02.Soot covered(2)
青年ザックと別れてからというもの。
呆然と町の一部となっていく彼を見送った少女は、町はずれにある教会の下まで走っていた。
汗をかき、息を荒げ、激しく波打つ心に任せて動いた足は震えている。
しかし休みを欲しがる体とは違い、気持ちだけは進むことばかりを考えていた。
ようやく着いた教会の扉の前。少女は深呼吸をしてから、勢いよく扉を開け放つ。
「ねえ、聞いて! さっきね。カッコイイ人が来てたの!」
檻から出された小鳥のように。
薄暗い教会の中へ気持ちを重ねた声を打ち出し、少女は年相応の明るさを振りまいていく。
歩いた先から教会に明るさを灯す彼女は、ステンドグラスから差し込む陽光とは別種の色合い。
荘厳かつ豊かな彩りだが、冷たいガラス工芸越しの光とは違う。
少女の持つ空気は、陽の光そのもの。
暖かい。けれども眩しすぎるし、触れることがためらわれる。
「優しそうな人でねー。あでも、変な人だったし。んーでもでも、そこがちょっと良いかなって思っちゃったりとか」
静寂を破る少女が話しかけるのは、この教会の住人。
だが相手からの返事は中々返ってはこないし、物音一つもしない。
けれどもお構いなしに少女は喋っていくし、足取り軽く奥へと進んでいく。
その足はステンドグラスを通った日差しの中で、ついに止まった。
「このドキドキってなんて言うんだろうね。聞いてる?」
──続く相手の名前は、パチンと火花が爆ぜる音が被さった。
少女は確かに誰かの名前を発していた。
しかし、そこだけが不可解に消されていて。
だというのにとうの本人は、平然と反応を示すだけ。
「知らない。今日も元気だね、ミアは」
投げやりな返答をする中性的な声に、ミアと呼ばれた少女はめげるどころか、褒められたとばかりに笑っていた。
声の主がいるのはミアの正面。
主祭壇に背中を預け、膝を抱える形で座り込んでいるそれは、人の姿をしていた。
歳はミアと同じか、少し下と思える低い背丈。
長い黒髪と整った顔立ちは性差が薄く、体つきも薄暗い空間にごまかされて判別できない。
濃い紫の瞳に光は灯されておらず、身に着けた衣服はチュニックとキュロットの組み合わせで、汚れと痛みが非常に目立つ。
彼ないし彼女は、いってしまえばミアの正反対。
日向の少女がいるからこそ形を成している、廃れた教会の黒そのもの。
「それで。今日はなに」
「今日はじゃなくて、今日もだよ」
多色の日差しから抜け出して、顔を突き合わせるようにしゃがんだミアは、それでも光を弱らせない。
その光が名前の判らない子どもの目に映りこみ、澄んだ青へと引きずり込んでいく。
ミアの目は相手の視線を逃さず、高く飛ぶ声は細く静かな声音を囲み、緩まない足取りは無造作に影へと近寄って。
でも、最後のお願いだけは違う。
伸ばした手だけは、騒々しく子どもの手を取ることはなかった。
「二人で町の外に行こう」
今日もまた、ミアは懲りずに自身の手を取ってくれることを待っている。
それを目の前にして、黒の子どもは小さく息を吸い、わずかに唇を噛んで、ため息をついて。
さっきと変わらない無機質な声音を浴びせた。
「できないよ」
「じゃあ隣、失礼しまーす。えへへ。今日はね、さっきも言ったけどカッコよさそうな人が町に来てたの」
「……勝手にすれば」
「うん。今日も好きにしてくね」
ミアは伸ばした手に重なるものは無いと知っていたし、断ったとしても居座ってくると、子どもも初めから諦めていた。
これがいつもの二人の距離。
一緒に並んで話して聞いて、空の色が教会の中と同じになるまで変わらない。
──たった二色の空間。
それからミアは話し続けた。
朝起きたらベッドからずり落ちていたこと。
朝食のスープには嫌いなキノコが入っていて、弟の皿に移そうとしたら父親に見つかってしまったこと。
仕方がなく食べたけれど、夕飯には大好きなイチゴのタルトがあると聞いて、今から楽しみにしているんだって、どれだけ美味しいのかを語っていく。
そして巡って、ちょっとした出会いの話。
不思議な青年ザックがどんな雰囲気だったのか、どんな人なのか。
想像と妄想の区別がつきにくいミアの思いは、薔薇色のようにつづられていく。
「でもこんな田舎に、ザックさんは何しに来たんだろう」
「気になるなら、そっちに行けばよかったのに」
「気になるよ。でも会いに行くって約束したから」
「約束なんか、してない」
したよ。
そう心が叫んでいるけれど、ミアは決して音にはしなかった。
そんな無音に反応して、子どもはミアの微笑みをいちべつするも、嫌う素振りをせずに黙ったまま。
「なんてね。変わった人がいたから、興味あるかなーって思っただけ」
「その割には浮かれてたけど」
「いいですぅ。ねっ、ねっ。それよりもどう? 会ってみたくない?」
目立つ人が田舎町に来たから、友だちと話題を共有したかった。
なんて、それらしいごまかし方を口にするミアだが、顔の赤さから本心は別にあることは、そばから見ても察しがつく。
しかしきっかけとしては分かりやすく、一緒に外を見たいミアの指針からは外れていない。
両方の意図もあってか、妙に早口で話題の人物が気になるかどうかを確認する少女に、相手をしている方は逡巡するも、至った考えを床に打った。
「別に。ミアがここに来るだけで充分」
「いや私が、また会ってみたいとかそういう意味じゃなくて。って、うぇ? 私?」
「会う意味ないよ。ミアなんか」
「……なんかグサッてきたんだけど、今」
小声で聞き逃してしまったことを問い返すと、相手に強い言葉で切り捨てられてしまい、ミアは抱えた膝に顔を埋めてしまう。
田舎暮らしのただの快活な少女であるミアでは、ふらりと現れた怪しい青年ザックとつり合わない。
それはミア自身も理解しているし、偶然出会っただけの彼とはまた会える保証もない。
ましてや彼は、怪しい風貌のどこの誰かも分からない男性。
家族はもちろん。そんな人物に一目見ただけで惹かれただなんて理由は、否定されて当然だ。
だから目の前の子のいうことは納得がいく。
でも理解しても、納得がいっても。気になってしまう心は離れない。
「あの人のこと、何でこんなに気になるんだろう」
さっきも聞いた、二人の知らない感情の名前。
その答えを知っている人はいるのだろうか。
誰に聞けば教えてくれるのだろうか。
考えれば考えるほど怪しい青年への関心が熱くなり、ミアの足は今にも外へ向かって走り出しそうで。
だけど抑えるのは、後ろ髪を引く細い糸。
どちらも譲りたいと思えない力強い気持ち。
だからミアの明るい青雲は濃さを増し、かげる灰色の雲がかかり始め。
もう一度、ザックの名前を口に出そうとしたところで、ずっと閉まっていた教会の扉が開け放たれた。