19.a happiness without a cat(10)
いつの間にか途切れていた意識を、アンナはぼんやりと取り戻していく。
視界は一面真っ暗闇だが、書庫の狭さと心のざわつきがない所から、別の場所だと理解する。
目の前が見えないのも当然で、ゆっくりと手を動かして目元まで持っていくと、温くなっているが濡れたタオルが当てられていた。
わたしは倒れたんだ。
長考の末にたどり着いた結論。しかしそれは思考が鮮明になるにつれて実感となり、滞っていた少女の血流が勢いを回復させる。
「ザック、あのネコ──」
近くに誰がいるかも分からない。
だが真っ先に浮かんだ名前を口ずさみ、目元のタオルを取り外す。
あのネコをどうすればいい?
そう聞きたい相手を探して体を起こしかけるも、お腹の上に欠片ほどの重さを感じ、開けた視界をそちらへ向けた。
「お尻?」
それは黒く毛並みのいい獣の臀部。
アンナの声に反応して短い尻尾はピコピコと動き、振り向いた顔に描かれていたのは素っ気ない表情。
重さの正体は、幽霊の黒猫プリムラだった。
香箱となって少女の上に居座るネコは、アンナが起きたことに気がつくも、逃げるどころかまた顔を戻してリラックスし始める。
当然だとばかりな態度に唖然としてしまうアンナだったが、優しい女性の声音によって我に返った。
「良かった。目が覚めたのね、アンナ。でもまだ起きちゃ駄目よ。そのまま、ね」
「起きたくても、起きれない。この子がいるから」
「……うっ。それって、幽霊のネコのこと?」
「そうだけど」
ソファに寝かせられたアンナが、声につられて首を横に向けると、そこにいたのは胸に溜まった心配を撫でおろすカナルミアだった。
彼女のそばにあるテーブルには小さな桶が置かれていて、少女に当てられていた濡れタオルは、カナルミアによるものと分かる。
普段の強気な印象から一変し、母性すら覗かせるカナルミア。
聞いているだけでも安らぐ声を出す彼女に、アンナも素直に従っていくも、元より起床するのは困難に等しい。
少女の呼吸に合わせて上下する黒猫。
重さはないが、無理にどかすのは気が引ける。
そんな今の気持ちを告げるアンナだったが、受け取ったカナルミアは顔を引きつらせながら少女から遠ざかっていった。
「何もしないわよね」
「まったりしてる。ここが良いみたい」
プリムラに対して怯えを見せるカナルミアは、アンナの気の緩むような説明を聞いても、心も体も遠いまま。
彼女は露骨な不安を表情に描くも、警戒されている相手は耳をゆったりと横に向け、意にも介さず欠伸すらしていた。
この場でプリムラを認識できているのは、アンナだけ。
カナルミアは言わずもがな、もう一人も気配すら感じ取れない。
「具合は良くなったみたいだね、アンナ。まずは僕のせいで、キミに負担をかけたことを謝らせて欲しい。済まなかった」
落ち着きのある青年の声。その声が聞こえた頭上へアンナが向くと、そこには執務机の席に座るザックがいた。
目は相変わらず隠されているが、声音を染めているのは安堵の一色。
心配されていた。それが自分の周りにある空気へ満ちているのが分かったアンナは、ほんの少しだけ頬を赤く染め、その色が移らないように言葉を淡々と放っていく。
「別に。わたしもこうなるとは思わなかったから」
「それはまだ、キミがキミ自身を分かっていないからだ。今後は暗い閉所を避けないと。カナルミア、しばらくの間は彼女を寝床につかせてくれるかな」
「仰せの通りに、殿下」
「わたし、そこまで子どもじゃないけど」
トラウマを自覚したことで、夜に一人で寝られないかもしれない。
それを冗談めかして口にする年上の二人に、さすがのアンナも不満を表に出していく。
事実、そこまで重症ならば既に見つかっているものであり、誰もが分かっているお遊びだ。
しかし一度頷けば、笑いごとではなくなる様子もあって、幼い子どものような扱いに少女は頬を膨らませる。
「それだけキミを心配しているんだ。カナルミアも、そのためにキミの専属にしている。──甘えてもいいんだ」
「そうよ、アンナ。私のことは姉だと思って。まあ、殿下は後ほどラルストンの下で苦い思いをしていただきますが」
「後もなにも、ついさっきまでキミにされていたじゃないか」
「あら、殿下は私の方がお好みでしたか」
どちらも好みじゃないと苦笑いをするザックだが、同じく笑みを作るカナルミアの表情は思いと異なっていた。
アンナに向ける青一色の気持ちではなく、混ざり切らない青と赤のコントラスト。
少女が起きるまでカナルミアが発していた諫言の数々は、まるで嘘のように収められていて。
それはアンナを前にしているからだろう。
続きは後ほど。そう暗に告げる女性と受け入れる青年は、別の話題へと切り替えていく。
「アンナ、あの書庫を調べるのは後にすることにしたよ。ラルストンの進言通りにね。それまでに、スタンリー卿の飼い猫との仲を深めて欲しいと思っていたんだが、どうやらその必要はないみたいだね」
「うん。屋敷に来たときから目、合ってたし」
「あー……。もしかして、この部屋に呼び出した際、周りを見てたのは──」
「この子が色んなとこ、ウロウロしてたから。そこ、お気に入りみたい」
初めからプリムラが見えていた。
そう告白するアンナに、見えない二人はなぜ言わないと目で訴えるも、素知らぬ顔で少女は流す。
代わりにアンナが示すのは、ザックがいる執務机。
窓際で日当たりもよく、一般的にネコが好むとされる場所だった。
「次からは屋敷の誰でもいいから伝えてくれ。分かっていれば、僕も焦らなかった。……これは言い訳か」
「それで、この子はどうするの? ザック」
「スタンリー卿は自由にさせると言っていた。というより、僕たちからは何もできない。幽霊とはいえ、ネコ相手に命令は難しい」
「そうかな」
お願いすれば聞いてくれる。
そんな希望をもって接しようとしたアンナだったが、降りて欲しいとプリムラに頼んでも、そんな言葉は右から左へ。
アンナであれば直接触れることもできたが、持ち上げても爪を立てて抵抗する。
かといって撫でておだてれば、なおさら良きに計らえとばかりに居座りつく。
ザックとカナルミアには、少女がパントマイムをしているようにしか見えないが、青年の言った通りになっていると分かり、お互いに笑みをこぼした。
「幽霊のネコ──プリムラは、アンナに懐いているみたいだ。それでも彼女の世話を頼めるかい、カナルミア」
「ご命令とあらば。仕事と私情を分けられないほど、私も子どもではありませんので」
「無理をさせるね。……ふぅ。この手紙、開けない訳にもいかなくなったな」
そう言ってザックが手をつけるのは、封蝋された一枚の手紙。
実姉からのお誘い。もとい超常現象の調査報告を急かす、言葉数少ない圧力。
アンナだけならば本人の気持ちの安定を言い訳にできるが、十年も開かなかった書庫の扉も解決してしまうと、報告を遅らせるのは面倒が増えてしまう。
愚弟の自覚とともに、引き出しからペーパーナイフを手に取り、中を切らないようザックは丁寧に開封していく。
「ブリジットはネコ嫌いなんだ」
「嫌いじゃないわよ。嫌いじゃないけど……」
「じゃあ、ザックはどう?」
関わった二つの事件の顛末を考えつつ、どう実姉に報告をするか。
そんな考え事の最中に飛びこんできた少女の質問。
開封を終え、中身を取り出しかけたところで手を止めたザックは、迷いを見せはしたが最後は笑いながら答えを口にする。
「僕は犬派かな」
瞬間、ペーパーナイフを持っていたザックの右手に、一筋の光が走った。
遅れて刻まれる赤の一筆書き。
カナルミアが顔を青くして慌てる中、アンナの上でくつろぐプリムラは、フンと鼻息を立てて二つに分かれた長い尻尾を振っていた。




