58.intermedio - light and shade(11)
三人が飛びこんだ建物は、廃墟というには整った印象が前面に出ていた。
窓ガラスはひび割れ、薄汚れた壁面には埃が舞う。
床は荒らされた跡が残っていて、室内を照らす明かりは灯火を失っていた。
昔は人が住む民家だったが、今では法に触れる者たちの出入りが感じられる。
そんな空気が満ちているも、ヴィクトリアの瞳が捉えたのは家具たちの違和感。
「ここ、妙に綺麗じゃありません?」
「そうでもねえだろ。んなこと気にしてねえで、隠れる場所か逃げれる場所を探すぞ」
「分かってます」
テーブルや椅子をはじめとして、傷も少なく、未だ使われてますと主張する丈夫な家具。
偏見にも思えるが、こんな廃墟をうろつく輩が物の扱いを分かる訳がない。
そうヴィクトリアは考えるも、気にしすぎだとクリスティーには一蹴された。
単に人が家からいなくなった時間が、止まったままになっている。
であれば納得がいくと正面に向き直る少女は、クリスティーとともに立ち止まることなく、廃墟の中を足早に抜けていく。
「上の階は駄目ね。追いこまれるわ」
「だな。窓割って、反対側に行くか。アンナ、一旦降りて──」
外へ飛ぶ。上階へ行くことは、そういう論外な逃走しか残らない。
だからこそ階段に足を向けることなく、廊下からどこかの一室の窓を目指す二人は、言葉だけが結ばれていた。
向いている意識の方向は四散しているが、慌てる声色は同じ調べ。
追っ手から逃げる。それがもたらす共通意識は、そりの合わない二人を複雑に絡め、一つの道へ向かわせていく。
「……アンナちゃん、また髪が赤くなって!」
「おい、マジかよ。今それが来るのか」
ヴィクトリアとクリスティーの視線が重なるのは、前方の一点。
そのせいか、背中に抱えられたままのアンナに異変があったことに、二人は遅れて気づいた。
「……へいき。まだ、へいきだよ。ヴィクトリアも、クリスティーもいるから。ぜんぜん、へいき」
黒玉を溶いた黒髪に、高温の赤い火がいくつもの亀裂をいれる。
深い紫の瞳には霧がかかり、意識と光が遠のいていた。
怪人と同類と名乗った少女。
彼女が生みだす異常を思い起こす二人だったが、持ちこたえられているのか、まだ黒い霧は視界の端にすら映っていない。
か細い声、弱々しくクリスティーに抱きつく細い腕、背中にいるはずが見えてくる赤い発光。
限界が近いのは音だけでも分かり、背中へ預けられた軽すぎる重さに、焦りの色が彼の顔面を一色に染める。
「どこが平気だ、見栄はんなよ」
「そうよ、アンナちゃん。正直に辛いって言っていいの、貴女は」
「なんなら、お前も言ったらどうだ」
「余計なお世話ね。男爵の娘が、この程度で弱音を吐くと思って?」
アンナに届く二人の声は遠く、けれどもかすかに震えを感じとれた少女は、言葉の一つ一つに小さく頷いていく。
薄暗く、人のいない廃れた場所。
自身へ迫る大人たちに、庇おうとしてくれる知人。
いつかの教会を連想させる状況だが、廃墟へ踏み入る前のアンナは、そんなことを一切想定していなかった。
逃げるために、目についた場所を指差した。
どうなるかすらも考えず、今こうして怪物としての側面を出している自分に、おぼろげな意識の中で、アンナの心はうずくまっていく。
「また、やっちゃった。ちがう、やめて。関係ない」
厳かな雰囲気で迫って来た男性たち、道具を両手に持って教会へ訪れた黒い彼ら、霧の中で影だけが映る赤い眼差しの誰かたち。
叫ぶ声が聞こえる、地面を踏みしめる足音が聞こえる、扉を何度も叩く音が聞こえる。
黒い少女を赤に染めるべく、真っ赤な彼らが迫る気配は、アンナの背中をいくども切りつけていく。
「どこ行ったの、ミア……」
今、瞳が捉えている光景は、いったいいつの出来事だろう。
現実の廃墟か、廃れた教会か、それとも見覚えのない赤と黒が満ちた場所か。
三つが重なる映像は、アンナの胃をこれでもかとかき乱し、気を抜けば異物感がこみ上げる。
そんな状態だからか、当たり前のように差し伸べられる親しい少女の手を、彼女は自然と探してしまう。
「──おい、なんだあれ」
いくばくの猶予もない中、意識が朦朧としたアンナを背中に乗せながら、クリスティーは懸命に逃げる方法を考えていた。
それはヴィクトリアも同様で、足を止めている時間が長くも短くも感じている二人だったが、はやる気持ちが交わるだけ。
代案が出ず、幻聴として追っ手の足音が聞こえ始める彼らは、奥歯をかみ締めて苛立ちを募らせていく。
心に蓋をしきれず、思わずクリスティーに怒りをぶつけようとヴィクトリアが口を開きかけるも、彼のつぶやきによってお互いの奥底に冷たいしずくが波紋を広げた。
「黒い霧の……人?」
「なんだ、そこに何かあるのか。って、消えちまった」
屋内の最奥、伸びた廊下の突き当り。
一番暗さのある場所で二人が目にしたのは、以前に見た黒い霧が塊となったもの。
ぼんやりと人に似た形を取っていたそれは、まるで霞んだ人影。
ただそこへ立っているだけで、何も感じさせないそれに、ヴィクトリアもクリスティーもかける言葉が見つからない。
人影がいたのは、ほんの数秒。
ひょっとしたら一秒にも満たない時間、廊下の端に立っていたそれは、二人が視認したと同時に霧へ戻り、空気と混ざり合っていった。
「これ、床下に何かあるな」
「隠し通路でしょうか。っと、簡単に開きましたわね」
「階段か、どうする」
人影が立っていた場所を注視すると、いかにもな四角い線が床に描かれていた。
近くで見れば露骨だが、薄暗いこの空間では気づく術がない。
仕掛けも単純。あっさりと取っ手を見つけたヴィクトリアが開くと、その先には暗闇へ続く階段が、下へ下へと向かっていた。
「あら、それは追っ手を抑えてくれる提案かしら。でしたら、アンナちゃんは私が預かりますね」
「それは無理だ。お前、この暗さだとアンナごと転びそうだからな」
言葉はぶつけ合い、しかし視線は重なり。
うなずく間もなく、ヴィクトリアとクリスティーは地下へ続く階段を降りていく。
予想通り暗い空間だったが、うなされるアンナは赤い光を灯したまま。
両手が空いているヴィクトリアが先に進み、彼女が手の平で感じるのは上下左右の幅。
幼い子どもであれば二人並んでいけるも、そうでなければ一人ずつがやっと。
高さも軽く跳ねただけで頭をぶつけ、階段の幅は螺旋階段のそれを彷彿とさせる。
下に降りることだけを考えた、非常に使いにくい階段。
高さはおよそ二階分あり、そこを降りていった二人は、開けた場所へつながったことを肌で感じていく。
わずかに全身を撫でる空気の流れ、ヴィクトリアの両手は自由を感じ、彼らの両足はしっかりとした平面に立っている。
「下まで着いたようね」
「開けたままだったが、気づいてねえのか。来る気配もねえ」
「──その必要はないもの。ご苦労さま、お二人とも」
ひとまずは安心できる場所にたどり着けた。
ふうと息を漏らし、暗闇の中でも心を緩める二人だったが、唐突に挟まれた女性の声に背筋を伸ばす。
「殿下の大切なお人をここまでお連れいただき、感謝いたします」
うなる蒸気の声と、暗闇を食らう照明の光。
あまりのまぶしさに両目を閉じ、徐々に開けた二人の視界に映ったのは、拳銃を手にして彼らを取り囲む複数の人物。
そして真正面に立った、ローズタンドルの髪色をした若い女性だった。




