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霧中のアンネーム  作者: 薪原カナユキ
第一幕 無明の星
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08.Soot covered(8)

 血潮の流れない体は、自覚とともに痛みが消えていく。

 焦りと怖さもその後をついていき、取り残されたのは目の前にいる二人に対する気持ちだけ。


 どれだけ曖昧な記憶だろうと、友だちであれたことへの嬉しさ。

 ようやく会えた、友だちを認めてくれる感謝。

 そして結局分からず仕舞いな、ザックへの興味関心が突き動かされる感情。


 色々とある。

 だからこそミアは、アイザックと友だちに涙は見せたくないと気丈に振る舞った。


「でも、ちょっだけ嬉しいかな。私がこうってことは、あなたと同じなんだよね」

「……違う」


 涙目になりながら、それでも笑うミアは傷口を隠しながら歩み始める。


 たった一つの傷。だというのに自覚が生まれた途端に、ミアの体は著しい変化が起きていた。

 のども手足も動かしづらく、人間らしい肌は徐々にひびが入って、黒味を覗かせる。

 段々と父親たちみたいになっていくも、心が最後の(くさび)になっているのか、碧眼(へきがん)にまぶしい光は宿ったまま。


「笑えるね。あれだけ怪物じゃないって言ってたのに、実は私も怪物だったなんて」

「ミアは、怪物なんかじゃない」


 足を引きずりながら進むミアを、アイザックは黙したまま素通りさせる。

 混乱が起きている町民たちと同じになろうとしていても、彼は何かを見切って教会の怪物の下へ少女を行かせた。


 ありがとう。

 すれ違いざまに告げられた言葉にも、青年は答えない。


 やっぱりザックさんとは違うと苦笑しながら、ミアは友だちの前までたどり着く。

 そうしている間に交わされた問答に、少女は弱々しく座りながら、続きを口にした。


「嘘だよ、って私には言えないよ。あったかいベッドで寝たいし、ママの作ったイチゴのタルトも食べたい。町の外にだって、あなたと行ってみたかった」


 ミアと友だちの距離は、手を上げれば簡単に触れられる距離。

 隣り合って話すのではなく、目と目を合わせて喋る視線の高さ。


 ──まずはこうすれば良かったのかな。

 そんな記憶の果てに後悔を向けるミアは、いつ途切れるかも分からない意識に圧をかけて覚悟を決める。


「ねえ。私の声、聞こえる?」

「聞こえ、てる」

「えへへ。じゃあ今から私とあなたが約束したこと、言うね」


 遠い昔にした二人の約束。

 人間だろうと怪物だろうと関係のない、少女の覚えている色褪せない記憶。


 それを言葉にするミアは、いつかと同じように友だちへ手を差しだす。


「私が絶対に会いに行くから、二人で外に行こう。それと──」


 いいや、ミアの手は友だちの意思を待たなかった。

 それどころか感覚が鈍っていく全身を動かして、ミアは友だちに飛びつく。


 掴んでくれるのを待つのは、もう待てない。

 ここまで来て、あと一歩を踏み出せなかった私は、何を怖がってたんだろう。

 相手が何も覚えていなくても、怪物だとしても、たった一つの事実を私たちは否定しなかった。


「名前で呼びたい。友だちとして呼びたいよ」

「……それ。絶対、いま付け足した」

「いいでしょ、別に。ねっねっ、それで。呼んでもいい?」


 急に飛びついて抱き締めてくるミアを、友だちは支えられずに一緒に倒れてしまう。


 当然だ。

 まともな運動をしていない以上は、弱った筋肉以外は持ち合わせていない。

 人間として接してきた今までとは違う行動に、友だちは心の底から驚いて、こみ上げてくる笑いが抑えられず、フッと少しだけ口角を上げた。


 それを見てはしゃぐミアに、長い時間は目を合わせられなかった友だちは、瞬き一つで調子を戻す。


「もう何度も言った。──勝手にすれば」

「うん。勝手にする」


 夢の世界にみたいに何もかもが曖昧(あいまい)な、二人のつながり。

 それでも確かなことはあると、お互いに承諾したミアと友だちは、そろって立ち上がる。


 やりたい事は互いの勝手でやろう。

 だからこそ不格好に力を合わせて両足を地につけた二人は、その後もちぐはぐな動きをしていく。


 手をつなぎ、とにかく外へ連れ出したいミアが引っ張るも、足元がおぼつかない友だちは何度も足をもつれさせて転びかける。

 それを補おうと不慣れな助けを出すミアだが、友だちは余計なお世話と半目で訴え。

 ミアが一歩でも緩めようとすると、偶然か必然か足元に蹴りをいれる友だち。


 仮に太陽と月を糸で結んで走らせれば、こうなるだろう。

 そんな馬鹿々々しい踊りを見せる二人に横切られたアイザックは、冷めた赤い瞳で少女たちの軌道をなぞり、その先にある町民たちへ視線を映した。


「無様だな。貴様らの目は余程狂っていたとみる。斯様な姿を晒す者が怪物などと、どうして言えた。……あれは人だよ。怪物には理解し難いがな」


 どれだけ醜い姿となっても、もがき進んで前を見る。


 怪物の事実と人間の意志。

 二律背反となっても最後に輝く光を求め、矛盾をはらんだ夢を見るのが人だ。


 そう認識を固めるアイザックは、集団に向けて歩みを進める。

 慈悲が燃やし尽くされた冷たい赤の目が、妖しい光を灯しながらも捉えるのは黒い怪物たち。


「疾く失せろ」


 無我夢中で教会の扉を目指す二人には、背後のアイザックの様子は分からなかった。

 短く切られた言葉、背筋に触れる刃の寒気、そして気圧されて扉の前を開けていく黒い怪物たち。


 考える暇もなく、彼らが作った道を通る少女たち。

 しかしそれらを見届ける青年は、より一層、怪物じみた様相を振るっていく。


 ミアの友だちが元々いた場所。

 そこへたたずむアイザックは闇で全身を隠し、宝石のような赤い瞳を浮かばせる。


 ──頭が高い。

 言にせず語られる青年の意図は、言葉を失った町民たちでも理解できたのか、彼らは自然とうなだれ。

 そんな町民たちの道を通りすぎ、扉の前まで来たミアたちは、あと一歩だと表情に光を生み出していく。


 教会の奥から続く、黒から白への階調。

 それを走り切ったミアは振り返り、息も絶え絶えな友だちは苦しそうに顔を上げて。


 お互いに見たこともない笑みを浮かべた。


「これで、外に……」

「うん」


 ミアの表情は、国で信仰されている聖母のそれに似ていた。

 微笑みに含まれているのは、悲哀か諦観か。


 友だちの体は、確かに教会の外へ投げ出された。

 しかしミアの体はなおも内にあり、友だちと前後が入れ替わった少女は、限界まで手を繋ぎながら相手を導いていく。


 笑っていたかった。なのに結局、涙は頬を伝う。

 手が離されて、友だちが振り返って。真っ白に染まった表情となった相手に、ミアは渾身の笑顔を見せつけた。


「行ってらっしゃい、アンナ」


 やっと言えた友達の名前。

 きっと届いた、アンナの名前。


 霧みたいにあやふやにされた夢は、もう覚めた?

 もう自分の名前は忘れちゃダメだよ。


 私のアンナ。

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