01.Soot covered
いくつもの工場が建ち並ぶ小さな町から、灰色の煙たちは空を目指す。
彼らの行く先は青く、風の海を流れていく雲は白い魚のよう。
そんな煙たちが生まれた町で、彼らが目指す場所と同じ、青と白のエプロンドレスを着た少女が駆けていた。
石畳を元気よく蹴り、子ウサギを思わせる身軽さで横道を抜け、整ったブロンドヘアを風に乗せる。
少女の行く先はいったいどこだろう。
きっと町を支える煙たちとは違う場所。遥かな高みではなく、ささいで平凡で、けれども欠けてはいけない居場所。
だからこそ、少女は口にも足にも笑みを隠さない。
踊る心は宙に舞い、ついに光指す大通りへと彼女は飛び出した。
しかし前触れもなく飛び出していったら、どうなるか。
考えなくても予想できる。
少女が飛び出した先にいたのは、一人の歩行者。
それを避ける間もなく、少女はその人物にぶつかってしまった。
「平気かい、キミ」
少女は無意識に出した、声にもならない悲鳴を連れて転んでしまう……はずだった。
痛みを覚悟して強くつぶったまぶた。
けれども、いつまで経っても想像した衝撃が来ない。
代わりに少女を迎えたのは、後ろから背中を支えてくれる手の感触と、知らない若い男性の声。
ゆっくりと少女が目を開けると、そこには柔らかな笑みを口元で作る青年がいた。
「僕の不注意だ、済まなかった。怪我とかは無いかな」
「う、うん。なんともない、です」
少女の碧眼に映ったのは、紳士的な立ち振る舞いを自然と行う、色白な青年の姿だった。
気取らずかぶったボーラーハット。見るからにオーダーメイドと分かるロングコートに、しっかりと磨かれた靴。
声音も高圧的ではなく、むしろ頼りなさが目立っている。
部屋の片隅で本のページをめくる病弱の青年。
そんなイメージを描いた少女は、つい心の声をそのまま口にしてしまった。
「王子さま……?」
だが、それは少女の抱いた幻想。
青年に寂しい空気を感じながらも、彼女はいくつかの違和感に気がついて、現実とのすり合わせを行っていく。
灰色が混ぜられた蝋燭のような白髪は、目を隠すように前が伸ばされ、同時に視線は一度も合わない。
着ているコートにしても、似合ってはいるが今の時期が夏だと思い出すと、異質さが際立っている。
そして何より素敵だと思った彼の笑顔は、どこか作り物じみていた。
品位と怪しさが天秤にかけられた、あやふやな出で立ち。
それに少女は呆気にとられ、目も奪われ、自分が転びかけたことすらも忘れて。
青年が彼女を離すまで、少女には長くも短い不思議な時間が流れていた。
「困ったな。キミはこの僕が、そんな大層なものに見えるのかい」
彼の腕はいつまでも少女を支えることはなく、言葉とともに離される。
しかし少女は両足でしっかりと地面を踏みしめているのに、心はいまだ浮いたまま。
そんな彼女の心境を知らずに、わざとらしく肩をすくめる彼は、呆然と立ったままの少女を放って背を向けた。
どこへ行くのか。
浮いた気持ちのまま青年の動向を気にする少女は、糸で引かれるように彼を瞳に収め続ける。
「あっ、それって……」
「これかい? 大したものは入っていないから、気にしなくていい」
少女に背を向けて青年が向かったのは、後ろに放られたカバン。
どう考えても彼女を支えるために投げ捨てた物であり、中に色々と入っていることは想像に難くない。
例えそうでないとしても、気にしなくていいと青年から告げられた言葉は、彼女の胸にチクリと刺さる。
「それじゃあ、僕は失礼するよ」
「あの、待って!」
カバンを拾い、のらりくらりとこの場から去ろうとする青年に、少女の手足は考えるよりも早く動いた。
どうしてかなんて、よぎりもしない。
彼の背中を必死に追っては手が届かず、もう一度伸ばせば裾をかすめ、諦めかけた指先を今一度と突き出して端をつかみ取る。
しかしそれは、心の赴くままに行ったこと。
引き留めることに成功した次の瞬間、少女の顔は赤いリンゴになってしまった。
「待って、いや違うんです。待ってってそういう待ってじゃなくて、待って欲しいけどそういう待ってじゃなくて」
しどろもどろと待ってを繰り返す少女と、勢いに負けて困り果ててしまう青年。
周囲に行き交う人たちはいるものの、彼らの間に立とうとする者は現れない。
そうしていると埒が明かないと思ったのか、青年は冷や汗と引きつった笑みを保ったまま行動にでた。
どうにかして離してもらおう。
そう思って彼女の言葉を待ってみるが、いつまで経っても要領を得ず。
ため息一つ。青年は空に向かって投げかけて、少女に言葉を落としていった。
「何かな」
「……えっと、名前! 名前、教えて欲しいかな、なんて」
青年の声を切っ掛けに、少女は驚きで混乱の色を塗り替え、歯切れが悪くとも気持ちを形にしていく。
段々と声が小さくなってしまったが、ようやく言えた。
心に邪魔をされていた少女の考え。
それは青年の回答をしばし遅らせ、彼女に冷静さを与える時間となった。
夏の暑さとは違う熱が、脈動に合わせて少女の中でジワリと上がる。
頬も耳も熱くなり、鼓動はうるさいくらいに激しく痛い。
返事はまだ?
その一言を頭につづるだけでも長く感じる時間は、動き始めたら意外にも風のように吹き抜けた。
「ザック」
青年の名前を、少女はうまくのみ込めなかった。
初めはそれが求めていたものだとは分からなくて、でも胸の高鳴りは押し上げるように、頭に理解を促して。
呆けてしまった少女の顔は気持ちだけ緩み、見上げていたはずの視線は地面へと落ちていく。
「僕はザックだ。よろしく、お嬢さん」
気がついたら、彼の上着のすそを握っていた指が離れていた。
声に誘われるように上目で見上げ、上がり続ける心と瞳が捉えたのは……
やはり何度見ても、作り物と天然の狭間のような笑い方。
そんな不思議な青年を前にして、少女は胸の奥で芽生えた知らない感情に首を傾げるばかり。
彼の笑顔の下を見たいと思うこの気持ちは、いったいなに。
この気持ちの名前って、あるのかな。
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