46.The Magic piper(11)
肌がぶつかり合う乾いた音。
クリスティーの頬に向け、反対側の席にいたヴィクトリアが放ったのは、心の底から伸びた平手打ち。
叩いた手の平は彼女の心境と同じ赤になり、瞳に宿る怒りの熱すらも、その赤へ取りこまれていく。
ヴィクトリアの眼差しに残ったのは、目の色と重なる深く暗い青。
「最低」
言い争いをしていたときにはあった言葉の熱も、戻せないほどに破裂して。
たった一言だけクリスティーに打ちこみ、灰の少女は席から離れていく。
あれだけ気にしていたアンナにすら、欠片の意識も向かず。
一刻でも早く、この場から立ち去ろうとするヴィクトリアの足は、目元にたまったものを落とさないように静かだった。
向かうのはダイニングルームに来る途中で目にした、この家の玄関。
声をかみ締め、片腕で顔を一度拭い、扉を開けるさまは乱暴そのもの。
ヴィクトリアを見送る扉は壊れる勢いを受けいれ、しかし閉じる際には何事もなかったかのようにパタンと鳴いて。
彼女が去った後は、全ての物が喉を失っていた。
「お前はいいのか。友だち、行っちまったぞ」
「友だちじゃない。昨日の夜に知り合っただけ」
「なら、巻きこまれた感じか。にしては落ち着きすぎじゃないか?」
頬の痛みを胸の奥に落としながら、クリスティーは残ったもう一方へ声をかけていく。
二人のやり取りを横目に、黙々と朝食を摂っていたアンナ。
彼女の態度は、およそ一般的ではなく、達観というほど物腰の重さは感じられない。
全体の黒は夜空のようにどこか遠く、深みのある紫の瞳も焦点が捉えられず。
霧のように軽くてすり抜ける、空っぽな少女。
そんな印象を抱くクリスティーだったが、続く彼女の言葉に空気の重さを忘れてしまう。
「あの仮面をかぶった人、知ってそうだから。それの正体を聞くまでは、ここにいる」
「……何の話だ」
「私たちをここに連れてきた人のことだよ。あれ、人間じゃないよね」
一息入れるようにアンナは紅茶を口にし、昨夜目にした怪物らしき人物の特徴を挙げていく。
人並外れた四肢と背丈、そして奇抜な格好をした赤髪。
クリスティーの外見に近いものがあるも、空気感が違うと少女は首を振り。
怪物が現れると同時に、笛の音色が聞こえてきた。
そう告げると、男性の面持ちが険しいものへと変化していった。
「だとしたら、なんだ。古臭い悪魔祓いでもする気か」
人とは違うものと関わりを持っている。
そう疑われてクリスティーが思い浮かべたのは、手垢のついたオカルト紛いの行為。
悪魔祓いなんて言葉が出てきても、不思議ではない雰囲気の少女。
そんな彼女を前に警戒しつつも、現実味がないと嘲笑をふくんで椅子の背にクリスティーは体を預けていく。
「ううん。アイザック……にいるよって伝えるだけ。もしかしたらお金、貰えるかもね」
「待て、今なんて言った。人間じゃないやつをアイザックに伝えて、そうしたら金が入る? お前まさか、アイザック王子の噂のこと言ってんのか」
だがアンナの予想外の発言に、クリスティーは頭を床へぶつけそうになってしまう。
悪魔祓いなんてとんでもない。
それよりも眉唾物の噂話、アイザック王子の怪物探しを持ちだされては、彼も動揺が隠せなかった。
「あくまで噂だ。真に受けてる奴、初めて見たぞ」
「本人から聞いた。わたしも手伝ってるし、あなたと知り合いなら聞いておかなきゃ」
「冗談が過ぎるぞ、お前。どこまでが本当のことだ。全部でたらめにしか聞こえねえ」
「全部、本当だよ」
クリスティーの赤みの強いオレンジの瞳が、アンナの深い紫の瞳に吸いこまれる。
国中でささやかれるアイザック王子の怪物探し。
アンナが彼の知り合いで、その手伝いをしていて。
そして、その無機質な目で見た怪物が、クリスティーと関わりがあると踏んでいる。
どれも本当のこと。
そう訴える黒い少女に言葉もなく、ようやく絞りだせた思考を、赤髪の彼はそっと少女の前に滑らせた。
「だとしたら何者だ、お前」
告白しようにも、思いをせき止めてくる正体不明への不安。
クリスティーの知ることを吐きだすには、アンナはあまりにも黒い外見そのもの。
ひとえに少女のことを知らなすぎる。
そのことが気がかりだと述べると、対するアンナは小首を傾げながら答えた。
「アイザックの知り合い。それだけ」
アンナにとって、どちらの人格であろうと心境は変わらない。
優しいザックでも、冷たいアイザックでも、友だちのミアからつながった初めての知らない誰か。
だから知り合い以外に当てはまるものがなく、それは屋敷にいる使用人たちでも同じこと。
そんな様子が誰よりも冷たく見えたのか。
答えを受け止めたクリスティーの表情は、少女の瞳の中で霞むぐらい、晴れたものではなかった。




