70.Snow anthus(8)
白銀のハンドベルを握ったアンナが、目を伏せたまま動かなくなって三十分。
床へ寝かせられてもハンドベルは離さず、しかし男爵とヴィクトリアのように動きだしもしない。
ゆすっても起きない眠り姫。
そんなアンナの状態が関係しているのか不明だが、ザックとクリスティーを襲っていた頭痛は和らいでいた。
「お前の予想通り、この辺りにいる連中は、全員倒れたままだ。そっちはどうだ?」
「変わりないよ。僕たち以外誰も起きないし、アンナも鐘を握ったまま。怪人もほら、ずっとそこさ」
ザックが示す方向にいるのは、膝を折ってアンナを見守る怪人の姿。
仮面に描かれた笑みは変わらない。
しかし微動だにもせず少女の側に居続ける彼からは、心配の色のようなものが伝わってくる。
そんなに気になるのか、どうしてそこまで気に入っているのか。
二人以外が眠ったままの状況で、クリスティーは心にもやを生みだしてしまう。
「んだよ。俺にはそこまでしたことねえ癖に」
「嫉妬なら後にしてくれ。僕たちだけで、この状況を打破する方法を考えなくてはいけないんだ」
「してねえ、勝手なこというな。ってか、打破っつってもさ。他の奴らが起きるまで待てばよくねえか」
「何もないのなら、それも手だね。僕もその案に乗っかりたいところだが、安心というには保障が何もない」
彼らが起きても、まだ操られている。
その可能性が残っている限り、気を抜くことはできない。
そうした考えを告げるザックは、クリスティーの言葉を待たずに続きを述べていく。
「だから、もし何かがあった場合のことを考えて、できることはしておこうって話さ」
「だったらよお、王子さま。お前も動いてくれよ。なんで俺だけ、この建物の中を行ったり来たりしないといけないんだ」
「役割分担だよ。キミは体力があって動き回れる。僕はここを見張りながら考えをまとめられる。分かりやすいだろう」
「ただ動けねえだけだろ」
「辛らつだね。仮に今、アンナが起きた場合。キミはすべきことをいくつ思い浮かぶ?」
無事かどうかを確かめる。
間髪入れずにそう答えようとしたところで、クリスティーは待てよと喉まで上がった言葉を無理に飲みこむ。
ミッドデイボーン男爵とヴィクトリアは、ハンドベルに触れることで人が変わった。
なら、アンナがハンドベルを握っている今の状況は、前例に倣うとすれば最悪だ。
起きたとなれば、それはまたこれまでを繰り返すのと同義。
アンナだけが例外とは考えられず、自身の感情を押しだして駆け寄るのは危険すぎる。
「……えっと。ひとまず、本当にアンナか聞く……とか」
「いい考えだ。一応、様子が変なら押さえつけてくれと、怪人には声をかけてはある。聞いてくれるかは別だけれどね」
これから何が起きるのか、それとも日常へ戻るためのわずかな空白なのか。
夜間の静けさが二人の不安をあおり、行き所のない感情は態度に表れるばかり。
クリスティーからすれば、この先の行動をどうすればいいのか分からず。
ザックからすれば、思いつく事態が善し悪し問わず無数に浮かび、結果として控え目な手ばかりを打ってしまう。
「まあ、アンナなら平気だよ。きっと」
「確証ねえのによく言えんな」
「言えるさ。夢よりも現実を選んだ子だ。それに、僕との約束を放る子でもない」
まだ僕は世界を教え切れていない。
まだキミは友人との約束を果たしていない。
だというのに、別の誰かになってしまう?
それは笑えない冗談だと、ザックが口元を緩めると同時に、身じろぐ小さな音が二人の耳にそっと触れた。
「起きたのか、アンナ。……アンナ、でいいんだよな?」
「待て、ヘブンスコール。あまり歓迎できない、もう一つの方が来た」
魔笛の怪人が見守る中、目を伏せたままゆらりとアンナは立ち上がる。
しかしザックとクリスティーの呼びかけに応えたのは、少女の口ではない。
火にくべられた炭のように、赤い流星群を描く彼女の黒髪。
ザックにとってのもう一つの人格、怪物アイザックがいるように。
怪物としての性質を露にするアンナへ、二人は厳しい表情で身構えた。
人型の黒い怪物、空間を包みこむ黒い霧。
これらが出現する前兆に、前へ出かけたクリスティーの足は止まる。
「おい、これの対処法は知ってんのか」
「明暗がはっきりした場所にいること、僕やカナルミアみたいな人間が側にいること、近くに怪物がいないことだ」
「どれも当てになんねえ! くそっ。おい、この前みたいにお前の方でどうにかしてくれ!」
一度起こってしまえば最後。
アンナの精神状態が落ち着くか、気を失うか。
どちらか以外で収まった試しがなく、ザックは冷や汗を一滴たらした。
迷っている暇がないとクリスティーが怪人に向かって叫ぶも、彼の態度は依然変わりなく。
むしろ立ち上がった少女を祝うように、落ち着いた様子でアンナの背中を見つめていた。
「──よろしく、スノードロップ」
まぶたが開かれ、辺りに正体不明の黒い怪物たちが生みだされる。
そう覚悟したザックを前に、アンナが紡いだ言葉はある花の名前だった。
握っている白銀の鐘とよく似た、白い花。
その名前を告げるとともに、ザックとクリスティーの想像していた黒い霧が出現する。
アンナの両手を包むようにして。
「彼に、似てるかな」
少女の両手に集中する黒い霧。
それは黒い怪物を生みだす物と同じでありながら、今までにない物を作りだしていく。
濃縮し、アンナの手に沿って作られたのは、シンプルとしか言えない漆黒の手袋。
それをつけたままハンドベルを握るアンナに、言動の変化はない。
人が変わらず、黒い怪物を生みださず。
それどころか親し気にハンドベルへ声をかけるアンナは、両手でしっかりと鐘を握る。
「約束。もう、一人じゃ捜さないって」
誰に向かって話しているのか。
ザックとクリスティーは理解できず、呆然とアンナの動向を見ているばかり。
そんな二人を脇に、アンナは白銀のハンドベルを振るった。
──リンと静かな音の花が咲く。
慣れを感じさせない旋律を引き連れて、響き渡るのは建物全体。
「頭痛がしねえ。今、ハンドベル鳴らしたよな? それに霧もあいつの手に出ただけで、周りには何もねえ」
「これは予想外だ。いや、想像なんてできる訳がない」
ハンドベルが鳴らされれば、二人の体調は著しく悪くなる。
そんな常識を素通りし、旋律が届いたのは眠っているヴィクトリアにランスト、そして男爵たちだけ。
人形染みた熟睡から、悪夢にうなされる浅い眠りへ。
明確に様子が変わった彼らへ二人の意識が向いた途端、アンナの手からハンドベルがこぼれ落ちた。
「これでみんな、平気。ザック、あとお願い」
「アンナ? ……くっ」
床とぶつかり、盛大に音を響かせる白銀のハンドベル。
それを追うように体を傾かせるアンナへ、ザックは怠さに満ちた全身へ力をこめた。
ようやく開いた少女のまぶたが、体と同じく下へ。
黒髪に流れる赤い光も輝きを失い、作りだされた黒い手袋も霧散して。
何もかもが地に落ちる。
そう思えた瞬間、少女の体だけはザックによって受け止められた。
「──……ふう、間にあって何よりだ。っとと、うわっ!」
全身に巡る痛みなんて気にせず、アンナが倒れ切る前に駆け寄り、ザックは壁となっては抱きしめた。
しかし深い寝息を立てる少女の顔を目にすると、消えたはずの怠さが息を吹き返す。
足から崩れ、どうにか体勢を整えようともがくも、ザックは背中から倒れてしまう。
結局はアンナとともに床の上へ。
だが怪我をさせなかった。それならば良いと納得するザックに、一つの影が差しかかる。
「キミ、面倒を見るなら最後まで見てくれ。それとも、僕がいるなら構わないとでも思ったのかい」
いつまでも変わらない笑顔の仮面。
それをザックの作り物染みた笑みに重ねてきた怪人は、やはり無言のまま。
ザックが苦言をていするものの、彼は微動だにしない。
そして静かに眠るアンナの顔を覗いた怪人は、仮面に描いた口と立てた人差し指で十字を作り、そっと後退しながら体を黒い霧に変えていく。
口笛にも似た軽快な音で、二人の声を奪いながら。




