62話【声が残した希望の証】
都内のとあるアパートの一室。黒木は朝早くからポッドのお湯でインスタントコーヒーを注いでいた。カップを手に持ちソファに座ると、じっと湯気が立つ真っ黒なコーヒーを見つめる。
彼は今、気分が良くなかった。昨日、高田と喧嘩をしたからではない。今だに記憶を取り戻せない自分自身に悩まされていたのだ。
目を覚ましてもう間も無く一ヶ月を迎えようとしているが、RABiとの記憶の他に、新たな進展は全くない。このまま、何も思い出す事もなく、これからも生き続けるのだろうかと不安が募っている。
そして、病院で毎晩見ていた真っ暗な海の上に浮かぶ小舟の夢…それは退院した今でも毎晩見続け、この夢も結局何が原因で見ているのか分からないままである。自分が置かれている状況に、彼は精神的に疲労しているのだ。
黒木
「…ハァ」
せっかく注いだコーヒーを一滴も飲まず、彼は大きく溜息を吐いてカップをテーブルに置いた。どうにか、このモヤモヤとした気持ちを晴らす方法はないだろうか…そう天井を見つめながら考えていると、ある事を思い出す。
黒木や
「…この気持ちを切り替えれるかな」
そう独り言をボソッと呟くと、彼は顔を下ろしてポケットからスマホを取り出すのであった。
………
場所は変わって聡の屋敷。高田と小嶋は朝早くからここへ訪れていた。早朝だと言うのに双葉と細田は二人を歓迎して屋敷の中へと招き入れた。
二人をソファに座らせ、聡がいない代わりに細田が人数分のコーヒーを用意しようとするが、三人はお互いに細田に負担を掛けないように、其々協力してコーヒーを用意する。
改めて落ち着き高田と小嶋が座り直すと、対面のソファに双葉も座る。モデルを退職して日が経った今でも、女神の様な美しさを放つ双葉に二人は見惚れていた。こうして間近で見れる機会も少ないので、常に眼福なのである。
高田
「いやぁ、朝からすみません、双葉ちゃん、細田さん」
細田
「気にしないで。それよりも何かあってここに来たのでしょう?」
小嶋
「はい。双葉さんに…いえ、お二人にお話がありまして…」
双葉
「…?」
細田
「私にも?」
二人は差し出されたコーヒーカップを同時に手を取ると、まるでシンクロのように同タイミングでぐいっと勢いよく飲み干す。
カフェインを体にガツンと入れた男達は、お互いの顔を見合わせて頷くと、体を前のめりにして双葉達に話をしだした。
高田
「濁さず単刀直入にいいます」
小嶋
「双葉さん。…もう一度だけ、後一回だけ」
高田・小嶋
「「モデルになってもらえませんか!?」」
双葉
「…えっ?」
息のあったコンビネーションに二人は【キマッた】と言わんばかりに、お互いの手を差し出し熱く握手を交わす。まるでコントを見てるかの様に双葉と細田は目を丸くして彼等を見ていた。
だが、今の発言はコントではない様に、二人は真剣な眼差しで双葉の方へと振り向いて語り出す。
高田
「そんな反応になるのも承知ですが、今言った言葉は適当に言ってるんじゃないんです。もう一度、双葉ちゃんにはモデルになって、そして…」
小嶋
「Starlight Collectionに出て欲しいんです!」
いきなりの提案に双葉は固まったままで、細田も困惑した表情で二人に問い掛ける。
細田
「いきなり何を言いだすの?双葉がモデルに戻る理由なんて全くないのよ?それに仮にモデルに戻ったとしても、スタコレの開催まではもう一ヶ月を切っているし、出場なんて無理な話よ」
小嶋
「サプライズ枠」
細田
「…?」
小嶋
「スタコレには毎回サプライズゲスト枠が用意されていますよね?それは超大物有名人や引退したモデルさんが出る枠組み。スタコレ代表の北野さんは、今年のサプライズ枠をまだ決まっていないと、この間の会見で仰ってました」
高田
「そのサプライズ枠に出演出来る実力を、双葉ちゃんは持っていると俺達は確信しています。細田さんからKENGO社長に頼んでもらって、どうにかスタコレに出演出来る様に協力してもらえませんか!?」
事前の連絡もなくここへ来たと思ったら、突然の無茶振りをしてくる二人。普通なら怒られても追い出されても仕方がない要望だ。
細田の眉は下がり、二人を順番に見つめる。どうもこの二人の目からは
【全く冗談で言ってるのではないんだ】
と、訴えかけてきている。細田は腕を組み大きく溜息を吐くと、呆れながらも二人に尋ねた。
細田
「貴方達がそこまで調べて双葉をスタコレに出したい理由は一体何?」
高田
「黒木の為です」
双葉
「!」
細田
「黒木さんの…?」
黒木というワードに双葉の体が一瞬反応したのに高田達は気付く。高田は相槌を打つと話を続けた。
高田
「双葉ちゃん。まずはアイツの代わりに謝りたいことがあるんです」
双葉
「謝る…?」
高田
「はい。…黒木が目を覚ましてから、双葉ちゃんは毎日病院にお見舞いに行って、アイツの相手をしてくれましたよね?その時のアイツの態度……物凄く突き放されてるように感じませんでしたか?まるで……こっちの事を何も考えてないというか…」
双葉
「……」
双葉はその問い掛けに頷ず、黙ったまま高田を見てる。【そうです】と答えなくとも、その反応の薄さに彼女であろうと不快に感じていたのだろうと高田には分かった。
高田
「…長く黒木と付き合った俺だからハッキリと言えます。あれは、あの冷たい感じは、双葉ちゃんと出逢う前の黒木。…つまり、【つまらない人間】だって周りから認知されていた頃のアイツなんです」
高田は飲み干したコーヒーカップに視線を向けて語り出す。
高田
「黒木からも聞いたことがあるかもしれませんが……アイツは学生の頃からずっとあんな感じで、それはもう周りからも避けられるような奴だったんです。双葉ちゃんと馴れ合うアイツは普通じゃない。長く見てきた俺からすれば、最近までのアイツの方が別人のように思えました」
高田
「でも、そんな別人のように、誰よりも貴方のことを考えて必死になる姿にしたのは……双葉ちゃん。貴方がランウェイで魅せた輝きに、アイツは自分の人生で初めて心が動かされる程感動したからなんです」
高田
「だから、もしかしたらなんですけど…もう一度……もう一度だけ黒木が双葉ちゃんの姿を見て、アイツの感情が揺れ動くことが出来たら、黒木の中に眠っている光を取り戻すんじゃないかって思うんです!無理を言ってるのはわかってます。…でも、それが、黒木と双葉ちゃんの、もう一度繋ぎ合わせる最後の手段なんだ!!」
高田
「だから!どうかもう一度だけ!!アイツの為にモデルになって輝いてくれませんか!?お願いします!!」
高田はソファから立ち上がり頭を深々と下げる。
彼が黒木の為にここまでの想いがあるのは、彼が黒木と長い付き合いをしてきた大切な友人だからなのだろう。彼の迫真の訴えに想いは届くが、双葉は目線を逸らして素っ気なく返す。
双葉
「……高田さんの思いは分かったけれど、その想いには応えられないと思う。私には、輝く力はもう残っていない。ファンのみんなを裏切って、【パーフェクトモデル】を捨てた今、もう一度あの姿になろうとしても、それはただの【嘘の塊】でしかない。そこに輝きなんて、もう……」
高田
「いえ、あります」
双葉
「えっ…?」
高田の自信に満ちた言葉に、双葉は彼の方へと目を向ける。
高田はソファに座り直し、床に置いてある自分が持ってきたバッグを開くと、中から白い箱を取り出して机の上に置いた。
そして、彼はそのまま箱の蓋を開いてひっくり返すと、机の上にはバラバラと折り畳まれた小さな紙が大量に落ちて机一面に広がった。
双葉
「…?これは?」
高田
「どれでもいいです。一枚手にとって、広げてみてください」
双葉
「……」
高田に言われて双葉は頷くと、広げられた無数の紙から適当に一枚を選び、手に取ってゆっくりと広げた。
双葉
「……これって……」
広げた紙に書かれたもの。それを目にした双葉の目は大きく見開く。
【いつもモデルとして綺麗に輝く貴方が大好きでした。いつか戻ってきてくれると信じてます】
それは、双葉に対する手書きのメッセージ。細田も彼女の隣から紙を手に取り広げると、それも双葉へのメッセージなのだ。
【双葉ちゃん!!貴方のおかげで辛い時も頑張れました!貴方は私の希望の星です!!】
【双葉ちゃんを見ることが出来ない世界なんて耐えられそうにありません。また貴方の笑顔がみたい。ずっとずっと大好きだよ】
【引退したとしてもその先に続く双葉さんの人生を心から応援しています】
【感動をありがとう。貴方の進む道が幸せであることを、ずっと願っています】
【双葉さん。貴方を見かけなくなって長い月日が経ちました。貴方の声、笑顔、全てにどれだけ救われたか言葉に出来ません】
【双葉ちゃんが魅せてくれたあの日々が恋しいです。願いが叶うなら、もう一度だけ貴方をこの目で拝みたい】
【人生のどん底の中、貴方の存在を見た時、まるで光のように感じました。貴方がファッションショーで輝いてる姿を見る度に、前を向く力を与えてもらった事は今でも忘れません】
【双葉ちゃんの笑顔と勇気をもらっていました。またいつか双葉ちゃんの輝く姿を見られること、楽しみにしています。これからもずっと応援しています】
【今、貴方が何を感じているのか、どうして退職をしたのかは分かりませんが、貴方が一番大切にしたい事があれば、どうかそれを守ってほしい。いつか、また笑顔で戻ってきてくれる事を信じて待っています】
双葉
「………」
一つ一つ、温もりを宿した双葉への思いが詰められたメッセージ。それは、双葉の心の奥底に消えかかっていた光を目覚めさせていく。
細田
「これは…ファンレター?でも、これだけの量…一体どうやって…」
高田
「去年、リコリスでは売上対策で企画の提案を社員に募集していました。その時に黒木は、KENGO社長に相談して【リコリスで買い物する度に、双葉へメッセージを届ける事ができる】企画を立ち上げたんです」
細田
「!いつのまにそんな事を…」
高田
「俺もこのサービスをしていたのをすっかり忘れてましたよ。なんせお客さんが自分達でやってもらうものでしたからね」
高田
「そして、黒木の提案にKENGO社長は潔く受け入れてくれて、ウチの店舗でこれを実施してたんです。黒木は、自分だけじゃなく、他の人達の想いも、双葉ちゃんに届けたかった……その願いを、アイツなりに叶えたんですよ」
高田
「ここに寄せ集められたメッセージは【嘘】なんかじゃない。貴方への幸せだけを望み、心より応援してくれる人達の煌めきの結晶。みんなが双葉ちゃんの【本当】の輝きを、今もまだ待っているんだ!」
双葉
「………」
双葉が手に持つ紙は微かにプルプルと震えている。顔は無表情のままだが、この温もりが、愛を失い冷え切った体を暖め感極まっているのだ。
そんな様子を見て、小嶋も決心したように一人でに頷き、話し終えた高田の後に続いて彼も双葉に語りかける。
小嶋
「双葉さん……ずっと言えてなかったんですけど、僕を含め斎藤先輩は貴方のことを裏で調べ続けていたんです。そして、その辿り着いた答えは、【桜井秀樹】という恐怖を知る事でした。…あの時、人々の為に演じた感動の再会……とても辛かったんじゃないですか?」
双葉
「え…?」
細田
「…!双葉の家族の事を知ったの?」
小嶋
「ずっと隠していてすみません。…ですが、これを人々へ晒すつもりはありませんので安心してしてください。…僕からは、ただ一つの事をお伝えしたいだけなんです。…そう、秀樹から、あの男から伝言を僕は預かったんです」
双葉
「お父さんから…?」
双葉は顔を上げて小嶋の顔を見る。
彼は彼女の青い瞳に目を合わせて頷き、伝言を言おうとするが一瞬躊躇った。その青い瞳は、秀樹の最後の瞬間を脳裏で蘇らせる。
だが、【嘘】に逃げてきた父とは別に【真実】へ真っ直ぐと向き合う彼女の瞳に答えたいと、再び口を動かした。
小嶋
「…【貰った手切れ金で今は海外に住んでいる。こっちの暮らしも楽しめてるし、二度と現れないと誓う】……彼は嘘をついていません。真偽を見破る記者の目で見た僕が、それを保証します」
双葉
「……アイツが……海外に……」
小嶋
「双葉さんがもう一度輝くのに足枷となっていた脅威……それが消えた今、貴方はもう自由なんです。正直な所、最後の写真集も素敵なものでしたが……やっぱり心のどこかでは、双葉さんがモデルとして輝いている所を見たいと僕は思っています」
小嶋
「黒木さんの為でもあり、取り残された人達の為にも…どうか、もう一度だけ復帰してくれませんか?」
双葉
「……」
小嶋はそう言うと深々と頭を下げた。隣に座っている高田も、もう一度頭を下げて二人で一緒に双葉に頼み込む。
ファンを裏切り捨てた双葉にとって、これ程嬉しいサプライズはないだろう。だが、彼女は少しも嬉しそうな顔をしなかった。
それもそのはずだ。ここで双葉がモデルに戻る事を選ぶという事は、最後の写真集の想いが消えて、RABiに黒木を託した意味が無くなってしまう。
一度決めた事に反する行動は、【パーフェクトモデル】を演じてきた彼女にとって、とても重い決断なのだ。裏切られても信じてくれるファンの想いが届いても、まだ一歩、彼女がモデルに戻る決意には届かないのである。それは隣で顔を覗かせて見ている細田には分かっていた。
細田は大きく溜息を吐いて、双葉の想いを代弁するように、頭を下げ続ける二人に話し掛ける。
細田
「…貴方達の想いは分かりました。ここまで用意していただいて、ありがとうございます。…顔を上げてください」
細田の言葉に二人は同タイミングで顔を上げた。細田の顔つきは、いつもの優しい母親の表情ではなく、一人の【元凄腕】マネージャーとして鋭い顔つきに変わっていた。
細田
「ですが、この決断は今直ぐ決められるものではありません。それに、スタコレに出演出来るのも難しい話です。…一先ず、私の方で出来る限りの事はしてみます。今日は一旦お帰り願えますか?」
高田
「……分かりました」
二人は細田の言葉に納得して頷くと、ソファから立ち上がり帰る支度を進める。ふと双葉の方を見ると、彼女は今だにファン達のメッセージをずっと見つめていた。
高田
「…双葉ちゃん、最後に言っておくけど…双葉ちゃんがモデルに戻らないって言っても、俺達は絶対に双葉ちゃんを恨まないって信じてほしい。元はと言えば、俺達ファンが勝手な事を言ってるだけだからな」
高田
「俺達ファンは、双葉ちゃんには【自分らしい生き方】だけを願ってるだけだよ。それを忘れないで」
双葉
「自分……らしい……」
小嶋
「細田さん、双葉さん、お邪魔しました。僕達はこれで…」
二人は改めて頭を下げると、玄関に向かって帰って行った。
取り残された双葉と細田。机の上に広がるファンのメッセージを前に、二人は黙って見渡し続ける。
彼女はどう思っているかは分からないが、このメッセージを前に細田の中で【ある確信】が宿る。先程まで鋭い表情だった顔は、再び優しい表情へと戻ると、双葉に柔らかな声色で話し掛ける。
細田
「…双葉、少し出掛けない?」
双葉
「…えっ?」