85.Dear chaser(3)
仕えている主を目にするや否や、フィリップはアンナの手を離して青年に体を向ける。
執事の視線が少女から外れた途端、場の空気は今までの重さを嘘のようになくしていた。
「お見苦しいところをお見せしました、殿下。ご休憩とお見受けしますが、こちらで何かご用件が?」
「キミがアンナの面倒を見ていると聞いてね。カナルミアとはまた違うだろうから、様子を見に来たんだ。仕事の区切りはしっかりとつけてきたから、安心して欲しい」
「そうでしたか。しかし申し訳ございません。見ての通り、進捗は芳しくなく。お目通り願えるほどのできではございません」
「そうでもないさ。むしろ、少し安心した」
一礼し、音を立てることなくフィリップは少女から離れていく。
主が来た以上は身を控える立場であり、アンナも形式上は居候と定めているが、立派なアイザック王子の客人だ。
教育者としては少女の上に立てるものの、ザックが主体となる場では執事の椅子は脚の丈が縮んでしまう。
「一から十まですぐにできてしまうのなら、僕とキミとの約束は早い終わりを迎えてしまうからね」
「知りたいことを教えて欲しいとは言ったけど、これは違うと思う」
アンナが知りたいと思ったのは、友だちのミアが見たかったであろう世界だ。
楽しいこと、美味しいもの、綺麗なもの。
あの小さな町では決して知ることのできない、幸せの色。
それを隣で聞いてきたアンナは、例え空想だとしてもどんなものかを見聞きしたい。
そう考えていたのだが、今の状況は望んでいたことではない。
「どうかな。国の王子からエスコートを受ける。なんていうのは、キミの友だちは嫌いそうかい?」
「……どうだろう。ザックが相手なら喜びそう」
言葉を交わしながら、少女と青年の距離は縮まっていく。
ザックの方から一歩ずつ、いつかの青空の下のように。
薄暗い教会の中。初めて会ったばかりのザックを、嬉々として語っていた。
そんなまぶしい少女を思い浮かべるアンナは、青年の問いに答えていく。
「なら、キミはどうかな。アンナ」
そしてフィリップからの圧で身を強張らせていたアンナの目前に、ザックは優しく立ち止まり、そっと右手を差しだした。
記憶と重なる青年の手。自分の手を預けるまでためらいが多かった、見知らぬ手。
ミアとは違う、けれどもう握ることに不安を感じないその手を瞳に映し、アンナは一拍置いてから半歩ほど前に足を動かした。
「別に。ザックがそうしたいって言うなら、受けるよ」
二人の手が合わさるのに迷う道筋はなく。
両手もつながり、ザックの動きにつられてアンナは足を動かしていくも、フィリップのときと同様におぼつかない。
それを見た青年はくすりと笑い、リズムを徐々に遅くしながら待機している執事へ話しかけていく。
「動きそのものは覚えているんだ。アンナをあまり苛めないでやってくれ、ラルストン」
「はい、殿下。しかしお言葉ですが、厳しさを知らないというのも教育に悪いと愚考します」
「厳しさなら知っているさ。だから嫌々でも、キミの指導を受けているだろう? 時間はあるから、もう少し長い目で見て欲しい」
アンナに合うリズムは、どんなものか。
下りていく階段の先に待っている光景を想像しながら、ザックはまた一段とダンスの速さを緩めていた。
それでも足の動きと頭で描いている動きが一致しないアンナだったが、自分の足をもつれさせることは少なくなっていく。
「はい。いいえ、殿下。時間は限られております。殿下の後ろ盾である方々が、いつ痺れを切らすか。私はそれを憂慮しているのです」
「その話か。今回の探偵へ払う資金も、無理を言って用意して貰ったからね。キミの言うとおり、そろそろ苦情が来るころか。もしかして、支援を打ち切られると思っているのかい?」
「最悪の事態も想定するのが私どもの仕事です」
「なら、そうならないようにするのが、僕の仕事だ。──アンナ。フィリップはね、キミの今後を憂いているんだよ」
全身にのしかかる重さがなく、ダンスの動きに集中しているアンナへ、ザックは小さく語りかけていく。
邪魔をされている感じを受けるも、自身の今後と言われると、キョトンとしながら足元ばかりに向いていた視線を少女は上げていく。
「今後って?」
「いつまでも屋敷の居候、というのは現実的じゃなくてね。いつか、キミは保護されている少女じゃなくなる日が来る。僕の部下として改めて雇うという考えもあるが、キミじゃ能力不足だ。かといって、一般的な仕事に就けるかと言われたら、怪物を生みだす力がある限り薦められない。いや、僕や姉さんとつながりを持ってしまった以上、ごく普通の家庭では暮らせないだろう」
記憶に霧がかかっている少女にとって、いつかの未来は過去と同じこと。
遠い彼方の話をしているザックを見上げながら、アンナは言葉だけを受け止めていく。
「酷なことだけれど、キミが持てる選択肢はキミが考えている以上に少ないんだ。それでも、選べるものを増やしたいというのが僕たちの思いでね」
「それで何で踊りなの」
「社交界では定番の交流法だよ。パーティーで気の合う男性と出会って籍を入れる、なんてことがあるかもしれないからね」
「レイラが言ってた、ザックの婚約者って話は?」
「あれは冗談だよ。普段、堅苦しい話しかできない姉さんの悪ふざけだ」
アンナの瞳が自然と捉えたのは、見上げるからこそ目にできるザックの素顔。
前髪で隠れている目元が覗ける位置に、少女の体は誘導されていく。
怪物アイザックの階調ができた真紅とは違い、左右が濃淡で分かれた二色の赤。
ひとたび見れば誰もが目を引く瞳に捕まったアンナは、自身の深い紫を重ねていた。
隠した瞳を見られているとは気づかず、ザックは癖となっている作り笑いの口元と合わせて、少女に笑みを向けていく。
「僕はキミに、そんなことは求めていない。彼だってそのはずだ。僕たちが約束したのは、お互いのしたいことを手伝う。それだけさ」
アンナが望んだのは、ミアの知りたかった世界と興味を抱いたものを知ること。
ザックたちが望んだのは、自分たちと似た不可思議な力を持つ存在を探す手伝いをすること。
たったこれだけの細い糸。
それがいつ切れるのか、心配をするのはフィリップでなくとも当然だ。
「キミのことは大切だよ。だから、安易にそういう話はしたくない」
言葉の色は、どちらに傾いているのだろう。
濃く想い案じるからこその停止か、淡い思いだからこその突き放しか。
はっきりとしないザックの言に、アンナの心は左右が異色の瞳に揺らされていく。
胸の内に描かれる多色の氾濫。喉が震えず、しかしザックの顔からは目をそらせず。
返す言葉をアンナが探していると、ふとした途端にピタリと青年の足が止まった。
「──っと、今のは良かった。アンナ、さっきの動きは覚えたかい?」
「えっ……うん」
「なら、まずはその動きをできるようになろう。そうすれば、ラルストンも納得するさ」
いつの間にか、理想とされる足の動きを自分がしていた。
その事実を受けいれられず、青年の言葉だけをぐるぐると回すアンナは、呆然とした状態で頷いていく。
いいかなとザックが待機しているフィリップへ視線を送ると、鉄のような表情に多少の軋みが見られるものの、手元では小さな拍手が行われていた。
「良いそうだよ。それじゃあ、僕は仕事に戻ろうかな」
両手を離し、足はするりと後方へ。
そうしてザックの体が離れていく様子を、アンナは見届けていく。
生返事をする少女の様子に気づかないザックは、曖昧な色合いの視線を背中に受けながら、待機していたフィリップに近づいた。
「少しだけいいかな、ラルストン」
「はい、殿下。何なりと」
両者ともに視線はお互いだけを捉え、表情は余裕を持った冷静さを張りつけたまま。
アンナには聞こえないように、二人は小声でやり取りを始める。
「この怪我は僕の落ち度だ。アンナにも、キミたち使用人にも責任はない。執事としてのキミの心情を僕は察することができないけれど、鍵の管理に甘さがあるのはらしくないと思う」
「……ご指摘痛み入ります、殿下。自分の未熟さを痛感するばかりです。子猫の世話というのは、存外苦労するものだと知りました」
「そうだね。今夜は時間が空きそうだから、ワインを一つ開けようか。グラスは二つ、用意してくれるかな」
作り物めいた曲線ではなく、柔らかくふと浮いた自然な膨らみ。
そんな珍しい笑みを描いたザックは、フィリップの返答を聞く前に背中を向け、部屋の扉へと進んでいく。
去ろうとする主の背中に数拍遅れて放たれた執事の声は、揺らぎなく静かに重いものだった。
「かしこまりました」
色味が変わった執事の声。
それを受けて我に返ったアンナは、部屋から出ていくザックとそれを見送るフィリップ、その両方を交互に見比べていく。
表立った言葉と態度にはない、見えない糸。
数日前に出会った探偵と下宿の女主人にも同じものがあったと感じる少女は、こてんと首を傾げるのだった。




