55話【泡沫】
真っ暗な海が、何処までも何処までも広がっている。
暗闇の海の上に、ポツンと小舟が一つ。
舟は海に翻弄されて、暗闇の中を彷徨い続ける。
一体、舟が行く先は何処なのだろう。
深淵に呑まれていく舟の行方は、誰にもわからない。
黒木
「……ッ」
小舟の上で寝ていた黒木は目覚め、痛そうに頭を片手で抑えながら体を起こす。
周囲を見回すも、終わりが見えない暗闇で包まれた海が広がる光景を目の当たりにして絶句した。
ここは何処だろう
自分は何故ここにいるのか
一人きりの孤独と、波の音すら鳴らさない無音の海は、心に不安を積もらせていく。このままずっとこの場所に置かれていると、自分は耐え切れずにおかしくなるのではないか?彼の中に宿す【希望】の光は、どんどんと闇に包まれ輝きを失っていく。
だが、そんな時
遠い遠い奥の方から、真っ暗闇の中で微かにチカチカと光る何かが見えた。
黒木
「…あれは…?」
光は何度も消えて点滅しているが、この暗闇の海を照らすように何度も何度も輝きを繰り返す。
もしかすると、あの光の先に何かがあるかもしれない。
その光は、黒木の中で曇り出していた【希望】の光を再び輝かせる力となり、改めて彼は周囲を必死に見回す。
すると、小舟を漕ぐ為の櫂が置かれているのに気付き、彼は力強く握ると、微かに光を放つ先へ懸命に漕いで行く。
果たして、光の先に何があるのだろうか。
暗闇の中、踠く彼の行く先に、その答えはあるのだろうか。
今はただ、その答えに、ゆっくりでも突き進むしかないのだろう。
………
黒木
「……ぅ……」
彼はゆっくりと静かに目を覚ます。知らないベッドの上で寝ていて、見知らぬ天井が前方に見えていた。
首を動かし辺りを見渡すと、自分は知らない部屋で寝ていたようだ。だが、部屋の雰囲気から察するにここが【病室】だと言う事は彼にも分かる。
窓から見える外の景色は少しずつ日が顔を出してきている。詳しい時刻は分からないが、早朝である事には間違いない。黒木は体を起こそうにも、体は怠く節々(ふしぶし)が痛い。一体どれぐらい寝ていたのだろう。
黒木
(あれは……夢……?)
さっきまで見ていた暗闇の海の景色が病室に変わったことで、益々状況が理解出来ずに頭が混乱していく。
そしてそれと同時に、彼の中で何か【違和感】を感じていた。頭に包帯を巻いている事以外は、特に体に変化はないが、その【違和感】が何か分からず心がモヤつく。だが、確実に自身の身に何かが起きているのだけは直感で気付いていた。
ガラッ
黒木
「……?」
そんな時、病室の引き戸が音を鳴らして開く。
恵
「……!!」
黒木
「…恵?それに…母さん?」
扉の方を見ると、何とそこには黒木の妹である恵と母親が立っていた。実家にいるはずの家族が何故ここにいるのか、黒木は困惑した表情で二人を見つめる。
しかし、そんな彼の様子等お構いなく、目を覚ました黒木を見た恵は、涙を流して直様飛び付いてきたのである。
恵
「おにーちゃん!!」
黒木
「わっ…!?」
母
「あぁ…本当に良かった…神様、本当にありがとうございます…」
黒木
「…???」
胸を撫で下ろし安堵する母の様子を見ても、今だに理解が追いついていない。何も分かっていない黒木に、恵は抱き付いたまま説明をする。
恵
「何も覚えてないのお兄ちゃん!?お兄ちゃんはクリスマスの日に、歩道橋から突き落とされたんだよ!?」
黒木
「え…?」
母
「でも安心して。誠を突き落とした犯人は捕まったみたいよ。貴方を突き落とした後、他の人も刺したりしていたみたいで…警察の人は無差別な犯行だって言ってたわ…」
黒木
「…そうか。だから頭に包帯を…」
恵
「本当に何も覚えてないの?お兄ちゃん」
黒木
「うん…」
当時の事件を覚えておらず黒木は戸惑っているが、母親からすれば目覚めた事だけが大事であり、今は安心した笑みを浮かべていた。
母
「まぁ…とにかく目を覚ましてくれて良かったわ。実家で待つお父さんにも連絡しないと」
恵
「あっ!じゃあ私はロビーに行ってくる!」
黒木
「ロビーに?」
恵
「うん!おにーちゃんが起きたのを伝えないといけないから!」
黒木
「…?」
………
…一方、斎藤が住むマンションでは、彼はベランダでタバコを吸いながら昇りだす日を見つめていた。先日の事件から数日が経った今、その後に起きた事を無気力に振り返る。
石神は捕まった。事情聴取による動機については一点張りで
【誰でも良いから襲いたかった】
としか語らず、当時記録された監視カメラの映像からも読み取れる情報が少ないことから、世間には
【無差別による犯行】
として報道される形となった。あれ程怒り狂っていた男は一気に大人しくなったそうだ。
自分の事や秀樹の事を恨んでいるのならば、その裏で起きていた事を隠さず吐き出す事で、自身の罪が軽くなるかもしれないと言うのに、何故石神は真実への沈黙を選んだのかは分からない。
秀樹については、救急車で病院に搬送されている時点で亡くなっていたようで、現在遺体は搬送された先の病院による霊安室で保管されているらしい。
警察によって、身元の特定が進められているが秀樹と分かる情報は余りにも少なく難航している。このまま特定が出来ないのなら、自治体によって遺体は回収されて【身元不明】として火葬されるだろう。
唯一彼が秀樹だと知っている俺達は事件当時、警察から秀樹について知っているかを聞かれたが、答える前に小嶋が
【彼は知らない人です。僕達が駆け付けた頃にはもう刺されてました】
と、秀樹を他人だと主張してしまったのだ。
彼奴は警察に嘘をついた。長年、様々な芸能界の真実を自分の都合の為に隠す事を選んできた俺でも、この時の小嶋の行動には正直驚きを隠せなかった。其々警察による聞き込みが終えた後、小嶋と合流した俺は聞いた。
【何故隠した】
小嶋は答えた。
【僕達はただの記者です。これ以上、この男の厄介毎に巻き込まれるのも、止めた方がいいです】
【それに、この男の真実を世間が知っても、誰も幸せになんてなりませんよ】
真実を隠すのは許せないと言っていた小嶋から、この真実を隠す事を選んだのは意外でしかなかった。
だが、【ただの記者】が、自身の復讐の為に足を踏み入れ過ぎた結果、死にかける羽目になった。そして最悪なことに、死人出してしまったのである。
小嶋の言う通り、秀樹という悪の領域にはこれ以上首を突っ込むのも止めるべきなのだろう。俺はただ、その時は頷く事しか出来なかった。
一服を終えてポケット灰皿に吸い殻を入れる。
眩しい朝日を細目で見つめながら、手摺に両肘を乗せて前のめりに凭れる。小嶋があの時助けに来てくれてなかったら、この美しい日の出も見る事がなかったのだろう。そう考える斎藤は自然と口から溜息が出ていた。
そんな美しい太陽に見惚れている彼に、後ろの居間の方から、妻の呼び声が聞こえてくる。
妻
「貴方、お客さんよ」
斎藤
「お客さん?」
こんな朝早くから誰だと思い振り返る。すると
小嶋
「おはようございます、先輩」
ビジネススーツを着た小嶋がそこに立っていた。
小嶋だと分かると、斎藤は再び日の出の方を見つめる。小嶋は反応が薄い斎藤に苦笑いしながら彼の隣に立つと、斎藤と同じように手摺に肘を乗せて凭れながら、日の出を共に見つめる。
小嶋
「綺麗っすね、早朝の太陽っていうのは。この時間はまだ寝てるから僕にとっては貴重っすよ」
斎藤は彼に振り返らず、ただ日の出を見つめながら話す。
斎藤
「朝早くから何しに来たんだ」
小嶋
「ちょいちょい、ドライな返事ですね先輩は。休職中の先輩の為に、出勤前に態々(わざわざ)会いに来たんですよ?もっと喜んでくださいな」
斎藤
「にしても早過ぎるだろ…」
小嶋
「奥様には事前に連絡させていただいてました。貴方の夫を叩き起こしといてくださいって」
斎藤
「あぁ……だから今日、俺は無理矢理起こされたわけか……何かあるとは思ってたが、まさかお前の訪問の為に起こされたとはな」
小嶋
「嬉しいでしょう?」
斎藤
「いや別に」
二人は共に徐々に昇り出している日を見つめながら、淡々と会話を続ける。そして話題は、小嶋の方から切り替えた。
小嶋
「…先輩、一つ聞いてもいいですか?」
斎藤
「なんだ」
小嶋
「…僕の選択って、間違ってたんですかね」
不安げに聞いてくる彼に、斎藤は漸く顔を動かし小嶋の方を見る。彼の表情は少し曇っていた。
斎藤
「…警察に隠した事か?」
彼はゆっくりと頷く。
小嶋
「……はい。丸印建設の裏金問題や、半田のスタコレ事故の真相の時、隠し続ける先輩の姿を見て僕は反論してたじゃないですか。真実は隠すべきじゃないって」
小嶋
「……でも、結局僕も先輩と同じ決断をしてしまった。あれだけ世の悪い奴等を罰するべきだって豪語しておきながら、自分もそれに加担した。桜井の真相が世間に知れ渡れば、誰も幸せにならないと思って……」
小嶋
「…僕にとっては、これが最善の方法だと思ってましたが……ずっとあの日から心がモヤついていて……先輩。あの時、何が正解だったか教えてくれませんか?」
難しい顔をして聞いてくる彼に、斎藤は目を合わせて黙っていた。
暫くして、胸ポケットからタバコを取り出し火をつけて咥えると、再び日の出の方を振り返って斎藤は答える。
斎藤
「…ハッキリ言って、俺にも分からん。今回の件はあまりにも闇が深過ぎた。仮に記事にして、不幸を望む連中に見せつけたとしても、良い反応になるとは俺には思えん。この件はお前が言うように、誰も幸せにはならん【最悪】の真実だ」
斎藤
「…だが、それとは一方で桜井秀樹という人間は世間から美化されたまま、これからも人々の記憶に残っていくのだと考えると、双葉には苦しい呪縛になり得る。双葉にはある程度バッシングを受ける結果になろうと、桜井の真実を公表する事が、彼女の救いにもなる」
斎藤
「…つまり、この事件に正解なんて元からないんだ。隠そうと広めようと、何方も記者にとっては良い結果にはならんよ。お前がそうやって【嘘】に加担した事を後悔してるのは、お前が良い奴だからだ。答えのない選択に、そこまで重く受け止めない方がいい」
小嶋
「…そうですか」
あまり求めていた答えではなかったのだろう。小嶋の返事は、いつもより小さかった。だが、気持ちを切り替えたのか、再び声を大きくして改めて斎藤に質問をする。
小嶋
「先輩はこれからどうするんですか?」
斎藤
「…そうだな。あまり良い結末じゃなかったが、俺の復讐は終わった。…だが、人に恨まれる事をし続けるとどうなるかを体験した今、当分はスキャンダルを書く気になれんよ」
斎藤
「ここは初心に戻ったつもりで、前のようにただただ普通の記事を書く仕事へとボチボチ戻るさ。……お前はどうするんだ?小嶋」
小嶋
「僕も同じです。記者を続けるつもりです。なんてったって、まだ双葉さんを元気にする記事を書けてませんからね。それを達成するまでは、辞めろと言われても辞めませんよ」
斎藤
「そうか。……そうだな、それじゃあこの事はお前に託すとしよう」
小嶋
「え?」
タバコを吸い終えてポケット灰皿に吸い殻を入れる。そして一息付いてから、斎藤は小嶋の方を見て話しだした。
斎藤
「…あの時、桜井は死ぬ寸前に俺に言った。【貰った手切れ金で今は海外に住んでいる。こっちの暮らしも楽しめてるし、二度と現れないと誓う】…これを双葉に伝えるように託されたんだ」
小嶋
「それってどういう…」
斎藤
「最低な父親だと知っていても、心の優しい双葉なら死んだのを知ると悲しむ。だから、生きているが二度と現れないって伝えた方が、心の負担はまだ少ないだろうって、桜井の奴は考えたのさ。全く、最後まで自己勝手な奴だよな」
斎藤
「…だが、同じ父親として見ればその気持ちも分からない事もない。俺もきっとその時に死ぬと分かっているのなら、死んだ事を娘に伝えてくれって言わないと思う。彼奴は彼奴なりに、最後の最後で、自分は父親だと認識したんだろう」
小嶋
「…で、それを何故僕に託すんですか?先輩が直接言えばいいじゃないですか」
斎藤
「…お前が一人前の記者になったからだよ、小嶋」
小嶋
「えっ…?」
斎藤の一言に戸惑う彼の顔を、斎藤はしっかりと目を合わせて見つめる。
斎藤
「お前がさっき悩んでいた自分の選択…それこそが記者の姿だ。記者っていうのは世間の為に……或いは自身の為に、この世に公表すべきかしないかを選ぶ事が出来る職だ。お前の悩みは、悩みなんかじゃない。自分の書き上げる記事によって、世間の注目を動かす事が出来る一人の記者としての選択をしたんだ」
斎藤
「そして今俺が託した情報…それはお前が双葉の未来を決める記事の決定打となるだろう。桜井の遺言を双葉に伝えるか、それとも隠すか…その選択の先が、お前が書こうとしている【双葉を元気づける記事】の答えになるはずだ」
斎藤
「…俺は、お前が何方を選ぼうと否定はしない。お前はもう、俺がいなくとも良い記事が書けるはずさ。…やってみろよ、小嶋。お前ならこの真実をどうするかを……俺に見せてくれ」
小嶋
「…先輩」
斎藤
「…そろそろ出勤した方がいいぞ。今ならまだ通勤ラッシュに巻き込まれずに電車に乗れるはずだ。快適な朝のままでいたいなら、それは避けるべきだろ?」
小嶋
「…分かりました。…先輩、朝早くから話を聞いてくれて、ありがとうございました。行ってきます。また一緒に仕事出来る日を待ってますよ」
小嶋は珍しく真面目な姿で頭を深く斎藤に下げる。ゆっくりと顔を上げて、背を向けた小嶋に斎藤は声を掛けた。
斎藤
「…そうだ。まだ言えてなかった事があるな」
小嶋
「…?」
斎藤の声に足を止めて小嶋は振り返る。斎藤は此方を見ずに、日の出を見続けて背中を向けながら喋った。
斎藤
「……お前があの時助けに来てくれてなかったら、こんな話も出来なかった。今回の事件への真実の選択について、何が正しかったかは答えられなかったが、お前があの時に取った行動は、絶対に正しいと俺は信じている」
斎藤
「…お前は本当に良い奴だよ、小嶋。助けてくれて……ありがとうな。一人の記者として、自分の正しい道を信じて、最高の記事を書いてくれよ」
小嶋
「……はい!!」
普段見せることのない斎藤の優しさに触れて、小嶋の瞳からは大きな涙粒で溢れていた。改めて深々と頭を下ろし、顔を上げて涙を袖で拭くと小嶋は誇らしげな表情を見せて出て行く。
小嶋を見送り終えた妻が、斎藤の元へ戻ってきて横から顔を覗くと、彼もまた微笑みながら静かに涙を流していたのであった。
………
場所は戻って黒木が寝ていた病室。母は黒木が目覚めた事を、病院の先生に伝えに行くと言って部屋から出て行った。一人でじっと体を起こしたままベッドで待つ事数分、引き戸が勢いよく開く。
恵
「お待たせ!」
黒木
「…あっ」
開いた引き戸に立つ恵は嬉しそうな顔を見せている。そして、その隣には
双葉
「…黒木さん…」
KENGO
「あぁ、なんて事だ…本当に目を覚ましてる…」
彼女がロビーから連れてきたのは変装をしている双葉とKENGOだった。彼等は目を開けている黒木の姿を見て一同は驚愕していた。
双葉
「黒木さん!!」
そして、喜びの感情が爆発した双葉は変装を脱ぎ捨て、直ぐ様黒木に駆け寄ると同時に、勢いよく飛び付くのである。
黒木
「わっ…!?」
双葉
「良かった…!!本当に良かった…!!」
双葉は涙を堪えて嬉しそうに彼を抱き締める。その力はとても強く、目覚めたての黒木は苦しそうにしていた。
何とも嬉しい光景に、恵もKENGOも微笑みながら、黒木のベッドの側へとやってくる。
恵
「もー!本当に良かった!双葉さん、私達家族に気を遣って、ずっとロビーで待っていてくれたからさ。こうして目が覚めて会えるのを心から待ち望んでたもんね!」
KENGO
「黒木君、事件に巻き込まれて大変だったね。さっきまで最悪だって思っていたけれども…結果として無事だと分かって、一先ずは安心したよ」
恵
「無事でいてくれないとダメだよ!だっておにーちゃんは双葉さんの夫になるんだからさ!双葉さんを置いて死ぬなんて、私は絶対に許さないから!」
KENGO
「ハハハ、確かに。もしかすると、君が助かったのも、双葉ちゃんと共に生きようとする諦めない力を持っていたからかもしれないな」
周りが冗談を言い出す程、驚いている黒木を置いて勝手に賑わいだす。
その中でも双葉はただ黙って、黒木の体に顔を埋めて抱きついたままであった。一番彼の事を心配していた彼女は、離そうとしないのだ。
しかし
黒木は抱き返さず、双葉を拒絶するように、そっと引き離した。
双葉
「…え?」
予想外の行動に双葉は呆気に取られ、顔を見上げて黒木の顔を見る。
彼は戸惑う表情で、双葉にこう言った。
黒木
「…貴方は、誰ですか?」