59話【さよなら愛しき人】
TMAアリーナ。もうそこまで近付いてきているスタコレ開催日に、今日も今日とて多くの関係者が忙しそうにホール内を歩き回る。そして、出演するモデル達も其々個人でリハーサルに励んでいた。
その中でもTOP4は一旦休憩を挟み、バックステージで用意された椅子を囲んで座っていた。特に、TOP4の中で、疲れを一切見せずにキラキラと輝く笑顔でRABiは嬉しそうに昨日の事を報告していた。
RABi
「そんなわけでマコッチは私のおかげで順調に記憶を取り戻してきてまーす!!さっすが私だよねー!最強に可愛いからマコッチの記憶に深く深ーく刻まれてたって感じかもー?」
難波
「おい、なんやそれ。先にクロヤンの見舞いに行っても覚えられてなかったウチやダブル・アイに魅力ないって喧嘩売っとんのか?」
RABi
「違う違う違う違う!?捉え方が物騒だって!?」
姫川
(クロヤン…マコッチ…色々な形で呼ばれてるんだなあの人…)
オラつく難波にビビりながらも、RABiは気を取り直して改めて考え込む。
RABi
「でも、本当にどうして私だけ覚えてたんだろうね?言っても私とマコッチって、沢山出会ってるわけじゃないしさ?」
難波
「んー…そうやなぁ…一つ思い当たることがあるとすれば…最近のRABi、ゴッツノってるやん?なんていうか、その感じ……全盛期の双葉の姿を思い出すんよ」
RABi
「え?私が?」
難波の考えに、姫川も同意して頷く。
姫川
「…確かに。RABiさんの太陽のような明るさにポジティブで前だけを見る姿勢は…何処となく、当時の双葉さんを思い出せるところがありますね」
RABi
「えーっ!?姫川さんまで!?やだー!なんか恥ずくなってきたー!!…って、それはとりあえず置いて…という事は、双葉さんが当時のように輝くことが出来れば、もしかしたらマコッチは双葉さんの事も思い出すかも知れないって事!?」
難波
「さぁ。あくまで考察やからな。それに仮にそうやったとしたら、双葉にはかなりしんどいんちゃうんか?」
RABi
「どうして?」
難波は足を組み直し腕を組むと、あの時の事を振り返る。
難波
「…ウチ的にやけど、Sunnaのスタジオで見せてくれた最後のランウェイ…あれは正真正銘最後の輝きにウチは見えた。そらもうゴッツ綺麗で魅入ってもうたけど、アレを超える輝きは、今の双葉じゃ二度と見れへん」
難波
「理由は簡単や。双葉は偽りを捨てて、自分らしく生きることを選んだからな。そんでもって肝心なクロヤンは、その時の思い出も覚えておらんのやろ?…だったら……なぁ……?」
RABi
「そっか……」
難波の言葉に一同は静まる。すると、RABiはハッとある事を思い出して再び一人でに騒ぎ出した。
RABi
「そうだ!それとマコッチに電話番号教えてさ!今度また会おうって約束したんだよ!多分だけど私ともっとお話をしたら、他にも思い出す……」
難波・姫川
「「ええっ!?」」
話してる最中、突然難波と姫川は口を揃えて驚いた表情を見せる。何かおかしな事を言ったのかと不安になり、RABiも思わず声が詰まった。二人はまるでドン引きしてる様な顔で此方を見ている。
RABi
「な、なに…?」
難波
「…お前、マジか」
姫川
「あの…RABiさんはその気がないと信じていますが……その、双葉さんを置いて黒木さんと出会うのは不味いんじゃ……」
RABi
「?どうして?」
事の重大さに気付いていないRABiに、難波は頭を抱えて大きく溜息を吐いた。
難波
「お前…アホか。記憶を失ったとは言え、双葉と婚約をしてる相手やぞ?そんな相手と二人きりで話なんかしてみ?双葉に半殺しにされても文句言えへんで?」
RABi
「ちょちょちょっ!?ちょっと待って!?別に二人きりで話すつもりはないからね!?そりゃあ、確かにまだ双葉さんにはこの事は言えてないけどさ!?この後ちゃんと事情を話して許可を貰うつもりだから!!」
難波
「良かった。そこはちゃんと考えとるんやな。ウチはてっきり究極のアホかと思ったわ」
姫川
「とは言え…RABiさんの記憶だけを覚えているのを双葉さんが知った時……正直、良い気分にはならないんじゃないでしょうか?伝えるにしても…慎重に、言葉を選んだ方が良いと思いますよ」
RABi
「え…?もしかして私、ちょーヤバイ事してる?」
難波
「ちょーヤバい事してもうたな」
人助けの為にと差し出した電話番号が、思わぬ方向へと向かっている事に漸く気付く。RABiは顔を青褪めて両手で頭を抱えた。
RABi
「エェーッ!!?ど、どうしよう!!」
何処までも鈍感なRABiに、難波は頭を抱えて何処までも呆れ続ける。
難波
「もう手遅れやろ。クロヤンから電話がかかってくる可能性もあるし、事情は絶対に説明せんとあかんで。…ていうか、アンタがやりたい事は理解出来るけど、順番がおかしいやろ。普通は双葉にこの事を話してOK貰ってから、動くもんやで?」
姫川
「黒木さんと双葉さんが只のご友人関係ならまだしも愛人同士なので……そのやり方はちょっと…」
RABi
「仕方ないじゃん!!私、彼氏なんて居た事ないんだもん!!そんな風に考えられないよ!!」
難波
「お前ホンマに作った事なかったんかい!!アイドルとして適当に言っとるだけやと思っとったわ!!」
RABi
「彼氏いない歴=年齢でございますー!!」
難波
「そんなもん堂々と言うなや!!」
姫川
「ま、まぁまぁ…」
ギャーギャー騒ぐ二人を落ち着かそうと姫川は宥める。
そんな三人の会話をじっと静かにスマホを見つめながら聞いていた春香の口は遂に開く。
春香
「…でもそれって、双葉さんも悪いと思いますよ」
難波
「…え?」
春香の口からは有り得ない言葉が出てきて、さっきまで騒がしかったのも一瞬で静まり返る。
あれだけ口を開けば【双葉さんは〜双葉さんが〜】と嬉しそうに彼女の事を話す春香は、死んだような目でスマホを見つめながらぶつぶつと小声で呟く。
春香
「きっと黒木さんも、双葉さんが好きなんじゃなくて【パーフェクトモデル】だった双葉さんが好きだったんですよ……嘘を捨てて輝くのを止めた今の双葉さんには、彼から愛されなくなってしまっても、それは双葉さんが選んだ選択であって自業自得だと思います……」
春香
「…【パーフェクトモデル】は、誰よりも輝いて人々の心を掴んで虜にする存在。それを失ったモデルなんて、【無価値】でしかないんです」
RABi
「は、ハルちゃん…?」
心配する声を他所に、スマホをポケットに戻して春香は立ち上がる。
春香
「…私、先にポージングの自主練してきます」
そう言い残すと春香は三人を置いてバックステージの廊下を一人歩いて行くのであった。
彼女の背中を見送る三人は春香の事が心配だった。【パーフェクトモデル】に囚われ、重なるプレッシャーに、日々心が沈んでいっているのが目に見えてハッキリと分かるのだ。
少しでも彼女の力になりたいが、今はスタコレで成功する為に自分達の事で精一杯の状態である。そんな状況で彼女に声を掛けようとも、きっと響かないのだろうと悟っていた。
難波
「ハル…大丈夫やろか…」
姫川
「……」
不安気に見送る一同に、姫川だけは【ある思い】が、心の奥で徐々に芽生えていたのであった。
………
黒木が居る病室。双葉はいつもの様に彼が体を起こしているベッドの隣に寄り添う様に座り、黒木と過ごした日々を語り掛ける。
双葉
「それでね、その時聡ちゃんは……」
意気揚々と次々と話題をだす双葉。ふと視線を黒木の方へ向けると、彼は相変わらずつまらなさそうに無表情の顔のままだった。
自分の話がつまらないのか、或いは興味がないのか…どちらにせよ、このノーリアクションな彼の態度は、双葉の喋る話題を止めてしまう。
双葉
「…面白くない?」
話を止めて聞いてくる双葉に、黒木は静かに首を横へ振る。
黒木
「そんな事ありません。俺と桜井さんの間にそんな事があったんだなって思います。…ただ、どれも思い出せない内容で…」
黒木はゆっくりと視線を下に向けて俯く。
黒木
「…俺、昔からそうなんです。楽しいと思っても、面白いと思っても、それがあまり表に出てこなくて…興味を持とうとしてもそれも長く続かない。他の人達からは【つまらない人間】だって、言われてきたんです」
双葉
「……知ってるよ」
黒木
「…え?」
双葉の言葉を耳にして黒木は彼女の方を見る。双葉は優しい笑みを見せて語りかける。
双葉
「でも、それは黒木さんの事をみんなが知らないだけ。本当はとても優しくて、誰かの為になろうと必死になってくれる…不器用だけどとっても誠実で、揺るぎない心を持ってる貴方に、私は助けられたんだから」
黒木
「…桜井さん?」
双葉は立ち上がりベッドの上に座り直すと、彼の横に寄り添って目を閉じる。
双葉
「…黒木さん。RABiちゃんと会ったよね?」
黒木
「え…?どうしてそれを?」
双葉
「さっき廊下ですれ違ってさ?お見舞いに来てくれた事を話してくれたよ。…ねぇ、黒木さん。RABiちゃんの事、どう思った?」
黒木
「…どう……って……」
双葉
「やっぱり綺麗とか、可愛いとか?」
双葉の質問に黒木は天井を見上げ、思った事をそのまま変えずに語る。
黒木
「…いえ、そんなものじゃないです。…直接話してる最中に思ったのは、とても輝いて見えました…俺は、RABiさんの名前を何故か覚えていて、そして歩道橋の上から見た彼女の広告看板も思い出して……」
黒木
「……多分なんですけど、RABiさんの太陽の様に輝いている姿を、俺の記憶が鮮明に覚えているんだと思います。あの人ともっと話せる事が出来たら……って……」
双葉
「…そっか」
黒木
「…それで、RABiさんがどうかしたのですか?」
天井を見つめるのをやめて双葉の方へ振り返る。彼女はゆっくりと目を開けて、黒木の目をじっと見つめ返して笑った。
双葉
「…あのね、黒木さん。私から思い出の話を聞いて、私達は家族になる事を教えたけど……」
双葉
「……あれ、本当は【嘘】なんだ」
黒木
「え…?そうなんですか?」
双葉
「あはは、ごめんね。…私ってさ、ちょっと家族と上手くいかなかったからさ?それを聞いた黒木さんや恵ちゃん…それと、黒木さんのお母さんに少しの間付き合ってもらってたんだ。いつか止めようとって考えてたし、退院する前に伝えれて良かったよ」
黒木
「でも…それならそれで、どうして俺はそんな【家族ごっこ】を引き受けたんですか…?なんていうか…桜井さんが話してくれた思い出話はどれも…嘘の様には聞こえ……」
双葉
「本当の様に聞こえたでしょ?嘘すらも魅力に変えて虜にしちゃうのが【パーフェクトモデル】だからね。自分を隠して演じるのは超得意なんだー」
笑顔で自分は嘘つきだと明かす双葉に、黒木は困惑するしかない。
黒木
「…ええと、それで…その家族になることが嘘だとして……退院前だからと言えど、どうしてこのタイミングなんですか…?」
双葉
「…黒木さんがRABiちゃんに感じたその思い。それは【恋】なんだよ」
黒木
「恋…?」
双葉
「うん。私が体験したことだから言える。恋をした時って、その人がキラキラと眩しく見えて、ずっと隣にいたい、もっと貴方を知りたいって心が叫ぶんだよ?黒木さんがRABiちゃんを見て眩しかったのは、そういう事なんだ」
双葉
「だから、私との【家族ごっこ】はこれでおしまい。黒木さんは優しいから、この関係をずっと続けてしまうと、恋の発展の邪魔になるじゃん?黒木さんには、RABiちゃんの様に今を輝く人が絶対お似合いだと思う。だから私にも応援させてよ」
黒木
「いや……でも……」
黒木は迷い、返事に困っている。記憶を無くしても、彼の相手を思う優しさは変わらないのだ。
双葉は、ニコニコと話し続けるのも一旦止めて、双葉は大きく息を吸って吐く。そして、そっと黒木の両手を撫でる様に握り、無表情のままの彼に、安心させる様に笑いかけた。
双葉
「……私は、黒木さんが幸せなら、それで構わない。貴方が私を思い出せなくとも、それは私がもう【特別な存在】じゃないからだよ。…黒木さんを笑わせてくれる人が見つかって、私も嬉しいんだ」
黒木
「桜井さん……?」
双葉
「…ここまで、たーっくさん甘やかしてくれて、本当にありがとう。すっごく幸せだった。これだけ甘やかして貰えたし、私はもう、一人でも大丈夫だよ。……だから黒木さんは、黒木さんが正しいと思う道を、歩んで?」
撫でる手をそっと離して、双葉は立ち上がる。
黒木
「あ……」
双葉
「…そろそろ面会の時間も終わりだね。…もう行くよ」
そう言って彼女はニコッと笑い、引き戸の方へと歩きだす。
何て言葉をかければいいのだろう。黒木はこの場でかける言葉が見つからず引き戸へ向かう双葉の背中を只々黙って見送ることしか出来ない。だが、自分が声をかけなくとも、双葉は扉を開く前に立ち止まってこちらを振り返った。
双葉
「…ねぇ、黒木さん」
黒木
「…?」
双葉
「最後に…最後にもう一度だけ…甘えてもいいかな?……双葉…って、呼んでくれない?」
黒木
「え…?」
双葉
「…お願い」
潤ませる青い瞳は、黒木に訴えかける。この時、微かに黒木の心の中で光が照らされ、彼の記憶が揺らいだのである。
黒木
「…えと…双葉……さん…?」
双葉
「…ありがとっ、我儘聞いてくれて。…じゃあ……さよなら、またいつか」
頼みを聞いてくれた黒木にお返しの様に笑いかけて、双葉は引き戸を開けて出て行った。薄暗い廊下を一人、ヒールの足音を響かせる。
あの名前の呼び方は、あの時の呼び方じゃない。
ただ頼まれて応じただけの、上っ面の言葉だ。
双葉が知っている黒木の面影は最早何処にも残っていない。彼女は変装用の帽子を深く被り、顔を隠しながら病院の階段を降りていくのであった。
…次の日の早朝。黒木は朝早くから退院する支度を済ませ、部屋では先生による最後の診察が行われていた。
とは言え、黒木が目を覚ましてから一週間、若さ故の脅威の回復力により何の問題も無いと確信しており、先生も気楽そうにしている。
先生
「…以上で診察は終わりです。特に問題はなさそうですね。…退院、おめでとうございます」
黒木
「先生、ここまでありがとうございました」
礼儀よく深々と頭を下げる黒木に、先生はニコニコと笑ってくれる。
先生
「私はこれと言って何もしてませんよ。黒木さん自身が頑張ったのと、その周りの人達が貴方を元気付けたからの結果です。…強いて言えば、記憶が完全に戻っていないのは残念なところですが…」
黒木
「確かに……」
先生
「入院延長しますか?」
黒木
「い、いえ。流石にこれ以上は他の人にも迷惑をかけれないので…」
先生
「ハハ、冗談ですよ」
余裕そうに冗談を話し場を明るくしようとするも、黒木は記憶が戻っていない事へか、まだ浮かない顔をしていた。
先生は顎に手を当て少し考えると、病室の窓から見える外の太陽へと顔を向けて話し出す。
先生
「…この間、久々に友人とお酒を飲みに行きましてね。その友人も他の病院で先生をしているから、黒木さんが何度も見る夢の話をしたんですよ」
黒木
「…?」
いきなり話し出す先生に、黒木は黙って聴くことにした。
先生
「すると…なんですが、どうやら半年前ぐらいに、同じ夢を見た事を語る患者がいたそうなんです。その方も、目を覚ますのに時間がかかり、その間はずーっと暗い海の上を彷徨っていた…と…」
黒木
「…!それって…」
先生
「ええ。…それで、その方は、何もない海の上、暗闇に囚われていたのですが……ある時突然光の道筋が出てきて…それを信じて進み続けると……気がつけば目を覚ましていたそうなんです」
先生
「黒木さんが見た夢の内容と似ていますが、残念な事に、黒木さんの夢にはその光の道筋が出ていない…ましてや、光を見たのは初めてその空間に飛ばされた時だけ……」
先生
「こういう職を勤めている以上、非科学的な事はあまり信じない主義なのですが……その光は、もしかしたら黒木さんの記憶を取り戻すヒントになってるのではないかと、私は考えています。…但し、その光の正体は何かは、流石に私でも分かりませんがね」
黒木
「そう……ですか……」
外を見るのを止めて先生は黒木の方へと振り向き、安心させる様に肩に手を乗せた。
先生
「何も焦る必要はありませんよ。貴方はまだ若いわけですし、いつかきっと、何かのきっかけで記憶を取り戻す機会だってあるはずです。今は、退院後の楽しい過ごし方を考えるのが先ですね」
黒木
「……」
先生の言葉に黒木は静かに頷いた。
診察も終えて廊下ですれ違う病院関係者の人達に何度も律儀に頭を下げる。受付の人達にも何度も御礼を伝えて病院から出ると、事前にタクシーを手配してくれたKENGOと聡、そして細田が迎えてくれる。巨大な花束を抱えた聡は、クネクネと腰を動かして黒木に押し付け渡す。
聡
「退院おめでとぉ〜んクロちゃ〜ん♡アティシ、この日が待ち遠しくて、昨夜は21時に寝たのよ〜ん?あぁ、それとクロちゃんのラブマイホームに、アティシの屋敷に置いてあった荷物はちゃ〜んと送ってあげたから安心シ・テ♡」
黒木
「あ、ありがとう…ございます……あれ?」
三人が迎えてくれる中、黒木は不思議そうに周囲を見回す。
黒木
「…あの、桜井さんは?」
気にかける黒木の様子に、細田は残念そうな顔で話しだす。
細田
「双葉は朝から用事があって、どうしてもここには来れなかったのよ。【退院おめでとう、って伝えておいて】って伝言はあったわ」
黒木
「そうですか…」
いつも自分を第一に動いてくれる双葉が居ないのに、黒木は少し寂しさを感じる。
すると、KENGOは黒木の前に来ると、彼に黒いスマホを渡す。それは黒木が探していた自分のスマホだ。
黒木
「!これは…俺のスマホ…」
KENGO
「ごめん。言い伝えられてなかったけど、君のスマホは事故の時の衝撃で壊れてしまったんだ。それまでは預かって、代わりにケータイショップで修理をさせてもらったよ。データは殆ど残ってるみたいだから、安心してくれ」
黒木
「そうだったんですね……KENGO社長、それに他の皆さんも…俺の為にここまでしてくれて、本当にありがとうございました。…そして、記憶を戻せなくて、ごめんなさい」
黒木は深々と頭を下げる。KENGOは腰に手を当て軽く溜息を吐いた。
KENGO
「何を言っているんだ。俺達からすれば、君が生きているだけで十分なんだよ。黒木君は遠慮するかもしれないが…君は変わらずSunnaの大事な人間さ。何か困った事があれば、いつでも会社においで。全力でサポートするよ」
黒木
「…ありがとうございます。では、皆さん。……お元気で」
黒木は顔を上げてタクシーに乗り込むと自分の住んでいた場所の住所を運転手に伝える。発進する前に、窓を開け体を出すと三人に手を振る。最後まで丁寧な彼に応じて、彼等も手を振り返した。
タクシーは走り出し、三人は姿が見えなくなるまでずっと手を振ってくれた。都会の中を走り抜ける中、窓から映る見慣れた街並みは、所々記憶が抜けているせいで新鮮に見える。だが、アパートが近付くと同時に、自分が勤務先へ通っていたルートはしっかりと記憶に残っていたようで安心した。
アパートに到着して車から降りる。お見舞いで貰った沢山の荷物を懸命に運び、自分の住んでる部屋の鍵を開けた。中は見慣れた質素な空間。必要最低限の家具だけが揃えられた、言わばつまらない部屋である。
ずっとここに住んできた黒木にとっては居心地が良い安らぎの空間。……の、はずだが、久しぶりに我が家に着いた黒木は小さく呟くのであった。
黒木
「…ここ…こんなに寂しい場所だったかな…?」
微かな違和感を覚えつつ、彼は部屋の真ん中に設置された無地のソファに一人、静かに座るのであった。