17.a happiness without a cat(8)
物を言わずに整列する本棚は、夜空にかかる雲のよう。
彼らを突き抜けて瞳に光を宿すのは、二つの赤い星。
床に伏せた少女と、椅子に座る齢五十ほどの男性。
二人を目にしたザックが思い出すのは、一週間前にあった教会での事件。
あの時は突然、背後から頭を殴打された。
そんな嫌な記憶を呼び覚ます事態に、彼は幽霊を相手取る以上に気を引き締めるも、どうにも様子がおかしい。
目の前にいる男性からは、害意どころか悪感情が毛ほども見当たらない。
それどころか辺りを見回し、容態の悪そうな少女とそれを気にする青年を一瞥。
さらに自分側に近い床へ視線を移して、見えないネコを認めると、男性は沈黙を貫いたまま熟考に入った。
焼失した町にいた町民たちとは、一線を画すほどの知性がある。
そう確信したザックが、どうにか接触を図ろうと喉を震わせかけたところで、パチンと火花の音が駆け抜けた。
「どうにも飲みこめん。そこの青年、貴殿は話ができそうだ。良ければ私に現況を教えてくれんだろうか」
冷静に努めているも、男性は口内に噛み切れない困惑の文字を残していた。
場所は分かるし、人物と動物も同様。
しかしどうしてここにいるのか、今なにが起こっているのか。
考えても得られない答えを、彼はザックに求めた。
「いいですよ、願ってもいない提案だ。僕は……ザック。察するに、この名前は貴君の物でしょうか?」
言葉が通じ、相手も歩み寄る姿勢を示している。
これよりも上等な交流は他になく、ザックもまた相応の心構えで言葉を返した。
「──グリンラック子爵、スタンリー・オルバン・マリンソン卿」
「いかにも。それは忌まわしくも、祝福となった私の名だ。……不思議なものだな。貴殿がその名を口にした途端、とうに捨てた誇りを思い出す。貴殿とはどこかで会っただろうか?」
「一度だけ。ですがそれは、僕が幼いときの話。お互いに忘れてしまうほどの月日です。初対面と言って差し支えないかと、スタンリー卿」
「そうか。お心遣い痛みいる、ザック殿」
ザックの言葉を聞いたスタンリーは、引っかかる部分はあれど、初対面とした方が都合良いと納得する。
あえて本名を伏せたザックに、深くは追及しないスタンリー。
今はそこを気にする時ではないと、言外に示し合わせる二人が次に意識するのは、体調が戻らず顔を青くしているアンナだった。
いや、異形の姿で現れたスタンリーを前に、彼女の容態は悪化の一途をたどる。
例えシックな服装を着こなしていようと、彼の顔つきは人には程遠い。
毛髪がなく、肌は全て焼けた黒。赤い眼光と口内は、まさしく異形のそれ。
人の形をした炭の塊、そう表現するしかないスタンリーの様相。
しかし自覚がなかったのか、自分を見る二人の形相を介して身なりを改めると、驚嘆の声をもらした。
「成る程、得心がいった。すでにこの身は人を外れていたか。神罰というものは、本当にあったのだな」
「スタンリー卿、貴方は──」
「良い。皆まで言うな、ザック殿。私の生は既に終えている。そうであろう? 必然であり、そこに憤りはない」
来るべきものとして、死神の到来を受けいれた。
その前後がどうであれ、幕引きに異存はないとするスタンリーは、世間での扱われ方を告げようとしたザックを制止する。
「それよりも少女の方だろう。私にできることはあるかな、ザック殿」
病状が収まらないアンナに、スタンリーは逐一、心配の目を向ける。
しかし今の自分が異形と自覚したからか、怖がらせまいと席に座ったままでいた。
今すぐにでも手を差し伸べたい心と、恐怖への理解で床に根を張る足。
丸底人形のように心境をゆらす彼に向け、ザックは一縷の望みをかけて声を上げた。
「でしたら、そこにいるネコを説得していただきたい。扉を開ける、それだけで構いません」
「……また悪戯をしたのだな。仕方のない奴だ」
名前を知っていることから、スタンリーの飼い猫だろう。
そんなザックの予想は当たっており、青年には見えないネコへ向ける彼の目は、どこか温かさを持っていた。
「プーリィ、扉を開けたまえ。プーリィ。──プリムラ、聞いているのか。耳だけではなく、意識も傾けてくれ」
ザックの願い通りに、ネコへ声をかけていくスタンリーだったが、その声音はどんどん自信が失われていく。
最後に至っては懇願であり、飼い主というよりかは、傍若無人な主に頭を悩ませる付き人だ。
懐かれていないのか。
そんな印象を持たざるをえないザックは、少女の限界を確かめるために、一度男性から視線を外す。
アンナの容態は、やはり芳しくない。
改善の兆しはなく、ザックの腕に絡めていた両の手は口元へ。
涙と吐息を抑えてうずくまる少女に、声をかけるながら背中をさすることしか青年にはできなかった。
「今、スタンリー卿にネコの説得を任せてる。彼は味方だ、アンナ。あの町にいた人たちじゃない。キミの友だち、ミアと同じさ」
外見は人から乖離しているも、スタンリーは間違いなく人の精神を宿している。
二人の少女を脅かした町民たちとは同一じゃない。
むしろミアに近い存在なんだと、アンナが心安らげる言葉をザックは必死に紡いでいく。
「怪物じゃない、彼は人間だ」
飼い猫一匹。懐くどころか見下されている節がある、どこにでもいるような人間。
それがスタンリーだと説くも、音は虚しく書庫へ広がるだけ。
もはやザックの声に応える余裕すらなくなったアンナは、深くまぶたを落とす。
隣で体を支えてくれる青年の声は遠くなり、代わって聞こえてくるのは、教会でいつも肩を並べていた少女の声。
言葉は耳にできずとも、明るい調子の音は胸に安らぎを与えてくれる。
こっちへ来て。
そう優しい音色を奏でるミアに、アンナは無抵抗で手を取られてしまう。
満面の笑みを浮かべ、アンナの手を引く少女が走る姿は、ステップを踏むウサギのよう。
早くこっちに。私と一緒に行こう。
そう語りかけてくるミアを、意識を朦朧とさせる少女は疑わず、軽くなった身を彼女へ預けた。
「──あなた、だれ?」
しかし鼻を撫でた、かすかな甘い香りがアンナの足を止めた。
心地よい春の気候のように、味覚にすら訴えかける花の香りは、少女の抱えていた不快感に切り込みをいれる。
枝分かれを経て霧散する重い気分は、まるで花粉を飛ばして身を軽くする花々のよう。
徐々に呼吸が整い、閉じ切った目をゆっくりと開いたアンナの前にいたのは、香りをただよわせている張本人。
それは倒れかけていた少女の鼻先に自身の鼻を当てる、丸く短い尻尾を持つ真っ黒な猫。
ただし元来のボブテイルから先。
何もない空中へ、二手に分かれた半透明の尻尾をゆらゆらとなびかせる、そんな奇妙なネコだった。




