63話【最後の愛】
細田の提案で二人は外へ出た。今日は街に雪がチラつくように降り落ちて、澄んだ空気は肌に触れるとひりつく程冷たい。高田達の提案に、まだ迷いがある双葉の為による気晴らしの散歩…というわけではなく、細田は
【行きたいところがある】
とだけ双葉に伝え、その場所へと向かっているのだ。
一体何処なのか、何が目的なのか、細田は一切教えてくれず、彼女の案内に従って車椅子を押して街を歩いていく。
細田の事だ。理由もなく、その目的地に向かってる訳がない。向かう先の事を尋ねなくとも大丈夫だと信頼している双葉は黙って押し続けた。
細田
「ここで止めて。…着いたわ」
細田に言われ、車椅子を押すのを止める。
彼女が止めた場所は人が賑わう表通りから離れた、人の姿が見当たらない静かな裏通り。そして、その前には大きくて古びた飛行船のネオン看板が壁に取り付けられた店。その看板の見た目通り、【飛行船】と書かれた店名である。
双葉
「飛行船……?」
細田
「ええ、ここよ。とりあえず入りましょう」
看板を見上げていた双葉は、細田の声に頷き車椅子を押して中へと入る。
室内は程よい温もりが広がり、冷えた体を優しく包んでくれる。壁や床は年季の入った古びた内装で、テーブルソファも数えるほどしか無い。
そして奥のカウンターには、如何にも【喫茶店のマスター】と言わんばかりの、ベストを着こなしてコップグラスを拭く老人が迎えてくれた。この古き良き喫茶店には、双葉達を含め三人しかいない。
マスターはグラスを拭く手を止めて顔を上げると二人の入店に漸く気付く。そして、細田の顔を見た瞬間、驚いたように目が見開いた。
マスター
「細田…さん?」
細田
「お久しぶりです、マスター。…いきなり来て申し訳ないのだけど、あの頃と同じものを、だしてもらえませんか?」
マスター
「どうして車椅子に…?それに、隣にいる子は……いえ、失礼……かしこまりました。直ぐにご用意します」
マスターは双葉にも何か言いたげな様子だったが、細田の注文を聞くとグラスを置いて直ぐ様取り掛かる。
細田が窓際のテーブルソファへ指を指すと、双葉は静かに頷き、細田が指定した席へと移動して二人はソファに座った。窓から見える外はチラつく雪と誰もいない風景でどこか物寂しい。
微かに香る甘い匂い。温かみが触れて伝わる古い木のテーブル。初めて訪れた場所のはずなのに、何故かとても居心地がいい。誰もいない店内を、双葉は座りながら何度も何度も見渡す。
双葉
「細田さん?ここは?」
細田
「思い出の場所。私と…貴方のお母さんとの…ね」
双葉
「お母さんと…?」
二人が座る席に、マスターがトレイに二人分のコーヒーを乗せて現れる。
丁寧に二人の前に香りが引き立つコーヒーを置くと、マスターはじっと双葉の顔を細目で見つめた。
マスター
「細田さん。この子が例の…?」
細田
「えぇ」
マスター
「そうですか……いやはや、本当にあの子にそっくりだ」
感傷に浸る様な目つきで見てくるマスターに、双葉も顔を上げて見つめ返す。
双葉
「もしかして、お母さんの事を知っているの?」
その質問に、マスターは少しだけ口角を上げて和やかな顔で頷いた。
マスター
「細田さんがここに来たということは……私が語らなくとも彼女が教えてくれるでしょう。…では、ごゆっくりどうぞ」
深々とお辞儀をしてマスターは静かにカウンターへと戻って行く。
細田は用意されたコーヒーカップを手に取って一口飲む。そして、机にゆっくりと置くと美味しそうに微笑む。
細田
「うん…この香りとコク…とても懐かしいわ…」
美味しそうにしている細田を見て、双葉もコーヒーを一口飲む。
その一口は、この喫茶店の長い歴史を体験した様な、非常に深みのある苦味と香りが口の中で広がっていく。コーヒーとしては最高の逸品なのだろう。だが、この渋すぎる味は双葉には少し合わない様で苦そうな顔で、そっとカップを机の上に置く。
双葉
「にっがぁ…大人の味って奴だね」
細田
「貴方も大人じゃない」
双葉
「あはは、そうだったね。…細田さん、懐かしいって言ってたけど……ここの常連だったってこと?」
細田
「えぇ。…ここにはよく、美花と一緒に来てたの」
双葉
「……」
細田は今一度コーヒーを一口飲んで喉を潤し、両肘をテーブルの上に乗せる。そして、双葉の目を真っ直ぐ見ると静かに語り出した。
細田
「…貴方のお母さんとの関係、詳しく話したことがなかったわね。…貴方のお母さんとは友人であり、私が担当した初めてのモデルだった」
双葉
「え…?」
細田
「桜井…いえ、【星谷 美花】はSunna創設時の初期メンバーだったのよ」
双葉
「お母さんが…?」
細田から発せられる真実に双葉は驚く。
細田と美花は友人であり、母親は元モデルとして活躍していたのは知っていたが、Sunnaに所属していたのは初めて知ったのである。
Sunnaと契約する際にKENGOが言っていた【MIKA】の存在。それは単なる偶然重なった名前ではなく、母親本人だった事に双葉は驚きを隠せない。細田は話を続ける。
細田
「Sunnaが事務所を立ち上げた際、ファッション雑誌を使って0期生のモデルを募集したの。その時、応募してきた一人に美花がいたのよ。当時の美花は中学三年生。彼女は田舎暮らしで進路に悩んでいる所、都会と芸能界への憧れから応募をしてくれたみたい」
細田
「その時代は他の大手モデル事務所が業界を支配していただけに、モデルに憧れて応募する子は、みんなそっちへ行ってしまうの。少しでも早く、そして一人でも多く、立ち上げたばかりのKENGO社長は、相手が田舎に住む、ましてやモデルとは無縁な一般人だろうと即採用していたわ」
細田
「美花は、両親の反対を振り切って、卒業後に東京へ来た。そして、モデルのキャリアを共に進むパートナーとして、私が彼女のマネージャーになったのよ」
細田
「当時の美花はとにかく我儘だったわ。コーデはあれもこれも嫌だと着るのを嫌がるし、体型維持の為の食事制限も気にしない。何度私を困らせたことか…そういうところは、貴方も美花もそっくりよ」
双葉
「あ、あはは…」
時折挟む彼女なりの冗談。双葉の緊張を少しでも和らげ、落ち着いて話を聞かせたいのだろう。細田も一つ一つ思い出を振り返りながら語っていく。
細田
「…でも、そんな彼女も、誰よりも真っ直ぐに夢を追いかけ続けた。あの子が魅せる姿は、見る者を虜に出来る程にまで成長していった。事務所を立ち上げたばかりの私達にとって、美花の活躍はSunnaへ大きく貢献してくれた恩人よ。残念なのは、当時のSunnaが人々に認知されていないから、美花の活躍は大舞台に出る事なくキャリアが終わってしまったことね…」
細田
「…そして、そんな美花と当時打ち合わせをするのに利用していたのがこの【飛行船】お金がない私達は、この一杯のコーヒーをテーブルに置いて、色々と話をしたわ。初めは打ち合わせの為だったけど…いつしかこの場所が、都内で暮らす私達にとって癒やしの場所になっていたの。この席も…このコーヒーも…あの頃から変わらないわね」
双葉
「…そうなんだ」
自分の知らない母親の思い出を聞かされ、双葉は一つの疑問が浮かび上がる。
双葉
「…ねぇ、どうしてそんな話を今するの?」
その声色は気を悪くしている様に低い。双葉にとって、家族の話は嬉しいものではない事を細田は知っている。
だが、今の双葉の心を埋めるのに、ファンの声だけでは足りない。【美花の真実】が、彼女の今後を動かす決定的なピースだと思ったから、細田はここへ彼女を連れてきたのである。細田は、双葉の問い掛けに一度頷くと、続けて静かに答える。
細田
「貴方がモデルとして活躍する理由である【本当の愛】……それは結果として、高田さん持ってきてくれたファンレターが、貴方の求める【愛】の形になったのだと思う」
細田
「【嘘】で生きてきた自分を、今だに帰りを待ってくれてる人達が沢山いるのを知れたのは、嬉しかったんじゃないかしら?」
双葉は黙って頷く。
細田
「でも、それだけじゃ貴方の【愛】に届かないのは、長く見てきた私なら分かる。貴方の心の中に未だ欠けている部分…それは【家族の愛】」
細田はそう言うとズボンのポケットからある物を取り出して机の上に置く。
机に置かれたのは所々メッキが剥がれたボロボロの折り畳み式携帯。動くかも怪しいこのガラクタ、双葉の記憶はしっかりと覚えていた。
双葉
「これは……お母さんの携帯?」
細田は深く頷き、携帯を手に取ると電源ボタンを長押しして起動させる。電池メーカーは赤く表示されていて、今にもまた電源が落ちそうだ。細田は急いで操作をして準備をしだす。
細田
「去年の7月…そう、私が病室で目を覚ました時ね。…記者の斎藤さん、覚えてる?」
双葉
「うん。…2年前の12月に、小嶋さんと一緒に取材をしてきたMARUKADOの人だよね」
細田
「流石の記憶力ね。…私も知らなかったのだけど、私が目を覚ましていない頃も、KENGO社長から入院している場所を聞いて、時折お見舞いに来てくれていたんだって。…私が目覚めるのを待っていてくれたの。これを渡す為に」
双葉
「え?…斎藤さんがどうしてその携帯を持っているの?」
準備を終えたのか、電源を付けてから操作していた細田は改めて携帯を開いたまま机の上に置いて答える。
細田
「…斎藤さんは、美花のファンだったの。そして、桜井秀樹の真相を調べる為に、去年の2月に【星谷家】へ訪問したそうよ。そう、貴方のお爺ちゃんとお婆ちゃんに会いにね」
双葉
「…お爺ちゃんとお婆ちゃんに?ええと…元気にしてるのかな」
細田
「斎藤さん曰く…お爺ちゃんは寝たきりで、お婆ちゃんも自分達の先が長くない事を悟っていた…だそうよ」
双葉
「…そっか。ここに来てから全く連絡してなかったし……悪い事しちゃったな」
細田
「自分を責めないで、双葉。お互いに家族として関係が修復出来るものじゃないと分かっていたのだから、両者共に連絡が出来なかったのも無理はないわ」
細田
「……そして、残された時間が少ないと分かっていたお婆ちゃんが斎藤さんに託したのがこの携帯。美花の遺品として持っているだけで触れなかったのだけど……ある時、ふと美花の思い出がないかと思って電源を付けたそうよ」
細田
「写真は全く残ってなかったのだけど……その中にある【録音機能】だけは一つだけデータが残っていた。それを聞いたお婆ちゃんは、どうにかして双葉に届けたいとずっと考えていた」
細田
「そしてそのタイミングに斎藤さんが訪問した事で、美花の真実を知った彼に託し、そして斎藤さんは私に託した……美花が繋いだ想いが、この携帯をここまで導いた」
細田はゆっくりと手を伸ばし、録音機能の再生ボタンに指を当てる。ほんの少し力を入れたら、直ぐに再生されるこの状態で、細田は眉を下げて双葉の方を見つめた。
細田
「……双葉、先に謝っておくわ。この録音を直ぐに貴方へ聞かせなかったのは、貴方が美花の事をまだ恨んでいて、今から流れるメッセージも、真っ直ぐに受け取れないんじゃないかって、私が勝手に思ってしまっていたからなの。……届けるのが遅くなってしまって、本当にごめんなさい」
細田
「だけど、今はハッキリと言える。このメッセージは、今の貴方が【嘘】の【パーフェクトモデル】ではなく【本物】の【パーフェクトモデル】として輝く為の後押しになるという事を。…どうか、聞いてちょうだい」
そう言って細田は指に力を入れて再生ボタンを押した。
『……っし……これでいいのかな…?上手く録音……出来ているの……かな……?……うん、いけてそう…』
音質の悪い古びたスピーカーから聞こえてくる掠れた女性の声。この声を、双葉は誰だか知っている。
双葉
「…お母…さん…」
•••••••••
••••••
•••
…七年前の冬。時刻は間も無く16時を迎えようとしていた。雪景色が広がる田舎の町に建つ小さなアパートの一室。
居間では美花が床に座り、机の上に置いた携帯を、澄んだ瞳で見つめている。窓からは夕陽の光が部屋に差し込み、暖房がなくとも太陽光によって、部屋は心地良く温まっていた。
美花は大きく深呼吸して気持ちを整えると、携帯に向けて話し出した。その声は、一人の母親として、我が娘へ語りかける優しいものだった。
「ええと…双葉、おはよう…いや、こんにちは?あっ、いや、こんばんはかも…?まぁ、そんなのは良くて……ええと、元気にしてる?お母さんだよー…なんか、変な感じだな、あはは…」
「…この音声を貴方が聴いているって事は……きっとお母さんはもう双葉と会えない所にいるんだと思う。…ごめんね、こんな形でしか貴方に伝えれなくて…でも、お別れをする前に、貴方へ伝えておかないといけない事があるから、どうか聞いて欲しいの」
「…私は、双葉にとても酷い事をしちゃったね。貴方が私を何度も元気づけようと頑張ってくれていたのを知っていたのに、私はそれをいつまでも拒んでしまった…どれだけ謝まろうと、きっと貴方の心の傷は永遠に残り続けるんだと思う……本当にごめんなさい。私もお父さんも、親として最低だよ」
「…貴方へメッセージを残すのは、謝りたいからじゃない。双葉が、私に気付かせてくれた事を、伝えたいの」
「…お母さんね、モデルになる時に双葉のお爺ちゃんとお婆ちゃんと大喧嘩しちゃって、縁を切る形で別れちゃったの。家族にも愛されていないんだって勝手に思い込んじゃってさ。都会でお父さんと出会ってからは、この人だけが私の渇いた【愛】を満たしてくれるんだと思った。…でも、あの人は私に愛想を尽かして、ただの都合の良い女としか見てなかった」
「…結局、誰にも愛されていない。私はこれからもずっと孤独なんだって一人で抱え込んで何処までも何処までも堕ちていって……全てが信頼できなくなって………でも、双葉は違った」
「貴方に大火傷を負わせたあの日……貴方は私に辛い顔を一つも見せずに庇ったでしょ?母親は私以外にいないからって…」
「あの言葉……私の暗闇だった心に光を灯したの。どれだけ痛くても、どれだけ辛くても、貴方は私の為に【愛】を捧げてくれた。…その【愛】に触れて、私も忘れていた感情を取り戻せた…」
「もっと早く気付くべきだった。私をお金と体でしか見ていないあの男と違って、貴方はずっと私の側で【愛】に答えてくれていたのに……親として、我が子を愛せなかった私は本当に愚か者だよ」
「…だから、私はこれ以上双葉を苦しませるのを終わらせたい。その償いとして、双葉とお別れをしようと決めたの」
「勝手な事を言ってるのは分かってる……だけど、この落ち着いた心が、いつまで保てるかは私にも分からない。きっとお父さんと会ったら、またおかしくなると思う……だから自我を取り戻している今、私の想いを貴方へ届けたい」
「私とお別れする事となっても、どうか自分を責めないで?お母さんが勝手に決めたことだし、貴方は何も悪くないよ?…それに、今の私は貴方の【愛】で満たされている……こんなに幸せで包まれたのは、貴方を産んだ時以来かな。……だから、自分の選んだ最後に、何も後悔はないよ」
「それと…貴方は決して一人にさせないから。私の古い友達と連絡が取れてさ……いつかは分からないけれど、必ず【細田さん】って人が貴方を迎えに来て、私の代わりに双葉を愛してくれるから。少し怖い人だけど……とっても頼れる人。双葉も細田さんの事を信じてあげてね?」
「………」
「昨日の散歩…凄く楽しかった。あの時握った手の温もり…ずっとずっと、忘れないからね」
「…双葉、最後まで我儘なお母さんでごめんね。貴方は本当に優しい子だから、私がいなくても、貴方は新しいパートナーを見つけて必ず幸せになれるはず。…自分の【愛】を信じて?勝手だと思うけど…双葉の未来を、お母さんも応援していいかな?」
「…私の心の光を取り戻してくれて、ありがとう……こんな私を愛してくれて……本当にありがとう……」
「……話したかった事は全部話せた。……それじゃあね。ええと…もしかしたら隣に細田さんもいるかもしれないから、一応言っておかなきゃ。細田さん、双葉の事をよろしくお願いします。……双葉」
「…愛してるよ」
淡々と話しかけていた口を閉じて、そっと携帯に手を伸ばし録音機能を停止させる。
携帯に想いを込めるように強く握り、安堵の笑みを浮かべながら彼女は顔を見上げた。
美花の視線の先は、天井から吊るされたロープだけが見えていた。
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••••••
•••••••••
…再生を終えた携帯は電源が落ちてしまい画面は暗転する。経年劣化によるバッテリー不良で電池は長くは保たないのだろう。まるで、このメッセージを双葉に届ける為だけに、ここまで壊れずに耐えていてくれたかのようにも見えた。
双葉は、母親の【真実】を聞いた今、目を大きく見開いて固まっていた。瞳は揺らぐ事なく、瞬きするのも忘れて、電池切れになった携帯をただじっと見つめる。この事実を知った彼女の心境は、細田にさえ分からない。細田は静かに続きを話す。
細田
「…貴方と初めて出逢った時。貴方がモデルとして才能を秘めているからスカウトしたのは嘘じゃない。……でも、もう一つの理由は美花に託されたからなの。あの出逢いは、遅かれ早かれ必然的に起こるものだった」
細田
「この録音に記載された時間と日時…その一時間前に彼女から直接私に電話が掛かってきたのよ。内容は、貴方が産まれた事、そして、貴方を自分の代わりに愛して欲しいという事」
細田
「電話の先から聞こえる声で悟った。美花は……死のうとしている事を…私は必死に説得して、この飛行船で待ち合わせする所まで繋げたけれど……あの子はここへ現れなかった。私一人だけを、この店に置いてね」
細田
「…双葉。貴方の【愛】は、ちゃんと美花に届いていたのよ。そして、それは【偽りの愛】なんかじゃない。貴方は自分を偽らなくとも、人々の心に輝きを照らす力を宿しているの。貴方は決して、光をまだ失っていない」
細田
「…もう一度、後一度だけでいい。これが最後の光になったって構わない。黒木さんの……いえ、取り残された私達の想いの為に……輝きを放つのよ、双葉」
双葉
「……」
細田の言葉を聞いても、双葉はまるで反応がなかった。
無理もない話である。自分の想いが届かず亡くなったはずの母親に、しっかりと愛が届いていただけに関わらず、亡くなった理由が、自身の理性崩壊による双葉への危害を抑えるものだった…その二つの衝撃に、言葉が出なくなるのは当然なのだ
ここまで動揺して固まっている双葉を、細田は今まで見たことがない。彼女は気を遣い、我が子へ語りかけるように優しく話す。
細田
「勿論、私は貴方の考えを第一に尊重している。貴方が嫌だと思うのなら、それで……」
双葉
「…ふ、ふふ…」
細田
「…?」
双葉
「アハハハハっ!!」
突然口角を上げたと思ったら、双葉はまるでこの遺言が可笑しかったかの様に声を高らかに笑い出した。予想外の反応に、次は細田が思わず固まってしまう。
暫く笑い続けてから漸く落ち着くと、彼女は大きく息を吐いて携帯を再び見つめる。
双葉
「あははは…はぁーぁ。ほーんっと、私とお母さんって、そっくりなんだね。自分の考えだけで動く我儘で、何でもかんでも一人で抱えて……それで、私に直接謝らずに勝手にあの世に行っちゃってさ?」
笑っていた顔は、いつしか悲しみに満ちた表情へと変わっていき、双葉の目からボロボロと涙が溢れ出ていた。それでも、口元だけは笑って、感極まり震えた声で彼女は小さく吐く。
双葉
「…私、一度もお母さんの事を恨んだ事ないのにさ…?ただずっと一緒にいたいって、思ってただけなのに…勝手に逝かないでよ…!」
細田
「…双葉…」
感情の制御は効かなくなり、携帯を手に取ると胸に強く押し当ててボロボロと涙を流す。そして、彼女は子供の様に泣き噦る。
双葉
「…お母さん…!お母さん…っ!!」
細田
「双葉…!」
双葉の涙につられ、細田も涙を流しソファから車椅子に座り直すと、彼女の隣に寄り添って背中を優しく撫でた。
彼女の哀歓の涙は、静かに降り続ける雪と共に、三人しかいないこの喫茶店で流し続けるのであった。
…日は沈み、窓から見える外の景色は街の灯りがポツポツと照らし始めている。雪は止み、双葉もすっかり泣き止んではいたが、俯いたままだった。泣くのを止めたのは感情が落ち着いたからではなく、泣き疲れたから。一生分の涙を流したのではないかと思う様に、彼女の目元はとても酷く真っ赤に腫れていた。
動かなくなった彼女を心配する様に、細田は隣に座りずっと背中を優しく摩り続ける。そんな二人の元へマスターがやってくると、二人分のホットココアとバターが熱で少し溶けて乗っているパンケーキを机の上に置く。反応しない双葉の代わりに、細田が顔を上げてマスターの方へと向いた。
細田
「マスター?これは?…頼んだ覚えはないのだけど…」
マスター
「沢山泣いて疲れたでしょう?それは私からのサービスです。疲れた時には甘い物を摂るのが良いのは昔から同じです」
マスターの優しさに触れて、細田は申し訳なさそうに苦く笑い返す。
細田
「…ありがとうございます、マスター。貴方の気遣いは昔から変わりませんね」
マスター
「いえいえ。お二人が良い人達だからこそ、私もサービスをしたいと思ったまでですよ」
久々の常連だった客との再会を果たしたマスターは、嬉しそうに笑って答えてくれる。
まだ元気を取り戻せそうにない双葉の様子を見て、マスターは引き続き細田に話し掛ける。
マスター
「確か…その子は人々から【パーフェクトモデル】と呼ばれている双葉さん…ですね?いや、まさかあの子の娘だったとは…通りで美しい訳だ。その顔も…声も…そして細田さんとの関係も……今日初めて出会ったはずなのに、とても懐かしく感じますな。それに……とても綺麗な瞳をしてらっしゃる」
細田
「…ごめんなさい、マスター。…あの時、美花はここに姿を現さなかった。……その時の思い出を、どうしても引きずりたくなくて、ここへ来ることも躊躇してしまってた…」
マスター
「無理もありません。細田さんと美花さんは言葉では表すことの出来ない尊い関係……そのお方が亡くなった事を知ってしまったのなら、この思い出の場所へ訪れるのもさぞ辛いでしょう」
細田
「その…マスターの方は元気でしたか?」
マスター
「ええ、私の方は相変わらずですよ。最も、店内はご覧の有り様ですが…年々来店されるお客様も減ってしまいまして…来年で店を閉めようかと…」
細田
「…そうですか…」
マスター
「元は言えば自分の趣味の延長で開いたこの喫茶店…私もすっかり歳をとってしまい、このまま経営を続けるのも困難だと思ってましたから。残りは静かに余生を過ごそうかと考えています」
マスター
「店を閉める前に、また貴方と…そして、美花さんの娘に会えて良かった。これ以上この店に思い残す事は何もありませんよ」
そう言うとマスターは自身が用意したココアとホットケーキに手を向ける。
マスター
「さぁさ、先が短い老耄の事など気にせず、このサービスを堪能して元気を出してください。どんな時でも出来たてや淹れたてが一番美味しいですから」
細田
「お気遣いありがとうございます。さぁ、双葉。これでも食べて……」
双葉
「…なるよ」
細田
「…?」
ずっと俯いていた顔を上げる。
その顔を我々は知っている。【パーフェクトモデル】として輝いていた絶対的自信に満ちたものであると。青い瞳は涙で潤い、綺羅やかに輝きを放つのだ。
双葉
「私、もう一度モデルになる。今度は【嘘の姿】じゃなくて【本当の姿】として。待っていてくれるファンの愛も、お母さんの愛も、そして…」
双葉
「黒木さんの愛も。全部全部私の思いに込めて、みんなへ輝きを届けてみせる」
細田
「双葉…」
固い決意を胸に、双葉の目にはもう迷いがなかった。彼女は再び、心の光を再生させたのだ。やる気に満ち溢れる彼女の姿に、細田もマスターも嬉しそうに見つめて頷く。
細田
「…ありがとう、双葉。美花の思いが、ちゃんと貴方に届いて……私も幸せだわ」
双葉
「ううん、細田さんもありがとう。この録音を、私がどう捉えてしまうか、ずっと不安だったんだよね。…きっと、沢山の人に愛されている事に気付いてなかったら、このメッセージは受け取れなかった。…私の為に、勇気を出してくれてありがとう」
そう言って双葉は隣に座る細田に手を伸ばして抱き締める。細田は感極まり、再び涙を流して優しく抱き返した。
この二人の関係は、20年前以上に見ていた美花と細田の関係とそっくりそのまま。娘として、母の意思を引き継いだ瞬間に立ち会えたマスターは幸せを噛み締めて何度も何度も笑顔で頷くのであった。
マスター
「桜井双葉の復活……これは、ファンにとって、どれ程喜ばしいニュースでしょうか。今日は本当に良い日だ」
双葉
「…ううん、違うよ」
マスター
「…?」
双葉は細田を抱き締める手を離して、マスターの方へ顔を向ける。その瞳は、まるで宇宙で夢幻に広がる蒼い星々の銀河の様に煌めいていた。
双葉
「私は、お母さんの…星谷の意思を引き継ぐ。星谷家の想いは、私が輝く限り永遠に消えない」
双葉
「今日から私は」
双葉
「【星谷 双葉】だよ」