11.a happiness without a cat(2)
従者が退室し、アンナと二人きりとなったザックは、自身の椅子にはなく客人用のソファへと向かう。
首元のネクタイを少し緩め、座ると同時に漏れるのは疲れをふくんだため息。
気が抜けた。
そう捉えていい様子を見せる青年は、不思議そうな顔をして執務机の上を眺めている少女をよそに、ソファの背もたれに深く身を預ける。
「そんなに珍しいかい」
「ミアの話にはなかったから」
「そうか。なら、しばらくは見学でもしていてくれ」
ザックの声が徐々に下へ。
なぜかと気になったアンナが、辺りを見回すのを止めてザックを視界に収めると、予想だにしていない姿を青年が見せていた。
アンナの扱いは、ここでは客人だ。
だというのにソファに寝転がり、礼儀の一文字目すらおろそかにしているザックは、見るからにひと眠りする体勢。
失礼だという考えは少女にはない。
だが、見学をしていろと言われて素直に頷くほど、今の状態を疑問に思わないアンナではなかった。
「話、あるんじゃなかったの?」
「勿論、あるさ。けれどこの家にキミを連れて来てから、色々とあってね。ろくに寝れていないんだ」
焼失した町で怪物と呼ばれていた少女は身分不明で、匿う他はない。
しかし、いつまでもそうしている訳にも行かないため、今後の身の振り方は早めに決めるべきだろう。
大事件となってしまった、怪物探しに関してもそうだ。
事の顛末を世間へ公表はせずとも、ザックの行動を把握している者たちには、報告を入れなければいけない。
だが青年の知る事実は、全て交渉のカード。話す相手によって使い分ける必要がある。
これらをさばくことは容易でなく、一週間の日数があっても未だ終わる見通しは立たない。
それだけの仕事を抱えている今のザックは、声に説得力を乗せていた。
寝転がってすぐに眠気が回り始めているのだろう。
言葉の紡ぎ方はゆっくりで、芯の通った喋りはもうしていない。
「三十分経ったら起こしてくれ」
「それ、少しじゃない」
カナルミアに告げた、少し話があるとは何だったのか。
仮眠をとる気しかないザックは、力の抜けた手で飾られた古時計を指差して、少女にお願いをした。
しかしアンナからすれば一方的であり、話を聞く心構えを作っていた彼女は、続けて文句の一つでも浴びせようとする。
「もう寝てる」
空席の客人用ソファを素通りし、途端に静かとなったザックへ近づいた彼女だったが、湧いた小さないら立ちはその矛先を見失ってしまう。
規則正しく行われる寝息。
前髪で隠れている目は開けている気配がなく、ものの数秒で青年の意識が途切れたと分かる。
寝てしまった人に文句を言っても仕方がない。
そう諦めたアンナはジィっと青年の顔を見続けて、何かが気になったのか、そのまま屈みこんで視線を下げた。
「ミア、言ってたな。ザックの目が気になるって」
他人を間近で見るのは、アンナからすれば友だちのミア以外では初めてのこと。
せっかくだからと息を殺して観察をする少女は、もういない少女との比較をしていく。
ミアは活発さを表す焼けた肌をしていたが、ザックはその逆。病気と心配されそうなほどに白さが目立ち、手には青い血管も見て取れた。
体つきもイメージとして浮かぶ男性像からは遠く、柔い細い薄いなどの感想ばかりが思いつく。
そうしていると上下する胸元が気になり、おそるおそるだがアンナは右手を伸ばしてそっと触れた。
生きてる。
空いた左手を自分の胸にあて、トクントクンと、ザックと自身の鼓動が同じ動きをしていることを感じたアンナは、無機質だった表情をやや崩した。
「きっと同じだったよね、ミア」
人じゃなかったとしても鼓動は同じ。
これを知っていれば、もっと早く彼女のことを友だちだって言い切れたのかな。
そんな後悔は針で刺されたように痛くて。
でもそれがミアとの繋がりだと受け入れるアンナは、最初の目的を果たすべく、次の行動へ移っていった。
それは躊躇どころか遠慮もない、ザックの腹部への腰かけ。
両足をそろえて座り、顔を見るために前のめりとなる体は、寝ている青年の顔の隣へ左手を置くことで支える。
そのままゆっくりと。前髪を右手で上げるアンナだったが、ただそれだけなのに緊張が走ってしまう。
「どうしよう」
気持ちは直接、手の震えに。
ザックの目を見るだけ。だというのに動悸に乱れが生まれてしまったことに、アンナは動揺を隠せなかった。
もう前髪は上げ終わり、さらされた素顔は見覚えがある。
黒い怪物となった町民たちを蹴散らすもう一人の怪物、アイザックと名乗った彼に瓜二つ。
いや、表情の作り方で印象が違うが、顔立ちだけなら同一だろう。
後は隈のある、閉じられたまぶたを開くだけ。
なのにそれだけができなくて、少女はまじまじと寝顔を見続けるだけに留まってしまう。
「……何してるんだい、アンナ」
「起きた、ちょうど良かった」
「えっ、本当になに。何でキミ、僕の上に乗ってるの」
だが固まった時間は長く続かなかった。
小柄で細身。ゆえに女性としても羽根のような軽さのアンナだが、腹部に乗れば呼吸の妨げとなるだけの重さはあり、意識を取り戻したザックと瞳が重なる。
興味津々の深い紫の目には、ルビーの赤が。戸惑う赤い目には、アメジストの紫が。
しかし青年の赤はアイザックのそれと似てはいるも、決定的に違う部分があった。
「目、右と左で違う。面白い」
「これは生まれつきだ。まさかそれを見たいがために、こんな事をしたのか」
両目が階調の真紅だったアイザックに対して、ザックの瞳は左右の色合いが違う虹彩異色。
右が深く、左が淡く。赤の濃淡で分けられた双眸は、非情に珍しいと言えるだろう。
「あのさ、アンナ。そんなに見られると気まずいんだが」
初対面で興味を抱いていたミアは言わずもがな。
まず見ることはない目の色に興味を持つのは、アンナといえど禁じ得ない。
少しでも長く見ていたいと無言の圧をかける少女に、ザックは視線を迷わせるばかり。
頬には気持ち赤みが差し、いくら鍛えが足りなくとも、簡単に少女を退けることのできるはずの青年の体は硬直したまま。
訳も分からず年下の少女に、良いようにされている。
そんな状況に陥ってしまったザックだが、最大の原因はアンナの表情だった。
「綺麗だね。ミアと一緒に見たかったな」
僕の顔は観賞物か。
そう言い返そうとするも、ザックは口を動かせなかった。
──絵画のように時を止めたい。
評論家のような多弁で飾らず、率直な思いをザックに実らせたのは、自然と生み出された少女の微笑みだ。
前だけは向いて、彩りは寂しさだけ。
この子は、こんな風に笑えるんだな。
この子は、こんな風にしか笑えないんだ。
見て、見られて。二つの感情を抱いたザックは、見惚れてしまって。
だからこそ、ふつと湧いた気持ちを握り、固めてできた言葉を彼は言い放つ。
「もう寝れそうにない。だから退いてくれ、アンナ」
「まだ時間ある。いいの?」
「構わないさ。のんびりと寝るのは後にするよ」
晴れた笑顔を浮かべられない少女。
そんなものを見て、のうのうと目を閉じていられるほど、図太い精神をザックは持ち合わせていなかった。
左右で違う色の両目を観察したいのか、なかなか青年から降りないアンナだったが、起きると主張する彼にやんわりと断られ、仕方なく床に立つ。
無事に降りてくれたことを認めたザックも、疲労による体の重さを感じさせる動きで、少女と向き合うように座り直す。
青年の瞳はもう隠された。
けれども不可視の細い糸一本。何かが繋がる感覚を覚えたアンナは、不思議と彼の作り笑いに気持ち程度の色を目にする。
「それじゃあ始めようか。キミと僕、二人だけの怪物の話を」
アンナがいくども目にしてきた、優しさに染まった手の平。
ザックの今の笑みはそれと近しいと思い、少女は頷きながら言葉とともに飲みこんだ。




