16.a happiness without a cat(7)
青年と少女はつかず離れず。
書庫の中は先が見えにくいため、二人の歩みはたどたどしかった。
窓はなく、照明をつけるための器機は、手探りの状態では見つからない。
不安を晴らす光に期待できない以上、限られた視界で進む彼らだったが、使用人たちが心配していた不幸は、いくら待てども起こらなかった。
「アンナのいう通り、何も起きないね」
「うん」
「どうして分かったのか、聞いてもいいかな」
空いた片手でザックが触れていくのは、壁に本棚、そして収められた書物の背表紙。
一つずつ、脳内の地図を埋めるように手で確かめていく青年は、視線を部屋全体へ向けながらも、少女に言葉を投げかけていく。
それは要所で確信的な態度を取っていた、少女の真意を問いかけるもの。
鍵で扉を開けるとき、書庫へ踏み入るとき。そのどちらも、アンナに迷いはなかった。
ただの無知による大胆な行動か、それとも怪物としての何らかの能力か。
その答えを告げる少女は、暗がりでも分かるほど不思議そうな顔をザックへ向けた。
「ネコが入っていいよって。ほら、そこにいる子」
「……待って欲しい。何がいるって? 僕にはネコどころか、生き物すら見当たらないぞ」
相手は何を言っているのか。
そう顔を見合わせた二人の表情は、対極的だった。
当然とばかりに自信に満ちたアンナと、理解が及ばず口元の作り笑いが引いていくザック。
少女のたった一言で、考えの指向性が目を回し始めたザックは、軽かった足を思わず止めてしまう。
「キミが下手な嘘をつくはずもないか。ならここは、本当に幽霊屋敷だったんだな」
「うん? 幽霊屋敷?」
目に見えないネコがいると、そう告げたアンナによって、悩みの種が生まれたザックは肩を落としてしまう。
元より開かずの扉があった、古めかしい屋敷。
なら他にも謂れがあってもおかしくはなく、ここが話し時かとため息をもらした青年は、静かに語り始めた。
「そう、幽霊屋敷。──この屋敷は元から僕の物じゃなくて、れっきとした所有者がいたんだ。この国の子爵で、生前だけど一度だけ僕も会ったことがある」
よく覚えていないけれどね。
そう付け足したザックは、アンナの沈黙を続きを促していると受け取り、変わらぬ口調で続けていく。
「彼が亡くなったのは十年も前。その後、しばらくは新しい住居者が見つからなくて、二年前に僕が買い取ったんだ」
「そのザックが買うまでの間、誰も住まなかった理由が幽霊?」
「理由の一つとしては、そうだね。ただ幽霊がいるだけなら、うちの国は高額払ってでも住みたがる人はそれなりにいる」
幽霊屋敷は不動産業のセールスポイント。
なんておかしそうに話すザックだったが、対してアンナは腑に落ちない様子を見せていた。
「何てことはない。どれだけ好意的であっても、実害があれば人は遠のく。アンナ、キミが思っている以上に、そこの開かずの扉は被害者を出しているんだよ」
いかにもな古屋敷に、何をしても開かない扉。
加えて無理にでも扉を開けようとすれば、手痛いしっぺ返しが襲いかかってくる。
これだけの条件があれば、残るのは愚者ばかり。
ザックのような理解ある者が現れることなど、奇跡に等しいだろう。
「町で取り壊しの案も出ていたんだ。検討している段階で買えたのは幸いだったよ。──まあ、こんな呪いめいた現象を、多くの人が認めていたのは、住んでいた子爵が原因だね」
「本当に呪いでもやってたの?」
「かもね。晩年、魔術の研究に傾倒していた、そう聞いている。ここにある本が全てそうかな」
ザックが指で軽くなぞる書籍の背表紙には、不気味な題名たちが列をなす。
少女はもちろんとして、それは青年すらも馴染みのない言語ばかり。
これが魔術に関わる本だと言われれば、そうだと頷く人が大半だ。
「だからこの屋敷は、誰も手を出さなくなったんだよ。本当に呪われる幽霊屋敷としてね」
「なら、あなたは幽霊なんだね」
ザックの話はいったん置いて、アンナは自分の言うネコに問いかけていく。
答えがあったのかは青年には聞こえないし、少女の視線は彼からすると、虚空しか捉えていない。
暗闇は苦手だけれど、幽霊は平気なのか。
そう思ったのも束の間で、隠しもせずに何もない場所へ話しかけているアンナを見続けた結果、段々とザックの腰が引かれていった。
「ザック、逃げないで」
「キミこそ、そのネコとは明るい場所で話したらどうだい」
「この子は何もしないよ?」
見えないが、幽霊と呼べるものが実際にいる。
その事実を前にしたザックの反応は、少女が知るこれまでの青年の中で、一番に真っ当さを感じさせるものだった。
怪しい振る舞いを打ち消す、人間らしい未知からの逃走。
それを絡めた腕に力を入れて、部屋の外へは行かせまいとするアンナも、どこか楽しさを匂わせる空気をただよわせていた。
少女なりのイタズラなのか。
年相応にも思える彼女の行動に、ザックは戸惑いばかりを覚える。
「アンナ。キミ、もしかして暗いのが怖くて、腰が抜けたとか──」
いつまでも自身の腕から離れないアンナに、恐怖心が高まって動けなくなった疑いをザックがかけたとき、それは無情にも起こされた。
パタンと、音少なく閉じられる扉。
それは誰かが行ったことではなく、独りでに動いたものだった。
現にカナルミアとラルストンの焦る声が、小さくだが室内まで届いている。
「こういうの、ポルターガイストって言うんだっけ」
「しらない」
声が小さいのはアンナもだった。
元より控え目な声量な彼女だが、それがよりか細く、より低い位置からザックの耳に届く。
片腕の負担が減り、どうしたのかと青年が少女に視線を向けると、明らかな異変が彼女の身に起きていた。
浅い呼吸に、青白くなった顔。その場にへたりこんでしまった体。
ザックの腕をつかむ手の力は弱々しく、乗せているに近い状態。
そして何よりも、艶のある黒の長髪に差し込まれた、火にも似た発光する赤。
焼失した町の教会から連れ帰って一週間。
一度も起こらなかったあの日の異常が、図ったかのように姿を現した。
「気持ち……わるい、はきそう」
「……ッ! 迂闊だった。落ち着いて、深呼吸だ。ここは教会じゃないし、僕もいる」
アンナの急激な容態の変化に唖然としてしまうも、推測ではあるが理由を思い当たったザックは、すぐさましゃがみこんで、少女の介抱に専念する。
人には説明できない異常が関わり、暗く限られた空間。
大雑把ではあるが、教会に閉じこめられていたときと似た状況であり、アンナの体は無意識にいたるところまで忌避感に満ちている。
フラッシュバック。いわゆるトラウマであり、髪の発光も一種の再現。
少女の意思で起こされた訳ではなく、強烈に残った悪夢をなぞったものだ。
表面的には平気な素振りを見せていたアンナだったからこそ、生まれた油断。
親友を失って何もない訳がないと、うまく気を使えない自分に悪態をつきたくなるザックは、その衝動を鞭として心身に活を入れる。
「僕には見えないが、そこにいるんだろう。あの扉を閉じたのがキミだとしたら、今すぐに開けてくれ」
触れるだけで弱気が伝わってくる、アンナの震え。
少女の肩を抱きながら、それを一身に受けるザックは、何もない書庫の奥側に声を向ける。
閉められた扉は、外から開けられる気配は一向にない。
少女だけが見える幽霊のネコが、これまでの書庫に関わる現象の原因ならば、最悪の想定だって浮かんでくる。
扉を開いたのは罠の類。
自分を追ってくるよう尻尾を出して誘い、ゆれ動く導線につられて飛び込めば、その先にあるのは閉じて終わりの大口だけ。
自然界における狩りのセオリーだ。甘いお菓子を出されても、安易に手を出してはいけないのは、子どもだって知っていること。
「お願いだ」
言葉が通じるとは考えていない。
ましてや思いなんて、人同士ですら交わせないのだから、幽霊のネコに届く通りは一つもない。
だからザックが紡ぐのは、奇跡を願う祈り。
首をたれ、神の気まぐれが起きることを待つ弱者の祈願。
自分には何もできないと告白する行為は、少女の震えによって切れる刃となり、ザックの鼓動へ強く打ちこんでは切り刻んでいく。
無力を痛感するザックは、放った言葉の答えを待つばかり。
過去にあった事例と同じく、多少の怪我なら許容の範囲。
しかしそれ以上の──命にかかわる呪いとなれば、話は変わってくる。
アンナだけは絶対に守る。
二人の乱れた鼓動だけが聞こえる世界で、そう誓うザックだったが、幽霊のネコがいるとばかり思っていた視線の先で、想像もしていない存在が現れた。
「──客人か? プーリィ」
静かな書庫で異彩を放つ、老いた男性の声。
しわがれたその声に混ざるのは、暖炉などでよく聞く火花が散る音。
彼の声音が聞こえてきたのは、ザックが向ける視線の先。
書庫の最奥。乱雑に広げられた本に用紙とインク、手元を照らすための燭台。
それらを積んだビューローを背に、老人というにはまだ若い男性が椅子に座していた。
暗い書庫の中で、全てを把握できる理由は他でもない。
こつ然と現れた彼の姿が、赤い光を灯すひびが入った、炭のような黒い肌をしていたからだ。




