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【完結】Re:LIGHT  作者: アレテマス
第二幕
83/150

特別回【知られざる夏の片隅】



 …5月の早朝。寒い毎日も終わりを迎え、心地のよい温かい毎日へと切り替わる季節。都会の裏通りにてヒッソリと経営している会員制カフェ【PEACEFUL RETREAT】の店長、キリコは腕を上げて伸びながら店の外に出てくる。


 入り口の扉前にて、タバコとライターを着用しているアロハシャツの胸ポケットから取り出し、火をつけて一服。表通りの方へ視線を向けると会社に向かう人々の行き交う姿が見え、此方の裏通りには全く人が通らない。ここは駅への近道にもならない場所なので静かに吸える快適な場所なのだ。


 朝起きて店の準備をする前に吸うこの時間は、キリコにとって無心になれるとても優雅な一時。しかし、残念なことに今日はそんな優雅な時間とはならなかった。


「キリコちゃんってば、ほんっとうにタバコ好きなのねぇ。体に悪いし肌も荒れちゃうわよーん?可愛い顔してんのにもったいにゃーい」


ボーッとタバコを吸っていた彼女の元に喧しい声が聞こえてくる。キリコは振り向く事なく聞こえてきた方へ目だけを向けると、ニコニコと笑顔を見せて手を振る聡がそこに居た。


「チャーオ⭐︎お久しぶりねぇキリコちゃ〜ん♫最近は暖かくて快適に…」


キリコ

「…そろそろ店の準備をするか」


キリコは聡を相手せず、タバコを携帯灰皿に収めて店内に入り鍵を閉めた。これには聡もビックリして走ってロックの掛かった扉に何度もノックをする。


「ちょいちょいちょいちょい!?酷くない!?レディには優しくしろってパパンから教わらなかったの!?」


ドンドンドンと何度もドアを叩く聡。


すると、突然扉は勢いよく開く。


「アウチ!?」


聡は吹っ飛ばされ路上に転がり倒れる。キリコがジーンズのポケットに手を突っ込みながら、扉を片足で蹴り開けたのだった。


「もー!!何すんのよキリコちゃーん!!」


キリコ

「黙れトラブルメーカー。朝から見るとイライラするから早くどっか行って」


「アァン!ひどぉい!アティシは今日お客さんとして来たのよ!?もっと丁寧に…」


キリコ

「会員じゃないし、事前予約もしてないし、開店前だし、喧しいし…【路上の糞】を丁寧に扱う馬鹿がいると思う?」


「…なんか前より尖ってないキリコちゃん?貴方、そんなに辛辣なキャラだったっけ?流石のアティシでもちょっと泣きそうなんだけど」


キリコ

「………ハァ〜」


シュンとしてしまってる聡を見兼ねたキリコは大きな溜息を吐いて面倒臭そうに頭を掻く。


キリコ

「…5分だけ話を聞いてあげる。早く中に入りな」


「!流石はキリコちゃん!!ファンタスティック対応にチョー感謝感激雨霰!!」


聡はあっという間にいつものノリに戻り、ウキウキと店内へと入るのだった。


………


 カウンター席に聡は肘を付いて座り、キリコは彼を気にせずグラスの手入れや、洗い終えた食器の片付けを進めていく。


「キリコちゃ〜ん。喉乾いたぁ〜。なにかちょーだい」


キリコ

「……」


そう言われるとキリコは黙々とまだ片付け終えていないコップを手に取り、水道水を注いでドンっとテーブルに置く。


「え〜…アティシはキリコちゃんのコーヒーでも飲みたかったんだけどぉ〜」


キリコ

「アンタは今、客じゃない。文句あるなら出て行ってくれる?」


「ヒ〜ン…」


キリコ

「こんなしょうもない馴れ合いをしにここに来たんじゃないんでしょ?早く要件を言ってくれる?」


「…そうね。貴方にしか頼めないことを相談しに来たの。双葉ちゃんの事なんだけど」


その言葉を聞きグラスを拭いている手をピタリと止めて、シンク台の端にグラスを置くと腰に手を当て嫌そうな顔で聡の方へと振り返った。


キリコ

「やだよ」


「まだ何も言ってないじゃないの……まぁでも、アティシが何が言いたいのかもう分かってるのなら、話が早くて助かるわ」


キリコ

「アンタも分かってるでしょ?アタシはもう面倒毎に巻き込まれるのは嫌だってことを?ましてや【パーフェクトモデル】に関係するのなら、まっぴら御免だね」


「ノンノン。キリコちゃんに頼みたいのは超簡単な事なのよ。Sunnaの人間の代わりに、双葉ちゃんの様子を定期的に見に行って欲しいだけ。彼女が何処に住んでるのかは…もう知ってるでしょ?」


キリコ

「…まー、明美姉さんはアタシを信頼してたからね。前にどうしても双葉を迎えに行けないから、代わりに迎えに行って欲しいと頼まれたことがあったし…その時に場所を教えてもらった」


キリコ

「でも、これとそれとは話が違う。他に当たりな。アタシに期待しても意味なんてないから」


キリコは聡に背を向けて、食器洗いを再開する。


「…キリコちゃん」


オネエ口調ではなく、一人の男として低音の声で名を呼ばれる。


 キリコは聡の方へと振り返ると、彼は床に頭を付けて土下座の姿勢をとっていて、思わず呆気に取られた。


矢澤

「今、僕の周りで頼れるのはキリコちゃんしかいないんだ。一刻も早く、双葉ちゃんを支えないと本当にあの子の心が壊れてしまう。……どうか、引き受けてくれないだろうか」


キリコ

「……」


キリコは知っている。聡がオネエじゃなく男に戻った時は【本気の姿勢】だという事を。彼が男としてプライドを捨てて、一人の女に土下座で頼み込む姿に、流石に黙っていられず、彼女は頭を抱えて溜息を吐いた。


キリコ

「…ファイブ・スター、10カートン」


矢澤

「…?」


キリコの言葉に顔を上げる。


キリコ

「ファイブ・スター、10カートン。それが依頼料でいいよ。但し、買ってくれたタバコが尽きたらそこでおしまい。それ以上は何もしないし、二度と頼みも聞かない。これでいいなら今すぐ買って来て」


矢澤

「…キリコちゃんって、一日何本吸うの?」


キリコ

「一日一箱、単純計算【100日契約】ってわけ」


「…分かったわ、約束する。今から買ってくるから鍵開けておいてよ!」


聡は姿勢を起こして立ち上がり、出入り口の扉へと向かう。出て行く前に彼はキリコの方へと振り返った。


「…引き受けてくれてありがとう、キリコちゃん。今度、チョーファンタスティックなポロシャツ買ってあげるわね⭐︎」


ドキツイウインクを見せて彼は扉を開けて出て行った。バタンと閉まり、キリコはカウンターに肘を付けて再び溜息を吐いた。


キリコ

「…なーんで引き受けちゃったんかねぇ」


………



…一箱目



 雲一つない晴天の昼間。約束通り、キリコは双葉が住むタワーマンションの前までやってくる。彼女のズボンのポケットには、聡に託されたキーカードを持っているので、エントランスも難なく進めるだろう。


 周囲を見回すと、どう見てもマスコミ関係者だと分かる場違いな格好をした連中が、タワーマンションのエントランスを見張るように遠くから監視をしている。聡が何故、直接双葉の様子を見に行けないのかがよく判った。


 彼等は、もしもSunna関係者がこのマンションに入り込んだのなら、直ぐにでも双葉の住んでる場所だと決めつけて人々に広めるつもりだ。そうなると、双葉の身も益々危うくなる。


キリコ

(アホらし…)


キリコは弁当を入れたコンビニ袋を片手にぶら下げ、タワーマンションの中へと入って行く。マスコミは彼女は目当ての人間じゃないので、此方に少したりとも目を向ける事はなかった。


 エントランスではピクリとも動かず、真っ直ぐ外へ視線を向け続ける警備員の横を通り過ぎるも、お互いに挨拶もなしに、キリコはさっさとキーカードを翳してエレベーターへと乗り込んだ。



 自動で上昇して開いたのは双葉の部屋へと繋がる両面壁の廊下。目の前にあるこの扉の先には彼女が居るのだろう。だが、キリコにはそんな事はどうでも良く、ただ扉をノックするだけだった。


キリコ

「おーい双葉ー久しぶりーキリコだよー。色々あって暫くの間様子を見ることになったからよろしくー」


呼び掛けるも全く反応がない。既に部屋にいなくて何処かに消えてしまったのではないか?普通の人間ならそう考える所を、キリコは違った。


 双葉が反応しようがしまいが、面倒なことに巻き込まれたくないという思いだけで行動をするのみ。コンビニ袋を玄関の扉前に置き、キーカードを再びエレベーターに翳して開ける。彼女はエレベーターに乗り込む前に扉に呼び掛ける。


キリコ

「コンビニ弁当買ってきたから、お腹空いてるなら食べな。玄関前に置いといたから、じゃーねー」


最後まで反応がなかったが、それすらもどうでも良い。今日の管理はこれで終えたのだから。


キリコ

「…後99日かー…」


彼女はエレベーターの中で面倒くさそうにボヤく。改めて自分が引き受けた内容に嫌気が差して、頭を抱えるのだった。



…二箱目



 エレベーターの扉は開き、双葉の玄関前に到着する。


キリコ

「…マジか」


キリコの前には昨日置いていったコンビニ弁当が、そのままの状態で置かれていた。そして彼女の手に持つ袋にはまた新たなコンビニ弁当が用意されていたのである。


キリコ

「そっかー食べなかったかー…勿体無いしここで食べさせてもらうよ。よいしょっと」


キリコは玄関の扉に凭れて床に座り込み、昨日の古い弁当を手に取る。消費期限は今日の朝2時で切れていた。


キリコ

「…まだいけるか?…まぁ、何とかなるか。いただきます」


キリコは箸を口でぐっと咥え、手に力を入れて綺麗に割る。カフェを始めてからコンビニ弁当とは無縁で、久々に口に入れた感想は……正直な所、期待以下の旨さだった。


キリコ

「あー…これは……食べちゃダメな味だわ。双葉ー、食べなくて正解だよこれ。ヤベェ味しかしねーわ。ハハっ」


彼女は文句を言いながらも食べ続ける。扉の先に双葉がいるかも確認しないが、両面の壁に挟まれ一人で黙々と食べるのが嫌なのだろう。キリコは喋り続ける。


キリコ

「まーなんていうかさ。色々大変なのは分かるけど、お互いそんな相談出来る仲でもないじゃん?アタシよりもあの青年(くろぎ)がここに来るならなぁ。少しはその傷を癒してくれ……」


双葉

「……黒木さんはもう関係ないの……」


扉越しから聞こえてきた弱々しい彼女の声に、飯を口に運ぶ箸が止まる。


キリコ

「…関係ないことはないんじゃない?アタシのカフェでアレだけイチャついてたし?あっ、それとも振ったから?」


キリコは問い掛けるも、再び無音となってしまった。返事に期待が出来ないと分かったキリコは、食べるのを再開して完食。持ってきたコンビニ弁当も玄関前に置くことなく手に持って立ち上がった。


キリコ

「今日は弁当無しで。もうちょっと美味いもの持ってくるわ」


そう言うとキリコはエレベーターにキーカードを翳し乗り込むのだった。


 エレベーターを降りてエントランスに着く。今日も表情が堅い警備員が、じっと前だけを見て動かない。そんな彼の隣を通り過ぎる瞬間、キリコは警備員の足元に買ってきたコンビニ弁当を置く。


キリコ

「あー買ってきた弁当何処かに落としちゃったなー丁度昼になるだろうし誰か食べたんかねー」


態とらしい独り言を警備員に聞かせてそのままマンションから立ち去った。



…三箱目



 今日は曇り。キリコは早朝から作ってきた簡潔な弁当箱をぶら下げエントランスに入る。昨日、コンビニ弁当をプレゼントした警備員が今日も堅い表情で立っている。


キリコ

「おつかれさ〜ん」


気の抜けた挨拶を交わして横を通り過ぎ、エレベーターへと乗り込む。双葉の部屋前に到着すると作った弁当を扉前に置き、呼び掛ける。


キリコ

「今日はキリコ姉さん特製弁当だよ。コンビニ弁当より100倍…いや、1000倍は旨いって保証する。だから少しぐらいは食べな〜。次来る時にそのまま残ってたらショックだしね」


キリコ

「ちょーっとだけ喋って帰りたいけど、今日はこの後予約が入ってるからもう行くよ。そんじゃ、またね〜」


そう言ってキリコは開いたままのエレベーターへと乗り込みその日は帰った。



…四箱目



 エレベーターは開きキリコは降りてくる。着いた先は勿論双葉の玄関前の扉。今日は手ぶらなようだ。


キリコ

「どーも双葉ー。今日は朝から予約が入ってこの後予約あるしで何も用意出来…」


彼女はピタリと目を見開き足を止める。


 キリコの視線の先には、昨日作った弁当が綺麗さっぱり中が無くなって置かれていたのである。


そして、破られた紙切れが側へ一緒に置かれていて、力が抜けたぐにゃぐにゃの文字だが


【ごちそうさまでした】


と紙には書かれていた。キリコは紙切れを拾うと胸ポケットに入れて、扉に背を向け座る。


キリコ

「そっかそっか、食べてくれたんだー。どう?美味かった?いや、旨いだろうね。アタシの手作りに文句言う奴見たことないし」


キリコ

「……こんなに綺麗さっぱり、米粒一粒も残してない……行儀の良い教えか…よっぽどお腹空いてたかのどっちかしかないよ。やっぱ無理してんじゃん」


キリコの掛ける言葉に、扉先からは相変わらず反応がない。キリコはそれでも良かった。元から彼女の返事に期待してないからだ。自分は言いたいことを言ってるだけなのである。


キリコ

「まっ、コンビニ弁当の冷めた塊より、手作りの愛情が籠った料理がお好みなら、また作ってあげる」


キリコは立ち上がり、エレベーターを呼ぶ。


キリコ

「じゃ、次の弁当をお楽しみに〜♫」


エレベーターの扉が開くと彼女は乗り込み、扉に手を振った。そこに立ってる訳でもないのに、無駄な動きをする今の彼女は機嫌が良かったのだ。それもそうだ、早朝に起きて作った弁当を完食してくれるのは素直に嬉しいからである。



…二十箱目



 それからは毎日早朝に起きては弁当を作って届けた。エレベーターが開くと必ず空っぽの弁当と汚い文字で書かれた【ごちそうさまでした】の紙切れが置かれているので、その二つを回収した後は扉に背を当て無駄話をする。そんな日々が続き、あっという間に20日が過ぎたのである。


今日も弁当を用意してエレベーターから降りる。


キリコ

「やっほ〜キリコ姉さんだよ〜。今日は炒飯を…」


いつも通り扉前に立ち、空っぽの弁当箱と紙切れを回収しようと手を伸ばしたその時、


扉の先から声が聞こえてきて、その手はピタリと止まって、キリコは聞き耳を立てる。


双葉

「…ぅ…うぅ…っ……うっ……」


双葉は泣いているのだ。どれだけキリコの美味しい料理を食べたところで、その傷塗れの心が安らぐことはないのである。


キリコ

「……ハァ」


彼女の泣き声を聴いたキリコは軽くため息をついて、弁当と紙切れを回収して新しい弁当と交換すると、その日は何も言わずに直ぐに帰ってしまった。



…二十一箱目



 エレベーターが開く。今日も片手に弁当を用意しているが、いつもより持参している物が多かった。魔法瓶の水筒が追加されているのである。


 キリコはテキパキと食べ終えている弁当とお礼の紙切れを回収して、新しい弁当と水筒を置き、扉先に呼び掛ける。


キリコ

「双葉。今日からコーヒーも用意してあげるから。本当は目の前で注いであげたいけど、開ける気はないでしょ?」


キリコ

「コーヒーはね、どんな気分の時にでも美味しく飲める魔法の一品なのさ。まぁ…なんていうか飲んでおいて損はないってことよ」


キリコ

「今日持ってきたのは【モカ・イルガチェフ】淹れたてじゃないのが、勿体無いぐらいの高級な豆を使ったんだわ。…きっと、この香りが今の双葉には必要だと思ってね。だからまー…その…堪能してみて?」


キリコ

「魔法瓶の水筒とは言え、そろそろ緩くなりだしてるから急いで飲んでよ。…じゃ、今日はここらでサヨナラ〜」


キリコは用を終えると直ぐにエレベーターへと乗り込んだ。そうでもしないと、コーヒーを何時迄も彼女が飲めないからだ。


キリコ

「…やばいなー。関わり過ぎてるかも…」


キリコはエレベーターの中で一人溜息を吐きながら頭を抱えていた。毎日来るのも面倒だし、料理を作らないといけないし、慰めないといけないし、タバコの空箱が増えれば増えるほど、やる事が増していく…それは、双葉から求められていない事であろうと分かっていても続けてしまう。



契約だから?



あの啜り泣く声をもう聞きたくないから



芸能界で面倒な付き合いをしてからは、他人と深く関わるのも止めようと決め込んでいたが、あの泣き声を聴いて何もしないというのは無理がある。自分にもまだ慈悲の心が残っているんだとキリコは思うのだった。



…二十五箱目



 今日はカフェに聡がやってくる。二十日以上此方に任せっきりで放ったらかしにしていたにも関わらず、ニコニコと店内に入ってきた時には、キリコも思わず彼の顔を見た瞬間に尻を蹴った。痛そうに悶える彼にお構いなく追撃を噛まそうとするが、MIHOも入ってきて止める。


 カウンター席に着くと、MIHOには淹れたてのコーヒーを、聡には水道水を差し出す。二人は双葉の様子

を知りたいからここに来てるのだと分かっていて、キリコは勿体ぶらずに報告をする。


まだマンションには居た事、報道陣は周りを彷徨いている事、食事はちゃんと食べている事、時折泣いている事…


細かく話せば色々と出てくるが、キリコは最低限の事だけを伝える。長々と話したところで質問攻めになりそうな気がして、それが面倒だと思ったからだ。


 報告を済ますと聡は腕を組んで難しそうな表情で少し俯いていた。


「ンー…とりあえず双葉ちゃんが無事だったのは良かったとして…やっぱり元気じゃないわよねん…」


キリコ

「そりゃあそうでしょ。明美姉さんが心の頼りだったのに、目の前で潰れるところなんて見てニコニコしろって言う方が無理あるっつーの」


MIHO

「聡ちゃん。細田さんの様子は?」


「ダメね。全く起きる気配がないわ。医者からも目処が立たないなんて言われちゃってるし…正直…ねぇ?」


キリコは胸ポケットからタバコを取り出し、火を付けずに咥える。


キリコ

「そー言えば入院してるのは知ってたけど、場所は何処?今度時間があったら見舞いに行こうと思ってるから教えてくんない?」


「東京総合病院よん」


キリコ

「東京総合病院……あー……」


MIHO

「?どうしたのキリコちゃん?」


キリコ

「…んー、何でもない。あっ、MIHOさんケーキ食べる?今バズってるトコのゲットしたんだわ」


MIHO

「あらー嬉しいわ♫」


「キリコちゃん!アティシも!」


キリコ

「あ?テメーは埃でも食ってろよ」


「ひどぉい!!」




 その日の夜。店の二階の部屋からベランダに出ると、キリコはスマホを耳に当てて手摺に凭れる。何コールと相手が出るまで夜空を見上げて待つ。


 都会の照明が眩しく、星が全く見えない。ただのつまらない空だ。そう考えていると電話は漸く繋がった。


『もしもし?霧子ちゃん?』


キリコ

「やー。久しぶりだね里美。元気?」


里美

『元気って言えば元気だけど毎日忙しいかなー。…ってか本当に久しぶりじゃん。最後に呑んだのっていつだっけ?』


キリコ

「お互いが現役(モデル)だった頃でしょ?かーなり前なんじゃない?」


里美

『アハハ、もう忘れたよねー。…で、今日電話してきたのはやっぱ呑みのお誘い?それとも合コンとか?』


久しぶりに聞いた友人の声は、問題なく元気そうだと分かり空を見つめながら口元が緩む。


キリコ

「それも悪くないんだけど……里美って確か東京総合病院に勤めてるんだよね?」


里美

『そうそう。それがどうかしたの?』


キリコ

「…ちょーっと、無理言ってもいいかな」



…三十箱目



 双葉の様子を見始めて一ヶ月が経った。エレベーターが開くといつものようにコーヒーを注いだ魔法瓶と手作り弁当を手に持ちキリコがやってくる。扉の前に静かに置くとキリコはそのまま屈んで扉先に語りかける。


キリコ

「東京総合病院。そこに明美姉さんは入院してるんだって。…寝たきりでいつ目が覚めるかもわからないとか…」


キリコ

「…来週の水曜日の深夜23時。夜勤してるアタシの友人が受付にいてくれてるはずだから、面会したいなら会いに行きな。…突然深夜に徘徊してもメディアは気付かないと思うし、チャンスじゃん?」


キリコ

「…ま、無理にとは言わないよ。伝える事は伝えたから。じゃあね」


キリコは立ち上がりエレベーターに向かう。すると、何かを思い出したかのようにその場で立ち止まった。


キリコ

「あぁそうそう。名前は適当に言うんだぞ?万が一双葉ですなんて名乗って面倒な事になりたくないしね」


そう言うと扉が開いたエレベーターにキリコは乗り込むのであった。



…四十二箱目



 初夏が来る。街は気温が上がりジリジリと暑い日が訪れる。キリコは夏が嫌いだった。外で一服をしても汗が止まらず、油断をすれば蚊に刺される。夏の良いところを一つも挙げる事が出来ない程嫌いなのである。


 彼女は店前の日陰で額の汗を片手で拭き取りつつ、火の付いたタバコを咥えて、スマホで話している最中だった。相手は里美だ。


キリコ

「そっか。そっちに行ったんだ。いやー我儘聞いてくれてありがとね」


里美

『いやいや、まさか双葉ちゃんに会えると思ってなかったし霧子ちゃんと知り合いだったなんてね。落ち着いて案内出来たけど、内心めっちゃ焦ってたんだからね!』


キリコ

「ごめんごめん。…それでまー、双葉はどんな様子だった?」


里美

『んー…なんていうか、前のようなカリスマ感が無くなったというか…でも、それもそうだよね。自分を大切にしてくれた人があんな事になったんだしさ』


キリコ

「そっか。…とにかく、助かったよ里美。今度カフェにおいで。最高の一杯で持て成してあげるから」


里美

『私はコーヒーよりビールが欲しいかな?』


キリコ

「ハハッ。じゃあ出禁だね」


里美

『冗談冗談!こっちも忙しいから直ぐには行けないけど、日が空いたら私から連絡するね!バイバーイ!』


キリコ

「ん、じゃあね」


電話を切り、咥えていたタバコをポケット灰皿へと入れる。店内へ戻ろうとしたその時


「キリコさん…ですよね?」


背中から男性の声が聞こえてきた。


 自分の名前を知っている奴に呼び止められるのは大抵碌な事がない。嫌々と振り返ると、夏だというのにスーツをビシッと着た中年の男がそこに二人立っていた。彼等は初対面だと言うのに、此方に陽気に話しかけてくる。


「やっぱり、キリコさんですよね?」


キリコ

「誰?」


「失礼しました。こういうものです」


そう言って男は胸ポケットから名刺を差し出す。


【朝一新聞】予感的中。嫌なやつに目を付けられた。


 奴等は記者である。それが分かればその愛想の良い顔もキリコには【悪人】に見えた。キリコは名刺を手に持ったまま問いかける。


キリコ

「記者がアタシに何か用?」


記者

「いえ、大したことではないのですが、少しお尋ねしたい事がありまして…我々、仕事の都合で此方のマンションの付近を調べているのですが…このマンションに貴方が良く出入りする姿を見かけましたので…」


そう言って双葉が住むマンションの写真を見せつけてくる。彼等は触れていないが、Sunnaの人間だった自身に疑いの目を向けているのだろう。


キリコ

「そんなもん見てたんだ。プライベートだし答えなくていいよね」


キリコは惚けるが記者も引く気はないようだ。


記者

「このマンションには、電撃退職した双葉が住んでいるかもしれないんですよね。貴方がこのマンションの出入りをしだしたのも丁度双葉が退職をして姿を消してから……」


記者

「偶然だとは思うのですが、もしも、もしも貴方が双葉と接触してるようでしたらお話を伺いたく……協力していただければ、貴方のカフェも大々的に宣伝させていただきますよ。【ダウナーモデル・キリコが経営する最高のカフェ】と」


そう言って記者はカフェの方に目を向ける。ここで働いてることももうバレている。面倒な事になってきている状況に、思わず記者の目の前で堂々と溜息を吐いて頭を掻いた。


キリコ

「アタシは静かにやりたいんでね。宣伝なんていらないんだわ。後、そのマンションは友人が引っ越してきたから通いだしてるの。はい、これでこの話はおしまい」


記者

「またまたご冗談を。ちょっとぐらい双葉の情報を教えていただいてもいいじゃないですか?」


キリコ

「……」


この煽るような返しが鼻に付く。自分達が知りたい情報を聞き出すのに傲慢な態度が、モデルの頃からとても気に食わなかった。キリコは声のトーンを低くして答える。


キリコ

「あのね、アタシはもうただの一般人なんよ。店も開けなきゃならないし、これ以上引き留めるなら営業妨害なんだわ。通報すっぞ?」


記者2

「…チッ」


ずっと隣で黙って見ていた記者が小さく舌打ちを鳴らす。それと同時にしつこく話し掛けてきていたもう一人の記者も、あからさまに態度が豹変して腰に手を当て溜息を吐く。


記者

「ほんっと、面白くないんだな、アンタ。人々が求めてる情報を提供できるチャンスだって言うのにさぁ?何でそんなにノリが悪いわけ?俺達が嫌いなの?」


キリコは目を細め記者に指を指す。


キリコ

「嫌いだって言わねえと気付けねえのかよオッサン。そんな鈍感だから重要な情報すらも見逃すんじゃない?」


記者2

「コイツ…下からでりゃあ偉そうに…」


記者

「ほっとけ。この女を相手にしてても埒が明かないし他を当たるぞ。アンタが芸能界から干された理由が分かったわ。空気も読めねえつまらねえ奴だからだな」


嘲笑い、見下してくる記者の言葉はキリコの脳に、ある思い出を蘇らせる。



 モデルとしてキャリアを順調に歩んでいたあの頃。大御所の芸能人から飲みの誘いを受け嫌々と付き合った。その居酒屋へ行く最中、マスコミに写真を撮られてしまい、芸能人との浮気として大々的に取り上げられる。


 大御所の妻は激怒して事務所同士の問題にまで発展したが、その時のKENGOの柔軟な対応によって難は逃れる。だが、SNSでは炎上が収まらず毎日誹謗中傷がキリコの元へ届くのだった。


 その時にキリコは気付く。芸能界はカスだということを。そしてそれを面白がって記事にする記者はクズであることを。KENGOの擁護を無駄にする結果となるが【モデルに飽きた】という理由で、キリコは退職の道を選んだのだ。



面倒毎に巻き込まれるのは、もう嫌なのだ。



キリコ

「…テメーらのせいだろうが」


記者

「…?」


彼女は怒りに震えた声で小さく呟く。そしてスマホを取り出したと思うと耳に当てた。


キリコ

「もしもーし、助けてくださーい。男二人が営業を…」


記者

「!?ほ、本当に通報するのかよ!」


記者2

「チッ!いきましょう!クソ女め!」


二人の記者は慌てて逃げるように裏通りから走り去る。彼等の背中を見ながらスマホを下ろしてベーと舌を出した。


キリコ

「バーカ。二度とくんな」



…五十箱目



 聡から貰ったタバコが遂に半分まで到達した。この数日間、店は予約が埋まり双葉の元へ行けなかった。一つの日課だった為、日を開けて来ると何だか懐かしいように思える。


 エレベーターが開き、持参した弁当を扉前に置くとキリコは扉に背を向けて凭れ、そのまま床に座る。彼女は頭を抱えて大きく溜息を吐いた。


キリコ

「ハァー…聞いてよ双葉ー。ここに通い続けてたら記者に目をつけられちゃってさぁ。アイツらのウザ絡み、ホンットイライラするんだわ」


彼女は愚痴を出すも扉先からは反応がない。キリコは気にせず話を続ける。


キリコ

「…まー、アタシの方は昔話だからもう良いんだけどさ。今の双葉も同じ目に遭ってるってことなんだよね。…マジ凄いよ、アンタは」


キリコ

「…双葉の幸せの為にも、モデルを辞めてこのまま静かに暮らす方が絶対にいいんだろうな。…ハァー、悪いね。久々に来たと思ったら、暗い話してさ?明日からまた毎日来れると思うから、よろしくー」


そう言うとキリコは立ち上がりエレベーターへ乗り込んだ。最後まで双葉の反応はなかった。



 エレベーターがエントランスに到着してキリコは降りる。見慣れた微動だにしない警備員の横を通り過ぎてマンションから出て行こうとした、その時


警備員

「今から私が言うのは全部独り言です!」


突然警備員は後ろに手を組んだままハキハキと喋り出す。


 迫力のある声に思わずキリコもビクッと反応して立ち止まり、驚いた表情で警備員の方へと振り返った。彼は決してキリコの方へ目を向ける事なく一人でに喋り続ける。


警備員

「私は昔、応援していたモデルがいました!その人は雑誌に写る他のモデル達よりもずっと美しく、いつも私の心を輝かせてくれていました!」


警備員

「しかし!突然退職を発表して目の前から居なくなった時は心に虚しさだけが残り、もう二度と会えないのだろうとずっと思ってました!」


警備員

「私は!ずっとそのモデルが帰ってきてくれることを待っています!そう思う人間が居た事を、どうか忘れないでください!」


話し終えると警備員は再び動かなくなり口を固く閉じる。


 彼はキリコがモデルだった事を知っていたのだ。何故突然彼が話しかけてきたのか。それは毎日訪れるキリコの姿を見続けていく内に、今日の姿は元気がないのだと悟られたからなのである。


 表情一つ変えずに想いを吐き出した彼の姿は、何処となく【黒木】の姿を連想させる。カフェで双葉と話していた彼の表情は決して楽しそうには見えなかったが、彼の双葉への想いは本物だと分かる【純白】が、見ている此方にも伝わっていた。


芸能界を捨てても、帰りを待つ人間はいる。それは双葉も同じだ。


キリコ

「…サンキュー。ちょい元気でた」


キリコは手を軽く振ると気怠気に微笑み、背を向けてマンションから出て行くのだった。



…五十一箱目



 エレベーターが開く。いつものように弁当と魔法瓶を持って扉の前に置く。特に話す事もないのでこのまま帰ろうかと思っていると



コンコン



キリコ

「……!」


なんと扉先からノックが聞こえてきたのだ。ずっと無音のこの廊下で久々にキリコ以外の音が発せられる。一瞬戸惑ったが、キリコは無言のまま



コンコン



とノックを返した。ここに居るということだけでも双葉に伝われば良かったからだ。そのノックの返しが届くと、扉先から彼女の声が聞こえてきた。


双葉

「…私ね、ここを出ようと思うの」


キリコ

「……」


キリコは黙ったまま扉に凭れて座り聞く姿勢をとる。


双葉

「キリコさんのおかげで大切な人にもう一度会えたし、美味しい手作り料理を食べ続けて元気も取り戻してきたんだ。だからそろそろ切り替えないとって」


双葉

「だから、私を知ってる人にもこれ以上迷惑をかけたくないし、ここを出ていく。行き先はまだ決まってないけど、お金はまだ余裕があるからさ?のんびりと静かに暮らす場所を決めるとするよ」


双葉

「…ここまで色々としてくれてありがとう、キリコさん。誰かに頼まれてやってたんだと思うけど…貴方がいてくれなかったら、とっくにダメになってた。…私はもう大丈夫だから」


キリコ

「…そっか」



あぁ、遂に終わる。


毎日眠い中早く起きて料理を作ってを繰り返したこの50日間。双葉が元気を取り戻したのなら、もう後は放っていても大丈夫だろう。


これ以上続けるのも面倒だし、長く関わるとまた記者に目を付けられて厄介毎に巻き込まれそうだ。ここは彼女の言葉に甘えて従い、さっさとこの関係を終えれば良い。



…そう思いたかったが、キリコは立ち去らずに暫く黙り込む。そして大きく溜息を吐いて双葉に問い掛けた。


キリコ

「…待ってくれてる人を切り捨てるわけ?」


双葉

「……」


キリコ

「まぁ、わからない事もないけど。【パーフェクトモデル】の帰りを待ってる人なんて、双葉からすればどうでも良いよね。ぶっちゃけ、嘘の姿はもう求められたくないんでしょ?」


キリコ

「…でもさ、本当の姿だろうと待ってくれてる人はいるよ。その人達の想いも切り捨てるわけ?」


双葉

「…そんな人、いないよ。私の本当の姿なんて、誰も望んでない」


キリコ

「それは(クロギ)にも同じ事言える?」


双葉

「……」


双葉は黙る。キリコは凭れていた体を起こし、扉の方へと体を向け胡座(あぐら)を組んで座る。


キリコ

「100人が双葉を待ってる人が居て、その100人を信じろって言ってるわけじゃない。たった一人でもいい。本当の姿であろうと待ってくれる人を信じてあげて欲しいんよ」


キリコ

「なんていうかさ、これでも芸能界に長く居たから何となくわかるんだわ。コイツは金の事ばかりで碌な事考えてないとか、体目的の癖に馴れ馴れしくしてくんなって…その人間の本性っていうのは、必ず何処かで曝け出しているんだよね」


キリコ

「だけどアタシのカフェで楽しそうに話してるアンタら二人を見てるとさ。その…表現しにくいんだけど、スッゲー眩しいの。裏がないんだよ。お互いが相手を尊重してるっていうか」


キリコ

「アタシはそう思ってるし、双葉もそれは分かってるんでしょ?アンタは誰にでも【パーフェクトモデル】を演じる為に、誰よりも人を理解してるんだ。彼の想いが嘘偽りない事だって分かってるはずだよ」


キリコ

「…あの子すら置いて消えるなんて絶対に後悔するよ。せめて彼だけでも信じてあげてほしいな」


いつもは怠そうに話すキリコも、この時は一人の大人として双葉に伝える。その想いが届いたのか、彼女は涙を堪えるように震えた声で聞き返してきた。


双葉

「…でも…黒木さんはこの場所も知らないし、まだ本当の私の事も知らない。それに……私から突き放したんだ。私の事を忘れてくれって頼んでおいて…また会いたいなんてそれは……我儘だよ」


キリコ

「我儘でいいんじゃない?信頼できる相手にならさ。明美姉さんにもそうやって甘えてたんだろ?」


双葉

「……」


キリコ

「双葉ちゃんが言う通り、彼はこの場所を知らない。あれからアタシのカフェにも来てないし教えようもない。…だけど、彼は絶対に諦めてないと思うよ。必ずここを見つけてくれるはず」


キリコ

「…だから、もう少しだけここに居てくれないかな。アタシもこのまま黙ってアンタを見送れねえんだわ。面倒事を避けたいと思ってたのに……情が湧いちゃったんだよね」


双葉

「……」


双葉

「……キリコさん。今日は沢山喋るね。何か良い事あった?」


彼女に訊かれてキリコは鼻で笑う。


キリコ

「そ、良い事あった。この気持ち、今の双葉ちゃんにシェアザハッピーって奴?」


双葉

「……フフッ……なにそれっ」


彼女は可笑しく笑う。ほんの少しでも元気を取り戻した双葉に安心してキリコは立ち上がった。


キリコ

「…残り49日。アタシが双葉の面倒を見る残りの日数。そこから先はアタシも口出しはしない。それまではベリーヤミーな弁当とコーヒーを持ってくるから、彼にまた会えるのを信じて待ってな」


そう言うとキリコは開いたエレベーターに乗り込み帰って行った。



五十五箱



それからはキリコは双葉には何も言わず



六十箱



ただ毎日早朝起きて弁当を作ってコーヒーを淹れて、双葉の元へ届ける。



六十七箱



暑く照らす太陽の(もと)だろうと



七十二箱



夕立の地面を叩きつける豪雨だろうと



七十六箱



どんな時であろうと双葉の元へ届けた。



八十六箱



双葉が出て行かないように見守り



九十二箱



黒木は必ず来ると信じて




…九十八箱目


 雷が鳴り響く暗雲の空。豪雨に見舞われ店内の二階の窓から様子を伺う。全く止む気配がない。


キリコ

「…こりゃ暫くは止まないなぁ」


溜息を吐いて振り返ると、机の上にはファイブ・スターの箱が二つ綺麗に並べられている。残り二箱、長く思っていた100日契約も、いよいよ終わりが見えてきていた。


キリコ

「…アイツに追加カートンせびろうかな」


厄介毎に巻き込まれたくないと考えて生きるキリコも、100日の体験は決して無駄ではなく、誰かの為に動くという意思が強くなっていた。この100日契約も、今では終わりが迫り虚しく感じていたのである。



 そして待つ事数時間。突如と雨が止み、黒い雲の合間からは顔が隠れていた太陽の光が差し込んでいく。この機を逃さないとキリコは階段を降りて、カウンターテーブルに用意していた弁当と魔法瓶を手に取り店を出る。



 いつものマンション。いつもの警備員。エレベーターに乗り込み双葉の部屋前に到着。扉前に立ち弁当と魔法瓶を置こうとした、その時



双葉

「ウアァァァアア!!アァァァァッ…!!」


キリコ

「!」


扉の先から、まるで赤子のように大声で泣き喚く双葉の声が聞こえてきた。


 (ただ)ならぬ泣き声。今までドアノブに手をかけなかったキリコも、この時は何かあったのかと心配して、手は勝手にドアノブを強く握っていた。扉を引いて開けようとするが、その必要はなかった。


黒木

「大丈夫…もう大丈夫ですよ…双葉さん…沢山泣いてください。全部受け止めますから…」


懐かしく優しい男性の声色。その声を聞いたキリコは、ゆっくりとドアノブから手を離し、一歩後ろに下がる。



 奇跡が起きたのだ。遂に、黒木は双葉と再会を果たしたのである。まるで漫画のような有り得ない展開は、キリコの心に光を齎し、興奮によって鼓動が高鳴っていくのが全身に伝わっていく。


 二人の奇跡の再会に感極まり、キリコの目には涙が流れていた。しかし直ぐに指で拭き取り安心した様に微笑むと、何も言わずにエレベーターに乗り込んでその場を後にするのであった。




 エントランスに到着する。入り口を一点で見続ける警備員の横を通り過ぎる際、態とらしくポケットからカードを落とす。


 警備員の視界は目の前に落ちたカードに移り屈んで拾うと、それはキリコが経営するカフェの会員カードだった。彼女はマンションの出口の前に突っ立って、背中を向けたまま警備員に語りかける。


キリコ

「ありゃ?会員カードを何処かで落としたかな?まぁ…いいか。あんなカード拾っても、アタシの事知ってる人ぐらいしか来ないだろうし」


警備員

「……」


キリコ

「…残念だけどアタシはモデルにはもう戻る気はない。だけど…お客さんとして来てくれたら、もう待つ必要はないよね?次はアタシが来るのを待ってるよ。…じゃあね」


そう言うとキリコはマンションから出て行った。


 警備員はカードをじっと見つめた後、胸ポケットに戻して警備を再開するのであった。ずっと真顔だった彼は、今だけは口角が上がっていた。





………百箱目



 …8月後半の早朝。毎日暑かった夏の朝も徐々に終わりを迎え、ほんの少し肌寒い。秋も少しずつ顔を出してきているのが体感でわかる。


 都会の裏通りにてヒッソリと経営している会員制カフェ【PEACEFUL RETREAT】の店長、キリコは腕を上げて伸びながら店の外に出てきた。


 入り口の扉前にて、タバコとライターを着用しているポロシャツの胸ポケットから取り出し、火をつけて一服。


 表通りの方へ視線を向けると、今日も会社に向かう人々の行き交う姿が見え、此方の裏通りには全く人が通らない。ここは駅への近道にもならない場所なので静かに吸える快適な場所。


 朝起きて店の準備をする前に吸うこの時間は、キリコにとって無心になれるとても優雅な一時。そんな優雅な時間を堪能する彼女の元に、一人の男性が訪れて声を掛ける。


「あの、予約していた…」


男性に気付きキリコはタバコをポケット灰皿に突っ込んでニヤリと笑った。


キリコ

「いらっしゃい。待ってたよ」


キリコは男性を店内へと招き入れ扉を閉めた。



ここは【PEACEFUL RETREAT】


都会の世界に疲れた者達が集う、誰にも邪魔されない憩いの場所。


店主のキリコは今日も最高の一杯で、人々の心を癒すのである。


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