【コミカライズ】幸せは自分次第
「妻というものは、常に夫の命に従うべきだ。出過ぎた真似をしたり、着る物や食べ物に金を掛けるような悪妻は要らん」
「はい、旦那様」
「俺の人生はこの国の為に尽くすと決めている。だから、家の事にかまけている時間は無い。家内の事は全てお前に任せる」
「畏まりました、旦那様」
「職場へ泊まり込むから、本邸へ帰れるのは週に一回も無いだろう。不自由があるかもしれないが、それについて文句を言う事は禁ずる」
「仰る通りに致します」
ソファにふんぞり返ってご高説を垂れている夫に対して、マリアンヌはにこやかに答える。
傍に控える執事や使用人たちは、平静を装いつつも困惑していた。主人に非難の目を向ける者、若い妻へ気の毒そうな目を向ける者……。彼らに共通しているのはマリアンヌへの同情だ。
これから初夜だというのに夫からあんなことを言われて、怒らない妻がいるものか。若奥様は笑っておられるが、内心さぞやお腹立ちに違いない。
彼らのそんな思いにマリアンヌが気付く事は無い。だって彼女は本当に、怒っていなかったのだから。
◇◇
マリアンヌはオベール子爵家の生まれである。
両親は政略結婚であり、その仲は冷え切っていた。マリアンヌは父に優しい言葉を掛けられた記憶はない。
だが寂しくはなかった。優しい母親や使用人たちに、溢れるほどの愛情を注がれていたからだ。
母はいつだって穏やかに微笑んでいた。冷たい夫に対する愚痴の一つも言ったことがない。マリアンヌはそんな母親が大好きだった。
「マリアンヌ。もしかしたら貴方は、これから辛い目に遭うこともあるかもしれないわ。そんな時はなるべく楽しいこと、幸せなことに目を向けるのよ。不幸にばかり気を取られていては、掴めるはずの幸福も逃がしてしまうわ」
そんな母が幸せだったかどうかは、分からない。彼女はマリアンヌが5歳の時に亡くなった。
父はすぐに後妻を迎えた。後妻は若く美しい貴婦人だ。父は後妻へ夢中になり、ほどなく男の子が産まれた。
ようやく誕生した跡継ぎである。オベール家の中心が後妻とその息子になってしまったのは、仕方のないことだ。継母がなさぬ仲のマリアンヌに対して冷たく接するのもまた、仕方のないことである。
「お母様……ぐすっ……」
「お嬢様、もう泣かないで下さいませ。亡き奥方様も仰っていたでしょう?悲しいことばかりに目を向けていては、幸せを逃がしますよ。笑ってみましょう?」
「うん……あはは?」
「もうちょっとですよ!ファイトですっ。お嬢様ならきっとお出来になります!」
乳母や使用人たちは変わらず、いや前よりもっとマリアンヌに愛情を注いだ。彼女を冷遇する家族から目を逸らさせ、楽しいことへ目を向けるように全力で励ました。
「お父様は、新しいお母様と随分仲良しなのね……」
「か、家庭円満で大変よろしいかと!」
「そっか。良いことなのね」
「ええ、そうですとも!」
「お義母様は、私があまりお好きではないのかしら」
「奥様は赤子をお育てになるのに、手一杯なのです。きっとマリアンヌ様はしっかりなさっているから、大丈夫と思っておられるのですわ」
「そうね。私も十歳だもん。立派なれでぃよ!」
むん!と両手を握りしめて力むマリアンヌは大変可愛らしい。乳母は「その意気でございます、お嬢様!」と褒めそやした。
結果として。
やたらと前向き、悪く言えば天然な令嬢が出来上がったのである。
それから数年が経ち、年頃になったマリアンヌへ縁談が持ち込まれた。相手はエルネスト・セルヴァン伯爵だ。
エルネストは若年ながらルヴェリエ宰相の補佐官を務める優秀な若者である。縁談は降るようにあったらしいが、なぜかマリアンヌとの婚約を望んでいるそうだ。
曰く、夜会で一度顔を合わせた彼女を気に入ったとのこと。
マリアンヌの方はそういえば一度だけお話したかしら?程度で、彼の顔もよく覚えていない。
貴族にはよくあることだ。それに相手は前途有望な青年。えらく年が離れているというわけでも、離婚歴があるわけでもない。そんな相手に望まれたのは、きっと幸運なことなのだろう、とマリアンヌはいつも通り前向きに捉えた。
父は喜び、珍しくマリアンヌを誉めた。伯爵家と縁故を繋げるのは、家にとっても益のある事だからだ。後妻は言わずもがなである。目障りな継娘が片付くのだから、否であろうはずがない。
「セルヴァン伯爵へしっかりと尽くすんだぞ。実家へ帰れるなどと思うな。何があっても我慢しろ」
嫁ぐ娘に対して酷い言い様である。
しかしマリアンヌは「お父様はわざと厳しいことを仰って、エールを送って下さっているのだわ。頑張らなくっちゃ!」とこれまた前向きに解釈した。いつものむん!ポーズで。
そんな彼女であるから、夫が「妻の心得」とばかりに勝手なことを述べるのも、別段怒りもせずに聞いていたのだ。
むしろ(旦那様のお言い付けなんだから、従わなきゃ!)とやる気を出していたくらいだ。むん!と。
初夜を済ませた翌日、夫は「しばらく帰れない。困ったことがあれば執事か侍女頭に聞くように」と言って王宮へ出掛けて行った。
「申し訳ございません、奥様。旦那様はいつもああなのです。若奥様のことは当主夫人として丁重に扱うよう、旦那様から申し付かっております。決して、若奥様をないがしろになさっておられるわけではございません。それだけはご理解頂きたく……」
「分かっています。宰相様のご側近ですもの。お忙しいのは当然ですわ。私も妻として、旦那様へ全力でお尽くしするつもりよ」
頭を下げながら謝罪を述べる執事に対して、マリアンヌは微笑みながら答えた。なんて寛大な若奥様だと、使用人たちが内心感服していることは知る由も無い。
「私どもは、奥様が心地良くお過ごしになれますよう、尽力致します。何か不都合がありましたら遠慮せず仰って下さいませ」
「ええ、ありがとう」
その言葉通り、使用人たちはマリアンヌをとても大切に扱った。
髪や肌はとてもいい匂いのする香油を毎日丁寧に擦り込まれるし、お茶菓子はいつの間にかマリアンヌの好物の焼き菓子に変わっていた。彼女の反応が良いものを、侍女が選んでくれたらしい。
刺繍が趣味だと話せば、早速色とりどりの糸や、見たこともないような高級品の布が用意されていた。
「優しい人たちばかりで良かったわ。こんな良いお家へ嫁げるなんて、私は幸せものね!」
使用人たちにすれば、当主夫人として適切な扱いをしていただけであるが。そんな風に言われたら誰だって悪い気はしない。彼らがこの年若い夫人を慕うようになったのは、当然の流れであった。
「初めまして、セルヴァン伯爵夫人。新婚生活は如何かしら?ぜひ色々お伺いしたいわ」
マリアンヌにはお茶会の招待がたくさん舞い込んだ。皆、変わり者のセルヴァン伯爵が結婚したと聞いて興味津々なのだ。
社交も当主夫人の大切な務め。マリアンヌは勿論、招待には全て応じた。
「私たち、楽しみにしてましたのよ。あの女嫌いとも噂されるセルヴァン伯が、ついにご結婚なさったのですもの!ね、伯爵はやはりマリアンヌ様にだけはお優しいのかしら?」
「優しいと思いますけれど……何せ、まだ数回しか顔を合わせておりませんので」
ここで貴婦人たちは首を傾げた。頭の上には、疑問符が浮かんでいたに違いない。
「その……結婚なさって、もう半年以上お経ちになりますわよね?」
「旦那様はお仕事がとてもお忙しいので、王宮へ泊まり込んでいらっしゃるのです。帰宅されるのは二週間に一度くらいですわ」
「まあっ!いくらお仕事とはいえ、新妻をそんなに放っておくなんて。マリアンヌ様もさぞやお寂しいでしょう?」
「旦那様はこの国の為に、身を粉にして働いてらっしゃるのですもの。寂しいなんて言えませんわ。それに、文句を言う事は旦那様から禁じられてますし」
「え?」
「妻というものは常に夫の命に従うべきだと、旦那様はいつも仰ってますの。それに、家の事は全て私にお任せになると。旦那様のご信頼に応えなきゃと頑張ってるんですが、執務には慣れなくて執事に頼ってばかりですわ。きっと、皆さまは上手くこなしてらっしゃるのですよね。羨ましいですわ」
貴婦人たちは顔を見合わせた。「ヤバい事を聞いちゃったわ」という表情になっている事に、当のマリアンヌだけは気付いていない。
「ま、まあ。そういう考え方の殿方も、いらっしゃいますわよね」
「そうね、うちの祖父もそのような事を言っていたわ。お若い方にはちょぉっと珍しいかもしれませんけどね」
「おほほほほ」
お茶会は和やかに終了した。
「奥様たちと仲良くなれたわ!」とホクホクしているマリアンヌと、微妙な顔をしている参加者たちは対照的ですらある。
その後、ご夫人たちがセルヴァン伯爵の家庭事情について噂を広めまくったことは言うまでもない。マダムの口は羽より軽い。
「貴方が、エルネストの妻になったという女かしら?」
ある日、本邸へ見知らぬ婦人が押し掛けてきた。
やたら派手なメイクに豊満な胸を見せつけるような襟の開いたドレスを着た彼女は、マリアンヌへじろじろと不躾な視線を投げつける。
「はい、マリアンヌと申します。あの、失礼ですが旦那様の知人の方でしょうか?」
「ふうん……地味な女ねぇ。私はロクサーヌ・ペリヤ。エルネストの恋人よ」
「えっ!?旦那様の恋人、ですか……?」
「ええ。彼が真に愛しているのはこの私。貴方なんて、ただのお飾りの妻よ」
ロクサーヌは意地悪な笑みを浮かべながら、これみよがしにお腹の辺りをさすった。よく見ればお腹が少し膨らんでいる。
曰く、彼女はエルネストが結婚する前からの恋人で、今は別宅を与えられてそちらに住んでいるらしい。
「ほら、私はこの通り身籠っているの。もし男の子だったら、セルヴァン伯爵家の跡継ぎになるわよねぇ。その母親が妾ってわけにはいかないでしょ?貴方、さっさと正妻の座を渡して身の振り方を考えた方がいいのじゃないかしら?」
「まあ。私のご心配をして下さるのですね。さすがは旦那様の恋人、お優しい方だわっ!」
ニコニコと答えるマリアンヌ。
まさかそんな返しをされるとは思っていなかったらしい。「変わった娘ね……」とこれまた微妙な顔をしながら、ロクサーヌは帰って行った。
マリアンヌとエルネストの間に子供はいない。何せ閨を共にした回数も数えるほどなのだ。よほど運が良ければ当たったかもしれないが――残念ながら、彼女に懐妊の兆候はない。
結婚後二年経っても子供が出来ない場合、離縁を申し立てることができる。きっと、エルネストは二年後に離縁するつもりなのだろう。
「どうしましょう。お父様には実家へ戻るなと言われているし……」
親戚とはほとんど交流しておらず、マリアンヌには頼る相手がいない。流石の前向きマリアンヌも、ちょっと困ってしまった。
「家を出るのなら、お金が必要よね。といっても手持ちのお金は無い……そうだわ!頂いたドレスを売ったらどうかしら」
ドレスは以前夫婦で夜会に出る機会があったため、作らせたものだ。
装飾品もあるが、それは新しい奥様に使って貰えばいいだろう。しかしドレスはオーダーメイドで誂えたものだから不要になるはずだ。最高級のシルクを使ったドレスだし良い値段で売れるかもしれない。
そもそも浮気されたのだから、慰謝料を請求できる立場であるのだが。
マリアンヌはそこへ思い至らなかった。いや、分かっていたとしても彼女は慰謝料を求めはしなかっただろう。
この家で、自分は十二分に良くして貰っている。これ以上迷惑を掛けてはいけない。
彼女は本気でそう思っていたからだ。
「ロクサーヌが押し掛けてきたと聞いた。問題は無いか?」
翌日、珍しくエルネストが帰宅した。かなり慌てている様子である。
「問題ございませんわ。突然のことでロクサーヌ様へ何のおもてなしもできず、申し訳ありませんでした」
「そうか……いや、それならいいのだが」
ホッとした様子の夫。
きっと、マリアンヌと恋人が揉めていないか心配したのだろう。よほど彼女が大事なのだ。
「あの、旦那様。以前作ったドレスは、私が頂いてもよろしいのでしょうか?」
「ん?ああ、無論だ。君に買い与えたものなのだから、好きに使っていい」
エルネストは不思議そうな顔をしながら答えた。
(良かったわ。お飾りの妻にもきちんと価値のある物を渡してくれるなんて、旦那様は誠実な人ね)
愛人を抱えている時点で誠実もへったくれもないのだが。その勘違いを正してくれる人はいなかった。
そして一年近くが経ったころ、またロクサーヌが押し掛けてきた。膨らんでいたお腹はすっきりとしており、腕には赤ん坊を抱えている。
「貴方が居座ってるせいで、私はこの屋敷へ入れて貰えないのよ!跡取りを産んだのに!」
「まあ……申し訳ございません」
そういえば先日、エルネストが「ロクサーヌのことは、そろそろカタを付けるつもりだ」と言っていた。
あれは、離縁を仄めかしていたのだ。
マリアンヌはすぐに出て行けるよう、荷物を纏めた。ドレスは商人を呼んで売却済みだ。
「そうだわ!仲良くして頂いた方々にも、ご連絡しておかないと」
伯爵家から去るとはいえ、当主夫人の最後の仕事として礼儀は通しておいた方がいいだろう。マリアンヌは「離縁します。お世話になりました」という趣旨の手紙を言付けた。
「離縁届には署名しておいたから、旦那様にお渡ししてね」
「若奥様……やはり、旦那様がお戻りになるまでお待ち頂いた方が」
「いいえ。きっと、旦那様はロクサーヌ様を伴ってお戻りになるわ。前の妻が屋敷にいたら、彼女が不快な思いをなさるでしょう」
「でしたら、せめてこれを」
執事が金貨の入った袋を差し出した。
「まあ、こんなに頂けないわ」
「これは、当家が奥様のためにと用意した予算の残りです。それを金貨に換えました。どうぞ、お受け取り下さい」
「そういうことなら……」
マリアンヌは袋を受け取った。それなりの重さがある。
「これなら、しばらくは生活に困らないわねっ!ありがとう!」
久々のむん!ポーズをして見せるマリアンヌ。
奥様は私たちを心配させまいと、明るく振る舞っておられるに違いない。
そう勘違いした執事や使用人たちは、去っていく彼女を泣きながら見送った。
◇◇
「マリアンヌはまだ見つからないのか!?」
緩いウェーブを描く金の髪と深い海のような蒼い瞳を持つ青年――エルネスト・セルヴァン伯爵は頭を抱えた。
エルネストは自分が優秀な人間であると自負している。
学院時代はトップの成績で、卒業後は名宰相と名高いオーバン・ルヴァリエ宰相の執務室へ入った。そこでも着実に実績を上げ、今ではオーバン宰相の補佐官の一人として重用されている。
一方で女性関係はあまり、というかほとんど無かった。整った顔立ちで、しかも宰相の覚えが目出度いとあって言い寄ってくる女性は多い。
だが彼にとって、女は煩わしい存在でしかなかった。
婚約者がいたこともあるが、ああしろこうしろと要求ばかりしてくるのでうんざりして婚約を解消した。実際は「忙しいのは分かるが、たまには時間を作ってくれないか」「手紙の返事くらい出してくれてもいいのではないか」という、ごくごく常識的な指摘であり、うんざりしていたのは先方も同じだったのだが。
気まぐれに手を出した女性もいたが、すぐ図に乗って高価な物をねだるので別れた。あんなものに関わっているくらいなら、仕事へ打ち込んでいたほうがいい。
仕事は好きだ。やればやるほど、目に見える形で成果が戻ってくる。自分はこの国のために働いているのだという自負もある。
だから遮二無二に打ち込んだ。忙しい時は王宮に泊まり込むことも多い。結婚のことはあまり考えないようにしていた。
ところが、父であるセルヴァン伯爵が病に倒れた。幸い命に別状は無かったが気候の良い領地で静養することになり、エルネストが伯爵位を継ぐことになった。
流石に当主となれば妻は必要だ。縁談の話はたくさん届いていたので、すぐに決まるだろうと思っていたエルネスト。だが顔合わせをした全ての令嬢に断られてしまった。忙しい合間を縫って夜会に出席して令嬢たちに声をかけたが、やはりうまくいかない。
エルネストは、上司であるルヴァリエ宰相に憧れている。
宰相の妻は嫋やかで物静かな夫人だ。激務でなかなか帰れない自分をいつも労ってくれると、宰相はよく語っていた。家のことも領地のことも、全て彼女が担っているらしい。
急にエルネストを含む部下を連れて帰り、もてなしをさせたこともある。嫌な顔ひとつせずにこやかに対応する夫人に、エルネストは感銘を受けた。
自分の理想はあのような夫婦だ。
「妻というものは、常に夫の命に従うべきだ。決して前に出ず、夫の後ろを付いてくるくらいがちょうど良い」と話すと、令嬢たちは顔を引き攣らせながら去っていく。
だけど、マリアンヌだけは違った。
地味なドレスを着た彼女を、最初は垢抜けない女だと思った。だがマリアンヌはエルネストの持論をニコニコと頷きながら聞いてくれた。
よく見れば容姿もかなり良い。おっとりとしたしゃべり方や、それでいて理知的なところも好みだ。
この女性となら、うまくやっていけそうだ。
そう思ったエルネストは、すぐにオベール子爵家へ結婚を申し込んだ。幸い、子爵も乗り気なようで縁談はすぐにまとまった。
結婚に際して身辺を綺麗にするべく、エルネストは愛人のロクサーヌへ別れを告げた。
ロクサーヌは酒場の女給だ。向こうから声を掛けてきたのでなんとなく手を出してしまったが、元より平民の彼女を妻とするつもりはない。
向こうも遊びだということは分かっているだろう。幾ばくかの金を渡せば納得するに違いない。
だがエルネストの予想に反して、ロクサーヌは絶対に別れないとごねた。しかもお腹には貴方の子がいると言い出したのだ。
私達を放り出すのなら、貴方の所業を新聞社へ持ち込むとまで言い出した。
そんなことになれば、せっかく纏まった結婚がダメになるかもしれない。それに、今は鉄道路線を広げるという重要な事業に中核として携わっているのだ。これに成功を収めれば、補佐官筆頭の地位は固いと囁かれている。
こんな大事な時期に、醜聞を広められては困るのだ。
エルネストは渋々だが小さな家を借り、子供が産まれるまでロクサーヌを囲うことにした。
彼女が身重の間だけ。子供が生まれて落ち着いたら、今度こそ別れるつもりだった。
そもそも、本当に自分の子供かどうかも疑わしい。
生まれた子供が自分に似ていなければ、親子ともども追い出そう。もし似ていたら……乳児院に送るか、子供のいない下位貴族に渡せばいい。
そうしてエルネストはマリアンヌを妻に迎えた。
結婚してから、彼はますます仕事へ打ち込んだ。連日王宮へ泊まり込み、家へ帰るのは希だ。
「また泊まりか?細君が寂しがっているだろう。たまには家へ帰ったらどうだ」
新婚のエルネストを気遣い、ルヴァリエ宰相が帰宅を勧めたこともある。
「お気遣いありがとうございます、閣下。大丈夫です。妻は理解ある女性ですから」
「ならいいが。無理はするなよ」
先触れを入れず、夜遅くに帰宅したこともある。そんな時も、マリアンヌは優しい笑顔で出迎えてくれた。
何か困ったことはないかと聞くと「なにも問題ありませんわ」と答える。その答えに満足して、エルネストはそれ以上深く聞き出すことはしなかった。
ロクサーヌが屋敷へ押し掛けてきたと聞いたときは、流石に焦った。わざわざ余所へ家を借りたのは、彼女の存在を妻へ隠す為もあったのに。
だけどマリアンヌは怒らなかったし、何も言わなかった。執事によると、彼女はロクサーヌへにこやかに応対したらしい。
それを聞いたエルネストはホッとするとともに、感嘆した。
堂々とした本妻ぶりだ。やはり、彼女は俺の妻に相応しい女性だ。
「以前作ったドレスは私が頂いてもよろしいのでしょうか?」
そんなことを妻から聞かれ、エルネストは首を傾げた。彼女の為に作ったものなのに、頂くも何もないだろう。
ああ、そういえば最初に出会った時のマリアンヌは地味なドレスを着ていた。きっと高価なドレスに気後れしているのだな。
妻はあまり贅沢を知らないのかもしれない。
ドレスを贈れとせがんできた前の婚約者とは大違いだ、と思う。
実際は、エルネストが何一つ婚約者に贈り物をしないので「共に夜会に出る時くらい、贈って頂いたドレスを着たいものですわ」と嫌味を言われただけなのだが。
その後ロクサーヌは男児を産んだが、エルネストにもロクサーヌにも似ていない子供だった。予想通りである。他の男とも寝ていたのだ。
エルネストはロクサーヌへ出て行くよう告げた。怒鳴り散らす彼女を、無理矢理家から放り出した。
「最低の女だったな。関わるんじゃなかった」
まあ良い。これですっきりした。
鉄道事業の方も、そろそろ一区切り付く。しばらくはゆっくり出来る筈だ。
休暇をもらって、愛する妻と過ごそう。そろそろ子供も作らないとな。
計画通りの、順風満帆な人生のはずだった。
当のマリアンヌが、離縁するものだと勘違いしていることも。
執事を始めとした使用人たちが、主人の本命はロクサーヌだと思いこんでいることも。
エルネストは全然知らなかったのである。
「なんで彼女を止めなかったんだ!?」
「旦那様は、ロクサーヌ様をお迎えるするおつもりと思っておりましたので」
「当主夫人として大切に扱うよう、指示を出しただろう」
「期間限定の正妻として、誠意を持ってお仕えすべしという事かと思っておりました。旦那様はほとんどお帰りになりませんでしたので、マリアンヌ様との結婚は本意では無いのかと」
「俺がロクサーヌのような平民女を正妻にするほど愚かだと思っていたのか、お前たちは!マリアンヌだって、分かってくれていると思っていたのに……」
焦るエルネストに対して、執事は淡々と答えた。使用人たちの視線もひどく冷たい。
彼らは内心「あれだけ放っといて今さら」と思っていたのである。
慌ててオベール子爵家へ連絡したものの、彼女は帰ってきていないし何の連絡もないという答えだ。
方々へ捜索依頼を出したが、一向に行方が掴めない。もしや人攫いに拐かされたのではと娼館にも当たって見たが、彼女はいなかった。
まるで消えてしまったかのようだ。
「何かあったのか?」
憔悴した様子のエルネストを心配したルヴァリエ宰相に尋ねられ、彼は事の次第を説明した。
「だから家へ帰るように言ったであろうが」
「お言葉ですが、閣下も俺たちと同様に泊まり込んでおられるではないですか。ご夫人は何も仰らないのでしょう?俺は、閣下のような夫婦が理想なのです」
「あのなあ、エルネスト」
宰相はため息を吐くと、エルネストへ諭すように話しかけた。
「確かに妻は俺によく尽くしてくれている。だがそれは長年寄り添い、信頼関係が出来上がっているからこそだ。ここへ至るまで衝突することは何度もあった。その度に話し合いを繰り返し、今の関係を築き上げたのだ。結婚したばかりでろくに会話もしていない相手に、お前の理想を押しつけても上手くいくはずがないだろう」
その後、エルネストは重要な仕事から外された。
マリアンヌから手紙を貰った夫人たちにより、平民の愛人に入れ込んで妻に逃げられたという醜聞が広められてしまったのだ。
脇が甘い上に、誠意が無い人間。
エルネストにとっては全く不本意な評価だったけれど、周囲はそういう判断を下した。当分の間、彼に出世は見込めないだろう。
数年経ってもマリアンヌは見つからなかった。
両親からの圧力もあり、エルネストは諦めて彼女が置いていった離縁届けを提出して新しい妻を迎えた。
後妻も大人しく聞き分けの良い令嬢ではあったが、生活していればどうしたって不満は出る。つい「前の妻は……」と口に出してしまったことで、亀裂が入った。今では完全に冷め切った夫婦になっている。
◇◇
「マリア、こっちの書類も頼む」
「はいっ、分かりました!」
田舎の小さな街にある仕立屋。そこでマリアンヌは働いていた。今はマリアと名乗っている。
セルヴァン家を離れて職を探したけれど、何の伝手も特技も無い女にそうそう仕事が見つかるわけもなく。手持ちの金を使いながら流れてきたこの街で、ようやくお針子の仕事にありつけた。
仕立屋は先代店主の妻であるソフィとその息子ジャックが切り盛りしている店だ。ソフィは人が良く世話焼きな女性で、マリアンヌから行くところがないと聞くと、住み込みで彼女を雇ってくれた。
彼女の丁寧な針仕事は喜ばれた。また繊細な刺繍が評判を呼び、客もそこそこ増えている。さらにマリアンヌが読み書きや計算も出来るとあって、最近では事務仕事も頼まれるようになった。今や彼女はこの店にとって、無くてはならない存在だ。
「マリア、この後バーレご夫妻がいらっしゃる。お茶を出してくれるかい」
「はい、ジャックさん!」
「バーレさんの奥様がね、今作ってるワンピースに刺繍を入れて欲しいそうなんだ。仕事が立て込んでいるところ済まないが、そっちも頼むよ」
「分かりました!お茶のついでに刺繍のサンプルを持ってきますので、選んで頂きましょうか」
「ああ、そうしてくれ。それとマリア、俺と結婚してくれる?」
「分かりま……えっ!?」
すったもんだの後、マリアンヌはジャックと結婚した。
「この子はいつまで経っても女っ気ひとつないから、息子の代でこの店はお終いかと……こんないい嫁さんを貰えるなんてねぇ」と泣いて喜ぶソフィや照れるジャックを見て、マリアンヌは心の底から幸せを感じていた。
端から見れば、マリアンヌの半生は決して幸福なものではなかっただろう。
彼女とて、何も感じていなかったわけではない。
母が亡くなった時も、家族から要らない子のように扱われたときも。マリアンヌは寂しかった。夫に愛人がいると聞いたときは悲しかったし、セルヴァン家を出て一人で生きていこうとしたときは、不安だった。
だけどマリアンヌはいつだって状況を受け入れ、誰も恨むことなく日々を懸命に、明るく生きている。だから彼女は皆から愛されるのだ。
仕立屋の親子は、出会ってすぐにマリアンヌがワケ有りだと気付いた。いくら粗末な服を着ていようと、その所作や言葉遣い、荒れていない指はどう見ても平民ではない。
このおっとりとした世間知らずの女性を放って置いたら、悪い奴に騙されてしまうかもしれない。
人の良い彼らは、そう考えてマリアンヌを家に住まわせたのだ。
急に平民の生活をすることになって戸惑うこともあったが、ソフィが何くれとなく彼女の世話を焼き、身の回りのことや家事のやり方を教えた。何事にも一生懸命で気立ての良いこの女性を、二人はすぐに気に入った。
街の人々も、明るいマリアンヌが大好きだった。
仕立屋親子から彼女が婚家で受けた仕打ちを聞いて、彼らは我が事のように憤慨したものだ。
実は、何度かセルヴァン家の者がこの街へ捜索に来たことがある。
「マリアに酷い仕打ちをした男のところへ、戻らせるものか」
と街の衆は一致団結して「そんな女性は見たことがない」と知らぬフリをしてくれた。そのため、エルネストはマリアンヌを見つけだすことが出来なかったのである。
その後、ジャックとマリアンヌは三人の子供に恵まれた。
子育てをしながら店を手伝う日々はとても忙しいけれど、充実している。
素直で愛らしい子供たちと、優しい夫。彼らとともに過ごす時間は、彼女にとって何よりも大切で愛おしいものだ。
マリアンヌはもう、幸福なことだけに目を向ける必要は無い。だって、今の彼女は本当に幸せなのだから。