56.intermedio - light and shade(9)
怪人の姿が町に溶ける夜が明け、迎えた朝は太陽が手で顔を隠していた。
沈んだ顔を見られたくないのか、それともこぼれそうな涙を受け止めているのか。
どちらにも思える空模様が窓に映るも、家の中は蒸気の明かりが代わりを果たす。
雨を予感させる頭痛がヴィクトリアを悩ませる。
そんな憂鬱な朝でも、彼女は毅然とした態度でテーブルに座っていた。
「常軌を逸した怪人。それならと思っていたのだけれど、ここまでなのは想定外ね」
「俺もだ。何でもできる奴と勝手に思ってたが、こんな欠点があるとはな」
同席するのは、同じく晴れない表情を浮かべたクリスティー。
二人が席に着いたテーブルには数十枚の紙が舞っていて、彼らが一枚ずつ手に取るたび、視線や口元はひずんでいく。
朝食を摂り終えた二人が行っているのは、夜間に怪人が集めた情報の精査。
文字と絵図で書かれた彼の見てきたものだが、ここで予想だにしない問題が浮かび上がっていた。
「字が下手、もう記号じゃないこれ。絵もまだ喋れない子どもが描いたのと同じ程度ですし、色の選び方も癖があり過ぎて、何が何やら」
「別の国の言語も混ざってそうだな。絵なのか文字なのか。第一、見たもの片っ端から書いてるだろ。これ、絶対そこらでうろついてた猫だって」
「もはや芸術的ね、画伯とでも呼ぼうかしら」
文字と図の間に立つ未熟な筆跡。
よれた線が結ばれてできた絵は、ところどころしか特徴を捉えておらず、未知の物体が多数。
その上、見たものを書いていったせいか、アイザックの捜索には不必要なものが、全体の八割を占めている。
「彼は体だけで、中身は思った以上に幼いのかしら」
「単に下手なだけだろ。俺だって、ここまでじゃねえけど字は下手だぞ」
「頭にガラスの作り方しかなさそうですからね。やっぱり、アンナちゃんに通訳して貰った方が正確かしら」
「中身色んなもん詰まってんなら、お前が読み取れよ。……ってか、そのアンナは今日も寝起きわりぃのか」
「いえ、目は開けてましたよ。それにほら、ちょうど来たところみたいです」
情報というには、あまりにも不要なものが多い怪人の書き置き。
人にものを伝える難しさを痛感しながら、ヴィクトリアとクリスティーは解読に苦戦していく。
怪人から一番正確な話を聞けるのは、アンナを通しての質疑応答。
それならば、二人を集めた方が有意義だと判断したクリスティーは、黒い少女に意識を向けていく。
放っておくと、昼近くまで寝ているアンナの話題を上げ始めると、タイミングを見計らったかのように噂の少女が姿を現した。
「ん? アンナ、どうした」
「探し物ですか?」
いつもなら朝はぼんやりとしている。
そんなアンナだったが、今日に限っては活発に家の中を動き回り、家具の隙間という隙間を覗いていた。
何かを探しているのは分かる。
しかし彼女が探すほどの物はヘブンスコール宅にはなく、どんな物を探しているのか、二人には想像もつかなかった。
「怪人がいない」
「いつもの事だろ。ってか、いてもそんな狭いとこじゃねえだろ」
「そうですよ、アンナちゃん。あの人、朝はいつもいないじゃない」
「そうじゃなくて。近くにいる感じもしない」
屋内の隅々まで見て回るアンナに、二人は疑問を浮かべていく。
だが、少女の意図するところが読めたのか、クリスティーは焦りの色が見える彼女の背中に問いかける。
「まさか呼んでも来ないのか」
「うん」
「……書き置きだけして、どこかへ行った? クリスティー、心当たりは」
「ねえよ。今日の分見たって、今までのと大差ねえぞ」
感覚的な話だが、怪人が近場にいない。
そう訴えるアンナに対して、ヴィクトリアとクリスティーは、顔を合わせては傾くのみ。
怪人の動向につながる糸口はなく、どれだけ想像を重ねても、それらしい理由は見つからない。
いつも通りと流しそうな事態だが、アンナの様子のおかしさに、二人は異変と認めていく。
「まさか殿下を見つけたとか」
「だったら言いに来るだろ。いや待てよ。また、やらかした貴族がいたとかじゃねえだろうな」
アンナの落ち着きのなさが、ヴィクトリアとクリスティーにも伝わり、彼らは期待と不安に染まっていた。
行方不明となっているアイザックを見つけ、接触を図ろうとしているのか。
それともヘブンスコール家が請け負った仕事を、また無断で破棄するような輩がいたのか。
いなくなる理由としてはどちらも納得がいき、だからこそ血流だけが早くなる感覚を彼らは覚える。
怪人の行き先はどこか。それを話し合おうとした矢先に、大きな音を連れて玄関の扉が叩かれた。
「──おお、朝からなんだ。そんな騒がんでも今開ける。まったく、仕事なら会社を通してくれ。自宅に来られても困るんだよ」
叩かれ続ける玄関に引き寄せられたのは、一人リビングルームでくつろいでいたヴァレンタイン。
迷惑千万だとばかりに険しい目つきになった彼は、今にも破られそうな勢いで音を鳴らす扉を、ため息とともに開錠した。
途端に開かれる扉。
その勢いに負けて後ずさるヴァレンタインは、失礼な客と思っていた相手を見ると、覚えのない空気感に眉をひそめる。
玄関の前に立っていたのは、特徴の薄い男性二人。
しかし格好は、どこにでもいる小市民染みているも、立ち姿はどこか鋭利さを感じさせる。
「な、なんだお前ら。客じゃねえのか」
ヴァレンタインの声にいちべつはするも、二人の男性の視線は家の中。
無言のまま見回す彼らは、奥から現れた三人の気配に注視していく。
「親父、どうした」
「荒っぽい方なら貴方の出番ですね、クリスティー」
「二人いる」
ヴァレンタインの邪魔とならないよう、家の奥から顔をのぞかせるアンナとヴィクトリア、クリスティー。
彼ら三人を目にした男性たちの内、ここで一人がようやく口を動かした。
とても低い、警告の音色を乗せて。
「アンナ、それとヒース家のご令嬢だな」
「お前、どうしてあの子たちのことを──」
「大人しくしろ、ガラス屋の店主殿。そうすれば丁寧に質問してやる」
二人の少女を見るなり、名前と素性を口にした男性を、ヴァレンタインは問い詰めようと手を伸ばした。
だが、水へ飛びこんだように違和感なく腕を取られた中年は、瞬く間に足を払われ、床に組み伏せられてしまう。
背中側から押さえつける拘束は固く、ヴァレンタインに許されたのは顔の動きのみ。
それを見て頷いたもう一人は、迷うことなく家の中へ足を踏みいれた。
進む先は当然、アンナとヴィクトリア。
止まる気配すらない男性の背中を越して、ヴァレンタインは三人に向けて叫んでいく。
「何やってんだ三人とも! 嬢ちゃんたちを狙う奴なんざ、片手もいねえだろ」
地位ある男爵の娘はともかく、完全に素性を伏せたアンナを知っている。
それが意味するのは、先日のパーティーを知っている者か、その関係者。
その中でも少女たちを捜しているとなると、彼らの背後に見える影は何色だろうか。
少なくとも優しさを感じなかったヴィクトリアとクリスティーは、ヴァレンタインの言葉に弾かれ、一斉に駆けだした。
「とにかく逃げるぞ」
「ちょっと、アンナちゃんを抱えるのならもっと丁寧に」
「んなこと言ってる場合か」
クリスティーは、男性が迫ってくるのをジッと見ていたアンナを片腕で拾い上げ、狭い屋内を巧みに抜けていく。
それを追うヴィクトリアも、負けず劣らずの速度を出し、あっという間に裏手の非常口から姿を消していく。
ゆっくりと近づいていた男性が呆然としていると、ヴァレンタインを拘束しているもう一人が、睨みを利かせて指示を飛ばす。
「おい、呆けるな。表で待機させてた奴らと合流して、三人を追いこめ。うまく誘導すれば、来ていただくより楽になる」
「あっ、ああ、悪い。あんな綺麗に逃げると思ってなかったんだ。すぐ向かう」
声をかけられてようやく我に返った男性は、指示通り駆け足で外へ戻っていく。
残った一人目とヴァレンタインだが、彼らの間に張り詰めた糸だけがつながっていた。
「さて、ミスター。優雅ではないが話をしようじゃないか」
いくらもがいても拘束は緩まず、視線で敵意を送っても怯まず。
ヴァレンタインの行動は、全て手の内だとばかりに見下ろす男性は、真意を隠した嘘くさい笑みを浮かべるのだった。




