わだつみの星、深海のアティチュード
潜水艇の扉が開き、奥から姿を現した男は、ヘルメットを外した。
ヘルメットの奥に押し込められていたこげ茶の癖っ毛が、ぼさりと広がる。
男の見た目は40歳を過ぎたところか。
ルール・オーラクルムが事前に知っている情報よりは、若干上に見える気がする。
潜水服の上からでもわかる程度に体格は良い。
こげ茶の髪に、薄い緑の瞳。そり損ねた無精ひげ。
目の下の隈や肌の荒れ、伸び放題に伸ばして目元の隠れた髪が、老いの印象を強調するのかもしれない。
じろじろと観察していると、居丈高な口調で男はルールに向かって言い切った。
「お断りだ」
「はぁ」
「お前が相棒なんて認めん。荷物まとめて帰れ」
ぴしゃりとコミュニケーションを断たれたルール・オーラクルムは、一瞬動きを止めてからゆっくりと息を吐いた。
「そう簡単に帰れなんて言われても困ります。そもそも呼んだのはあなたです」
「俺の希望は三つだ。補充してほしいのは、人間で、物理的な力がある、同性の同僚」
「一つ目の条件以外は満たしています。私はあなたをサポートするためにここに来ました。疲労もなく空腹もなく、なんならあなた以上に腕力がある。十分あなたの役に立てます」
「二つ目は知らん、だが同性の件は明らかに」
「この機体に性別はありません。私の外装が少女に見えるのは、その方が警戒されずコミュニケーションを取りやすいという印象的必要性によるものですし、ヒトと同じに見えても性能は全く異なります」
説明してみせても、目の前の男は冷ややかな目でこちらを見るだけだ。
ルールは、再び頭を捻って説得の方法を探った。
思考に合わせて巡らせた視線。
たった今、男が出てきた潜水艇の向こうには、青い海が広がっている。
いや、むしろ青い海と空しかないと言うべきか。
――惑星アルゴノーツ。
間近で輝く巨大な恒星に照らされる、海原。
惑星の表面、海に浮かぶこの基地の周囲には、360度ぐるりと見渡しても海水と陽光以外に存在しない。
人類は、かつて資源を掘りつくし、母星を見限った。
そんな彼らが必死で探し当てた生存可能圏内の惑星の一つが、このアルゴノーツである。
もちろん、全土が海水に覆われたこの状態では、人類が大挙して移住することは不可能だ。せいぜい資源採取のために滞在する者がいるくらいか。
その唯一の滞在者は、今、ルールの目の前で腕を組んで立っている。
コウ・アマガイ。男性、37歳、独身。身長193cm、体重82kg。
年1回義務付けられている健康診断のデータの後に、経歴が続く。
全宇宙動力素回収協会へ15年前に入会。以降、惑星アルゴノーツで超深海域である冥海に潜り、動力素回収に当たっている人物。データには、そう記されている。
ルールは、これらの情報をいちどきに思い出したのち、最終的に、自分をここに置くしかない理由を直接的に伝えることとした。
「では改めて言いますが、私の配属を決めたのは本部の総合人材活用部。あなたに着任を拒否する権限はない。どうしてもと言うなら、自分で本部に文句を言ってください」
鼻で笑ってみせる。
つまり、強硬手段に移行しようと考えたのだった。
あからさまに権力を嵩に着て見せ、挑発に乗った相手が飛び掛かってでも来たら、よし。腕を捻り上げ、こちらの力を誇示すれば、一定の説得力もあるだろう。穏便に片付けることができる。
が、拍子抜けなことに、コウはそういった暴力には訴えようとしなかった。
どうやら先の説明――この機体に性別はないというルールの主張――を、信じていないらしい。
ルールが見た目通りの少女だとしても、いや、むしろ見た目通りだからこそ、男の体格を有利に使えばおとなしくなると考えてもおかしくないところだが。
「よろしいのですか、手を上げなくて」
「機械と喧嘩する趣味はない」
「意外にも紳士ということですか……私にとっては残念なニュースですが」
「知るか。俺はお前を相棒とは認めない。今すぐ帰るか、帰らないならこの基地でおとなしくしていろ」
コウは吸っていた煙草を投げ捨て、そのまま背を向けて去っていこうとする。
仕方なく、ルールはその肩を掴んで止めた。
意外な動きに驚いてか、体躯からは想像できない膂力に怯えたか、さすがにコウも足を止める。
「あ?」
不機嫌そうなコウの声をよそに、落ちていた吸殻をつま先で器用に蹴り上げ、空中で掴んだ。滑らかな動作で、口に咥える。
見開かれたコウの目の前で、煙のくゆる唇が、これまでの態度を捨てて本音を吐き出す。
「よくわかった。なるほど君は面倒な奴だな。聞く耳はない癖に、妙なところで常識的。あげ足を取ろうにも取る足がなくて手詰まり。前任者が泣きついてくる訳だ」
手慣れた様子で壁に煙草を押し付けて消して見せると、コウはルールの豹変にため息をついた。
「……それが地か」
「私のことはどうでもいい。今は君の話だ、コウ」
「なにが言いたい」
「コウ・アマガイ。考課は毎年連続でD-以下。業務態度不良、協調性皆無、能力考課最低ランクーーただし、業績だけは例年異例のSS査定」
本部の担当者と本人だけしか知らない考課情報を開陳した途端、コウがうんざりとした表情を浮かべた。
「お前、監査官か」
ルールは答えず、ただ笑う。肯定したようなものではあるが。
考課情報に触れることができ、かつこんな辺境の地へ単身乗り込んでくるような協会員は、本部の派遣した監査官ぐらいしかいない。
「要請した人員は来ず、ようやく来たのは相棒どころかただのアンドロイドですらなく、監査官――本部はなにを考えてるんだ」
「私が、アンドロイドで監査官であることは事実としても、別に君の相棒でないことにはならないだろ」
「監査官が相棒だなんて聞いたこともない。お前の仕事は俺の採点をすることだ。こんな錆びつきそうな潮風の真ん中で、俺と一緒に動力素を取りに潜ることじゃないだろう」
「それは機械差別だぞ。君がこの辺境の地で15年も蟄居ましましている間、本部ではアンドロイドの利活用が進んでいる」
「話を逸らすな」
ルールはコウの問いに応えず、手元の電子板を操作すると、資料を一つ表示させた。
――5年前。惑星アルゴノーツの動力素回収作業中の事故。通称、ネレイデス海溝沈没事故。
ネレイデス海溝の冥海へ潜水中、潜水艇に不具合が発生、通信が途絶える。潜水艇乗船員は全員行方不明。
基地に残っていたコウ・アマガイによって捜索が行われたが、最終的に見つかったのは潜水艇の残骸と、乗船員の身体の一部のみ。
確定した死亡者は2名、身体が欠片も見つかっていないままの行方不明者が1名、そして……
「基地にいた唯一の生存者――コウ・アマガイ。それが君だな?」
「だからなんだ? ただの不幸な事故だ。お前の持つ資料にもそう書いてあるはずだが」
「そうだな、資料にはそうある。なぜなら、君がそう報告したから。君の言葉が一言一句違わず報告書の前提条件になっている」
「何が言いたい」
ぎろりと睨むコウの視線を前に、ルールは無表情を取り戻す。
「事実を述べているだけですよ、コウ・アマガイ」
そして、わざとアンドロイド然とした動きで、敬礼した。
「ルール・オーラクルム監査官、本日をもって惑星アルゴノーツ動力素回収作業、並びにネレイデス海溝沈没事故の事実確認任務に当たります」
「本部は俺を疑って、お前を送りつけてきたって訳だ」
「ルール・オーラクルム監査官は、ヒトをサポートするための機械です。すべては人類の繁栄のため。それでは、本日も速やかで効率的な動力素回収に当たりましょう」
「相棒とは認めねぇぞ」
捨て置いて、コウは今度こそ振り返ることなく部屋を出て行った。
残されたルールは、基地の外――強化ガラスの向こうに目を向ける。
「あーあ、ヒトってのは面倒臭ぇなぁ」
さんさんと輝く太陽に、ただ光を跳ね返す青い海。
それに透けるように、ガラスにぼんやりと少女の――自分の影が映っている。
長く黒い髪。青い瞳。人形のように整っていて無機質な顔立ちは、自分の考えていることを容易にはのぞかせない造りになっている。
「……ま、仕方ねぇな。しばらく付き合うか」
ぼんやりと呟く声は、聞くものもなく空中へ溶けて行った。
◇◆◇◆◇
45年前、とある惑星で発見された、宝石にも似た赤い結晶群。
ただ美しいだけに思われたその石が、新しいエネルギー源として脚光を浴びたのは、ちょうど15年ほど前のことだ。
動力素――安定性に乏しいのがデメリットだが、少量で石油や石炭とは比較にならない大きなエネルギーを生むことができ、原子力と違って残留物もない。すべてが燃え尽き汚染物質が生まれることもないときて、爆発的な速度で研究が進み、現在ではクリーンで有力なエネルギー源となっている。
この惑星アルゴノーツの水深6000m付近の海底――冥海はその産地の一つ。動力素を比較的容易に、多量に採取できる場所の一つとして知られていた。
酸素のない海中では単に綺麗なだけの石であるが、採掘し、エネルギー供給のために使えば、非常な高値で取引される。
今や、技術よりもそれを実行するエネルギーの方が、必要とされているのだ。
動力素の使い道が判明してから15年――つまり、コウ・アマガイは全宇宙動力素回収協会の最初期のメンバーである。
最初期からこの星で深海へ潜り、そして、それまで共に勤務していた者を同時期に失った。
10年間一度も起こらなかった、潜水艇の事故によって。
潜水艇を動かすには、最低でもパイロットのほかにもう1名コパイロットが必要だ。
事故の後、基地に滞在する人員は減り、常時2名を維持。
以降、コウ・アマガイと共に深海に潜る相棒は、繰り返し変更されている。
すべて、コウの相棒から異動希望が出されたことによるものだ。
◇◆◇◆◇
恒星がのぼる前、早々に海へ出ようとしていたコウの前に、ルールはひょこりと顔をのぞかせた。
ヘルメットの下からこぼれた黒い髪が、背中で揺れる。
「遅かったですね、ようやく出発の準備ができたんですか」
ルールの出で立ちは、潜水艇の乗船員に規定された潜行服とヘルメット。
その後ろには、既に整備の終わった潜水艇がある。
「お前、なんで」
「食事も休息も不要だと伝えましたよ。潜水艇の取り回しの方は、まあ……昔取った杵柄ってやつで」
ルールは、顎先で潜水艇の耐圧扉を指す。
「行くんでしょう? バックアップします」
「相棒とは認めないと言ったが」
「となると、私の自由意思で行動するしかないですね。指示をくれるなら従いますが」
「…………」
「では、行きましょうか。どうぞお構いなく。こちらはこちらで好きにやらせていただきますから」
動かないままのコウを尻目に、ルールは扉に近づくと、滑らかな動きで開錠した。途端、潜水艇内の淀んだ空気が外へあふれる。
脇に避け、微笑むルールの脇を通って、コウは艇内に乗り込んだ。
振り向かないまま呟く。
「お前には操艦させないからな」
「結構です。浮上後の後処理係とでも思っておいてください」
「言ってろ」
吐き捨てるように言うと、ルールが潜水艇に入るのを待って、扉が閉められた。
◇◆◇◆◇
真っ暗なモニターの外を、コウはじっと見ながら繊細な手つきでレバーを動かしている。
その横顔を見ながら、ルールもまた自分の手元のレバーを握っていた。
集中しすぎて、鼻血が出そうな気がする。
深海の水圧等に関係し――ている訳ではない。
作業の難しさに相まって、どうやら自分はこの手の閉塞した空間が苦手らしいと、ようやく気付いた。
潜水から数時間。ようやく6000kmに到達した潜水艇内に電灯はついているとは言え、全体の薄暗さと狭苦しい圧迫感は変わらない。
「……今更降りるって言ってももう無理だからな」
様子がおかしいことに気づいたのだろう。こちらを見もせずに、コウは唸るような声をあげる。
ルールは、ため息をついて正直なところを答えることにした。
「こういうのが苦手……ってこと、自分でも初めて知りました」
「昔取った杵柄ってのはどうした」
「整備士だったんだ。乗る方ってのはこういう感じなんですねぇ」
周囲をぐるりと見回す。
目の前には大小の計器がびっしり天井までついており、コウの目の前のモニタは最小限。膝どころか太ももまで触れずには座れないほどの狭さだ。
互いに顔を突き合わせるほどの距離で触れあいながら、居心地の悪さをに身じろぎするルールと違い、慣れているのかコウの方は落ち着いた様子でレバーや計器に向き合っている。
手持ち無沙汰も数時間続けば音を上げるほかなく、またこの狭い空間ではコントローラーをルールから隠し続けるのも当然不可能だ。そうして、出発前の口約束はどちらからともなく早々になし崩しとなり、現在はコウが潜水艇の操作を担当し、ルールが回収を担当する分担となっている。
少なくともコウは、操艦からだけはルールを遠ざけることに成功した訳だ。
「いいか、俺1人でどうにでもなる。次回からお前は乗らなくていい」
「いや、大丈夫……慣れれば大丈夫だから。それより、あの……難しいな、これ」
ルールが今、両足の間にはさんで取っ組み合っているのは、機械腕を動かすためのコントローラーだ。
この潜水艇には、動力素を回収するために、機械腕が2本、艇の前面下部につけられている。
細長く関節の多い腕は、ぱっと見クレーンのアームに近い形状。長さは3mほど。
それに対し、拾うべき動力素一つは、概ね大人の拳一個分くらいか。
うまくレバーを動かしボタン操作をして、海底に散らばった動力素を拾い、潜水艇の底に設置されたバスケットに回収するのがルールの仕事――なのだが。
「はぁ!? なんで掴めないんだよ、このクッソ難しいクレーンゲーム、いい加減にしてくれ」
「ヘタクソ」
「カメラに映らないんですよ! アームの先追っかけて永遠にカメラの角度変え続けなきゃいけないじゃないですか。だいたい、動力素って下手に衝撃与えると爆発するでしょう?」
小さなモニターの先では、ルールの動かす機械腕の先が、潜水艇のライトに照らされ赤く光る動力素を掴もうとしては、海底を転がしてつかみ損ねている様子が映っている。
膨大なエネルギーの凝縮された動力素を、アームの先がつつく度に、ルールはびくりと肩を震わせることになる。
こめかみを伝って、ぽとりと汗が落ちる。息苦しさからの緊張と、想像以上の難易度への焦りによるものだ。
「うっ……く、くそ、こいつ……」
「そっとやれと言っている。機械腕を壊しでもしたら、今日の成果はお前の呑気な海底見物で終わるぞ」
「わかってます、けど……むっずか……しい」
「おい、そっちからアームを近づけるとカメラから外れる――ほら外れた」
「っるっさいなぁ! そんなに文句言うならあんたがやれよ!」
思わず顔を上げて怒鳴ったところ、予想外に冷静なまなざしとぶつかった。
コウの薄い緑の瞳はルールを見据えたまま、静かにルールの足からコントローラーを奪っていった。
代わりに、潜水艇本体のコントローラーを渡される。
「動かすな。保持してろ。船体が傾くようなら操作しろ」
言いおいて、ちらりとモニターをのぞいたコウは、指先で慎重にレバーを動かした。
滑らかに、かつ丁寧に動くアームの先が、ほどなく動力素を優しく掬い上げる。
動力素をうまく引き寄せ、バスケットの底に静かに置きなおすと、ようやくコウは再びルールに視線を戻した。
「くっ……うまいじゃないですか」
「15年も同じ仕事やってりゃ当然だ」
「なるほど、これが業績SS査定の理由な訳ですね……ノンデリの割に仕事は丁寧」
「言ってろ。デリカシーだの気遣いだのは、海の上に置いてきた。この程度もできないなら、やっぱりお前を潜水艇に乗せる理由はないな。戻ったら本部に連絡して、即交代を申し入れてやる」
「……無駄だと思いますけどね」
単なる相棒として来たわけではなく、ルールは監査官だ。
動力素回収の役に立たなくとも、もう一つの役目がある。
コウは答えず、だが明らかにルールに聞こえるように舌打ちをした。
態度の悪さにこちらもあからさまなため息をつくと、2人は改めて次の動力素回収に向かったのだった。
◇◆◇◆◇
1日の仕事を終え、浮上後。
基地の隅にあるシミュレータールームは、半分以上埃をかぶっているような状態だった。
コウ自身は疑似訓練など必要としないほど深海へ潜っているのだろうし、前任者以前の相棒は誰もこれを使ってまで練習しようという気は起きなかったのだろう。
ふう、とあきれた息を吐き、ルールは雑然とした部屋の片づけに取り掛かった。
荷物置き場か倉庫のように押し込まれていた不要物を丁寧に整え脇に寄せ、埃をかぶっていたシミュレーターを拭き上げる。
綺麗になったところで、ルール・オーラクルムは潜水艇の機械腕操作のシミュレーションに取り組んだ。
3Dグラスを目元に取り付け、スイッチを入れれば、まるで昼間に時間が巻き戻ったかのような、狭苦しい潜水艇の中が再現される。
違いと言えば、傍らにコウの姿がなく、あの艇内独特の匂いがないことくらいか。
だが、実際にシミュレートアームを動かせば、僅かな感触の違和感はある。
実物は既に経験した。
現実と仮想の相違は、今日のデータを活用して脳内で補うこととする。
カメラの操作。機械腕の操作。レバーを引き絞ったときの力の具合と実際のアームの動きを、機体に同期させていく。
集中のあまり過ぎる時間を忘れかけていた瞬間、耳元で響いた声でルールは我に返った。
『……なぜ交代を認めない。相棒失格だと言っているんだ。使えない奴を寄越されても、仕事の邪魔だ。実際、今日の回収量は大幅に下がったぞ。この1ヶ月、相棒不在で俺が1人で潜っていた間の半分以下だ』
コウに仕込んだ盗聴器が仕事を始めたらしい。
他人のプライベートを観察するのは気が引けるが、こんなことで気を遣っていては事故調査などやっていられないし、監査官を続けることもできない。
それに――ルールは、なんとしてもネレイデス海溝沈没事故の原因を暴きたいのだ。
コウ自身に取り付けた盗聴器だから、通信相手の声はほとんど聞こえない。
そもそも、一方的にコウがしゃべり続けているから、というのもあるかもしれないが。
『あいつの機械腕の操作のマズさったらないぞ、一度でも一緒に乗ってみろ。足手まといでしかないっていう俺の言葉もわかるはずだ。いいか、アンドロイドなのはまだいい。そもそも、なんで女性型を寄越した。ここには俺しかいないってことを、あんたらはわかってるだろう。適当な女をあてがって、俺をここに縛り付けたつもりか?』
「へいへい、悪かったね」
独り言のように言い返してみるが、すべて想像の範囲内。大した会話ではなさそうだ。
聞き流しながら、コントローラーを動かし続ける。
コウの口調がどんどんエスカレートしている様子からしても、本部側は取り合っていないようだ。監査官をここに送り込んだ当人たちの反応としては当然のことだが。
『ああ、お前らの言うことはわかったよ。なるほどな、ルール・オーラクルム監査官の優秀さとやらを、反証する事件が起こらない限りは交代は認めないってことか』
「……おっ、照れるね」
『いいだろう、そっちがその気ならこっちだって自爆覚悟で最後まで付き合ってやるさ! 二度目のネレイデス海溝沈没事故の報が入ってはじめて、あんたらの信頼する監査官の無能を疑えばいい!』
「ンなもん……二度も起こさせるか」
シミュレーターの画面が、ちょうど無事に動力素を回収し終えたところで、ルールは静かに息を吐き、胸元へ指を伸ばした。
シャツの上から触る硬いリングの感触が、ルールに再びこの惑星に来ると決まったときの思いを取り戻させる。
事故の原因解明を。そして――
◇◆◇◆◇
翌朝、昨日より早く潜水艇に到着したコウは、既に整備済みの艇の中で唸るしかなかった。
海上でできる動作確認を一通りやってみたが、昨日、動きに少しばかり違和感があったため、今朝早めにネジを締め直し油を差そうと思っていたアームの指先まで、完全な状態に戻っている。
外部のチェックをしようと艇から一度降りたところで、弁当用のサンドイッチバスケットを抱えたルールとばったり出くわした。
「おはようございます。準備出来てますよ」
「……今見た」
「ダブルチェックもばっちりってことですね、どうも。じゃあ、行きましょうか」
「お前を乗せる必要はないんだが」
冷ややかに見据えられたルールは、にこりと笑って首をかしげる。
「乗せなくてもいいですが、乗せない限り私の無能さは証明できないのでは」
「は?」
昨夜のやり取りを受けての提案である。
コウが一瞬固まった間に、ルールは潜水艇に乗り込んだ。
「さ、どうぞ。あなたの動きは昨日見ることができました。即日15年の差を埋めるのは困難でも、ある程度まではなんとかなります」
「言ったな。そのなんとかがなっていなかったらどうする」
交渉を仕掛けてくるとは可愛いものだ、とルールは微笑んだまま頷いた。
「いいですよ。本部には私の方から掛け合います。私では到底コウ・アマガイの腕前にはついていけませんので、ぜひ交代要員をお願いします、と」
コウは黙ってルールの横を通り抜けると、内側から扉を閉めた。
しばらくして、扉を完全に密封する際のギチギチという音が始まる。
無言の承諾を、ルールはにこやかに受け止め、黙って席についた。
――こうして、その日、惑星アルゴノーツで動力素回収が始まって以来15年、過去最高量の動力素が回収されたのだった。
◇◆◇◆◇
「……どんな違法プログラムをダウンロードした」
浮上後、翌日に向け再び潜水艇の整備をしていたルールの背後から、不機嫌そうな声がかかる。
振り向けば、回収したばかりの動力素を抱えたコウの姿があった。
最初から疑われれば、ルールは素直に事実を述べない。
そういう対応が身にしみついている。
「さあ? ネットに転がっているプログラムにいちいち名前なんてついていないので」
「嘘だな」
「は?」
問い返しても答えはない。
ルールの脇を通り抜け、コウは慎重に動力素をロケットの格納区画へ搭載していく。
定期的にこのロケットを飛ばし、最寄りの管理部門で選別した動力素が、改めて全宇宙にエネルギー源として供給されるのだ。
コウの手が、一つひとつを丁寧にカプセル梱包していく。
しばらく待ったが回答はないらしいと知り、ルールは艇の底部、動力素回収バスケットの緩みを締め直した。
オイル漏れの状況を確認しながら、空いた左手でくるりと小型のスパナを回す。親指から人差し指、中指、薬指と渡って小指まで。集中しているときのルールのクセだ。
ふと視線を感じて顔を上げれば、コウがじっとこちらを見据えていた。
「……なんですか?」
「動力素の回収に、本当は慣れているんだろう。もとから知っていたから、昨日1日横で見ていた程度で勘を取り戻すことができた。あるいは、調整できた」
「はあ、なるほど。まあ、経験者を寄越すということはあるかも知れないですね」
「それも嘘だ」
「はぁ? なんなんですか、一体」
どうやら先ほどの会話はまだ続いていたらしい。
既に、真実を言わないと心に決めたルールは、コウの決めつけに是非の答えはしなかった。
お前に追いつくために夜を徹して訓練した、と言うのも気恥ずかしい話ではあるし。
オイル漏れの状態から、どう対処するかを考えつつ、ルールはほとんどうわの空で会話を続ける。
「ネレイデス海溝沈没事故について調べていると言ったな?」
「そうですね」
「俺を疑っている理由はなんだ」
「特にあなただけを疑っている訳でもないんですが……」
実際、コウを特別疑っているということはない。
強いて言えば、生存者がコウだけだから、他に疑う具体的なあてがないというだけ。
その程度だからこそ、出会い頭に言ってもかまわないと判断した。
「事故原因はいまだ判明していません。回収された潜水艇の一部から、潜水中に外部から大きな圧力が加わったものと見られますが、それが何によるものかまでは」
事故のレポートを思い出しながら、ルールは整備作業から手を離さない。
「海底6000mの冥海での出来事です。内部の亀裂や整備不良などから外圧を受けて自壊したパターンもあるでしょうし、想定を超える海底の谷に急速に落ち込んで水圧によって破損したことも考えられます」
「お前は、どう思っている」
「まだ調査に来たばかりです。なんの根拠もありませんよ?」
「なんだって想定はあるんだろうが。どう考えている」
「……自壊ではないだろうな、とは思っています」
「なぜ」
妙に絡んでくるな、と訝しみつつ、ルールは仕方なく潜り込んでいた潜水艇の底部から顔を出した。
じっとこちらを見るコウと目が合う。
「あなたは当然のこと、亡くなった3名も皆いずれもこの仕事のエキスパートでした。予想外の事故はあっても、予想の範囲内で事故を起こすことはないでしょう」
コウはしばらく無言でルールを見つめた後、胸ポケットの内側から唐突に一枚の紙を差し出した。
目前に出されたそれに視線を移せば、古びた写真に潜水服の4人が笑い合って写っている。
男が2人、女が2人。
そのうちの1人、写真の中央、右から2番目の人物は、今よりも若いコウ・アマガイだった。整えた髪を後ろに流し、意気軒高で陽気に見える。
「チームメンバーだ……だった。俺の隣が、セツ・アマガイ。妹だ」
コウと同じ色の髪と瞳の色をした彼女は、かつてのコウに肩を抱かれ、カメラに向かってピースサインと満面の笑みを向けていた。
サインを出した左手に銀の指輪がはまっているのを見て、ルールは思わず胸元を押さえる。
「妹の死体だけが唯一見つからなかった。生存の可能性などある訳もないのに、生死不明のままだ」
淡々と語る声に感情はこもっていない。
だが、事故の報を聞いて、彼がどんなに憔悴しなにを感じたのか、想像は難くなかった。
「俺を疑ったままでもいい。だが、俺は俺なりに解決を望んでいる」
静かな声だった。
だから、先ほどまでのコウに対する反抗心じみたものを引っ込めて、ルールは率直に尋ねることにした。
「どうして、私にこれを?」
「死んだ奴の顔を、俺以外に知ってる者がいてもいいと思ったからだ。それに……お前まだ帰るつもりはないんだろ。相棒」
はっと顔を上げた瞬間、コウの方が視線を逸らした。
どこともない空中を見たまま、ひとりごとのようにつぶやく。
「……在庫を取りに行ったら、シミュレーションルームが妙に片付いてた。何時間訓練してたかは知らんが、擦り切れたレバーのクッションは交換しておいてくれ。ここにあるから」
床に消耗品を置いて去っていくコウの後姿を見ながら、ルールは今更のように頬を紅潮させた。
気づかれていないはずの努力に気づかれることが、こんなに気恥ずかしいなんて。
◇◆◇◆◇
ルールが惑星アルゴノーツに来てから1ヶ月。
間に短い休日を挟みつつも、日々の釣果は上々で、この調子なら今期の目標回収量は簡単に達成できそうだ。
今日も今日とて潜水艇の2人は、海底6000mを這っている。
「静かですねぇ」
「だからってくっちゃべるな」
少しばかり軟化したコウの態度は、しかし相変わらず謹厳である。
もちろん、ルールの方も負けはしないのだが。
「じゃあ、喋る代わりに歌っちゃいますか!」
「やめろ」
「ああ~♪ 遠く果ての星~♪ 見知らぬ世界に君はいる~♪」
「や、め、ろ! このどヘタクソ」
軽い取っ組み合いになりはしても、狭い潜水艇。しかも底部に動力素を抱えたままでは、さしてはしゃぎまわるわけにもいかない。
ルールは早々に歌を止め、コウは振り上げた拳を降ろした。
静かになった潜水艇の中、ふう、と吐いたルールの息の音が妙に耳につく。
だが、暗い海はすぐに、夜のようにそんな小さな音を搔き消していった。
周囲を見回し、ふとその物寂しさが口につく。
「深海に1人で潜るのは、怖くはありませんでしたか」
「怖い? なにがだ。幽霊か、怪物か? 妹のことなら、別に、この潜水艇で死んだ訳じゃない」
「そりゃそうですよ、事故のあった潜水艇はバラバラになって発見されその後廃棄……いえ、そういう話じゃなくて。1人きりで孤独とか、寂しさとか」
「こっちにいても上にいても、どうせ1人だ。何人か相棒は来たが、どいつも邪魔なだけだった。なら、どこにいたって変わりはしない……5年前から、ずっとそうだ」
「また、そんな」
普段はこんなことで怖気づかないルールの方が、慌てて距離を離しかけた。
コウは顔色一つ変えないまま、モニターを見つめている。
「生き残った者の義務だ。事故の後、俺はさんざん原因を探した。セツからの最後の通信が、ちょうどこの辺りだ」
「ああ、資料で見ました。最後に通信を受け取ったのはあなたでしたね、コウ」
ルールの言葉に、コウは頷く。
「だから、なにかあったとしたならここだろう。だが、それらしいものはなにもなかった。この周辺に谷はない。仲間たちの腕は確かで、動力素をぶちまけるなんて操作を誤ることもない。機械腕が岩に引っかかったとか、バスケットが泥に絡まったとか、トラブルがあったなら最後の通信でセツがそう言ったはずだ。通信が突然途切れるまで、セツはいつもの明るい声だった。俺には言えないなにかを抱えていたのでは、なんて何度も言われたが、声を聞けばわかる。あれから何度も聞いたが、あいつはなにも気づいちゃいなかった。気づかないまま――事故にあった」
声に悔しさがにじんでいる。
そのことに気づかないふりで、ルールは踏み込んだ話をすることにした。
「最後の通信は録音されていて、その現物はあなたがまだ持っているんでしたよね? 文字に起こしたものは資料として目を通しましたが、現物は確認できてなかったな」
「……聞きたいか」
「ぜひ。なにか発見があるかもしれませんし」
「上に戻ったら貸してやる。だが、そうだな……せっかくならここで聞いてみるか。あいつと同じ状況で聞いたら、俺もなにか気づくことがあるかもしれん」
胸ポケットからするりとその録音データが出てきたことに、少しばかりルールは驚いた。
だが、それが写真と同じ場所にしまわれていたことに気づいて、何も言わないことにした。
コウ・アマガイにとって、きっとそこは彼女の思い出をしまう場所なのだろうと理解したからだ。
艇内の小型コンピューターに携帯メモリを読ませる。
すぐに録音データは解凍され、5年前の音声を流し始めた。
『もしもし、コウ? こっちは好調よ。10年採りまくっても回収すべき動力素はまだまだたくさんありそう。しばらくはあたしたち、食いっぱぐれないわ。ねえ、どうする? 次のボーナスが出たら、どこに行きたい?』
『調子がいいわね、まったく。そうね……行き先なら静かな場所がいい。広々とした草原みたいなところ。大事な人と一緒に』
『えぇ、海でしょ! ちゃんと砂浜とかビーチは欲しいけど、青い海と輝く太陽……見てたらやっぱりリゾートしたいでしょ!』
『海か……泳ぐだけならここでもできるが』
『やだぁ、この辺の海なんて足つかないし、疲れるばっかりだもん』
『おい、お前ら。無駄話ばかりしないで、仕事はちゃんと進めておけよ』
『そうよ、どんな夢を見るのも勝手だけど、いずれにせよ動力素を回収しなければ――』
『…………おい? おい、どうした。おい、セツ! ジュディ、ロバート!? おい、セツ! 応答しろ、セツ!』
軽やかに笑う娘の声と、それを窘める不機嫌そうな女の声が交互に聞こえ、間に少し小さく響く若い男の声。
それから、今よりも少し若いコウが笑いながら止める声が聞こえて――そして、唐突な無音。
最後は、コウが必死に妹の名を呼び続ける声で、録音が終わる。
ルールは、どんな表情を浮かべるべきかさんざん迷った結果、結局は苦笑を浮かべることにした。
「なるほど、確かに元気そうだな、あなたの妹は。深海にいながら草原に行きたいなんて」
はっとした顔で、コウがルールの目を見る。
真剣なまなざしのまま、なにかを言おうと口を開いた。
「お前、今――」
言葉は最後まで聞き取れなかった。
音とともに激しい揺れが起こった。
「うわ!?」
バランスを崩したルールが、コウの身体にしがみつく。
それを振り払う余裕もなく、コウはモニターに目を向ける。
そこには、巨大ななにものかの触腕が映っていた。
白く透けるような太い柱は、先端がやや広がっておりそこに細かな吸盤が無数についている。
「――イカの足!?」
ルールの声が船内に響く。
確かに、形状は二人が良く知る軟体動物のそれによく似ていた。
大きささえ無視すれば、だが。
二撃目。
横からひっぱたかれるような衝撃に、ルールの身体は大きくかしいで、船内の壁に頭を打ち付けた。
計器のガラスが割れ、内部の部品が飛び散ったのが見える。
「危ないから頭を押さえて体を固定してろ! ――いや、もう、こっちに来い!」
コウの左手が、ルールの肩を抱き寄せる。
自分の胸板に押し付けるように腕を回すと、コウ自身は右手を近くのポールに絡ませ、姿勢を固定した。
コントローラーのレバーを動かし、即座に後方へ移動する。
追ってくる触腕をカメラに捉えつつ、できる限り速くその場を離れようとして――触腕の向こうに、丸く輝く月のようなものが映った。
それが、巨大なイカの目であることを理解するまで、ルールにはしばらく時間がかかった。
「なんだあれ――ふ、浮上しよう、コウ! すぐにここから離れなきゃ……!」
「浮上より横移動の方が早い、水圧の影響を考えなくて済むからな。目の位置からして、相手は上を取ってる――どこかに隠れてあいつをやり過ごしてから浮上しよう。そうじゃなきゃ、5年前の二の舞だぞ」
ルールの脳裏に、資料にあった当時の写真が浮かぶ。
バラバラの船体。水圧に潰され、原形をとどめない人体の破片。
どうしても回避したい未来を頭から振り払い、コウにしがみつく。触腕から逃れるため、旋回を繰り返す船内では、とてもではないが自力で姿勢を保持するのが困難だ。
コウもポールに腕を引っかけたまま、奇妙に捻った姿勢で潜水艇の操作に没頭している。ルールの視線に気づくと、目を逸らし独り言のようにつぶやいた。
「……大丈夫だ、この潜水艇のエネルギー源は動力素。幸いにして、たった今回収した動力素がある。船内にさえ取り込めれば、海水から酸素を生成するための機構も、エンジンへの補給も問題ない。このまま深海に潜むとしても1ヶ月以上もつ。逃げ回って隠れればなんとでもなる」
落ち着いたコウの声は、まるで自分自身に言い聞かせるようでさえあった。
ルールは慌てて頷き返す。
やがて潜水艇の動きが細かくなり、しばらくして完全に止まった。
「岩陰に着いた……ちょうど、穴蔵にもぐりこんだような形になったな。このまま、しばらくここで待機して、化け物イカの姿がカメラに映らなくなったら、頃合いを見計らって浮上する。いいな」
「了解……」
頷き返すと、コウはすぐにルールから視線を逸らしモニタにかじりついた。
その視線の真剣さには、どうにかなると安心させる口調とは裏腹に、妙な焦りが混じっている。
「なあ、大丈夫……だよな?」
「さあな、5年前のことを考えれば安心する要素なんてほぼないが」
ちらりとコウがルールの顔に目を向ける。
よほどひどい顔色をしていたのだろう。すぐにため息をつくと、たった今自分で言った言葉を撤回した。
「録音には、襲われたという声も化け物イカを見つけたという会話も入っていなかった。出会い頭にすぐやられたんだろう。事故の直後、捜索用の予備艇でこの辺りをうろうろしていたときさえ、俺はあいつの姿を見ていない。5年前にセツたちが出会ったのと同じ化け物だとすると、あいつは移動してエサを探すタイプの生物なんだろう。数日も隠れていれば十分だ、すぐに飽きてどこかへ行ってしまうさ」
もともと低く沈んだ声をした男だが、らしくもなく明るい言いざまは、元気づけようとしてくれているらしい。
ルールは、応えるようにひきつった微笑みを浮かべて見せた。
◇◆◇◆◇
あれから時計はぐるりと2周回り、地球時間の24時間が経過したことを示している。
コウはあれから一度、見張りをルールに任せ、睡眠をとっている。
潜水艇に積載した弁当と保存食はコウ1人に対し3日分。ルールの身体は口腔からの有機物の摂取を必要としないため、
先ほど、4度目の食事を終え、残りは細かくわけてもせいぜい2日分。
2人はヘルメットを外し潜水服を緩めた姿で、聞くともなく、セツの最後の録音を聞いていた。
話し相手がいる分かなりマシとは言え、日の光を見ないままこの不安な状況を漫然と過ごすことは、2人にとってはかなりストレスのかかることだった。
暇を潰すため、仕方なく互いにくだらないクイズを出し合ったり、ここから出たらなにをしたいだの、まじめに老後の資産運用の計算をしたり、セツの残した録音を聞きなおしたりと、この狭い空間でできるあらゆる対話を試みた。
コウに至っては、幼少期の思い出まで話したが、これだけの時間を費やしても、状況の変化はない。
「……まだイカの気配はあるようですね」
現在、カメラを乗せた小型の無人調査艇を切り離し、周辺を探らせている状態だ。
時折、カメラにはイカの影が映り込む。触腕の端であったり、本体の巨大な影であったりとその時によってまちまちだが、どうやらこの潜水艇の付近を周回しているらしいことだけはわかった。
コウが、ルールの後ろからモニターをのぞき込む。
「ずいぶんねばるな。前回とは動きが違う……別個体ということか、それとも単に獲物を取り損ねて必死になってるのか。ここに俺たちがいるとわかってるのか……?」
「だとしたら、すぐに触腕を突っ込んできてもよさそうなものです。回遊しているのは、私たちを見失っているからですよね?」
「念のため、潜水艇のライトは消してある。むしろ無人調査艇はライトをつけて飛び回っているというのに、イカの方はほぼ反応していないな」
「光で見ている訳ではないのかもしれませんね……そもそもこの冥海に、光が差し込むこともない訳だし、視覚は退化しているのかも」
「視覚で認知しないとしたら……」
――聴覚。
二人が気づいた瞬間に、ちょうど潜水艇の傍に戻そうとしていた無人調査艇が、巨大な影をとらえた。
「まずいまずいまずいまずいっ! コウ、あいつ近づいてきてるぞ!」
「慌てるな、こっちの姿が見えてる訳じゃない――いや」
触腕が、明らかに潜水艇をめがけてくるのを見て、コウは久々にコントローラーに手を伸ばした。
レバーを引き、可能な限りの速度で急発進を試みる。
泥を巻き上げながら発進した潜水艇の後を、触腕が追ってきた。無人調査艇のカメラから見れば、今にも潜水艇に届きそうだ。
「クソ……ッ!」
ルールは咄嗟に機械腕のコントローラーを動かし、触腕を防ぐように振り回した。即座に機械腕を切り離ししようと操作したが、絡まった触腕の方が早い。
怖ろしい力で潜水艇を引かれ、船体は45度にも及ぶほどかしいだ。
「ぅ、わ……!」
直後、触腕は外れた機械腕だけを回収していった。
走行中の移動エネルギーと、触腕によって引かれ横転する移動エネルギー、その両方の対角線の方向へ――すなわち、想定とは明後日の方向へと潜水艇は吹っ飛んでいく。
当然ながら、内部ではルールが壁に吹っ飛んで激突しそうになっていた。
危うく、横から割り入ったコウが、その身体を抱きとめる。
「――痛ぅ……!」
「ま、ちょ――コウ!?」
潜水艇の上下が戻った途端、ずり落ちてきたコウを抱きとめ、身体を確かめる。
割れた計器のガラスに頭をぶつけたらしく、額を伝って血が垂れ落ちていた。
慌てて辺りを見回したが、清潔な布などここには既にない。
潜水服を脱ぐと、下着代わりのシャツの裾を引きちぎり、コウの傷口に押し当てた。
「コウ、押さえてるからあんまり動くな」
「……大した怪我じゃない、頭の傷は派手に見えるだけ……」
顔を上げながら言いかけたコウの視線が、ルールの胸元で止まった。
ルールとしては、ちぎれたシャツの内側の身体など、今更見えたところで恥ずかしいものでもない――ない、が。
反射的にはだけた潜水服を掻きよせ、それからルールは自分の動きに自分自身で驚いた。
「ああ、悪かったな……」
「気にしないで。どうせ配給のシャツだし、こ、こんなもの、別に――人工の身体を今更見られたところで、特に……その」
「ああ、そう……か」
「そ、それより君、傷は本当に大丈夫なんだな? 上に戻ったらすぐにCTを撮って、脳に損傷があったりしないか探って……」
しどろもどろになったルールを、コウはごく慎重に脇に押しやった。
「いい、とにかく今はあの化け物から離れるぞ」
落ちていたコントローラーを拾い上げると、コウは再び潜水艇を動かし始めた。
慣性の法則で流れるように移動していた潜水艇は、改めてエンジンを動かし始める。
そのときには既に、潜水艇を追っていた化け物の姿は見えなくなっていたが。
それを確認してから、ルールは改めてコウの傷口を確かめる。
出血はかなり減っており、本人の申告通り傷自体は大きくないことがわかった。
少し乱暴だが、シャツを裂いて包帯の形に整え、コウの頭へ巻き付ける。
手当の途中、ふと手を止めてコウの顔を覗き込んだ。
「……なんだ」
「君ね、なんで私なんかを庇ったんだ。私はアンドロイド、君のように脆い身体はしていない。放っておけば、君が怪我をすることもなかったのに」
「じゃあ、言うが」
コウもまた、ルールの目を見返してきた。
「お前、人間だろう」
「……は?」
ルールは思わず動きを止めた。
間違いなくこの身体は機械製だ。食事をとらない、睡眠をとらない、その様子は君も見ているだろう、と言い募りかけて――コウの手が、ルールの髪に触れる。
いや、正確に言えば、頭に。
「ここ。お前の身体は機械だが、脳は生体脳だ――違うか?」
「な、んで……」
「おかしいと思っていた。本当にアンドロイドなら、潜水艇の操作なぞいくらでもプログラムをインストールすればいい。俺と張り合う必要どころか、張り合う気さえ起きないはずだ。妙に人間臭いわ不器用だわ、そのクセやりたいことは全力でやる」
「そ、そそそんな状況証拠」
「本部に直接確認した」
「本部はっ、それには返答しないはずっ」
「返答しなかった――だが、今の反応で確信した」
言われて、ルールは目を見開いた一瞬後、がくりと肩を落とした。
苦笑するような泣きそうなような、妙な表情で、コウは穏やかに答える。
「脳の破損が死につながるのは、お前も同じだ。なら、守らない理由はない」
「そんな、どっちが死ぬかの話にするのやめろよ」
「もう5年も乗ってるんだぞ、俺にとっては自室みたいなもんだ。最近乗り始めたお前よりは、どこになにがあるかわかってる。多少はぶつかる場所を選んだつもりだ」
「でも、怪我してるじゃないか!」
「これくらい許してくれよ、5年前は、代わりになる選択肢すらなかった……」
コウの目が、ふとモニタの脇にささったままの携帯メモリに向かう。
「あのとき、何故わかったか教えてほしい」
「え」
「録音の声。最初に喋っていたのは一緒に死んだ同僚のジュディで、2番目がセツ。どっちがセツか、どうしてわかった」
「それは……声、が君に似てた、から」
「どちらかと言えば、ジュディの方が俺と声質は似ていると言われることが多い。昔の仲間からも」
しばし返事を待って、しかしコウはルールの答えがないままに話を続けた。
「他にもある。お前が胸につけているペンダントのリング――セツが左手につけていたものによく似ている」
ルールの手が、我知らず胸元を押さえた。
指に当たる、硬いリングの感触。
「リングなんて……どれも似たり寄ったりだろ」
「ああ、そうだな。それだけなら気にしなかった。だが、整備の時にスパナを回していただろ。あれもセツがよくやっていた」
「そ、れは――」
「――お前、本当はセツなんだろ? あいつの死体はまだ見つかってない。実は生き延びて、どうやってかその機械の身体を手に入れ、お前は戻ってきた。お前を殺した相手に復讐するために」
まだ誤魔化すことはできるように思えた。
だが、ここに至ってなお、もはやコウを騙すことに意味はあるのだろうか。
悩んでいる沈黙の間が、既に真実を幾分か伝えていた。
「コウ、私は……」
言いかけた言葉を、ふと、ルールは自ら止めた。
「……録音? そうだ……今、録音は止まっているね、コウ」
「そうだが。俺が聞いているのは別に」
「――それだ、コウ! きっと5年前、あのときになにか、録音されてたんだ!」
モニタに這い寄ったルールは、ささったままの携帯メモリを両手で包み込むように手に取った。
「なあ、コウ! これ、このデータを――」
◇◆◇◆◇
無人調査艇は、まっすぐに潜水艇から離れていく。
海底を這うように進む調査艇は、前方をライトで照らしながら、ただ前に進むだけだ。
2人は身を寄せ合って、モニタごしにそのカメラを覗き込んでいた。
しばしの時間の後、頭上に巨大な影が現れる。
ライトの反射で、白い影が無人調査艇に向けて伸ばした2本の触腕が照り返る。
「――コウ!」
「ああ」
コウの操作で、無人調査艇は身をよじり、危ういところで触腕をかわす。
今の無人調査艇には、セツの最後の通信データが搭載され、再生されている。
繰り返し、調査艇から水を伝い周辺に響く音の波長。
かつてのコウの仲間たちの、最後の会話。
そして、その向こうに、たぶん人類には聞き取れない波長の――5年前に現れた化け物イカの鳴き声。
はたして、2人の予想通り、化け物イカはその音の出どころを追ってくる。
調査艇は、巻き起こる泥煙を突っ切って、先へ、更に先へと進む。
背後からミサイルの如く降る触腕が、調査艇を捕らえ損ね海底に足を差し込んだ。
柱のように突き刺さり、ぶるぶると震える触腕の脇をすり抜ける。
調査艇の向かう先には、赤く輝くコンテナが見えた。
コウとルールがかき集めた動力素、今回の潜航の結果がそこに詰め込まれている。
調査艇は、そのまままっすぐにコンテナを目指す。
背後からは、化け物イカが大きく足を広げ迫っている。
あわや、その足が調査艇を捕えようとした、瞬間――
「目を閉じて伏せろ!」
コウに押し倒され、ルールは潜水艇の床に伏せた。
きつく閉じた瞼の向こうで、すべてのモニタが真っ白に輝く光が映る。
一瞬の安息をおいて、すぐに衝撃波が潜水艇を大きく揺らした。
結晶である動力素のエネルギーが、すべて爆発に変化した、その余波による衝撃だった。
◇◆◇◆◇
緊急上部ハッチを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは青空だった。
コウが長い安堵のため息をついている。
ルールもまた、似たような表情をしていたはずだ。怠い身体を無理やり動かして潜水艇の上に出ると、足元に染みてくる海水を気にも留めず、甲板にごろりと転がった。
恒星のまぶしい光が目を焼く。
数日間、この強度の光を浴びることのなかった網膜が痛みを訴えているが、今はそれさえも喜ばしい気分だ。
「あっぶなかった……」
「まったくだ」
転がっていたルールの隣に、どさりと腰を下ろしたのはコウだった。
脱力したその様子が、普段あれほどに傲慢なコウらしくなく、ルールはくっくっと押し殺した笑いを漏らす。
「こっわかった……けど、ど、どうする……? この後、基地に戻って……これを掃除するのがいちばん怖い、かも……」
見下ろせば、潜水艇には爆死したイカの残骸があちこちについている。
これをもと通り綺麗にして、あちこち破損した箇所を直し、また潜れるまでに整備するのは、確かに骨が折れるはずだ。
回収した動力素もすべて爆発のための燃料に使ってしまった訳だし、しばらく回収作業に出られないならば、今期の回収目標はもはや達成も危うい。
呆れた顔でそれを見下ろしていたコウも、しばらくの沈黙の後、唐突に笑い始め――結局2人は、腹を抱えて笑い転げることになったのだった。
笑い疲れて、甲板に2人で転がり、太陽をじっと見上げる。
ふと、ルールの視線が甲板に転がるイカの一部に向けられた。
今、ちかりとなにか光ったような。
手を伸ばす。拾ったものをぎゅっと握りしめ、ルールは神に祈るように拳を胸元にあてた。
「どうした」
ルールを追って起きたコウが、背後から声をかける。
振り向けば、濡れた髪が張り付いた額を、コウの手がそっと掬った。
節くれだった指先の思わぬ優しさに、ルールは、言わねばならないことを思い出した。
「あ、の……私、まだ、言わなきゃいけないことが」
「お前が何者かって話か」
こくりと頷き、ルールはゆっくりとコウに近づいた。
首元のボタンを開け、中からチェーンに吊られたリングを取り出す。
外してコウに手渡すと、コウは手を近くに寄せ、まじまじとそれを見た。
裏側に彫られた名前は――SETSU AMAGAI――セツの名だ。
「やっぱり、そうか」
落ち着いたコウの声を受けて、ルールは深く息を吸うと――
「――ごめんなさい!」
その場に土下座する勢いで頭を下げた。
「ごめん、本当にごめん! 君がそんな勘違いをするなんて思ってもみなかった! その、私としてはちょっとあんまり気まずいし、君の人となりも知らないし、なんなら怖そうな人だからプライベートについては黙ってた方がいいかなって、それだけで……」
「……なに?」
まくしたてたルールが、ぴたりと声を止めると、恐る恐る顔を上げる。
「その指輪、ペアリングなんだ。その……つまり、私は」
もじもじと身体をよじる様子で、コウは、ようやく察したようだった。
ペアリングに彫る名前は、相手の名前にするのが一般的だ。
「お前が……セツの、恋人……?」
ルールの頬が、ぽっと紅潮した。
「な、長年遠距離が続いてて……それが、5年前にあんなことに。私のところに届いたのは結果の報だけで、なにがあったかもわからない。けど、行方不明だ捜索不可能だと言われてはいそうですかと諦めきれるものでもないし、慌てて全宇宙動力素回収協会に入会して事故の件を調べたら、君は今もここにいて仕事に就いていると言う。なら、いっそ私がここに来て調べるのがいちばん――」
一息に言った後、はあ、と息を吐いて空を見上げた。
「……セツとのデートは、いつも草原みたいな解放感のある場所だった。仕事中とは気分を切り替えたいと言って。君に言ったように、私はもともと整備士で……潜水艇の整備をセツに教えることも多かった」
指先で、スパナを回す仕草をして見せる。
気になって調べていたとは言え、ルールにとっても5年も前のことだ。
今になって、仕事場でのセツがどんな話をしていたかなど、知ることができるとは思っていなかった。
喪ってから、5年も経って。
「……セツの指輪は、こっちだ」
ルールの差し出した手は、イカの破片で汚れている。
だが、その中央で、先ほどと同じ指輪がきらりと光りを放った。
――RULE AURACLUM。
「そう、か……」
指輪を取り、コウは静かに空を見上げた。
甲板の濡れた雫が、指先からぽたりと落ちた。
しばらくの無言ののち、セツがふとルールを振り向く。
「これからどうするんだ、お前は」
「事故の事実はわかったし、個人的にこだわっていた点も解消した。もともとそれ以外に目的があって入った訳でもないし……だから」
ルールは、言いかけてふとコウを見る。
コウは既にいつも通りの仏頂面で、ルールを見下ろしている。
言えと言われた気がして、ぎゅっと拳を握る。
口を開きかけたルールの肩を、ぽんとコウが叩いた。
「整備は俺も手伝う。早めに終わらせて冥海に戻ろう。俺達には、戻る――それが、なによりしっくりくるだろう?」
「そ、そうかなぁ」
否定の返答をしつつも、ルールは笑顔で頷いた。
青空の下にいてさえ、あの暗闇は恐ろしく、そして懐かしい。
外界と切り離された深い海の静けさを、2人はそれぞれに思い浮かべた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。