時の連絡帳には、「今月もお医者さんでお休みが多かったですね」と書かれていて、この頃から小児科と耳鼻科に通っていた記述があった。
それでも、お遊戯会の劇では町娘役を、別のお遊戯で着物を着て扇子を持ち、舞を踊ったリもしていた。
そして、写真に残っていたのは、同い年の子達と一緒に一人一個の蝋燭を持って『お静か』と言っていた、瞑想みたいなことをして、よくそのお静かで一番になっていたとのこと。
この頃から集中すると、ものすごい集中力を発揮していたらしい。
だけどこの頃から、男の子に「泣き虫」と言われてからかわれていた。
自分の思ったことを上手く他人に伝えるのが下手で、引っ込み思案。
口下手といった方が早いかもしれないが、想いを声や言葉で発するよりも、涙が先に出てしまうようだった。
そして感情が高まるとまた涙を流して凶暴化するという、手の掛かる子だったらしい。
幼稚園に入ってもそれは変わらず、幼馴染の女の子二人以外とはあまり話をした記憶が無い。
クラスが離れてしまったこともあって、お昼休みによく向こうの教室へ遊びに行ったり、一人で何かをしていることが多かった。
そして5才の頃に、お絵描きの時間で描いた絵が、児童絵画コンクールで銅賞を取った。
記憶が正しければ、雪兎の絵だったと思う。
クレヨンで真っ白いウサギと、空から降る雪を描いて、灰色の水彩絵の具を上から塗って、浮かび上がらせるように描いた絵。
当時は特に何も考えずに描いてたけど、今思えば、それが私の中で、始めて絵に対しての興味が湧いた瞬間だったと思う。
たぶん、3才か4才の頃だったと思うので、保育園に通っているときだと思う。
学校へ入る前に、授業についていけるようにと、学習塾へ通うことになった。
塾と言っても、地元の教室が出来たばかりの公文式。
まずは、国語と算数の2教科を勉強することになった。
その結果、小学校へ入る頃には、ひらがな・カタカナの書き方はもちろん、簡単な漢字は書けるようになっていた。
そして、算数の成績がずば抜けて良く、テストはいつも100点満点ばかり取っていた。
成績は優秀、でも欠点がひとつだけあった。
人との付き合い方がわからず、いつも一人だった。
幼馴染みの女の子と一緒にいた記憶はあるが、その子以外と一緒に遊んでる記憶はない。
そもそも、同年代の子と一緒に遊んだ記憶はほとんどない。
祖父母に育てられていたが、祖父は厳格で厳しく、自身の子を育てられなかったこともあって、孫である私と姉に対して厳しく育てていた。
公文式の塾へ通うことになったのも、祖父の教育方針の一貫もあった。
『勉強ができないと落ちこぼれる』
祖父の教育内容は、まさにスパルタだった。
常日頃から、「宿題が終わらないうちは遊ぶな」と勉強を優先させ、他のことは後回し。
その結果、人との交流が一切無かったため、人との付き合い方がわからず、クラスメイトのグループの輪の中に自分から入っていくことを知らなかった。
元々内気な性格もあって、口下手。
それもあって、同年代との子達との接し方がわからず、いつも一人で何かをしていた記憶しかない。