34.The Altruism Lord(11)
まぬがれようのない地面への衝突。
それを予期した名前のない男性だったが、倒れる少女に向けて、静かに差しだされた腕に目を見張る。
「意外だな」
「仕事をこなした部下を労うのは当然だ。水すら与えない騎手の鞭に、応える馬がどこにいる」
意識を手放したアンナを支えたのは、暴力の限りを尽くしていたアイザックの腕。
剣をもってしても斬れず、鎧をもってしても防げず。
武力において、これ以上にない理不尽を披露していた彼だが、少女の体を預かる今は、その一端すら見えてこない。
あるのはただ、少女の眠りを妨げない堅牢さ。
そして背中を支える腕はそのまま。
流れるようにもう片方をアンナの膝裏まで通し、ブライダルキャリーの体勢に移っていく。
「貴様には迷惑をかけた、謝罪しよう。後日、改めて王家から詫びを贈らせる」
「全くだ。これの処理もあるし、右腕も動かなくなった。良いことなんて一つもない」
寝転がりながら、じきに夜が来る空を見上げて。
男性は隠すことなく不満をアイザックへぶつけるも、言葉はどこか遠く、違う場所に投げられていた。
「もう疲れた。早く帰ってくれ」
「……それだけか。大抵の人間ならば借りを作り、脅しの一つはするだろう」
「しないさ、その子に免じてな。俺を見てくれた数少ない人間に、それはしたくない」
絵画に描かれるような理想の領主、リアム。
そんな偉大なものではなく、目の前にいる俺自身へ手を差し伸べてくれた。
だからこそ、領主リアムとしての正しい行動を取りたくない。
記録に残らない個人として、眠るアンナと同じく口をつぐむだけ。
「さっさと行け。人が来る」
「感謝する」
悪夢を見ているのか。
やや乱れた寝息を立てるアンナを抱えながら、アイザックは名無しの男性に背を向けた。
一言。しかし影のない言葉を耳にした誰かは、想像との違いに思わず笑みをこぼした。
「昼間の方も話していて面白いと思ったが、今の奴の方が気が合いそうだ」
肩を貫かれた右腕は、当たり所が悪かったのか、指まで動く気配がない。
なので機械の左腕を使って全身を起こす男性は、夕暮れに消えていく男女を見届けていく。
話す時間でいえば、アイザックの方が圧倒的に短く。
なのに共感の暖かみを胸に灯した彼は、辺りが煤にまみれた庭先へ一人、立ち上がる。
自身をけなす音をはく怪物たちは、もういない。
しかし、後悔が残る彼らとまた会うことができた、嫌われていようとも二度目の別れも辛い。
そんな望まれない気持ちに、どうにか蓋をしようと彼は悩んでいく。
答えのあるものではない。
だがそうしなれけばリアムに戻れないと、奥歯をかみ締める男性は、自身の青銅と茜色を混ぜ合わせた暗い色が訪れるのを待ち──
「リアム様、ご無事ですか!」
「……ああ、君か。こちらは平気だ」
自分の中にかすかだが残った、町民の知らない誰か。
それを丁寧に黒く塗ろうとしていたところで、聞き覚えのある声が遠慮なしに、バケツいっぱいの塗料をかけてきた。
過去の邸宅を改装した記念館、そこの案内人。
リアムに強い敬意を持っている彼だからこそ、一声でリアムを演じるのに戻った誰かは、余裕のある笑みを作っていく。
「お助けできずに申し訳ありません。あの黒い怪物どもが、リアム様に襲いかかっているのを目にしたというのに、私としたことが武器を手に取ることすらできず」
「君は記念館の案内人であって、守衛じゃないんだ。気にするな」
「はっ、しかし……。いえ、そうですよね。代わりに、町長や警察への連絡は済ませておきました。町全体でも怪物が現れていたらしく、以前と同じく、国が提示した方法で対応しているそうです」
「ふっ、機転が利くな、君は。分かった、なら報告を待つことにしよう。ああ、それと。記念館はもう閉館だ」
他職員によって既に行っています。
姿勢を正してそう答える案内人に、リアムを名乗る誰かは、もったいないなと胸中でつぶやいた。
彼らの敬意ある行動は、全て本当のリアムに向けられるべきだ。
ただ彼の意向を維持しているだけにすぎない自分には、まぶしすぎて掴めない光そのもの。
「なら、規定通りの対応を。俺は中で少し休む」
「かしこまりました。……あの、リアム様。差し出がましいようですが、ご一緒されていたお二人はどこに?」
少しとはいえ、記念館に興味を示してくれていたアンナとザック。
彼らのことを気にするのは、案内人としては当然であり、問いかける彼の目に宿るのは心配の色のみ。
二人が原因となって、黒の怪物が発生した。
そんな疑惑すらない綺麗な眼差しに、男性は微笑みを返した。
「逃がしたよ。どこからともなく、訳の分からん奴らが出てきていたからな」
「そうですか。また無事にお越しいただけると、嬉しいですね」
二人は無事だろう。
そんな言葉で埋めた大きすぎる事実を、名前のない誰かは胸に仕舞いこむ。
今回の事件もまた、国のいう自然現象の一つ。
そう片づけることにした彼は、案内人に背を向けて、ゆっくりと別館の中へと戻っていく。
「次はないさ。俺にはもう、用がないだろうから」
ザックにしろ、アイザックにしろ。
一つの体に二人いた王子の思惑からして、目的から離れた存在の彼は、気には留めていても再びの接触は考えにくい。
案内人からすれば残念だろうが、これはきっと現実になる。
「自分たちと似た奴を探す、か。考えもしなかったな、そういえば」
別館に入り、応接室にまで足を延ばした彼は、誰もいない空間を目にして深い息をつく。
まるで今の自分自身。
そう心と景色を重ね合わせると、暖色が消え始めた夕暮れを映す窓の下へ、半ば倒れるように座りこんだ。
色の薄い、陰ある壁に背を預け、正面にはまだ人の気配が残ったテーブルたち。
「随分、遠くなったな」
機械の左腕を伸ばしても、届くことのない光が当たる空間。
つい先程までそこにいたはずなのに、掴むどころか触れられない。
本来の自分は、こういう存在だったんだ。
百年を超える生の中、そこへ立てていたのが奇跡なんだ。
俺はあいつの影。
絵画に映らない場所こそ、本当の居場所。
「……本当、随分と長く生きたみたいだね」
──パチンと、火花の咲いた音がした。
一つの椅子を名前のない男性の方へ向け、物静かに誰かが座る。
「久しぶり。長い間、お勤めご苦労さま」
「偽物にしては、出来が良すぎだ。そのままじゃないか」
椅子へ座ったのは、鏡写しの名前のない誰か。
だが、それはあくまでも容姿の中で似た部分を拾った話で、彼の姿を表すに相応しいのは、ただ一言。
絵画の人物が現れた。
「お前なのか、リアム。といっても、あの少女が作った奴だろ」
「そうだね、僕はもう死んでるから。貴方が知っている僕では、決してない」
「認めるのか。まあ、その方がお前らしいな」
声は遠く、顔はよく見えない。
しかし自分と瓜二つの絵画の人物が、目の前に現れたと分かった男性は、あまりの夢のような光景に釘づけになる。
絵画をそのまま抜け出したような、本当のリアム。
その真似事していた、別の誰か。
光と影に別れて座る彼らだったが、別の誰かは思わず苦笑をこぼしてしまう。
それは目の前に現れたリアムの精密さゆえ。
暴れ回っていた黒い怪物と同一と言われたら、誰も信じられないほどの完成度は、別の誰か以上に本人を反映していた。
その証拠に、瓜二つの自分と会話をする彼は、優しい微笑みの中に申し訳なさをふくんでいる。
「先代男爵──父様が貴方を作って、僕の影武者として働かせて。それだけでも充分だというのに、僕の我がまままで聞いて貰って。無理させたね」
「男爵家がどうなろうと、民には幸福を。それが、生前のお前の願いだったからな。当主の命令を聞くのが俺の仕事だ」
「まさか成り代わるとは思ってもいなかったけど。……恨んでるかな」
「いきなりなんだ。俺はお前のこと、赤ん坊のときから知ってるんだ。感謝とか、遺恨とか。そんな小さいこと、思う訳ないだろ」
貴族の身分を捨ててでも、民と領地の繁栄を。
それが本来のリアムが望んでいたこと。
しかし瓜二つの人物が、それを引き継いで百年以上も続けるとは思ってもおらず、彼は罰を待つ聖職者のように表情に影を作る。
だが相対する男性は、馬鹿にするなと思いを一蹴し、空となっても残り続けていた思いをツラツラと並べていく。
「お前は俺の全てだ。リアム、お前がやりたいって言ったこと、俺が嫌だと首を振るなんてこと、あったか」
「なかったね。いつも、苦い顔しながら付き合ってくれた」
「そりゃするだろ。領民からの無茶な陳情のたび、糸目もつけず散財しようとする馬鹿には、他にどんな顔すればいい」
「やっぱり恨んでない?」
まさか。
そう短く切った男性に、リアムはこれまでにない色の表情を描いていく。
からかわれて、拗ねるような。
子どもっぽさを感じさせる様子を見せる彼だったが、コホンと咳払いをして、元の風格を取り戻した。
「では、僕からの最後のお願い。もう一度、聞いてくれるかな」
「いつでも、何でも。俺に命令できるのは、お前だけだ」
リアムの言葉でなら、別の誰かは何者にもなれる。
それこそ、今一度領主として立ち上がり、更なる町の発展をと望めば、残る四肢すら機械に変えるだろう。
だが、彼の胸中に落とされた一滴のしずくは、燃える油ではなかった。
「今までお疲れ様。もう、休んでくれ」
空っぽの心に満ちていく、赤から濾過した透明な水。
どちらの物が彼の中に落ちたのかは、両者ともに不明なまま。
わずかな言葉だけで目から光を失った別の誰かは、それでもリアムを瞳に焼きつけたまま。
「また一緒に寝よう、ロビン」
ゆっくりとまぶたを閉じていく、別の誰か。
合わせて、多彩な色使いだった体が黒となり、崩れ煤の塊になっていくリアム。
今度は二人一緒。
そう語りかけるリアムに、そうだなと別の誰かは頷いた。
まるで、ゆりかごで眠る兄弟のように。




