20.act-tune - The Queen's Homeland
漁師が釣り竿を肩にかけて走るように、蒸気機関車は吹いた排煙を背に担いで駆けている。
小麦畑が広がる農村から、人が満ちている都市部まで。
線路さえあれば分け隔てなく仕事をこなす彼は、今日も石炭を頬張っていく。
そんな活力の塊である車両の中、最も格式ある一等車にアンナは身を置いていた。
ガラスで閉じた窓から見えるのは、流麗に描かれた様々な風景。
それを飾りとする内装は、豪奢なカフェテリアをそのまま移し替えたような、シックなデザイン。
向かい合わせの椅子は落ち着き深い赤で彩られ、間に設置されたテーブルも、味わいを邪魔しない簡素な白。
車両の揺れも乗客の声も、この空間を壊さないようにしているのか、控えられたものしか伝わらない。
「どれも美味しそう」
まさに静謐で絢爛な一等車。
しかし無彩色の少女は空間の色合いを気にもせず、口からささいな欲をこぼしていく。
アンナが目にしているのは、テーブルに広げられたチラシの群れ。
乱雑に幅を利かせる彼らには、王国内でも評判の料理店や菓子店のメニューが描かれていた。
ローストビーフをはじめとして、ベイクドポテトに白身魚のパイ。
果実のジャムを使ったパイは種類豊富で、店舗によって特色をみせるトライフルは、見比べるだけでも目を楽しませてくれる。
中には紅茶の茶葉だけを語るチラシもあり、興味津々と目を輝かせるアンナは、ふと顔を上げて向かい側に座る人物へ声をかけた。
「どれからが良いかな? アイザック」
視線の先にいるのは、目元を隠した作り笑いの上手い青年ではない。
冷酷に思える赤い瞳をさらし、淡々とした無機物めいた表情で世界を捉える、褐色肌の青年。
怪物アイザック。
二重人格の内、もう一人のザックである彼とアンナが出会うのは、少女の元いた町が焼失して以来。
半月もの間、姿を見ることすらなかった彼に、入れ替わったザックと同じ調子でアンナは接していく。
「好きにしろ。構う必要はない」
「わたしだけじゃ、選び方わかんない」
あくまで同席しているだけ。そんな突き放した態度をとるアイザックに、アンナは怯まず近づいていく。
テーブルに両手をつき、身を乗り出して。
ひじ掛けに腕を置いて頬杖をつく彼と、目をそらされないように顔を突き合わせる。
重なるのは、赤い宝玉の瞳と夜空めいた紫の瞳。
お互いに譲ることなく、熱のこもらない両者の目は鏡写し。
それでも引かないアンナは、言葉で彼の手を取った。
「アイザックは、わたしに何も教えてくれないの?」
それはザックと交わした約束。
アンナの知りたいこと、友だちのミアが知りたかったこと。
できる限り教えると青年が告げたことは、入れ替わってしまえば無効となってしまうのか。
そう問いかける少女に、アイザックは静かに目を閉じて応えていく。
「貴様の友人。あれは口の重しが軽いだろう。あの手の輩は好みの一つや二つ、自発的に告げるものだ」
「ミアの……じゃあイチゴのタルト。どれくらい美味しいかな」
「食せば分かる」
まずはミアが教えてくれた物から。
そう言っていると解釈したアンナは、チラシの中からデザート類が描かれているものを中心に手元へ集めていく。
落ち着いた絵の多い主食は遠く、派手に飾られたデザートは近くに。
多色の紹介がされている菓子類は、主食と比べると色彩豊かだ。
果実の色合いが激しく主張し、支えるのはささやかな生地と焼け具合の色調。
明るくポップに、爽やかでクールに、優雅で上品に。
お菓子の色相環となっているチラシを、表情には出ていないが嬉々として眺めていくアンナ。
しかし気になる部分があったのか、ときおり上目遣いとなる彼女に、アイザックは冷たく言い放った。
「遠慮はいらん、何の用だ」
「アイザックって、昼でも会えるんだ」
今度は視線が結ばれず、繋がるのは高低差のある音域だけ。
そうして紡がれた少女の言葉は、青年の人格が切り替わるタイミングについて。
初めて会ったのは、月も顔を出していたわずかな時間だけ。
そして怪物という先入観から、二人の青年は夜の間だけ入れ替わっている。
そう思っていたと告げるアンナだったが、アイザックが返したのは言われてみればの内容だった。
「時の経過で交代する。そんな好都合、私たちに有りはしない。貴様も身に起こることを自由にはできまい」
「……そうだね」
不便極まりない。
アイザックの含みをこめた言葉は、アンナに重くのしかかる。
今この瞬間に、彼はザックと入れ替わるかもしれない。
同じくアンナも、外出用に整えてもらった黒髪に、赤い光が走るかもしれない。
何一つ思い通りになったことがない、怪物の力。
それを改めて思い知ったアンナは、沈黙に促されて頷いていく。
「本当に不便だ」
自分自身のことなのに、何一つとして理解もできなければ、自覚もできない。
だからこそ青年たちの思惑に、少女は身を任せて乗りかかる。
怪物なんてものに、好きでなりたかった訳ではないから。
少しでも早く真っ当な人間になりたい、それがアンナの目指すところだった。
「アイザックはさ、どうして一人になりたいの?」
「個人として当然の時間を得る。それ以上の意図はない」
「やりたいこととかも?」
怪物でなくなったらやりたいこと。
漠然としているものの、その一端をアンナは叶えられていた。
どこへ行くのか決めて、何を食べるのか言い合って。
誰かと知らない場所へ旅立つ、そんな友だちの憧れた情景。
相手はミアではないが、それを今実現しているからこそ、少女は気になってしまう。
怪物アイザックは、人間になれたら何をしたいのか。
制限のない時間を得て、その目で見たいものはいったい何なのか。
知りたい。そう眼差しで語るアンナは、知らぬと澄ました顔をしたアイザックを見つめていく。
目は合わず、彼の視線は流れ去る風景の方へ。
どれだけ願っても避けられる少女の思いは、次の言葉でさらに両断されてしまう。
「貴様は話すに値しない。所詮、事が成されれば市井に下る身だろう」
怪物でなくなれば、アンナはただの一人の少女。
そうなれば王侯貴族に易々と接触できる立場ではいられず、補助はあれど一国民として遠ざけられる。
だから契約の成就より先のことを、少女の耳に入れるつもりはない。
そうはね退けるアイザックに、アンナは少しだけ頬を膨らませ、不機嫌さを表に出していった。
互いの距離はつかず離れず。
そんな淡い関係性の少女と青年を乗せ、蒸気機関車は変わらぬレールを駆けていく。
ひらけた農地から市街地に。そして薄っすらと白煙に包まれた、城下の町を目指して──




