35話【愛】
エレベーターは上がり続けていたが遂に止まる。
扉がゆっくりと開く。そこは両面が壁の一本の廊下が続いており、その先には一つのドアだけが存在していた。
黒木はエレベーターから一歩足を出して廊下へと降りる。背中からはエレベーターが閉まる音が聞こえてきた。
この扉の先に双葉がいる。
黒木
(…双葉さん)
彼は覚悟を胸にごくりと唾を飲み込み、ゆっくりと歩み進んでドアノブに手を掛けた。
ドアノブを捻りゆっくりと音を立てずに扉を引いて開けていく。中は灯りが付いておらず真っ暗だ。ほんの少しも物音が聴こえず、人が住んでいるような気配も感じ取れない。あまりにも静かで勝手に入ろうとしているのは、何だか泥棒をしているような気分だった。
黒木
「…双葉さん。お久しぶりです、俺です、黒木です」
彼は玄関に足を踏み込む前に、念の為にと開いた扉の前から中へ呼び掛ける。
返事はない。シーンとした静寂な空間は続く。
黒木
「…入りますね。…お邪魔します」
これだけ静かだと中にもう彼女はいないのかもしれない。そう不安になりながらも黒木は恐る恐る玄関へと足を踏み入れて、扉を閉める。
扉が開いている間は、エレベーターから扉までの照明が少しだけ玄関付近を照らしてくれていたが、扉が閉まりきった今は真っ暗で何も見えない。
何処に照明のボタンもあるか分からず、黒木はスマホを取り出しライトを照らして前を向ける。照らす廊下の先には、広々とした空間が見えた。恐らくリビングだろう。
黒木
「……」
黒木は静かに音を鳴らさず一歩ずつ、ゆっくりとリビングに向けて歩き出す。真っ暗闇の先に双葉が居なかったら…彼の心臓は緊張と不安で高まって行き、ドクンドクンと彼の耳にも聴こえてくる。
しかし、彼の不安はここで終わりを告げる。
黒木
「…あっ」
彼の照らす照明がリビングまで到達すると、そこには高級なソファに背を向けて座っている人が見えた。
とても長い髪の後ろ姿。その見覚えある背中に黒木は喜びと安心に心が満たされ、今にも泣きそうになる。
黒木
「ふた…ば…さん?」
双葉
「……」
彼の震えた呼び掛けに応じず、彼女はじっとソファに座って此方を振り返らない。
黒木
「双葉さん…」
彼はスマホの照明を消して歩み寄ろうと一歩踏み出す。しかし
双葉
「…そこで止まって」
久々に聞いた彼女の声。体は直ぐに反応してピタリと立ち止まる。
双葉は此方を振り返らない。黒木は彼女の背中を見続けじっとその場に留まる。
双葉
「……久しぶりだね、黒木さん」
黒木
「…お久しぶりです、双葉さん。……ずっと、貴方に会いたかったです」
双葉
「……そっか、そうだよね。あんな別れ方じゃあ、黒木さんは納得してくれないもんね……」
二人は顔を見合わせる事なく会話を続ける。
双葉
「…誰にここを教えてもらったの?」
黒木
「…細田さんです。そして、ここまでは聡さんが送迎してくれました」
双葉
「…細田さん、目が覚めたんだ。……そっか、良かった……」
彼女の声は弱々しく震えている。細田の目覚めに感情が揺れているのだろう。
黒木
「……双葉さん、俺…」
彼がそう言って再び歩み寄ろうとするが
双葉
「…ダメ。それ以上寄らないで。…お願いだから」
そう双葉に言われてしまい、また足を止めてしまう。
彼女は近寄る事を拒絶する。どうにかして側に寄りたいという思いを抑え、黒木は双葉の気持ちを最優先に考えつつ話し掛ける。
黒木
「…細田さんから双葉さんの過去を聞きました。双葉さんが釣り堀で【普通の家庭に生まれたかった】と言っていた意味が分かりました。…辛い思いを隠して、貴方はここまで来たんですね…本当に貴方は凄い人だ」
双葉
「……」
黒木
「双葉さん。俺にとって双葉さんが【嘘】に囚われていようと関係ありません。俺の何もない毎日に光を与えてくれた貴方を尊敬しているんです。だから…」
双葉
「…分かってないよ」
双葉のいつも聞いてきた明るい声とは程遠い低い声に思わず声が詰まる。彼女は語る。
双葉
「細田さんから聞いた【嘘】だけで、私の気持ちなんて理解なんて出来ない……確かにさ、私の為にここまで来てくれたのは嬉しいと思ってるよ。……でも、光を灯さないこんな情けない姿だけは、大切な貴方には見せたくなかった」
黒木
「双葉さん…」
双葉
「私が黒木さんを突き放したのは、貴方は純白の心を持つ優しい人だって知ってるから。大切な人だからこそ、【パーフェクトモデル】の記憶のまま消えていきたかったのに……台無しだね」
いつものように喜んで励ましてくれる彼女の言葉とは反対に、その声から黒木の行動に失望しているかのように感じた。
彼女は自分と向き合う事を拒否している。このまま双葉の言う通りに引いた方が、お互いの為になるのではないか?彼の心は不安に揺らぐ。
だが、引くわけにはいかなかった。いや、引いてはダメだ。
もう二度と後悔はしたくない
その思いが黒木の心を強く保たせる。
黒木
「…確かに俺は自分の思いのままに、貴方を諦めたくなくて勝手な行動をしてしまってたかもしれません。…謝ります。…ごめんなさい」
黒木
「…ですが、それは双葉さんが俺にした事ですよ。貴方は貴方の思いだけを伝えて、俺の事を考えず一方的に突き放したじゃないですか。…どうか、この身勝手な行動は【お互い様】だと捉えてくれませんか?」
双葉
「…ハハ、黒木さんも言うようになったね。それも【友達】だから?」
黒木
「はい。【友達】だからです。…そして、こんな思いになれたのも、貴方と出逢えたからですよ。双葉さん」
双葉
「……」
無音の部屋で両者の思いが伝わっていく。黒木は少しずつ、ゆっくりと、足を動かして双葉に近付いていく。彼女は近付いてくる彼を止めない。
そして、黒木は彼女に触れる事ができる程の距離まで遂に辿り着いた。
暗くてよく見えなかったが、髪は乱れていて体は映像で見た時よりも更に痩せ細っていた。双葉の痛ましい姿に黒木の眉は下がり悲しげに見つめていた。静寂な時間だけが過ぎていく。双葉は、未だに振り返らないまま口を開く。
双葉
「…黒木さん、一つ聞いていい?」
黒木
「…はい」
双葉
「今の私は、貴方にとってどう見えているの?」
黒木
「…変わりありません。貴方は特別な人で、俺の心に光を与えてくれてます。…貴方の姿を見られただけで、もう…本当に嬉しくて…」
双葉
「…さっき、細田さんが言った【嘘】だけじゃ理解出来てないって言ったよね?…もしも、私の【嘘】を吐き出しても、その見る瞳は変わらないって言える?」
黒木
「言えます。…俺を信じてください、双葉さん」
双葉
「…そっか」
双葉はソファから立ち上がり、カーテンで閉め切られた一面張りの窓ガラスの前へと歩み立つ。もうそこまで来ているというのに、再び距離は離れて、まだ双葉の顔が見れないのに黒木はもどかしさを感じた。
双葉は背を向けたまま話し出す。彼女の語る【嘘】を
双葉
「…みんなの前ではさ、最高の親子を演じたけど、本当はお父さんの事が凄く嫌いなの」
黒木
「…はい。あの時に見せた貴方の顔は【嘘】だった」
双葉
「この青い目も本当は嫌い。でも、それも黙って利用している」
黒木
「それが企業が求める貴方のイメージ…だから」
双葉
「みんなは私が凄い人だって褒め称えてくれるけど、人との付き合いも苦手だし、時々どう接したら良いかわからなくなるし…」
黒木
「人々は【パーフェクトモデル】の貴方を見たいから完璧を演じる…」
双葉
「…私は【嘘】しかない。嘘がなければ、私はみんなの【光】になんてなれない」
黒木
「貴方の【嘘】は汚れたものではない。誰よりも相手の事を考えて行動が出来る…【優しい嘘】だ」
双葉
「…そうだね。きっと貴方が見ている私は【優しい嘘】なのかもしれないね」
双葉
「…目を逸らさないでね、黒木さん」
双葉は窓際のボタンを押す。
カーテンは自動で開いていき、雨が降り注ぐ曇天の空と都会のビルの光景が広がっていく。雲に覆われながらも外の方が明るく、カーテンを開けた事によって部屋に差す明かりが双葉の姿をハッキリと見せた。
すると、彼女は自分が着ている白シャツのボタンを一つ一つ外すではないか。大胆なその行動に異性なら慌てて目を逸らしてしまうだろう。だが、黒木は双葉に言われた通り目を逸らさずじっとボタンを外していく彼女の姿を見守る。
ボタンを全て外しスルスルとシャツをずらして脱ぎ捨てる。下着姿を露わに後ろ髪を掻き分け、黒木にその背中姿を晒した。
黒木
「…!」
彼女の背中を見た黒木は、驚きのあまりに声も出せずに呆然と立ち尽くす。
それは、彼女の美しい白い肌にはとても似合わない、痛々しくて醜い火傷の跡が背中に広がっていたのである。醜悪な傷跡は、見る人によっては直視出来ない程不快なものであった。
双葉
「…これが【本当の私】 見る人全員を騙してきた醜い姿。気持ち悪いでしょ?」
黒木
「……」
双葉は振り返り、遂に黒木と向かい合うように立つ。彼女は涙が溢れ出るように流れ、キラキラと輝いていた青い瞳も生気を失い濁っていた。今の双葉からは【パーフェクトモデル】という【完璧な存在】を微塵も感じることが出来なかった。
双葉は悲しげに涙を流しながら、呆然と立つ黒木に語りかける。
双葉
「こんな姿を見ても、黒木さんにとって【特別な存在】なのかな?…ううん、そんな事ないよね。失望したよね?【パーフェクトモデル】に相応しくない傷を抱えて、それをずっと騙してきた私なんて誰も…」
黒木
「双葉さん」
双葉
「…えっ?」
一人で抱える闇を吐き出していく双葉の口を止めるように、突然黒木は声を出した。
彼の眉は下がったままだが口角は上がり、まるで安心したかのように微笑んでいた。思わぬ反応に双葉の涙は止まり、目は見開いて彼の真っ直ぐな目を見つめ返す。
忘れていた。彼の目は常に前を見て正面から向き合ってくれる、とても優しい瞳だという事を。
黒木もまた、双葉を見つめ返して話し出す。
黒木
「双葉さんはその傷を見せたくないという思いはあるかもしれません。でも、その姿が本当の貴方なら…俺は気持ち悪いとは全く思いません」
彼は静かに歩み寄る。双葉は首を横に振る。
双葉
「嘘…こんな気持ち悪い姿を見たくないはずだよ…?」
黒木
「嘘じゃないです。その火傷を隠し通していたのは貴方が俺達に【拒絶】されるのが怖かったからじゃないですか?…俺は今、本当の姿を見せてくれた貴方の勇気に見惚れましたよ」
彼の歩く足は止まらない。双葉は声を荒げて否定する。
双葉
「嘘だよ!嘘に決まってる!こんなの…!【パーフェクトモデル】じゃない…!みんなが求める私になれてない…!」
黒木
「いいえ。貴方は【パーフェクトモデル】だ。誰よりも他人を思いやり、誰よりも輝いて希望を与える存在です」
どんどん近付く彼に再び涙を流し、彼女は叫ぶ。
双葉
「やめて!私は優しくなんかない…!!【愛】を知りたくて、みんなを騙してチヤホヤされて気持ちよくなってるだけの【詐欺師】だよ!!」
双葉
「でもそれは【パーフェクトモデル】だから愛されているだけだって分かってる!!誰も本当の私を愛してくれない!!【本当の私】を見せて…!引かれるのが怖くて…!!嘘を付くことしか出来ない最低な存在なんだよ!?」
黒木
「違う!貴方は最低なんかじゃない!!」
自分を責める彼女に、黒木も感情的に声を荒げる。
双葉は涙を流し続け、感情のままに怒鳴る声は、静寂の部屋に響いていく。
双葉
「どうして貴方はいつもそうなの!?どうしてこんな姿を見せても怖がらないの!?黒木さんの前でも【パーフェクトモデル】でいたかったのに!!」
双葉
「そんな風にされたら私は…!!貴方にまた甘えてしまって…!!二度と【パーフェクトモデル】に戻れなく…!!」
黒木
「双葉さん!!」
双葉
「!!」
気が付けば外の雨は止んでいて、彼は直ぐ目の前に立っていた。
少しずつ曇り空は晴れていき、太陽が顔を出す。先程まで灯りを失っていた街に光が広がる。
そして、照らす希望の光は部屋も包み明るく差していく。黒木は両手を出すと、力強く彼女の両肩を握った。
今まで見たことのない興奮気味の黒木の握る手は温かく、冷え切っていた双葉の体に熱が伝わっていく。
黒木
「俺は!貴方が嘘をついていようと!貴方が【パーフェクトモデル】じゃなくても!!そんなのは関係ないんだ!!」
黒木
「俺はただ、ずっと貴方の側に居て!ずっと貴方を応援していたい!!【双葉】という一人の人間を支えたい!!」
黒木
「それが!俺の心を光で満たしてくれた貴方への想いだから!!」
双葉
「…ッ!!」
黒木
「貴方が【本当の愛】を知りたいのなら!貴方の全てを俺は愛します!!例えその後に見せる貴方の姿が嘘だろうと!本当だろうと!!貴方を愛し続けます!!貴方の【本当の愛】を、俺が答えます!!だから…!!」
彼は自分の思いを吐き出し、一旦深呼吸して冷静になると、静かに言った。
黒木
「……貴方の【愛】を、俺にください。そして…」
黒木
「…俺の【愛】を受け取ってください。双葉さん」
双葉
「…〜ッゥ!!黒…木…さん…!!」
彼の純白な愛の告白に双葉は感極まり、体は震え瞳は涙で溢れ力一杯の全力で黒木を抱きしめて崩れ落ちる。
彼もまた、直ぐに力強く抱き返して涙を流す。彼女は子供のように声を上げて泣き噦る。
黒木は【もう大丈夫】だと伝える思いに、抱きしめている手を少し足りとも離さず彼女の体を摩り続けた。
双葉は遂に【本当の愛】を見つけたのだ。自分の醜態を、嘘を、全てを受け入れてくれる心優しき【黒木】という人間を。
この先が、どんな未来が、待ち受けていようとも、彼と一緒なら必ず乗り越えられる。そう安心が出来る想いが、彼女の暗闇に包まれた心を【幸福】で塗り替えていく。
曇天の雲は何処かへ消えていき、二人を祝福するかのように部屋は太陽の光で、何時迄も照らしているのであった。




